悪魔襲来
お父さんへ。
時間というのは早いもので、お父さんの単身赴任から、今日で二年近く経ちます。
電話越しならともかく、直に顔を見た機会で言えばこの二年で十回程度しか会えていませんが、いかがお過ごしでしょうか。
警視庁捜査一課の仕事は激務だと思いますが、体を壊すようなことにはなっていないでしょうか。
私は、今のところ元気です。
この氷川紫苑は、まだ高校一年生になったばかりではありますが、そうそうやわな体をしちゃいません。
お父さんとの試合で鍛えられた剣術の腕は、今日も磨いている最中です。
高校生活も、まあまあ上手くやっています。
友達も出来ましたし、入る部活も決まりそうです。
だからこそ、今日も私は元気に────。
────名探偵の親友と一緒に、連続殺人犯を追いかけています。
「サッカー部!サッカー部で青春を過ごしませんか?初心者大歓迎ですよ!」
「あ、君、今立ち止まったね?いいや、否定したって無駄だ。君は間違いなく立ち止まった!ほらほら、陸上部へお入りなさい」
「天文部、天文部に興味は無い?星座、ギリシャ神話、流星群!見上げてばかりじゃわからない星の真髄が、この部活に入るとあら不思議、かんっぺきに分かっちゃう!」
「お、君良い体つきをしているねえ、どこ志望?吹奏楽に入る気は無い?……え、体育会系に入りたい?いやいや、吹部って下手な体育会系よりよっぽど体育会系だから、大丈夫!こっちこっち……」
「文学研究会に興味ありませんかー。恋愛、青春、ホラー、哲学、純文学!なんでもござれ!今君が入ると。もれなく副部長の立場が付いてくるよ!今のところ部長しか部員が居ないからね!」
体育館に入っただけで、聞き取れたのがそれくらい。
実際に発せられた声はもっと多いんだろうな、と氷川紫苑は体育館内の椅子に座ったまま一人ごちた。
この煌陵高校という高校が、部活動が盛んでな学校であることは前々から聞いていたが、それにしてもこの勢いは凄まじかった。
入学式が終わった直後、「新一年生は体育館に残ってください。引き続き、新入生歓迎を兼ねた部活勧誘会が行われます。保護者の方、来賓の皆様は体育館出口よりお帰りください……」というアナウンスがあったが、その時点で察してよかったかもしれない。
新入生たちを取って食おうかとしているような、この部活勧誘ラッシュが行われることを。
新入生たちの周囲にはいつの間にか、体育館の壁に沿うようにして大量の屋台が並べられている。
それぞれに「テニス部」とか「野球部」とかが書かれていることから推察するに、あれは各部活に与えられた陣地なのだろう。
ホームスペース、ということだ。
一方、新入生たちはまとめてパイプ椅子に座り、体育館の中央でたむろしていた。
四月吉日、高校入学初日の行事である入学式が終了して三十分後のことである。、
式の時のような綺麗に整列した状態からは解放されたのだが、それでもどこで何をすればいいか分からない、という具合で彼らは固まってしまっていた。
そして、その新入生の隙間を縫うように、或いは外側から掴むようにして。
大量の二、三年生がどこからともなく入り込み、ひたすらに勧誘活動をしている。
彼らの様子は、それこそアイドルの原石をスカウトする芸能事務所の社員のようである。
顔つきから体格、服の着方から雰囲気に至るまで、とにかく目についた点を褒めまくって、一度でも頷いた新入生に対しては、そのまま自分の屋台の陣地に引き込もうとしていた。
──つまり、あの屋台にまで連行されると、そのまま入部届を書かされるんですね……。
周囲を見ながら、何とか紫苑は状況を理解していく。
あまりにも初めての体験であったために状況を読み取れなかったが、流石にこの勧誘が始まってそれなりに経過した現在では、大体の様子が分かった。
