地を走る雷鳴
「……あれ、でもそれなら、被害者が最後に踊っていたことはどうなるんです?」
そこでまだ説明しきれていない点を見つけて、紫苑は話の流れを少し戻す。
元はと言えば、あのブログ記事はこの点の不思議さについて書かれていたのだ。
今の話だと、被害者は犯人に川に突き落とされただけであり、踊ってはいない。
「他にも、まだ説明が付いてない点はある気がしますけど……」
「まあそう焦るな。おいおい説明する」
紫苑を宥めるようにして、夏美は軽く手をかざす。
それから、少し時間を巻き戻そう、と言った。
「被害者が川に落ちる前……電気漁を注意しに行った被害者と、漁の最中だった犯人が揉み合っている時にまで認識を戻してくれ。真夜中の川べりで、二人の人間が喧嘩しているところだ」
「はあ……」
「そしてもう一つ、思い出して欲しい。確か被害者は、靴を履いていなかったな?」
そう言われて、紫苑はブログの末節にあった文章を想起する。
確か、履いていたサンダルだけが橋の近くから見つかったのだったか。
被害者は死亡した瞬間、裸足だったのだ。
「これは私の想像だが、このサンダルが脱ぎ捨てられていたこと自体は、事件とは関係ないことだと思う。普通に酔っぱらった末にフラフラと歩いて、そのまま足からずり落ちてしまったんだろう」
「でも……気が付きません?その場合、被害者は途中から裸足で帰宅していたってことになります。足の裏、結構痛かったと思いますけど」
「その辺りは、酔い過ぎて痛覚が麻痺していたんだろう。もしくは、途中で靴がずり落ちたことには気が付いたが、夜中では探しても見つからないと思って諦めたか」
「……脱げた靴をその場で探すよりも、一旦帰って朝になるのを待った方が良いと思っていた、ということですか?」
「そう言うことだ。まあどの道、被害者がどう靴をなくしたかは重要じゃない。被害者は犯人に注意しに行った時点で裸足だったのだろう、という点が重要なんだ」
そう言い切って、夏美はまた「その点を考慮してからイメージして欲しい」と告げる。
「被害者は裸足のまま、川べりまで降りて電気漁をしていた犯人を注意にしにいった。酔っぱらった勢いもあるし、怒鳴り合いになったかもしれない。一方で犯人も往生際悪く足掻き、その場から逃げ出そうとしたはずだ。ここまでは言ったな?」
「はい。それで、揉み合いになったはずだと」
「そうだ。大の大人が喧嘩しているんだから、その内に実力行使に至る可能性はそれなりにあるだろう……そしてそうなると、各々、武器が必要となる」
武器、と紫苑は口の中で呟く。
すると夏美は、正確には咄嗟に手に取った物と言った方が良いけどな、と訂正した。
「キーとなるのは、この際の両者の得物、ないし手に持っていた物だ」
「はあ……それ、考えて分かるものなんですか?」
紫苑たちは事件現場を直に見ている訳では無いので、所持品など分かるはずも無い。
そう心配しての発言だったが、夏美はフルフルと首を振る。
「当時の状況を振り返れば、これについては大体分かる。まず、被害者の方。彼は飲み会の帰りなんだし、殆ど手ぶらだったと思う。持っていたとしてもせいぜい、懐中電灯と財布くらいだろう」
「まあ、元が近所で開かれた飲み会の帰りなんですから……そうなりますね」
「だが一方、漁の最中だった犯人の方は、手ぶらであることは有り得ない。恐らく声をかけられたその瞬間にも、水中に電気を通すための端子を持っていたんじゃないか、と思う……その上で、想像を続けてみて欲しい。この二人の間で、何が起こるのか」
言われるままに、紫苑は脳内で何となくのイメージを描いていく。
二人の大人が、喧嘩をしている図だ。
片方は素手、もう片方は電極を手にしている。
互いに激高しているため、彼らの言い争いはすぐにヒートアップした。
ついには互いに手が出て、殴り合いと化す。
犯人は電気の端子を持ったまま相手に殴りかかり、大ぶりの動きで駆け寄って。
やがてそれは、空を切る。
ちょっとした偶然で、相手にその一撃は当たらなかったのだ。
荒っぽく喧嘩しているのだから、そういうこともあるだろう。
だが当然、大きく振りかぶったせいで勢いが付いているため、彼の動きは止まらない。
流れるように、電気の端子は川の水で濡れた地面に突き刺さって……。
「……まさか」
「分かったか?」
余裕綽々で、夏美は紫苑を横目で見やる。
その視線を受け止めながら、紫苑はその想像を言葉に変えた。
「……犯人は、地面に電気を流したんですか?そのせいで、裸足の被害者は感電した、と?」
