天網恢恢疎にして漏らさず
「さて、ここまで来たからには……ちょっとばかり、肉体労働をしないとな」
目の前で悠々と流れる仇川の水──近くに来るまで存在に気が付けない程、小さな川だった──を前にして、夏美は背負っていたバッグを地面に落とす。
そして紫苑の前で、ゴソゴソと中身を漁り始めた。
BGM代わりに、小さい割に流れの早い仇川がゴウゴウと音を立てる中、彼女は動きを止めない。
「……何しているんですか?」
「んー……道具選び」
そう言いながら彼女が最初に取り出したのは、一枚の大きな地図だった。
チラリと見る限り、上部に「望鬼市」とか「国土地理院」という文字が存在している。
どうやら、この辺りの土地の様子を描いた地図らしい。
そして、次に地図の奥から夏美が取り出した物を見て、紫苑はぎょっとした。
というのも、そこにあったのは明らかに鎌だったのだ。
プラスチック製の鞘に納められてこそいるが、街中で理由もなく持っていれば、警察に職務質問を受けること確定な道具だった。
「ど、どうしたんですか、それ」
「いや、今からちょっと、源流探しの真似事みたいなことをするからな。山道を歩く以上、このくらいは要るかなあ、と」
ブツブツと言いながら、夏美はほいっと、その鎌を鞘に納めたまま紫苑に投げ渡す。
鎌という、普通は放り投げるようには出来ていない物が目の前に飛んできたことを察知した紫苑は、ぎゃあ、と乙女にあるまじき声を上げながらそれをキャッチした。
これは少々、心臓に悪い。
「あ、ちょ、夏美さん。説明を……この鎌で、これから何をするんですか、私たち?」
「だから、源流探しの真似事だ。それをこなせば、この殺人事件を立証するための物的証拠が見つかる」
「そうなんですか!?」
「……かも、しれない」
──何ですか、それ……。
流石に理解が追い付かなくなった紫苑は、表情を疑問一色に染める。
だがそれも構わずに、夏美は地図を広げながら淡々と指示を出した。
「とりあえずはお前は私と一緒に、この川の上流へ進んで行こう。少なくとも、犯人が電気漁をしていたと思しき地点に到達するまではな……それに至るまでに枝やら障害物やらがあったら、その鎌で排除を頼む」
「はあ……」
「まあ、説明は歩きながらするよ。全てを聞き終えたら、お前もこの行為に納得がいくはずだ……だから頼むよ、『人斬り紫苑』?」
最後に、中学時代の紫苑のあだ名を夏美は口にする。
同時に、視線を川の方へと落としながらも、彼女は明確にニヤリと笑った。
「……それで、こうやって川沿いに上流へと歩かなくてはいけない理由って、何なんです?」
歩き始めてすぐ、紫苑はそんな問いを発する。
障害物があったら鎌で排除とは言われたが、閑静な住宅街であるこの辺りでは、差し当たってそんなことをする必要は無いようだった。
川の周囲も綺麗に護岸工事がされていて、特に歩きづらいということは無い。
つまり、話を聞くチャンスは今だろう。
それは夏美としても同意見だったのか、彼女は視線を仇川から外さないまま、勿体ぶることも無く言葉を述べていく。
「……さっき、私は犯人の正体について、夜間に密かに電気漁をしていた人物じゃないか、と述べた。そしてその目的は、一度に大量の魚を捕まえることによる小遣い稼ぎではないか、と。それは覚えているな?」
「ええ、そこは勿論」
「だが実を言えば、その推理は完全じゃない。本当にただ川に電流を流しただけだと、小遣い稼ぎはかなり難しいからな」
突然、夏美は自分で自分の推理を否定するようなことを述べる。
どういうことですか、と思って紫苑が夏美を見つめると、その反応を予想したように彼女はビシッと仇川を指さした。
「理由は単純。川というのは、流れがあるからだ。しかも仇川は傾斜の都合かどうかは知らないが、この流れが結構早い」
「……あー、分かりました。普通に電気を流すと、浮いてきた魚たちが流されちゃうんですね?」
「その通り。普通、魚たちは泳ぐことでその場に留まったり、流れに逆らったりする訳だが、一度浮かび上がってしまうと、そんなことは当然不可能だ。だからそのまま放っておくと、殆どの魚が流れに乗って下流に向かってしまう」
それは犯人にとって不味いですね、と問題点を紫苑は理解する。
