第7話 伝説のはじまり
この一週間は早かった。先週の金曜にあった試合の翌日、つまり土曜だ。俺は三井さんと一緒に日向さんの事務所に出掛け、晴哉をそこのクラブに迎えてもらう話を詰めた。せぇちゃんとは夜まで連絡がつかなかったんで、取りあえず俺一人で行ったんだ。
俺が晴哉のマネージャーっていうか代理人だって三井さんが言ってくれて、本人抜きでもOKってことになった。
条件は前の日に日向さんから聞かされてた通りで、ルールはK─1とほぼ同じ。
基本的に試合に出るのは週に一回で、晴哉はいちばん女の客が多い金曜の夜が中心。火曜と金曜が格闘技の日になってるらしい。
対戦相手のデータ……バックボーンやあれば所属ジム、もちろん身長、体重、戦績などはあらかじめプロフィールでチェックできて、イヤならキャンセルできる。でも、ほとんどのヤツがフリーでバックボーンもない自己流のストリート上がりらしい。コーディネイトする時点でショーとして成り立つような選手同志を組ませるから、つまり体格とか力量とか……まあ対戦相手に不服っていうこともまずないらしい。
ギャラは、各選手への賭け金合計の五パーセントで、これは勝っても負けても同じ。つまり人気があればあるほど多いっていう訳だ。勝った場合はプラス二百万。仮に五百人の客のうち半分がせぇちゃんに一口ずつ、つまり百万賭けたとする。二百五十人掛ける百万の五パーセントで百二十五万。さらに勝ったら二百万プラスで、合計が三百二十五万だ! すげえぞコレ。
いや、だけどそんなに人気が出て、みんながせぇちゃんに賭けたらクラブの儲けってどうなるんだ? あ、そうか。一人に集中した場合は倍率が低くなるのか?
まあそこらへんは俺たちには関係ねえことだけど、とにかく今までとは比べ物にならないくらい儲かることは間違いない。一年もやれば俺たちの夢を叶えて、その後しばらくは何もしなくたって食っていけんだろ。
一年で、最大五十二試合。あと五十回ちょっと頑張ってくれれば、あいつにもう二度と痛い思いをさせなくて済むんだ。
そう思ったら嬉しくて、俺は今夜こそせぇちゃんと焼肉を食いたいと思って、日向さんの事務所を出て三井さんと別れたあとせぇちゃんに電話を掛けたけど、やっぱいねえ。ったく、今どき携帯持ってないヤツなんておかしいよ。あいつが一人で家にいるのなんて寝てる時くらいだから、いちど連絡がつかなくなるとどこをどうやって探したらいいのかわかんなくなる。今度こそ、俺が携帯を買って無理やり持たせるしかねえな。だけどどうせすぐ失くすんだろうな……。
そんで俺はまた、その夜も一人でメシを食ってサウナに行って帰ってきた。せぇちゃんは一度は戻ったのかどうか、それすらもわかんねえ。その日もとうとう会えずじまいで、次の日曜の午後、やっとつかまった。
俺はヤツを外に連れ出して……っつっても向かいのファミレスだけど、そこで日向さんの仕事の話をした。せぇちゃんはこの前と同じ反応で「ナオにまかせる」って言ってかったるそうに笑った。
どこに行ってたのかって訊いたら「ダチんとこ」って言ってたけど、こいつにそんなダチがいたっけ? 俺は首をかしげた。
今までの長い付き合いの中で、当然それぞれのダチはいるし、共通のダチもいる。だけどこの面倒臭がりで自分勝手なせぇちゃんに長時間付き合ってられんのって、俺くらいのもんじゃねえか? そう思ってせぇちゃんの顔を見たらなんかヘラヘラしてて、あ、こいつ眠いんだなってすぐわかった。
「オールナイトだったからさ」
テーブルの上に伏せて、本当に眠そうに俺を見る。
「なあ、これからはさ、ちょっとはトレーニングなんかしないとマズイんじゃねえか? 三井さんとことはギャラが違うからさ、やっぱそれなりのもん要求されると思うんだよ」
半分目をつぶってるせぇちゃんに言うと、こう答えた。
「よし、じゃ明日から特訓しようぜ。だからその前にちょっと休まして……」
金曜の試合の時に切れた口の端が、まだちょっと赤く腫れぼったくなってた。俺は残ってたコーラを飲んで、せぇちゃんの柔らかい髪の毛をテーブルの向かいから手を伸ばしてくしゃっとやってから小さい声で「おつかれ」って言った。
