最終話 Hallelujah
マーキュリーの控え室から晴哉と尋人の身体がワゴン車で運び出されたあと、ビルには警官隊がなだれ込んできた。
千人以上いた客は全員その場で拘束され、フロアマネージャー、ウエイター、その他の従業員もみな検挙された。
しかし、警察の目的は賭博の摘発ではなかった。試合に出た選手たちの死体遺棄容疑だ。
それは火曜の夜に行われていたVIP会員限定のショーだった。
身寄りのない選手、捜索願を出されていない家出人、不法滞在、密入国の外国人、そういった選手たちはどんなにひどい怪我をしても見世物として試合に出された。
拷問のような苦痛を受け、泣き叫びながら息絶えていった選手たち。観客はその残虐な見世物に酔い痴れ、毎週莫大な金が場内を飛び交った。
試合中、あるいは試合後に死亡した選手ばかりではなく、まだ生きているのに戦力外と日向に判断された選手たちは、試合中に受けた負傷にもかかわらず、何らの手当ても施されないまま、ビル裏手のマーキュリーの倉庫に放置された。
そこで失血死したもの、外傷性ショックで死亡したもの、餓死したものなど、倉庫の奥からは、そうして命を落としていった選手たちの遺体が十数体発見された。中には餓えのため、先に死亡した選手の死肉を口にしていたものもあったという。
日向は逮捕され、フィットネスクラブやダンスホール等の施設はバラバラに譲渡された。そしてマーキュリーがあった地下一階と二階には、まもなく駐車場が完成する。
私物はほとんど売っ払った。つーか価値のあるもんなんてもともと持ってなかったから、正しくはほとんど捨てた、だな。
オーロラ座の中身も、そのまんまで不動産屋に明け渡すことにした。これでこの劇場ともお別れだと思うと、なんだか名残り惜しい。水色の木の枠にはまったガラスに自分を映した。相変わらずガラが悪りい。羽の形の鉛色の取手をすぅっと指でなぞった。何回これを開けてここに入っただろう。あー、未練たらたらだな、俺。
その下の鍵穴に鍵を差し込んだ。そう言えば、外からこの扉を閉めんのは初めてだ。これを右に回せば扉の鍵が閉まって、こことはサヨナラだ。
ふと、空を見上げる。じいちゃんが手描きした看板の「オーロラ座」って字は、何回見ても味がある。あの看板だけは取っときてえって今頃思った。
じいちゃん、あの頃は本当にお世話になりました……。
俺は看板を見上げたままで目を閉じた。マフラーをしてない首に、冬の空気が冷んやりまとわりついた。
目を閉じて、この半年間のことをなんとなく思い出した。せぇちゃんとの文字通り傷だらけの毎日。
三井さんが世話してくれたあの狭いアパートで、毎日天井を見ながら思い描いてた、せぇちゃんと俺の、南の国での生活。
そして尋人と再会して、俺たちはマーキュリーに移った。せぇちゃんと尋人と俺。三人一緒の毎日。楽しかったな。
あの頃はまだ、尋人の病気のことも知らなくて、せぇちゃんだって元気だった……。まあ、もう全部終わったことだな。振り返らず、前を向いて行くしかねえか。
突然、上を向いてた俺の顔に冷たいもんが当たった。
……雪? マジかよ、ホワイトクリスマスか?
あー、雪ん中でかい荷物持ってくのめんどくせえな。さあ、グズグズしてらんねえ。
そう思って鍵を回そうとした俺の手首を誰かが掴んだ。
「三井さん、来てくれたんですか」
厚いカシミアを着てんのに、薄っぺらい身体は寒そうだ。
「はい。吉岡さんともお別れですからね」
日向の犯罪を警察に通報してくれたのは、この三井さんだ。
あの最後の試合の日、控え室で弱りきったせぇちゃんを見て、この人はこれ以上の犠牲者を出しちゃいけないと思った。
日向には、三井さんのクラブでの賭博のことも知られてたんで、自分も罪に問われることは覚悟の上だった。
それに三井さんもマーキュリーのVIP会員限定ショーのことを聞かされてたから、そのことでもなんかの罪に問われたらしい。
だけど不起訴になった。警察にとっては、三井さんの情報が日向の犯罪を摘発するきっかけになったんだし、俺にとっては、この人のお陰でせぇちゃんと尋人の仇が取れたってもんだからな、一生の恩人だよ。
「寂しいですね」
「……はい。いろいろお世話になりました!」
俺は三井さんに感謝をこめて頭をさげた。
「ホワイトクリスマスですね」
メリークリスマスって言って、三井さんはまた手をひらひら振りながら去っていった。俺は自分の顔を両手でびしゃっと叩いてから、でかくて重いカバンを持ち上げた。
空港はクリスマスの飾りがメチャクチャうるせえ。見通しが悪くて歩きづれえ。ったく、もうちょっと分かりやすいとこを目印にしてくれたっていいだろうがよ。
「おう、ボウズ、遅えぞ」
ロシアンルーレットのクソ医者が俺を迎えた。二度と見たくねえツラだけど、こいつだって恩人だ。パスポートまで用意してくれた。……高かったけどな。
「ほれ、薬と、ここに退院後の注意事項は全部書いてある。ふり仮名ふっといてやったぞ」
「うるせーよ! で、あいつらは?」
「ああ、なんか飛行機の中で食うもんを買いに行った」
クソ医者が指さした方を振り返ったら、そこには嬉しそうに走ってくるせぇちゃんと尋人の姿が見えた。
……お前ら、もう走って平気なのかよ!