元々犯人が電気漁に手を出したのは、簡単に大量の魚が手に入って、売りさばくこともできるから、というのが動機のはずだ。
だというのに、折角の魚たちの殆どが流れに乗って下流に向かってしまうのでは、何のために来たのか分からなくなってしまう。
「だが勿論、犯人だってそれが分からないまま電気を川にぶっ放す程馬鹿じゃないはずだ。普通に考えれば、何らかの対策をしていたと思われる」
「まあ、そうなるでしょうね。何かしら、魚たちが流されないようにするような……或いは、一気に捕獲可能な工夫をしていたはずです」
「その通り。では、その工夫とは何か?」
一度、夏美は言葉を溜めた。
そして、紫苑が正答を想像するだけの間を持たせてから、彼女の考えを告げる。
「……これに関しては常識的に考えて、網じゃないかな、と思う」
「網?……普通に漁に使う、アレですか?」
幾度か、紫苑は口の中でその単語を転がした。
それが三回転もすると、犯人が実行したのがどんな工夫だったのか、大体分かってくる。
「分かりました……電気を流す場所よりも下流の一画に、仇川を横断する形で網を張るんですね?それで、浮いて流された魚たちをキャッチする、と」
「そういうことだ。勿論取りこぼしがゼロとはいかないだろうが、それでも網さえ張って置けばかなりの魚は回収出来る。順当に考えれば、犯人は電気漁のために網の準備をしていたはずだ」
そこまで、ふんふんと紫苑は話を聞く。
だが不意に、あれ、となった。
「でも、夏美さん。それ、変じゃないですか?網があるのなら、犯人は電気漁なんて別にやらなくても……」
網を設置して根こそぎ魚を捕獲できるのなら、違法である電気漁までする必要は無い。
その場で、魚たちを丸ごと捕まえられたはずだ。
網に引っ掛かるまで多少は待つ必要があるかもしれないが、その方が犯人としても要らぬリスクを犯さなくていい分、効率的なのではないだろうか。
そんな疑問を抱いて、紫苑は夏美に問いかける。
だが想定内の疑問だったのか、さらっと否定された。
「いや、網だからOKとも行かないんだよ。そういう網で川の中の魚を丸ごと捕獲という行為は、自治体や漁協によっては禁止されていることがある。電気漁と同じく、環境への影響が大きいからな。網単体での密漁というのは、わざわざ電気漁の機材とメリットを捨ててまで実行する程、効率の良いことじゃない」
「あー……なるほど、確かに」
「それに、電気で気絶もさせずに魚を網で捕まえようとすると、魚が暴れるからな。下手すると電気漁以上に見つかりやすい。犯人としても、網だけに全ては賭けられなかったんだろう」
よっぽど初歩的な質問だったのか、詰まることなく流暢に説明される。
こういう時の夏美の解説力というか、プレゼン力にはかなりの物があるので、紫苑としても分かりやすかった。
頷いていると、やがて夏美の話は次の段階に至っていく。
「……そういう訳で、とりあえず『犯人は仇川に網を仕掛けていた』という前提で推理を進めようと思う。さて、そうなると問題だ。この網、現在ではどうなっていると思う?」
「どうって……普通に考えれば、犯人が持ち帰ったのでは?」
「理想的な撤退が出来たのなら、そうなるだろうな。だが先程推理した通り、今回の犯人は意図せぬ殺人を犯して、慌てて撤退したはずだ。つまり、十分に時間をかけて撤収作業は出来なかったかもしれない。そのことを考慮すると、どうなる?」
そう言われて、紫苑はその時の光景を想像する。
被害者が川に落ちた様を見て、一目散に逃げようとする犯人の姿を。
犯人はとにかく、自分の身の回りにあった物から片付けていったはずだ。
電気を流すための電源も、被害者に見つかる原因となったかもしれないライトも、来る時に乗ってきた車にでも詰め込んだだろう。
だがそうやって素早く片付けられた物品は、あくまで犯人の近くにあった物だけだ。
今、夏美の話に出ている網は、犯人の居た場所よりもさらに下流に設置されている。
なおかつ周囲は暗く、犯人としては見つけづらい。
だったら────。
「……もしかして犯人、網を持ち帰るの忘れたんですか!?」
「私もそうだと思っている。犯人も目の前で人を川に突き落とした恐怖で、気が動転していただろうからな。有り得ない話じゃないだろう」
