第9話 予兆
I列十一、十二、十三番に三人並んで座った。
今夜俺が選んだのは『ラストファンタジー』。
宇宙人と交流したいと願っている不治の病に侵された息子のために、彼の好きな宇宙人の服と宇宙船を用意して、その宇宙人になりきって息子を雪山に連れていき、土星だと思わせて喜ばせてあげる父親の話。
十一番に座ったナオは、椅子に膝を立ててコーラを飲みながら洟をすすってた。
十三番の晴哉は、スクリーンを真剣に見つめてた。
俺はこの映画は好きだけど、ジャンを観るなら『キリング・ゾーイ』がいちばん好きだ。
この映画の父親と同じ役者がやっているとは到底思えない、どうしようもなく卑しい狂犬みたいな人間をあんなにカッコよく演じられるなんて凄いと思うんだ。だけど三人でこれを観た今日は、俺もすごく優しくて素直な気持ちになれて嬉しかった。
ナオとは、中学の二年と三年で同じクラスになった。
小学生の時に病気で両親を失くしたナオは、施設に入っててそこから通学してた。そういう子どもに付きまといがちな暗いイメージが全然ないナオは人気もあったし、俺もよく遊んだりするほどではなかったけど、いいヤツだと思ってた。
三年になって進学の話が具体的になってくると、施設に入ってるナオはなんとなくみんなの輪から外れて、一人でいることが多くなった。俺も自分のことでいっぱいで、気にする余裕もなかったし、それから卒業するまで会話をする機会も減って、お互い離れた。
家に呼んで遊んだこともないから、ここが俺ん家だって知らなかったんだね。あれからどうしてた? 何回か、ナオのこと思い出してたんだよ……。
「いろろ、じいちゃんは?」
ロビーに出ると、鼻をかみながらナオが俺に訊いた。
「死んだ。おととし」
「ほっか。じゃそれから一人か」
「うん。ナオは? いま仕事なにやってんの?」
「俺? 俺は……なんつーか、せぇちゃんと一緒に」
「晴哉と? そう言えば晴哉の仕事ってなに?」
「尋人、知らねえの? せぇちゃん、まだ言ってなかったんだ」
ナオがなんだか気まずそうに晴哉を見た。訊いちゃいけなかったのかな? やっぱりちょっとヤバめの仕事なんだろうか。
「隠してたワケじゃないけど、そういう話って今まで出なかったからな。実はお互い名前くらいしか知らないんじゃねえか?」
晴哉が言うと、俺もその通りだと思った。
あんな出会いだったけど、あの日は晴哉の手当てをした後、昼ごろまで一緒に映画を何本か観て、次の日も晴哉はやってきた。同じように並んで映画を観て、特にお互いのことを話したりしなかった。
でもなんだか俺は嬉しくて、おじいちゃんが死んでから何もかも失くしたような俺の毎日に変化が起きて、オーバーかも知れないけど久しぶりに生きてることを実感したんだ。
あれから金曜の夜、晴哉は必ずこの劇場に来てくれる。だけど、どこに住んでるとか、何をしてるとか、そんなこと訊いたことなかったって、いま初めて気づいたよ。
「せぇちゃんはボクサーなんだ。今はキックもやってるけど」
ナオが言った。晴哉は俺から目を逸らして小さい溜め息をついた。やっぱり知られたくなかったのかな。
「ごめんね、ムリに訊くつもりなんてなかったんだけど……マズかった?」
ナオと顔を見合わせてから晴哉のほうを見た。ちょっと気まずい雰囲気。ヤダな。せっかく友だちになれたのに……。
「そうだよ、俺はファイターでナオはマネージャーだ」
晴哉があきらめたみたいにフッと笑って俺を見た。そうか、ボクサーか……。
俺は晴哉を見上げて、ただ見つめて、何も言わなかった。
「尋人、せぇちゃんはすっげえ強いぞ。無敵だぞ」
ナオは誰かに晴哉のことを言いたかったんだな、と思った。ずっと自慢したかったんだなって。
それからナオは、晴哉がどんな相手と闘ったか、どんなKOを決めたか、俺にいっぱい話してくれた。晴哉は隣で欠伸しながら聞いてたけど、そのうち俺に寄りかかって眠っちゃったみたいだ。
ナオの話は楽しくて、夢みたいにドキドキして、朝日が射してもずっと聞いていたかった。
悲しい夢なら 今すぐ起こしてよ
優しい夢なら このまま寝かせてよ
夢の中で聞こえた歌声は、晴哉のようでもあり、自分のようでもあり、知らない誰かのようでもあった。
目覚めたとき視界に違和感があった。
辺縁が見えにくい。疲労感も倦怠感も、体全体に重くのしかかってくるように感じられる。久しぶりの感覚だった。
そういえば、病院にも一年以上行っていない。祖父が死んでから一度も行っていないのだから、もうじき二年になる。尋人は自覚した不調を、暗い闇が次第に迫ってくるように錯覚し、頭を振って瞬きをした。
館内の清掃をする前に病院に行ってみようか……。そう思ってカレンダーを眺める。今日は何日だったろう、予約は必要だったんだっけ? 考えようとしても、頭の中で文字が霧散してゆくように何もまとまらない。不安を通り越して、尋人は怖いと感じた。これは初めてのことだった。身体的な不調が精神にまで影響を及ぼし始めているのか、尋人はとにかく一度受診してみることにした。
「ここではちょっと診断できないので、神経内科か脳ドックを受診した方がいいですよ」
過去に何度か通った病院でそう言われた。
二年前までは同じような不調があらわれた時、この病院で精神安定剤と睡眠導入剤を処方されていた。
服んだときは確かにラクになるような気がしたが、また数ヵ月経ち、忘れた頃に同様の症状が表れる。当時は尋人も自分が何かの病気かもしれないとは思っていなかったが、祖父の死以来ずっと一人で過ごしてきた身にとって、不調は深刻なものだった。
祖父が遺した映画館『オーロラ座』。今後も一人で守ってゆけるのだろうか? 今のままの営業形態で利益をあげることは難しい。あと数年後には生活も逼迫してくるだろう。まだ若い今のうちに何か策を講じなければならない。いっそ、オーロラ座を畳もうか……。
尋人の脳裏をその考えがよぎった時に頭に浮かんだのは、先週晴哉とナオと三人並んで映画を観たときの情景だった。
劇場がなくなったら、もう三人で観られなくなってしまう。言い知れぬ寂しさを感じ、病院を出た尋人はナオに電話をかけた。
「ナオ? 俺だけどさ、近いうちに会えないかな? うん、金曜に来るのは分かってるんだけど、それより前、なるべく早く会いたいんだ。できれば晴哉も一緒に」
ナオはトレーニングジムの廊下に出て携帯を握りながら、いつもとは違う尋人の気弱な様子に不安を感じ、今夜行くことを約束した。