第5話 怪我をした天使
……天使?
いつものように夜明けまで劇場でぼんやり過ごして、映画が終わったあとの真っ黒なスクリーンから逃げるようにロビーに出た。
両手にはいつもと同じ、すっかり氷が溶けてぬるくなったコーラと山盛りのポップコーン。それを売店のゴミ箱に捨ててから切符売り場のドアに鍵をかけて、ガスの元栓を閉め、入り口のガラス扉の鍵を確認してブラインドを下ろす。そして最後に館内の照明を消して回る。
いつもと同じ朝を迎えたはずだった。
俺の世界には何もなくて、誰もいなくて、同じ朝と昼と夜をずっと繰り返すはずだった。
でもこの朝は違ってたんだ。
天使に見えた。
朝日を背中に受けて俺を真っ直ぐに見つめてる。
ガラス扉の向こうから俺に微笑みかけて、「さあ、おいで」って両手を広げてくれる天使。
俺も天使を見つめ返した。「待ってたよ」って言いながらその腕に吸い込まれ、そのまま抱かれて空に昇っていけそうだった。
どのくらいの間そうしてたんだろう。ほんの数秒のような気もするし、永遠のように長かった気もする。
俺たちを射るように伸びていた光が雲に遮られ、外にいるのは天使じゃなくて人間だと俺に気づかせた。その人もびっくりしたような顔で俺のことを見て、パチパチと瞬きをしてた。
お客さんかな? こんな時間に一人でいるなんて、始発待ちの酔っ払いかな。
「すみません、もう終わりです」
扉の前まで行って、その人に告げてからブラインドを下ろそうとした。ガラス越しだけど、近くで見たらその人は顔に少し怪我をしてるみたいで、俺は思わず訊いた。
「大丈夫ですか? 顔」
言いながら自分の唇の横に指を添えて、その人の血が滲んでる方の口の端を指した。
「え? あ、ああ」
右の口の端を押さえて、その人はちょっと顔をしかめる。痛そう。目の下あたりもちょっとアザになってるみたいだ。
「よかったら、傷薬がありますけど。まだ薬局は開いてないし」
酔っ払い同士のケンカかも知れない。見た目だとちょっとヤバそうな雰囲気がしないでもないけど、怪我してる人を放っとけなくて、俺は入り口の鍵を開けてその人を中に入れた。ガラス扉で外から丸見えだから、何かされるってこともないよね、まだ人通りは全然ないけど。強盗だったらこんな貧乏臭い劇場なんて狙わないだろうし。
「ここで待ってて」
ロビーのソファに座ってもらって、事務室の棚から薬箱を取り出した。もうずっと開けてなかったけど、未開封の消毒液と傷薬があったはず。
急いでソファのところに戻って、薬箱を開けた。記憶の通り、使える薬が残っててホッとした。コットンに消毒液をしみこませてその人に渡す。自分で見えるように鏡を持っててあげた。
「……痛っ」
やっぱり結構しみるらしい。消毒した後の傷口を手で押さえたまま目をつぶってる。
「縫うほど切れてないよね? ちょっと見せて。……ケンカ?」
初めて会った人なのに、俺はずっと友だちだったヤツに触れるように、自然にその人の顔をさわってた。
近くでよく見ると傷口は深くも大きくもなくて、病院に行く必要なんてなさそうだったから安心した。安心したら自分の行動が大胆ていうか図々しいっていうか、とにかくいつもの俺じゃないみたいで急に恥ずかしくなって、気まずくてその人から目を逸らした。
「ありがとう」
優しい声だった。
その声は俺の心の中にすうーっと浸み込んで広がって、懐かしいような悲しくなるような、胸がドキドキするような不思議な感覚で俺を満たしてくれた。
「……誰?」
振り返って訊ねた。その人は意味がわからないという顔をして俺を見てから、思い出したように言った。
「俺? 俺は……晴哉」