「恐らく、そうだと思う。私の知る仇川の岸は、砂利や石で舗装されていなくて、もっと土っぽい感じだったからな。濡れた地面は電気をそれなりに通すから──だからこそアース線なんて物がある──近距離で高電圧の電流をぶっ放せば、地面越しに人間を感電させる、ということは不可能じゃないだろう」
夏美はさらりと紫苑の言葉を首肯する。
その上で、さらに問いを重ねてきた。
「さて、それでは問題だ。偶発的な事故か意図しての行為だったかは不明だが、犯人は地面に電流を流し始めた……この場合、被害者はどうなると思う?」
「どうって……普通に、飛びあがるんじゃないでしょうか。裸足である以上、直に電気を喰らってしまいますし。長時間電流を浴びたなら、痺れて動けなくなるかもしれませんけど、単発的な物なら……」
「ああ、そうなるだろう。これは脊髄反射だから、酔っぱらって痛覚が多少機能してなかったとしても問題はない。人間の本能として被害者は足を跳ね上げて……その後は?」
仮に、その足が上がっている間に電流が止まったのであれば問題はない。
つつがなく、被害者の足は地面に着地するだろう。
しかし、そうでなかった場合は。
当たり前だが、地面は未だに通電したままだ。
重力に従って足を下ろした彼は、そのままもう一度感電して……。
「……もしかしてこれ、延々続くんじゃないですか?足を下ろした瞬間に感電して、飛びあがって、また地面に足を付けて、感電して……」
「その通り。状況的には、熱々のフライパンの上に立たされているような物だからな。彼はそれこそ、せかせかと交互に足を跳ね上げながら何とか電流から逃げる、という動きになったはずだ」
「でもこの場合、犯人は無事なんですか?周囲の地面一帯に電気が流れたのなら、犯人も……」
「この犯人の場合は元々の目的上、自分がうっかり感電しないような服装をしていた可能性が高い。ウエットスーツを着込んで、絶縁体のゴム底の長靴を履く、とかな。漁をするには川の中に入る必要もあるから、その方が都合が良いだろう?」
「だから、被害者だけが感電を……そのせいで、飛び跳ね続けた?」
本人としては、痛みから逃れるための必死の動き。
しかし当然、こういう動きは、傍目から見ると別の様相に見える。
何も関係の無い見物客からすれば、当人の必死さなど分からないのだから。
その点を、まさに夏美が指摘する。
「どうだろう、紫苑。もし被害者がこんな状態になっている様子を、橋の上から誰かが見たのなら……その目撃者からは、踊っているように見えるんじゃないだろうか。何者がリズミカルに足を動かしながら、川岸で踊り狂っている、と」
「……ブログに書かれていたのは、電流から逃れようとしていた被害者が、川岸で必死に足を動かしていた姿だった。そういうことですね?」
「証拠は無いが、私はそうだと思っている。無論、長くは続かないダンスだけどな、これは」
そう言われて、紫苑はようやく事の次第を理解する。
恐らく、電気を足に受けた被害者は、必死に犯人から遠ざかるようにして逃げたのだ。
傍からは踊るように見える動きで、点々と。
必死の努力で、裏形橋の近くまで逃げてきたのだろう。
だが、やがてそれにも限界が来る。
或いは、何かが足に引っ掛かりでもしたのか。
彼の体はぐらりと揺れて、やがて。
ごうごうと流れる、川の中に飛び込むこととなった。
電気に追われた結果、そこしか逃げ場がなかったのだ。
「そこからは、さっきの話の通りだ。酔っていたことと、足の負傷。それともしかすると、高電圧の電流を受けたことで麻痺でも残っていたのかな。被害者はある種必然的に溺れ、やがては溺死した。死体は川の流れによって運ばれていき、その内に河口にまで流れていった」
「そして、死体発見に繋がるんですね……」
全貌を聞いた紫苑は、そう考えると確かに両者にとって不運な話かもしれません、と思う。
話を聞く感じ、犯人には恐らくそこまでの殺意は無かっただろうから。
仮に本気で殺す気だったのなら、捕まえて川に突き落としたり、河原に落ちている適当な石で殴ったりと、もっと暴力的なやり方がいくらでもある。
そうしていない辺り、本当にただただ必死で被害者を遠ざけようとした結果、偶発的にそうなったというのが正しそうだった。
無論、元々やっていることが違法行為であり、偶発的な事故が起きた理由も注意された結果の逆ギレのようなものであるので、同情の余地は薄い。
だが、意図せずして密漁者から殺人者になってしまったことは、犯人サイドとしても想定外の不幸だったのだ。
そして言うまでも無く、被害者の方はもっと不運である。
何せ、酒の勢いでちょっと威勢よく注意をしてみたら、電撃を浴びることになった挙句、溺死したのだ。
そもそも注意などしに行かない方が良かったと言えばそれまでだが、間違いなく殺されるほどの過失ではない。