「ということは……もしかして設置された網は、今もそのまま?」
紫苑は一度そう呟いたが、即座に「いえ、それは無いですね」と思い直す。
もしそうなら、仇川の魚たちは今もまだ下流に下ることが出来ていないはずだ。
後日、現場付近で玲が電気漁の被害を受けた「ヤキザカナ」を釣っている以上、そんなことは有り得ない。
つまりこの場合、何らかの理由で網は仇川から取り外されたのだ。
だからこそ、電気ショックで気絶した魚たちは目を覚ました後、普通に川を下っていけた。
「つまり、網は自然と外れた……水の負荷に、耐え切れなかったんですかね?」
「いいや、もっと明瞭な負荷が網にかかったはずだ。魚なんかよりもよっぽど重い、網程度は引きちぎり得るものがね」
そう言われて、紫苑はハッとなる。
確かに、話の流れとしてはそうだった。
犯人の動向ばかりを気に掛けると、網が放置されたようにしか見えないが────現実には、その場にはもう一人いたのだから。
「そうか、被害者の人……!川に落ちた後、彼は流れに乗って下流に向かい、やがては網に引っ掛かったんですね?」
「その通り。彼が転落した場所が網の設置場所よりも上流なら、自然と引っかかるからな。尤も、それで命拾いする、とまではいかなかったようだが」
やや憐れむように、夏美は語尾を濁す。
被害者の状況を想像したのか。
もしそこで被害者の意識が確かだったのならば、網を伝って陸に生還する、ということも可能だっただろう。
それでも水死体になって見つかったということはつまり、彼は網に引っ掛かった時点で意識を失っていたのだ。
彼は抵抗も出来ないまま、網に捕まったということになる。
だがそれが、網に対する大きな負荷となった。
元々この網は、犯人が電気を流してから魚が回収されるまでの間だけ保ってくれればいいと思って設置された物。
回収の手間や見つかった時の逃亡のしやすさも考えると、そこまでしっかりとは固定されていなかった可能性が高い。
故に、その網は流れてくる魚と人間の重量を支えることは出来ず、やがて限界を迎えた。
陸側の杭が抜けるなどして、自然と外れてしまったのだ。
結果として、軽くせき止められるような形になっていた水は解放され、それに乗るままに魚たちと水死体は下流にまで運ばれてしまった────。
「彼の死体発見の記事の中には、『漁具による物と思しき傷跡もあり、損壊が激しい』という内容も載せられていた。多分これは、被害者の皮膚には網目が残っているということなんじゃないかと思う。恐らく警察は、これを発見場所の河口に係留された船による傷跡と誤解しているんだろうが……」
「実際のそれは、網に引っ掛かっていた時に被害者の肌に刻み込まれた網目、ということになりますね。それが傷跡となって、水死体にも残っていた」
「ああ。そして記事の中には、網でぐるぐる巻きになった被害者を発見、なんて情報は無かった。つまり、外れた網は……」
考えられる可能性は二つ。
一つは、網は被害者と共に流されていったが、流れに揉まれる中で引き離され、どこかの岸にでも引っかかっている、という可能性。
そしてもう一つが、そもそも網の固定具は片方しか外れておらず、もう片方の杭から垂れ下がるような形で仇川に残留している、という可能性。
どちらにせよ、誰かが回収でもしていない限り、網は川岸のどこかにある、ということになる。
だからこそ、夏美たちのこの行動に意味があるのだ。
「そう考えたからこそ、こうして源流まで遡っているんだ。勿論、犯人が普通に持ち帰ったかもしれないし、誰かがゴミと思って既に捨てているかもしれないから、見つからない可能性の方が高いんだが……それでも見つかるかもしれない以上、さっさと見つけたいだろ?」
「そうですね……そしてもし網を見つけたなら、それは……」
「この事件に置いて、最大の物証となる。見つけた網目と被害者に残った痕跡が一致すれば、少なくとも被害者の死体が違法に漁をしていた人物の網に引っ掛かっていたことが証明出来るからな。網が見つからずとも、固定具の杭だけでも残っていたら、犯人の指紋くらいは分かるかもしれない」
「そうなれば、後は警察が犯人を見つけてくれる……?」
半信半疑で紫苑が返すと、夏美が多分な、と返す。
そしてまた、彼女は真剣な表情で川を見つめるのだった。