第3話 スカウトが来た
「せいやー、いい加減に顔だけはガードしろよ。お前に賭けんのは七十パーセントは女なんだからよ、鼻が折れて曲がったりしたら人気が落ちるどころじゃねえぞ」
俺は椅子に沈み込むように座ったせぇちゃんの向かいに腰掛けて、バンデージを外してやりながら言った。
「……いくら入った?」
「シカトかよ! しょうがねえな、ったく……。もうじき三井さんが来んだろ、今日はたぶん六十万くらいだな、客の入りも少なめだったし」
「チッ」
せぇちゃんはローブのフードを深くかぶって、椅子に座ったままふてくされたように脚を投げ出した。俺はその口の端から滲んでる血を拭いて、消毒液を浸したコットンをそこに当てた。
「痛えよ、ナオ」
「しみる? でも消毒はしとかねえと。だからガードしろっていつも言ってんだろ」
「だって面倒臭えんだもん」
そうだ、それがせぇちゃんのファイトスタイル。テクニックがないと言われんのはいつものことだ。本当に強いヤツだったら相手のパンチをこんなにもらうワケはないってさ。
せぇちゃんは打たれんのは全然気にしてねえ。ちょっと効いたくらいじゃヘラヘラしてる。いや、逆に効いた時ほど笑ってるかもな。常に相手を睨んだまんま。睨むっつーよりも見つめる、かな? なに考えてんだろな。
なあせぇちゃん、試合の最中ってなに考えてる? 俺はときどき試合中のお前の顔を見てると、心も魂もなにもかも、せぇちゃんの中身はここには何もないみたいな気持ちになって、すごく寂しくて不安になるんだよ。だから試合終了のゴングが鳴って、お前の右手が挙がる瞬間が何よりも待ち遠しい。それはせぇちゃんが俺のところに戻ってくるっていう合図だからだ。そん時に俺がいつもバカみてえにはしゃぐのは、金がたくさん入るってことより、そっちの喜びの方が大きいって言ったら、きっとお前はこう言うだろうな。
「バーカ、気持ちわりいんだよ」
そんで俺にヘッドロックをかけて拳でグリグリやりながら、コーラで固めた俺の自慢の髪をグチャグチャに崩すんだ。
なあせぇちゃん、俺たちさ、ちゃんと進んでるんだよな?二人で語った夢に向かって確実に歩いてるんだよな……?
「お疲れ様でしたー。本日のギャランティです」
ドアのない控え室の入り口に立って、壁の外側を二回ノックしてからマネージャーの三井さんは声を出した。
「お疲れっす、いつもどうも」
俺は椅子から立ち上がって三井さんを中に入れた。後ろにはもう一人、初めて見るおっさんがいる。誰だか知らねえけど、そいつにも一応軽く頭を下げてから金を受け取った。
「今日の相手は晴哉さんよりも十キロほどウエイトが多かったから、割合がいつもと違っていました。ここに示してある通り、総入場者数が百五十六人、そのうちエディに賭けたのは八十三人、晴哉さんは六十二人でした。で、ギャラがこの金額です。七十万二千円。それから、女性のお客様からのチップがこちら、八万六千五百円。合計で七十八万八千五百円です。お確かめください」
「ありがとうございます! いただきます」
俺はトレーからつかみとった現金をその場で数えた。札が多いから時間が掛かる。どん臭えようでイライラすっけど、この金の性質上、銀行振り込みなんてことはお互いヤバイので毎回こうやって俺が数えてる。
「はい、確かに。おつかれさまでした! 次は来週の金曜ってことで間違いないっすよね? 相手はもう決まってますか?」
金をジャンパーの内ポケットにねじ込みながら三井さんに訊くと、ヤツは後ろのおっさんを振り返って俺とせぇちゃんに言った。
「それなんですがね、晴哉さん、キックをやる気はありませんか? こちらの日向さんが経営されているクラブで、そういう催しがあるんですよ。詳しいことはご本人から」
「ひゅうがさん」と呼ばれた後ろのおっさんは、まずせぇちゃんに握手を求めた。続いて俺。その後ろについてるおっさんの秘書みたいなヤツも俺らに軽く頭を下げた。背が高くて痩せてて、オールバックで銀縁メガネのインテリ風。冷たそうで頭がキレそうだけど、ベタな感じじゃなくて高級っぽい顔だ。