「ナオ、メリークリスマス!」
二人同時に両側から俺のほっぺにチュウ。
ふざけんな! 俺はいろいろお前らの代わりに面倒臭えこと、あれもこれもあれもこれもっていーっぱいやってきたんだぞ!
「……ばかやろう」
「あれーっ、ナオ泣いてる? 晴哉が泣かした?」
「俺じゃねえよ、尋人だろ」
「……ちげえよ、泣いてねえよ、ばーか、うるせえんだよ」
俺は幼稚園のガキみてえにヒクヒクしながら言った。言わない方がカッコよかったかもしんない。余計にガキアピールしちゃったみてえで情けねえ。
「ナオ、大好きだ」
尋人が俺を腕ごと抱きしめる。せぇちゃんが俺の頭を抱いてグリグリやる。コーラで固めてあんだからよ、よせっていつも言ってんだろ。
「面倒臭え手術だったけどな、しかも同時に、二人とも頭だぜ。さすがの俺もちょっと手こずったよ」
マーキュリーで尋人が倒れたあと、すぐに山口さんの車で二人をロシアンルーレットに運んだ。
クソ医者が酒を飲み始める前で助かったぜ。即開頭。
せぇちゃんの側頭部の骨には細かくひびが入って、ゆで卵の殻みてえになってたそうだ。それを補修すんのは時間が掛かりすぎる。だから慎重にその一ミリ四方くらいに割れたたくさんの骨の破片を取り出すと、直径二センチくらいの穴ができた。
「お前のここには骨の代わりにセラミックが入ってるからな」
せぇちゃんの左耳の上をつついてクソ医者は言った。
尋人の脳動脈瘤は、破裂寸前だったらしい。三センチ大に膨れ上がったその血の塊を、クソ医者は見事にとりだした。頭蓋骨に開けた穴も、髪がのびればまったく目立たない。
「元気でな、また怪我したら来いや」
「もう行かねえよ」
クソ医者は後ろ向きに手を振って歩き出した。その背中は、ガキの頃に見た父さんに似てて、俺は走ってって後ろからその手を握った。
俺の目からはぶわーっと涙が溢れて、空港でこんな胡散臭せえおっさんの手を握って泣いてるなんて、俺ってどんなホモだよ? って自分に突っこみながら、それでも俺は涙を止めることができなかった。
「あ、ありがとう、ございました」
父さんがやってくれたように、俺の前髪を指でくしゃってかき混ぜてから、満足そうに笑ってクソ医者は去っていく。……コーラで固めてあんだよ、指がベトベトになるぞ。
俺はその背中を見送ったあと、せぇちゃんと尋人のとこに走って戻った。
「俺、飛行機ってはじめて」
「俺も」
「俺は、高校の修学旅行が沖縄だったから」
三人並んで座った。窓際から俺、尋人、せぇちゃん。いつもオーロラ座で映画を見てたのと同じ並び順だ。
尋人がポップコーンを俺とせぇちゃんに渡す。せぇちゃんがコーラを俺にくれた。
「映画やるらしいよ。スクリーン小さいけど楽しみだね」
尋人がにこにこしながら言う。せぇちゃんはもうウトウトしかかってる。
「あ、晴哉、これ!」
俺はせぇちゃんを起こしてスクリーンを指差した。そこには「ポーラーエクスプレス」の文字が見えた。尋人は俺とせぇちゃんの顔を順番に見て、二人の手を取って嬉しそうに笑った。
「クリスマスイヴだもんね、今日見るのにぴったりだよね」
尋人は本当に嬉しそうだ。小さいガキみてえにはしゃいでる。
「クリスマスイヴか……。あっ、せぇちゃん今日誕生日じゃん!」
俺は倒しかけた椅子から起き上がった。
「ああ、そうだな」
相変わらずかったるそうなせぇちゃんに、尋人はすげえことを言った。
「イヴが誕生日なら、晴哉の名前って『ハレルヤ』からとったんじゃないの? 神様への感謝の意味でしょう? 晴哉が生まれたことは、晴哉のお母さんにとってすごく幸せなことだったんだよ、きっと」
俺とせぇちゃんは、口を開けて顔を見合わせた。尋人と出会わなかったら、せぇちゃんの名前についてこんなふうに思える日なんて一生来なかっただろう。
「愛されてたんだよ、晴哉は」
言いながら尋人は、もう一度俺とせぇちゃんの手をとってキュッと握った。
あったかい尋人の手のひらから、俺の中にもせぇちゃんの中にも、優しいものが流れてくるのを感じた。
機体が上がる。うえっ、気持ち悪りい。大丈夫かな俺。窓の外を見た。明かりがキラキラしててきれいだった。
三人の夢がこれから始まる。俺は俺の人生にこんな日が来たことを自分に祝ってやりたかった。メリークリスマス! おめでとう、俺!
「でもさ、なんでメキシコなの? 南の国っていうのとはイメージ違うじゃん」
尋人が水を差す。
「いいんだよ、俺はギラギラしたマリア像とフリーダカーロが見たいんだ」
俺は尋人のポップコーンを奪って言った。せぇちゃんがこっちを見て笑ってる。
ねえ、せぇちゃん、メキシコで落ち着いたらさ、三人で映画館やろうぜ、名前はオーロラ座。ピザ屋も一緒にやろう。いい考えだろ?
せぇちゃんが笑う。いつもと同じ、俺のカッコいい晴哉だ。
俺はメキシコの空の下で、俺たちのオーロラ座の屋根に上って、三人で寝転びながら星を見ることを想像した。
昼は眩しい太陽が照りつけてた青い空から星が降って、それはオーロラのように俺たちに綺麗な夢を見せてくれた。