詰まるところ、新入生の周囲を各部活のスカウトマンが飛び回り、無理矢理にでも部員を増やしているのだ。
この学校では、勧誘活動というのはこういう風に行うのが作法らしい。
そうであれば、立ち上がって自由に屋台を見て回っても良いのでしょうか、と紫苑はチラリと周囲を見やる。
すると、特に連行された様子も無くブラブラと歩いている新入生の姿──どの学年かはネームプレートの色で判断出来る──が視界に入った。
彼らが咎められていないところを見ると、別段新入生は体育館の中央に居なくてはならない、という訳では無いようだった。
ただ単に、二、三年生の熱意に負ける形で、新入生たちが移動出来ていないだけなのだろう。
やりたいのであれば、普通にスカウトマンを避けてそれぞれの部活の様子を見物に行くのも可能らしい。
──だったら私も、そうしてみましょうか。
踏ん切りをつけた紫苑は、そこでするりと体を滑らせ、入学式の座り場所から脱出。
ふらりと屋台の並ぶ壁の方にまで近づいてから、キョロキョロと周囲を見渡した。
無論、立ち上がって自由に見学している間も、スカウトマンたちが絶え間なく話しかけているので、それをさばきながらの移動となる。
尤も、そう言ったスカウトマンたちの声色はそのまま近くの屋台の紹介にもなっていたので、完全に邪魔な存在という訳でも無かったが。
「お料理研究会、お料理研究会にお興味はありませんかー?ここに入れば、いつか調理師免許が取りたくなった時有利だよ!ご飯は勿論美味!部長が研究会に入ってから十キロ太ったのが、その証拠!」
「囲碁将棋、囲碁将棋に三年間を捧げてみましょう、皆さん!ただいま、屋台中央で詰将棋をやっています!この手、君には解けるかな?」
「数学同好会に入りたいって人、おいでー!ここに入れば、数Ⅲだって思いのまま!美人部長が教えてくれるよー!」
──この辺りは、文科系の部活のエリアですね。それも、規模がちょっと小さな。
スカウトマンたちの言葉を聞いて、紫苑はそう判断する。
聞いて見た感じ、バスケットボール部やサッカー部と言った、メジャーな体育会系部活のスカウトマンがこの近くには居ない。
代わりに、「部」では無く、「研究会」や「同好会」が名称になっている部活のスカウトマンばかりなことから判断すると、人数の少ない小さなサークルはひとまとめになっている区画なのだろう。
ただ、小さなサークルだからと言って、勧誘の規模も小さい訳ではない。
寧ろ、放っておいても入部希望者が現れるような大手の部活とは状況が違うことを理解しているのか、スカウトマンの必死さは他の部活以上だった。
もしかすると、今年新入生を獲得出来なければそのまま廃部、というようなサークルすらあるのかもしれない。
しかしそうは言っても、彼らの必死さの全てに紫苑が付き合える訳ではない。
とりたてて興味の湧く名前の部活が無いことを素早く確認した紫苑は、申し訳ないとは思いつつも、必死なスカウトマンを避けるようにして道を選んでいく。
最早振り払うのも面倒なので、人通りが僅かでも少ない道を選んで、通る。
さらに抜け道を見つけて、選んで、通って。
また選んで、また通って。
……そんなことをしている内に、紫苑は人混みから吐き出されるようにして、とある屋台の真正面にポン、と躍り出た。
これは、決して理由の無い偶然ではない。
というのも、何故かその屋台の正面だけ、スカウトマンたちが殆ど立っていなかったのだ。
故に、人混みを避けて歩いてきた紫苑は、ある種必然的にそこに足が向いたのである。
言ってみればその場所は、新入生とスカウトマンたちでごった返すこの体育館に置いて、エアスポットのようになっている場所だった。
その屋台と紫苑を取り巻くように人混みがある────いや、まるで人混みがこの屋台だけは避けているような。
──……静かな場所。何の部活なんでしょう、ここ?