「いや、おもしろい試合でした。晴哉さんのファイトは必ず人気が出ます。うちの店でもカップルはもちろんのこと、女性だけのグループでいらっしゃるお客様がどんどん増えていましてね、人気のある選手はやはりルックスが重要なんですよ。キックと言っても、ルールはK─1同様です。三分三ラウンド、スリーノックダウン制、判定でドローの場合はエクストラ一ラウンドです。ウエイト別にクラス分けはしていません。基本的に全試合無差別級です。軽い選手は六十キロ程度から、逆に大きいほうですと二メートル、百五十キロオーバーという選手も登録しています。まあ、そういう選手は女性にはあまり人気がありませんから、晴哉さんに対戦してもらうのはスピード、テクニック、ルックスともつりあう相手をぶつけるつもりです。もちろん、対戦相手に不満がある場合はセッティング前に申し出ていただければ組み直しをします。そして、肝心な報酬ですが、私どものクラブはキャパもここの四倍以上あり、その他の遊興設備も整っています。入店料、観戦料ともかなり高めの設定でして、こう言っては三井さんに失礼にあたりますが、お客様もこちらの常連様以上の富裕層です。つまり、いまのギャラの倍額は完全保証ということでご用意させていただきたいと思っていますが、どうでしょうか? 少しお考えいただけますか」
日向さんはここまで一気に喋って俺とせぇちゃんの反応を見てる。せぇちゃんにはちゃんと聞こえたのか?
俺はもう「倍額保証」ってとこで目が覚めたみてえになってるんだが、せぇちゃんはフードに顔の上半分が隠れたまんまで、「こいつ寝てんじゃねえだろうな」って心配になってきた。
「あ、あの、晴哉はキックも経験あるから大丈夫です。それにK─1ルールだったら飽きっぽいこいつにはピッタリだと思います。十ラウンド以上闘るのは正直ムリっていうか……、飽きてゼッタイ負けます。キックは一年前までジムに行ってたんですけど、練習試合の時にローブローくらって、キレて相手を半殺しにしちゃったんですよ。それでクビになってこの店に拾ってもらったっていうワケで……」
あ、ヤベ。余計なこと言ったかな?
そんな選手とは契約できねえって言われたら儲け話がパーじゃん! 「飽きるだと? ボクシングなめてんじゃねえぞ」って放り出されたこともあったし「格闘技はケンカじゃない」って怒鳴られたことだってあんのに、俺ってバカ?
「そうですか! いやあ、素晴らしい。そういうファイターは大歓迎です。お客様はそんなエキサイティングな試合が見たくて来店されますからね。目尻をカットしたくらいでTKOじゃ話にならない、アンダーグラウンドでやる意味がない。お客様も高い観戦料を払う甲斐がありませんからね。ぜひ考えてみてください。この場でお返事を頂けなくて結構です。また二、三日したら改めて伺いますから、その気になったら一週間後の試合からはうちでお願いしますよ」
日向さんはせぇちゃんの黒いローブの肩をそっと叩いて、俺に向かって右手をあげて三井さんと一緒に出てった。俺はすげえ緊張してたから溜め息をついて、それからペットボトルの水を飲んだ。せぇちゃんの顔を覗き込みながら椅子に座ろうとしてたらさっきの銀縁メガネが戻ってきて、ポケットから何かを出した。
「オーナーから渡してくれと頼まれました」
厚みのある青い封筒の中身はたぶん金だ。
「なんですか?」
俺はもらう理由がわかんなくてそいつに訊いた。
「あ、いや失礼。私は日向のマネージメントをしております、菱川と申します。お時間を取らせてしまった謝礼です。『彼はショウビジネスの世界に身を置く人ですから』と、晴哉さんのことを絶賛されておりました」
俺は受け取ってその場で中を見た。きっちり二十万入ってる。五、六分話して二十万かよ、どんなおっさんだ?