そんで次の月曜、日向さんに連絡してトレーニングしたいって言ったら、クラブのジムを使っていいと言われ、ウエアを持って二人で出掛けた。せぇちゃんはよく眠ったらしくてスッキリした顔で俺を起こしてくれた。
クラブのある建物内に作られたジムは、高級フィットネスクラブが入ってるフロアと同じ最上階にあって、金持ちのおっさんやおばさん、それからタレントや政治家っていう俺でも顔を知ってるようなヤツらが、バイクをこいだりウォーキングしたりするのを動物園みてえだなって思いながらガラス越しに眺めて、通路を奥まで進んだ場所にあった。
重くて厚い防音扉を開けると、真っ黒い暗幕みたいなカーテンが重ねてかかってる。その間を縫うように進むと、トレーニングマシンやリングが設置してあるジムがあった。せぇちゃんの面倒を見てくれるっていうトレーナーの山口さんに挨拶して、早速特訓が始まった。
この一年、前のジムをクビになってからせぇちゃんはまともなトレーニングなんてしてきてない。三井さんの店ではそれでも通用するほど、せぇちゃんは確かに強い。だけどこれからはそれじゃダメだって俺は感じてた。
『ショウビジネス』として高い金を取って格闘技を見せるとこで、トレーニングもしないで勝てるほど甘くはねえはずだ。
山口さんの教え方はうまい。せぇちゃんの性格を素早く見抜いたらしくて、このわがままなヤツを上手にコントロールしながら的確な練習をさせてる。俺もこんな人にもっと早く出会ってたら、キック続けてたのかな、って思った。
それから三日間、みっちりトレーニングをした。初日はすぐにバテて不機嫌になったりしてたせぇちゃんも、次の日からは顔つきが変わったって思うほど真面目に取り組んで、昔に戻ったみたいだった。そうなるとこいつは凄い。山口さんの考えたメニューをどんどんこなしていった。試合前日の昨日は、筋肉が疲労しないようなメニューで今日に備えた。
クラブ『マーキュリー』、晴哉の新しい舞台での初試合。俺たちの初仕事だ。
対戦相手はアメリカ人。二十七歳のボクサーだ。
ここのルールでは、足技を使わない選手はシューズを履いてていい。相手のヒューは白いシューズをはいてた。パンチのみで来るつもりだ。
戦績は百三十五戦百十二勝、三敗、十九分、一無効試合、九十八KOらしい。ほんとかよ、ってちょっと笑っちゃうようなプロフィールだけど、見た目はけっこう強そうだ。考えてみりゃプロフィールなんていくらでも適当なこと書けるんだよな、ここでの試合は正式なスポーツじゃないんだからさ。
晴哉のプロフィールは、ほとんど「データ無し」になってる。そんで、今朝カメラマンがスタジオで撮った顔写真とトランクス穿いた全身写真がヒューのよりもちょっと大きめに載ってる。
かなりあからさまだよな。俺に言わせりゃ晴哉は「顔だけ」って印象づけて客がみんなヒューに賭けるように仕向けてんのがミエミエなんだけど、場内はけっこう沸いてる。
ヒューの入場曲は、こういうタイプにありがちな黒人ぽいダミ声のラップで、同じような服装のダンサー数人と踊りながら花道を通ってきた。紹介のアナウンスがあってからイントロが始まり、モニターにPVみてえな映像を流す。ヒューが街のチンピラをぶちのめしたり、ショウウインドウを割ったりしてるいかにもって感じの安っぽい映像。客がそれをたっぷり見せられてからやっとヒューのお出ましだ。
両手をあげて猛獣みたいに強さをアピール。歓声に応えながらヤツはグローブをリズミカルに動かして余裕たっぷりって顔で進んでリングインした。
続いて「挑戦者はルーキー」って扱いの晴哉の入場。曲はもちろん『Dick Dee』。
野犬の雄叫びみたいな声が場内に響いてイントロがはじまると、せぇちゃんはぼんやりっつーかフラッとっつーか、とにかくヤル気が感じられない態度で階段を上がってきた。
ローブのフードはかぶったまんま。客がぱらぱら拍手しながらせぇちゃんを見る。それから花道をかったるそうにランニングするみてえに普通に通って来て、ゆらっとリングに入った。
曲は一回目の「ダイヤの目ん玉」のとこまでしか進んでねえ。
もっと勿体つけたりしろよ! ヒューは三分以上かけてリングまで来たぞ!