疑問を覚えながら、紫苑はふと屋台を注視した。
彼女はそこまで好奇心旺盛な性格という訳でも無いのだが、それでも流石にこれは気になったのだ。
この部活の屋台だけ、余りにも静か過ぎる。
そう考えた紫苑の目にまず飛び込んだのは、長机を一つ、パイプ椅子を四つ置いただけという、簡素な屋台の姿。
紫苑から見て、机を挟んだ向こう側に上級生らしき女子生徒が一人だけ座って、黙々と文庫本を読んでいた。
彼女が机の上に置いているのは、足元の鞄とペットボトルの水、そして何故か薬のような錠剤が収まったガラス瓶。
それ以外には、人も、物も、一切存在しないという実にシンプルな図式だった。
じっくりと観察するつもりで屋台を見つめた紫苑は、対象が余りにも単純な構造をしていた物だから、一瞬でそれを終えてしまう。
そして自動的に、この屋台には部活名を示す看板が無い、ということにも気が付いていた。
周囲を見る限り、どれだけ小さな部活でも「漫画研究会」や「新聞部」というような自分たちの団体名を示す看板が屋台の近くには置いてあるのだが、この屋台にはそれが無い。
故に、当然の帰結として。
紫苑は、残留した観察力に引きずられるまま、黙読する女子生徒に話しかけた。
「あの……すいません」
「はい?」
机に近寄り、紫苑が声をかけると、ゆったりとした様子で彼女は顔を上げる。
同時に、読んでいた文庫本をパタリと閉じて、机の上に置いた。
図らずも、紫苑は彼女と至近距離でバッチリと見つめ合う形になる。
一言で言えば、相手は容姿の整った美少女だった。
腰に届こうかとばかりに伸ばされた黒髪のせいか、どことなく和の雰囲気を有した人物である。
もし日本人形に命を与え、女子高生の制服を与えればこうなるのではないか、と思わせる造形美。
かなりのふくらみがある胸元に掛けられた「白雪」と記載のあるネームプレートの色を見る限り、二年生のようだった。
「……入部希望者の人?」
思わず凝視してしまう紫苑を前に、彼女が小首を傾げる。
我に返った紫苑は、慌てて問い直した。
「ええと、そうなるかどうかはまだ分からないんですけど……その、ここって何の部活のスペースなのか、と思いまして」
「何の?でもそれは、プレートを……」
不思議そうに机を見た彼女は、そこで自分が口にしたプレートが存在していないことに気が付いたらしい。
ちょっと笑うと、その場で「あらあら」と頬に手を添えた。
──現実に「あらあら」って口にする人、初めて見ましたね……。
変な感想を抱く紫苑を前に、彼女は小さなプラスチック製のプレートを鞄から取り出して机に置く。
釣られて、紫苑はその名前を読み上げた。
「えー……『煌陵高校ミステリー研究会』?」
「ええ、その通り。ここは煌陵高校ミステリー研究会のスペース……そして私がここの部長で二年生の、白雪亜優」
「あ、私は一年生で、氷川紫苑と言います」
初めまして、と互いに名乗った後、白雪はふわりとした笑みを浮かべる。
紫苑はその雰囲気に軽く呑まれながら、話しかけた側の礼儀として、場を繋ぐように質問を重ねた。
「ええっと……因みに、どういう部活なんですか?こんな活動を主にやっている、みたいなことは……」
「そうねえ……」
紫苑には難しいことを聞いたつもりは無かったのだが、そこで白雪はまた頬に手を当てる。
そして、思いついた端から考えを言葉にするようにして、こう返した。
「何でも調べる部活、かしら」
「何でも、調べる?」
「ええ、そう。強いて言えばこう……近くにあるミステリっぽい物を見つけて、それを調査する部活、というか」
──……つまりは、どういう?