「あ、あの……」
俺はちょっと怖くなって、出て行こうとする菱川ってヤツを呼び止めた。
「お納め下さい。……当クラブの観戦料は五十万円です。賭け金も一口百万円からとなっており、失礼ですが三井氏のこのクラブとは格が違います」
薄い唇を歪めるように笑うその表情は、なんか気にいらねえ。けど、倍額保証なら単純にここでやってるより二倍の速さで金が貯まる。そうすればせぇちゃんだってその分早く足を洗えるんだ。
「……ありがとうございます」
俺は菱川ってヤツの目を見つめたまんまで言った。高級そうなスーツの肩をロボットみてえにピシッと方向転換してそいつは出てった。
俺もフラッと廊下に出て、無言で三井さんと日向さんと菱川の背中を見送った。
三井さんが俺の視線に気付いた。俺に向かって手をひらひらさせながら廊下を去っていく薄っぺらい後姿が、なんだか淋しそうに見えた。
この一年弱のあいだ、あの人はなんだかんだで俺らをけっこう可愛がってくれた。どこの誰かもわかんねえ、保証人もいねえ俺らに部屋を世話してくれたり、メシを食わせてくれたり、恩に感じることはいっぱいある。だから「いい話」って言われたって迷いは当然あるよな? せぇちゃん……。
「せぇちゃん、今の話、どうする?」
「どうするってなにが?」
フードを脱いでせぇちゃんが俺を見た。血の滲んだ口もとがちょっと腫れててヤバいくらい色っぽい。あー、ファンの女がこんな顔みたらたまんねえだろうな。
「今の、日向さんのクラブの話だよ。お前ちゃんと聞いてた? K─1ルールで今の倍額保証だって。どうする?」
「そういうことはナオに全部任せてあんだろ、俺はどうでもいいよ。店が変わるだけの話じゃん」
「……じゃあ、OKしちゃう?」
「まかせる」
ぃよっしゃあーっ!
俺は下を向いて両手の拳を握り締めてから思いっきりバンザイをした。倍額! ってことは夢への道のりも半分に縮まったってことだろ。ツイてる! 俺たちツイてるじゃん! なあ、やっと俺らの時代が来たぜえー。
「メシどうする? 焼肉行くか? 前祝い。その前にシャワーだよな、俺も入ってから行こうっと」
俺はせぇちゃんの腕を引っ張って立たせて、シャワールームのカーテンを開けた。先に行けよ! って手で合図して笑った。
「いや、帰ってからでいいや。ナオだけ浴びてこいよ、俺は着替えてるから」
せぇちゃんはかったるそうな声で言ってミネラルウォーターのボトルを持ち上げた。
「ああ、じゃあ行ってくる」
俺はタオルと着替えをつかんでカーテンの奥にすすんだ。コックをひねると熱いシャワーが勢いよく出て、ベタつくくらい濃い空気の中にいた俺の身体を気持ちよく流してくれた。俺よりあいつの方が汗もかいてんのに、あいつの面倒臭がりは筋金入りだな。せぇちゃんの汗の甘い匂いと似てる香りのシャワーソープを泡立てて、せっかく固めた髪につかないように注意して流した。
あー、気持ちいい……。来週からは倍額……ってことは月に四百万くらい稼げるかもってことだよな? すげえじゃん俺たち。
熱いシャワーが俺の肌の上を流れ続けてる。俺は今まで稼いだ金とこれから稼ぐ金を足したら、いつごろこの仕事をやめられんのか考えた。
早くせぇちゃんに痛い思いをさせなくてもよくなるようにと願って目をつぶった。
さっきのおっさんの顔が甦って、リングの上でピカピカのライトの真ん中で笑うせぇちゃんの顔が見えた。そしたら急にライトが消えて真っ暗になって、『ショウビジネスですから』っていうおっさんの声がこだまして、それが俺をちょっと不安にさせた。今までいた世界とは違うんだよ……って言いながらせぇちゃんが消えてくイメージがひろがった。
「晴哉!」
焦ってすっ裸のまんまでカーテンを開けた。だけど控え室にせぇちゃんはいなかった。いつもと同じ、タオルもグローブも散らかしっぱなしだ。俺はそのまま進んでベンチの上に置いてあるメモを取った。
『ちょっと先に外の空気を吸ってくる。焼肉は明日行こうぜ』
また気まぐれが始まった。っとにハーネスでもつけときてえよ。俺はそう独り言を言ってから口の中で小さく舌打ちをして、真夜中の街を一人で歩くせぇちゃんの姿を想った。そんでその想像の中でのあいつのカッコよさに、鏡を見ながらちょっと笑った。