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第4話 二人の天使が出会うとき

 東の果てが明るみを帯びる前。まだ目覚めない街を晴哉は歩いていた。 

 表通りから少し外れると、看板が割れた店や、カウンターしかない狭くてうす暗く怪しい店が目立つ。洩れ聞こえるカラオケの歌声。酔った男たちが肩を組んでフラフラと歩いている。二人組の若い女が路地に座り込んだ男に近寄り、タクシーを呼んであげると言いながら財布を抜き取っていく。

 

 春の終わりの心地よい夜だった。間もなく夜が明けようという、一日のうちで晴哉が最も好きな時間だ。 


 汚れた裏道の歓楽街。酔っ払いの吐瀉物とそれにたかるゴキブリ、ホームレスのテント、悪臭が立ちのぼってくるような、靴の裏がベタつく道。

 だがそこからまた少し歩けば、道路わきに植えられた樹木の新芽から瑞々しい香りが漂う場所に出る。あと数時間で排気ガスにまみれてしまう場所に植えられた樹。それでも春には新しい葉をつけ、夏には花を咲かせ、秋、冬と緑を保ち続けて、また次の春を待つのだ。この樹は自分が生きる場所を選べなかったが、きちんと強く生きている。

 晴哉は自分の生まれた場所を想い、育った場所を想い、溜め息をついて頭を振った。 



 ナオは怒っているだろうか、焼肉を楽しみにしていたのに残念がっているだろうか。

 シャワーも浴びずに、思い立ってふっと出てきてしまったのを少し後悔した。今になって身体にシャツが粘りつくような不快感を覚え、何故か石けんに似た香りがする、子どものようにサラサラしたナオの肌を思い出した。新しい仕事場の話も、ちゃんと聞いてやらなきゃな……。 



 表通りから裏の路地を抜け、いかがわしい店が立ち並ぶ一角を過ぎて信号を五回渡った。ここまで歩いてきたのは初めてだった。アパートまで帰りつけるか不安になった。

 金銭管理はナオに全部任せてある。自分の財布にはほんの数千円しか入っていない。タクシー代が足りるのか怪しいところだった。あと少しで電車が走りだすだろう。どこかファミレスにでも入って時間を潰そうと思ったが、まったく見当たらない。そのとき、道路の向かいにある映画館に気づいた。 

 古ぼけたボロボロの建物だが、ガラス扉の向こう側にあるうす暗いロビーのような場所には、確かに電気がついている。


 オールナイトか? だがどんなプログラムを上映しているのか、ポスターも看板も見当たらない。営業しているようにはとても見えなかった。もう潰れているのだろうか? 

 なぜか興味がわいて信号が青になるのを待ち、正面まで行って中をのぞいた。ガラス扉の奥に見えるくすんだ壁には、色褪せたポスターが数枚貼られている。どれも古いモノクロ映画のようだった。

 扉は水色のペンキで塗られた木枠に大きなガラスがはめ込まれたもので、ノブは鉛色をした翼の形だ。その上には「出入り口」と赤い字でプリントされた小さな白いプレートが貼り付けてあるが、文字はほとんど擦れていて読めないくらいだった。 


 額の上に手をかざし、ガラスに顔が触れるくらい近付いて、さらに中をうかがった。入り口を入って右手に切符売り場がある。その隣に売店らしきもの。

 その横の通路を奥に進むと場内への入り口があるらしい。反対側には、壁に沿ってソファが二つとスツールのような小さな椅子が六つほど並んでいる。そしてこちらにも場内への入り口とトイレがあるらしく、矢印の描かれた「トイレ」というプレートが天井からぶら下がっていた。


「誰もいないのか……?」 


 晴哉は翼の形のノブに手を掛けたが、内側から鍵がかかっているらしく動かない。あきらめて来た道を戻ろうとしたとき、売店の奥の壁に貼られたポスターが目に入った。

 それは子どもの頃にどこかで見た古い映画で、ナオと一緒に物語のシーンを真似て何度も遊んだ、懐かしい映画だった。

 ふと気づくと、足元に低い立て看板がある。上映中の作品はその懐かしい映画ではなかったが、「オールナイト」とそれには書いてあった。だが、扉には鍵がかかっている。もうじき街が動き出す時間だ。看板に終映時刻は記されていないが、もう営業は終わっているのかもしれない。ナオと遊んだあの古い映画を久しぶりに観たいと思った。 

 

 今は古い名画ならたいてい安いDVDが売られている。観たければそれを買って自宅で楽しむことができる。

 だが、晴哉はこの劇場の椅子に座って観たいという気になっていた。夜しか営業していないなら、また今夜来てみようか……。


 そう思って立ち去ろうとしたとき、奥から人が出てくるのが目に入った。紙コップと溢れそうなほどたくさん入ったポップコーンのカップを持っている。そして彼は売店の中に入り、カウンターの陰で手元は見えないが、おそらく紙コップの中身とポップコーンを捨てているようだった。


 従業員だろうか? たった今上映が終わったところなのだろうか? 

 それにしても扉には鍵がかけられているし、観客らしいものは一人も出てこない。 

 晴哉は思わずガラスの扉をノックした。彼が顔を上げ、晴哉を見る。

 ちょうど昇り始めた朝日が晴哉の背後から強烈に射し、ガラスを通した白い光は、中にいる彼の姿を明るく照らした。 

 その姿は晴哉の瞳には天使のように映り、彼からは後光を背負ったような晴哉が天使に見えた。二人はまばゆい光の中で数秒間見つめあっていた。


  

 このときの二人が知るはずはなかった。この瞬間こそ二人の運命が重なり、すべてが回り始めた時なのだと。 

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