説明になっているような、或いはなっていないような言葉を前にして、紫苑はハテナマークを浮かべる。
すると、続けて白雪はこんなことを告げた。
「分かりやすく言えば、身近で見つけた不思議な出来事を、めいめいで考える部活ね。内容は本で見つけたパズルだったり、ご近所で実際に起きた話だったりするけど」
「要するに……パズルやなぞなぞを持ち寄って、謎解きをする部活、ですか?」
「簡単に言えば、そうかもしれない。まあ基本、緩い部活だけどね。部室は一応あるけれど、集合時間すら決まっていないし、出欠すら取らないし……紫苑ちゃん、興味ある?」
問いかけられて、紫苑は思わずうーん、となる。
実を言うと、全く興味が無い、という訳では無い。
寧ろ、その活動内容の緩さは魅力的ですらあった。
というのも、元々紫苑は、小学生の頃から父親の意向により剣術を学んでいる。
決して大会などで活躍した訳では無いので、その手の部活が強い高校に進む程の特技では無いのだが、高校でも鍛錬は続ける気ではあった。
そのため、予めインターネットで煌陵高校の剣道部については調べている。
そして調べる限り、この高校の剣道部の活動は、規模がかなり小さかった。
柔道部と兼用で武道場を使っている都合上、週に二、三日しか活動が無いのである。
だからこそ、「剣道部に入るのは確定として、別の部活も兼部しましょうか」という思いになるのは自然だった。
紫苑がこうやって新入生勧誘の輪の中に入っているのも、その一環である。
ミステリー研究会がそれほどまでに融通の利く部活であるというのなら、兼部先としてはぴったりだ。
──でも、ミステリーと聞くと……「彼女」を思い出してしまうというか。
うーん、ともう一度紫苑は思い悩む。
部活名を聞いたことで、不意に腐れ縁の友人の存在を一人、思い起こしてしまったのだ。
彼女のことを考えると、顔が自然と疲れたものに変わってしまう。
すると、押し黙ってしまった紫苑を心配に思ったのか、白雪が不思議そうな顔をした。
「どうかしたの?何か、疲れたような顔をしているけど……」
「あ、いえ、その……ミステリーと聞いて、腐れ縁の友達を連想しまして。私と同じで、この高校に来た子の話なんですけど」
「……紫苑ちゃんには誰か、ミステリー好きな友達が居るの?」
少し興味が湧いたように、白雪が僅かに前のめりになる。
紫苑が入部に乗り気でないなら、そちらを勧誘しようと考えたのだろうか。
しかし、反射的に紫苑は手を左右に振った。
居るには居るのだが、「彼女」はキャラが濃すぎるので、ちょっとここでは話すことでは無い。
寧ろ、話題にするのは避けたい思いがあった。
「そんなことより、その……この瓶、何なんですか?」
結果、話題を逸らす意味もあって、紫苑はふと机上にあったガラス瓶を指さして会話の流れをぶった切る。
目についた物なら何でも良かったのだが、余りにも特異な物体であったがために話題に出しやすかったのだ。
加えて実を言えば、この瓶は彼女としても気になっていたという事情もある。
この人が飲んでいる薬か何かなのか、とも考えたが、それなら置き続ける理由も無い。
「……ああ、これ?これは、ちょっとした入部試験のような物だけど」
「入部試験?」
「ええ。ちょっとした知恵試しも兼ねて、ウチの部活は入部希望者に対してあるクイズを出しているの。これは、そのクイズのために使う小道具」
質問されることは想定内だったのか、白雪は慣れた様子で、すらりとガラス瓶を手に取る。
そのまま彼女は、からりと中の錠剤を揺らしながら問いかけた。
「どうせだし、紫苑ちゃん。ウチに入るかどうかは別として……解いてみる?」
「えっと、その入部試験を、でしょうか」