客の反応はやっぱ微妙。つーかあんまり興味がなさそう。この選手にはエキサイティングな試合は期待できないって思われてんぞ、晴哉。そう思って下からせぇちゃんを見上げたら、フードに隠れた顔をちょっと歪めて俺に笑って見せた。
この野郎、ヤル気満々じゃん! くぁーっ、せいや、お前やっぱかっけーよ。俺は毎回この瞬間、あんたのセコンドに付いてる幸せを感じるんだ。
だって俺しか知らない晴哉の不敵な笑いを見られるんだぜ。それを見て俺は勝利を確信する。せぇちゃんにもそれが伝わって、俺たち二人は無敵になる。そうやって今までやってきた。ここまで来たんだ。
今日からは山口さんもセコンドに付いてくれるし、的確な指示をもらって晴哉はもっと強くなる。もっと、もっとだ。
ゴングが鳴って、それぞれのコーナーから選手がリング中央に進む。今日の晴哉は、ペンギンのヒナの巣立ちみてえな感じでヒョコヒョコって可愛く進んでた。あれは、ふざけてんのかどうなのか俺にもわかんねえ。グローブを顔の位置くらいに上げて、互いに軽く触れさせる。試合のスタートだ。
ヒューは完全に晴哉をナメてかかってる。距離を取って上から下まで舐めまわすように晴哉を一回見たあと、自分の間合いを計りながら踏み込んできた。そこに晴哉がいきなり右ストレート。効いたっつーよりは圧力でヒューが転倒。これはノーダウン。
仕切りなおして向き合った時は、すでに晴哉のペースだった。晴哉はヒューにプレッシャーをかけながらミドル、ローと散らし、左ストレートをヒットさせたすぐあとに右をぶち込む。ダウン。
カウント7で立ち上がったヒューは目尻から出血してドクターチェックが入る。
試合再開直後、晴哉の右フックが炸裂して二度目のダウン。ここでゴング。
コーナーに戻ってきた晴哉は、まだ呼吸も乱れてないし汗もかいてねえ。
チョロすぎじゃね? マーキュリー。
山口さんが晴哉の肩を揉み、このままでいいと言った。晴哉は笑いながら頷いて、ゴングと同時に飛び出してった。
二ラウンド一分十二秒。晴哉のカウンターがキマってヒューはダウン。文句なしのKOだ。
女の客はモニターに映った晴哉の笑顔のアップに熱狂した。
男の客からも大きな拍手と歓声が起こる。
晴哉はたった一試合でマーキュリーの人気選手になった。俺はデカすぎる手ごたえを感じてメチャクチャ興奮してた。
せぇちゃん、やっと俺たちのステージに来たよ。昇りつめようぜ! さあ、伝説のはじまりだ!