終点まで
「でも網を探すなら、もっと下流の方は探さなくて良いんですか?水死体が河口にまで流れていたのなら、人よりも軽い網はそっちにまで行ってしまっている、という可能性もあるのでは?」
「まあそうだが、その場合は警察がとっくに捜査して、網を回収しているだろう?水死体が見つかったら、遺品の回収も兼ねて周辺の水中は漁るからな。だからその場合は別に問題ないんだよ。警察が勝手に調べるんだから」
──ああ、確かにそうですね。その場合は、警察が独自に網目を照合するでしょうから……。
当然、警察もこの網の持ち主は誰だ、ということは考えるだろう。
詳しく捜査をしていけば、どこかから持ち込まれた物であることは分かるはずだ。
このパターンでは、警察が自ら網の持ち主を探し始めるので、何らかの形で犯人は自然と追い詰められるのだ。
夏美が恐れるのは、網が河口とは全く別のところに引っ掛かり、警察がその存在にも気が付かないパターン。
これだと、本当に被害者の死因はただの事故死で済まされてしまう可能性がある。
それを防ぐために、こうして警察も調べていないだろう、河口よりはやや上流から仇川を駆けあがり始めたのだ。
証拠も何もない現状では、夏美が今の推理を警察にしても、どこまで真剣に受け止められるかは微妙である。
机上の空論と受け取られてしまえば、警察は上流までは探してくれないかもしれない。
刑事である紫苑の父から話を通してもらうという手もあるが、こちらはこちらで、忙しくしている彼と連絡を取るまでに時間がかかりすぎるという懸念がある。
結局、早いところ証拠を回収するためには、自分たちで探すのが一番迅速なのだ。
だからこその、夏美の今の行動に繋がるのである。
ある程度夏美の意図を把握した紫苑は、そこで改めてこれから歩む道のりを見た。
その上でふと、紫苑は大前提となる事柄を聞き忘れていたことに気が付く。
「すいません、最後に質問なんですが……」
「何だ?」
「これ、どのくらい歩くんですか?目的から考えると、事件現場まで遡っても見つからなかった場合は、そこで諦めないといけないでしょうけど……まさか、網が上流に向かうことは無いでしょうし」
「そうだな。例の裏形橋の近くにまで行ったら、そこが私たちの終点だ。そして、この辺りから裏形橋のある場所までは……直線距離だと、二キロくらいか」
──直線距離でそれなら……まあ何とか歩けますかね。それなりの傾斜があるでしょうから、見た目より疲れるかもしれませんけど。
距離を聞いた紫苑は、ふむ、とそんな思考をする。
仮に体力の無い人間なら厳しい道のりだったかもしれないが、紫苑に限ってはその心配はない。
紫苑は幼少期から、父親の手で剣術──剣道ではない──を教わっている。
ただの競技の域に留まらず、実践的に武器を扱えるように山で鍛えられた彼女の体は、源流探し程度なら軽くこなせる域に達していた。
目的地に着くまでにバテてしまう、ということは心配しなくてもいいだろう。
──問題は、この川の傍が本当に歩けるようになっているか、ですね。全ての川岸が、こういう風に護岸されているとは限りませんし……。
仮にこれがただの源流探しなら、ある程度までは車に乗ったり、普通に登山道でも使ってショートカットするということも出来る。
だが夏美の目的上、今回は何が何でも、川の傍を歩いて行かなくてはならない。
どこかに引っ掛かっているかもしれない網も、打ち込まれたままになっているかもしれない固定具も、川岸にしか無いのだから。
つまり上流にある裏形橋の方向に近づけば近づくほど、紫苑と夏美は、道なき道を無理矢理登る必要が出てくるのだ。
夏美は地図で調べてここまで来ているのだから、まさか崖上りのようなことはする必要が無いだろうが──そんな場所があれば、流石の夏美でも歩くのを断念しているはずだ──かなりの難行軍となるかもしれない。
そんなことを考えた瞬間、紫苑には出番がやって来た。
「……ん、舗装されているところはここまでだな。ここからは、山肌を突っ切るような形になる」
真剣な顔で網を探して川をのぞき込んでいた夏美が、不意に前を見てポツリと呟く。
それにつられて意識を現実に戻せば、紫苑の視界には青々とした林が入り込んでいた。