「そうそう。聞くだけなら自由だし、簡単と言えば簡単なクイズだから。ゲーム理論に詳しい人なら、答えまで知っているかも」
そう言われて、どんな物なのだろう、と紫苑は少し興味を抱いた。
例の腐れ縁の友人の影響もあって、紫苑は少々その手の謎解きについては知らない訳ではない。
聞くくらいなら、という意見に至るのは当然だった。
「じゃあ、お試しで……」
「分かった。じゃあ、最初にクイズの状況設定を説明するから、想像してみてね」
人差し指と中指で瓶の上部を器用に摘まみ、白雪はゆらりと紫苑の前でそれを提示する。
そして前口上通り、こんな「設定」を告げた。
「まず、私は悪魔です」
「えっ」
「えっ、じゃないの。悪魔なの。そういう設定」
微かに、白雪が口を尖らせる。
それを見て、紫苑は慌てて頭を下げた。
思わず驚いてしまったが、確かに設定にケチをつけるのも変な話だ。
「良い?私は悪魔。突然貴女の目の前に現れた私は、この瓶を片手にこんな取引きを持ちかけます……『この瓶を持っている限り、貴女は不老不死以外のどんな望みも叶えられる。金銀財宝でも、名声でも、権力でも、思うがままだ。だからこの瓶、買わないかい?』」
「悪魔との契約、という物でしょうか」
「そうそう。そして悪魔は、こう続けます。『ただし、この瓶を貴女がずっと持ち続けていた場合、最終的に貴女は代償として死んでしまう』」
そう来ますよね、と紫苑は一人で頷く。
この手の寓話は、何かしらの代償があるのがテンプレートだ。
有名なパターンで言えば、魂が代償となるのだったか。
「代償を聞いて怯える貴女に、悪魔はさらにこう言います。『だが、この代償には抜け道がある。今から私はこの瓶を貴女に百円で売るけれど、もし貴女がこれをさらに別の人間に売れば、その時点で瓶の所有権を買い手に移動させることが出来るんだ。当然、これを手放した貴女はそれ以上願いを叶えられなくなるけど、同時に死の代償も買った人物に移動する』」
「ええっと、つまり……適当に願いを叶えるだけ叶えた後、代償が来る前に売り払ってしまう。するとそれ以上願いを叶えられなくなる代わりに、死ななくてもよくなる、ということですか?実質的にはノーリスクで願いが叶う、と」
理屈上、そういうことになる。
人に売り飛ばした後でも瓶の力で手に入った物が消滅せず、なおかつ死の代償が自身から移動するなら、自分だけが儲けた後、売られた方だけが死の代償を支払うということも可能だ。
尤も、この場合、買い手もこの情報は知っているのだから────。
「でも当然、私から瓶を買った人も同じことをするでしょうから、期限が来る前にまた別人に売って……人から人へと瓶が売買されている間は、代償はチャラになる?」
「『そういうこと』……ここまで説明して、悪魔はこうまとめます。『注意点としては、一つだけ。人にこの瓶を売る時には、自分が買った時よりも一円以上安い値段で売らなくてはならない。君はこれを百円で買うから、九十九円以下で売らないといけない訳だ。そして、その九十九円で買った人は、九十八円以下で売らないといけない』」
「じゃあ……売値がそれ以上下げられなくなったら、どうするんです?一円で買ったら、売値が無料になっちゃいますけど」
「『売値がタダにしないといけなくなったら、その時点でゲームオーバーさ。その時の瓶の持ち手は、強制的に代償を支払うことになる……つまり、死ぬ』」
悪魔口調で全てを言い終えたらしい白雪は、そこで傍らにあった水を一口。
その上で、こう問いかけた。
「では、いよいよ問題です。仮に、貴女の周囲に居る人が全員、論理的な思考をして動いているのであれば……貴方は、この取引に乗りますか?すなわち、悪魔の言う通りに瓶を百円で買いますか?」
白雪に真っすぐに問いかけられ、紫苑は少し思い悩む。