こうして振り返ってみると、この事件は加害者、被害者双方にとって救いの無い話だった。
尤も、救いのある殺人など、この世のどこにも無いだろうが。
「……因みに、ここまでで何か質問はあるか?」
「えっと、質問というか確認ですけど……地面に電気を流している最中の犯人の姿が、ブログの書き手の旦那さんに目撃されていないのは、被害者がそれなりの距離を踊りながら逃げてきていたから、ということですか?」
「だろうな。元々橋の上からだと、被害者の姿すらぼんやりとしか見えなかったようだから、それよりも遠くにいる犯人は単純に見えなかったんだろう。地面に端子を押し当てているから、姿勢も低くなって周囲の草に紛れていただろうし……それと、ライトなんかは被害者に見つかった瞬間に消していたのかな」
なるほど、と紫苑は頷く。
元より明かりも碌に無いような場所だったことを考えると、犯人の姿が見えなかったことはそう不思議ではない、ということらしい。
ちゃんと凝視していれば、地面に飛び散る電気や火花もひょっとすると見えたかもしれないが────酔っ払いにそこまで期待するのは、流石に酷か。
「次に、純粋に疑問なんですけど……被害者の方は、どうして助けを呼ばなかったんでしょう?結果から言えば橋の上に人が居たんですから、声を上げれば救助だって……」
「それはまあ、単純に気が付いていなかったんだろうな。周囲に人が碌に居ないことは被害者本人も良く分かっていただろうし、電気が地面から来ている以上、視線が下に向いていた可能性は高い。上の様子までは確認出来ない、ということだ。何なら被害者だけでなく、犯人も橋の上に居たブロガーの旦那の存在には気が付かなかったかもな」
「だから、朝が来る前にそのまま逃げた……お陰で、犯人は誰にも存在に気が付かれなかった」
被害者はその翌日に、行方不明届を出されたと言う。
当然、電気漁がなされたはずも仇川上流を含む形で、警察による捜索活動が行われたに違いない。
それでも特に続報が無かったということは、必死に逃げた犯人が全ての痕跡を消しさった、ということだ。
川に飛び込んだ被害者の安否も確かめずに、機材の回収だけして逃げ去った、というあたりだろうか。
もっと詳しく調べたら痕跡の一つくらいは残っていたかもしれないが、捜索時点では、警察は被害者の失踪と電気漁を結び付けてはいなかった。
そう考えると、何も分からなかったのも仕方なかったのかもしれません、と紫苑は内心で思う。
ただ、正確に言えば。
警察は勿論気が付かなかっただろうが、事件の痕跡は、たった一つだけ現場に残されていた。
それが、「ヤキザカナ」だ。。
「この話が本当なら、玲君が釣った魚は……この電気漁の、生き残りだったんですね?必死にその場から逃げた犯人は、目当てだった魚の回収も出来ずにいたから、魚だけがその場に残って……」
「恐らくそうだ。そもそも、電気漁は魚を気絶させるだけで、その場では即死させないことが多い。即死させるほどの電圧を出すと、魚が炭化したり身が崩れたりして、商品価値が落ちるからな。……逆に言えば、放ってさえおけば電気漁の被害を受けた魚たちは勝手に目覚める、ということだ」
自然、時間経過で目が覚めた魚たちは、めいめいで気ままに泳いでいく。
現場からさらに下流へと移動し、警察の目には止まらない。
いくらかは電流が原因で死んだ魚も居たかもしれないが、不審がる程の数では無かったのだろう。
ただ、最も電流の影響を受けた魚──電流を流す端子の近くに居た魚──は、死ぬようなことは無かったが、焦げ跡が残っていた。
その不運な魚を、玲が釣った、ということになる。
「そう考えると、玲君、凄くレアな魚を釣っていたんですね。電気漁の被害を受けていても、表面上は一切の被害が無かった魚も居た中、ピンポイントで一番おかしな魚を釣っていた訳ですし……」
「ああ、そう言う意味でも、今回の犯人は運が無かったよ。仮にそこで玲が『ヤキザカナ』を釣らなければ、私たちにこの話が伝わることは無く……こうして、事件の真相を解き明かされることも無かったんだから」
鼻で笑うような言い方で、夏美は推理の最後をそう締める。
同時に顔を上げた彼女は、おっ、という顔をした。
目の前に広がる街並み────その中央を突っ切る、小さな川を見やって。
いつの間にか、そんなところにまで二人は歩いてきていたのだ。
それを確認して、夏美をぐるりと紫苑の方を振り返る。
「丁度良かった……やっと、到着だ」
「え……あ、この川が、仇川ですか?」
言いながら、紫苑は住宅街に掛けられた小さな橋の様子を除き見る。
同時に、夏美が背負っていたバッグに手を伸ばした。