どうやら話をしているうちに、随分な距離を進んできたらしい、ということを紫苑は自覚する。
いつの間にやら紫苑たちは住宅街を歩み終わり、その奥にある山の麓に広がる森にまで来ていたのだ。
「ここからずっと、こんな感じですか?」
「まあそうだな。元々大して大きな川でも無いが、民家が少なくて人の手が入っていない。ブログに出てきた公民館付近だけは多少人家が密集しているようだが、逆に言えばそれだけだしな。だから、自然そのままの道をぶっ壊す形になる……頼まれてくれるな?」
そう言いながら、夏美は気合を入れなおすようにシューズの靴紐を結び直した。
それを見て初めて、紫苑は自分たちの来ていた衣服──高校近くの駅で夏美に手渡された物──が山道を登っても大丈夫な、しっかりとした作りになっていることに気が付く。
トイレ内で靴まで渡してきたことを密かに疑問に思っていたのだが、どうやらどこぞで準備をしていたらしい。
自分の教室を抜け出してから紫苑の教室に来るまでの間に、一度準備のために家に戻ったのだろうか。
──こっちの心情は軽々と無視する割に、そういうのは手際良いんですよね……。
中学時代からこちら、酷く既視感を抱く光景を前に、紫苑はひとりでに苦笑を浮かべる。
巻き込まれた側としてはどことなく釈然としない話ではあったのだが、もうこの仇川まで来てしまった以上、その準備に乗っかるしかない。
ぼんやりとそう考えながら、紫苑は一つため息を吐く。
そして、ゆらりと鞘から鎌を抜いた。
「枝があると危ないので……森の植物には悪いですけど、道を切り開きます。良いですね?」
「その点は安心して良い。この辺りの森の管理人にも今朝電話したんだが、『元々あまり管理できていないから、歩くのに邪魔な部分は多少手を加えても構わない』とのことだ、遠慮なくやれ」
「やっぱり妙な配慮を……じゃあ、行きますよ!」
一度、目を閉じる。
それから、紫苑はぶん、と軽く腕を振り下ろした。
目標とするのは、眼前に伸びている大ぶりの枝。
紫苑の目くらいの高さにあるそれは、川の半ばにまで張り出しており、これから歩くに当たっては邪魔になるのが明らかだ。
腕を振り下ろした紫苑は、自らの腕の動きが起こした風を肌で感じ、それらが流れ終わってからゆっくりと目を開いた。
途端。
ポトン、と静かな動きで枝がずり落ちる。
さながら木肌の上を平行移動でもするようにして、ツツーッと座標を下位へと落としたその枝は、やがてストン、と土の上に乗った。
残るのは、滑らかな木肌を陽光に晒す一本の木。
切断面は余りにも綺麗であるが故に、どこで切られたかが分からない。
仮にこの木の最初の状態を見ていなければ、そこに枝が生えていたという事実すら認識出来なかっただろう。
最初からこの木はこういう感じだった、と思ってしまいそうだ。
それくらい、余りにも鮮やかな切断面だった。
一瞬だけその光景に呑まれた夏美は、すぐに自分を取り戻す。
そして、パチパチと拍手をした。
「相変わらず腕が立つな……警察の指南役に何も教えることは無い、と言われるだけのことがある」
「そんな……別に大したことじゃないですよ、このくらい」
「いや、大したことだと思うぞ?女子高生が、こうも鮮やかに刃物を振るうっていうのは……しかし、いやはや」
何でもないような顔をする紫苑を前にして、夏美は感嘆を超えて、ある種の呆れを籠めた表情を浮かべる。
その上で、彼女はボソリと呟いた。
「いつも思うんだが、これだけのことが出来て、自称『普通の女子高生』は詐欺だぞ、紫苑……」
「え、でも……これは当たり前に出来ることでしょう?私はほら、お父さんに教えてもらいましたから。他の子の英会話やピアノのように、私の習い事がたまたまこれだったってだけなんですから、普通では?」
「いや、お前がそう思っていることこそが変というか、普通の人間は『人斬り紫苑』なんて呼ばれないというか、ある意味お前は私以上に奇人だと思うんだが……まあ、今更か」
フフッと昔を思い出すようにして夏美は笑う。
而して、グッと前を向いた。
「何にせよ、腕が鈍っていないならOKだ。このまま進もう。道さえ用意してもらえれば、私も山道を歩くだけの体力はある。水も食べ物も虫よけスプレーも、十分に用意してきたしな」