それは、この問題に解答を考えている訳では無く。
もっと単純に、この話の何が「なぞなぞ」たり得るのか分からないが故の悩みだった。
そのくらい、紫苑にはこの悪魔の提案にデメリットが見受けられない。
何せ、瓶を所有している間は殆どの願い事が叶い、なおかつ代償をチャラにする方法まで悪魔が教えてくれているのだ。
断る理由が無かった。
無論、もしこれが買い取れないくらいの値段だったり、或いは買い値が一円だったりしたら問題だ。
後者の場合、それ以下の値段で売るというのは不可能になるので、ゲームオーバーがその場で確定してしまう。
しかし、悪魔は最初、百円で売ってくれるという。
そうであれば、他人に売るのも簡単だろうし、自分が代償を支払うことはまず無いだろう。
つらつらとそう考えた紫苑は、そこで顔を上げて「買います」と言おうとする。
そんなに上手い話なら、乗らない手は無いと思って。
だが、その瞬間────。
「駄目だな、紫苑。その取引には、絶対に応じてはいけない。というより、本当に全ての人間が論理的に行動するのであれば、その取引は最初から成立しない」
スカウトマンたちの声で騒がしい体育館を切り裂くようにして、きりり、と強い響きを持つ声が紫苑の耳を刺し貫いた。
思わず肩をビクンと跳ねさせて、紫苑は振り返ってしまう。
彼女の振り返った顔には、はっきりとした驚愕が映りこんでいた。
紫苑がそこまで驚愕した理由は、大きく分けて二つ。
一つは、内容は予想外の物だったから。
そしてもう一つは。
その声が、よく聞いたことのある物だったから。
必然、紫苑は「彼女」の名前を────先程も想起した、腐れ縁の友人の名前を口にした。
「夏美さん……?」
呼びかけられた少女は────紫苑と同じ煌陵高校の新入生であり、同時に古くからの友人でもある松原夏美は、その場でふっと笑ってミステリー研究会の屋台の方に体育館中央から歩いてくる。
その足取りは堂々としたもので、新入生らしからぬ自信に満ちていた。
彼女が歩くだけで、周囲のスカウトマンたちが自然と避けていくくらいである。
それは彼女の勝気そうな瞳や、整った顔、揺らぎない足取りに影響されているのだろうか。
あれほど熱心だったスカウトマンたちが、怯えた犬のように尻込みしていた。
「……お友達?」
突発的に話が中断された形になった白雪は、目の前の紫苑にそう問いかける。
質問された紫苑は、ええっと、と再び困惑することとなった。
無論、彼女は友達と言えば友達だし、何なら一時期は互いの家を頻繁に行き来しているくらいの間柄だった。
しかし果たして自分たちの関係をそう表現しても良いのだろうか、と思って即答出来なかったのだ。
そうして紫苑が悩んでいる内に、背後から近づいた夏美はミス研の屋台に到達する。
さらに、悩む紫苑を尻目に「そうです」と断言した。
その勢いのまま、夏美は悠々と自己紹介を始める。
「突然押しかけて申し訳ありません。私、新入生の松原夏美と言います。中々面白いことをしているようですので、出来れば飛び入り参加をさせていただければ、と思いまして」
「そう、夏美ちゃん。飛び入りは大歓迎だけど……ええともしかして貴女が、さっき紫苑ちゃんの言っていた、ミステリー好きのお友達?」
「生憎とその会話までは聞いていませんが、紫苑の友人でその手の趣味があるのは私だけですから、多分そうでしょうね。ただ、一つ訂正させていただけるのなら……」
ニコリ、と朗らかに夏美が笑う。
「ミステリー好きの友人では無く、氷川紫苑の『探偵』の友人、という方が正確です」
軽い口調での、断言。
それを受けて、白雪はまた「あらあら」と楽しそうに口ずさみ。
紫苑は中学時代から一切変わらない夏美のノリに、その場で頭を抱えたのだった。