「了解です。でも、足元だけは注意してくださいね?目につく物は私が刈り取りますけど、単純に足を滑らせるのだけは防げませんから」
「分かってるって、じゃあ、頼むよ」
紫苑の背後に貼り付くような形になった夏美は、そのまま親指を上に立てる。
瞬間、紫苑は心の中で山の植物に謝りながら再び腕を振り────同時に前方で無造作に生えていた柴が、まとめて吹き飛んだ。
こうして二人は、のそのそと仇川を上って行くのだった。
「……ありませんね」
「ないな、今のところ」
さらさらと流れる仇川を逆行すること、三十分余り。
真剣な顔で歩いている側の岸と対岸を観察しながら、紫苑と夏美はそんなことを確認し合った。
既に推理などは語り終えてしまっていたので、ひたすら無言で捜索を続ける形になっていたが、現状成果などは特に無かったので、飽き飽きしていたところだったのである。
「まあ、元々仮定に仮定を重ねた空論だから、証拠が残っていないことも十分に考えられる訳だが……それでも、本当に何も見つからなかったらテンション下がるな」
「その場合、私たちはどういう立場になるんでしょうね、これ」
「それは勿論……仮病を使ってまで学校を抜け出し、この川の源流を探しに行ったチャレンジャーな女子高生二人組、ということになるな」
──何なんですかね、それ……。
あまりにも奇妙な単語に、紫苑は鎌を振り回しながらちょっと笑う。
自分はあくまで巻き込まれた側のつもりだが、これでは学内の評判は夏美とどっこいどっこいに落ち着きかねない。
学校に戻ったらどうしましょうか、と紫苑はボーっと考えた。
だが、それでも紫苑の腕は止まらずに障害物を破壊していく。
三十分も続けてくると、この枝打ちもルーティンと化してくるのか、下らないことを考えながらでも出来るようになっていた。
この慣れって、どこで役に立つんでしょうか、と紫苑は再び苦笑しそうになって────。
────不意に、肌感覚で何かを感じ取った紫苑は腕を止めた。
「……どうした、急に止まって」
「前方の空間、人の気配を感じます。数は二人……いえ、三人?」
不思議そうに背後から問いかけてくる夏美を庇うように腕を伸ばしつつ、紫苑は端的に解答する。
そして改めて前方を見つめて、紫苑は自分たちがいつの間にか、舗装された一画に近づいていることに気が付いた。
下流から見上げるような形だったので分かりにくかったのだが、眼前の川岸は森や丘ではなく、普通の砂利道のような場所に繋がっている。
──川の側に、整地された広場みたいな場所がある……キャンプ場みたいな?そこに、何人か人が居るような……。
勿論、どういう用途であるかはともかく、仇川の周囲に整地された場所があること自体は不思議でもなんでも無い。
いくら人が少ないと言っても、ゼロではないのだから。
ここで問題になるのは、この場所の用途と、どういう理由で人が来ているのか、という点だ。
何故かと言えば、この整地された場所に佇む人物の素性によっては、紫苑たちは不味い状況に追い込まれかねないからである。
例えば、この気配が忘れ物の網を回収に来た犯人のそれとかだった場合、紫苑はここで犯人と戦わなくてはならなくなるかもしれない。
現実的にはそんな可能性は低いとは分かっていたが、それでも可能性があるというだけで紫苑は自然と体を警戒態勢にしてしまっていた。
──でもこの気配、割と小さい子のそれのような……もしかして、子ども?
だがそこで、紫苑はそんなことにも気が付く。
そして、次の瞬間。
不意打ちのようにして、紫苑はその気配の主と出会うこととなった。
何が起きたかと言えば、この瞬間、川の下流に飛び込むようにして────一人の少年がピョコン、と姿を見せたのである。
背丈が紫苑たちの腰くらいまでしかない、幼児と言って差し支えのない少年が、突然現れたのだ。
最初、紫苑たちはその事実に驚いて。
同時に、二人は彼の正体を察して目を剥いた。
その影が、余りにも見知ったそれであったが故に。
「…………れ、玲!?」
「んー?……あれ、おねえちゃん?」
可愛らしい長靴を履いて、川遊びに励む少年────夏美の弟、松原玲。
彼は下流に向き直りながら、きょとん、とした顔をして驚きを表現する。
一方、彼の姉とその友人は、彼以上に驚きながら、あんぐりと口を開けるしかなかった。