第2話 地下格闘技のアイドル
ボトルの水で口の中を流してやったら、吐き出した血の中に歯のかけらが混じってた。そのバケツの中身をせぇちゃんには見られないようにそっとマットの上に置いて、タオルで顔を拭いてやる。肩をがしっと掴んでぐいぐい揉みながら話しかける。
「いいか、相手はビビッてるからな、そのまま押してけ。大丈夫、大丈夫。せぇちゃんならやれる! 勝てるぞ。そのままでいい。ボディ嫌がってるからガード下げさせて、そんでフックだ。次でキメようぜ、KOだKO!」
「セコンド、アウト!」
せぇちゃんの口に赤いマウスピースを押し込んで、それから顔を両側からぴしゃっと叩いて、肩も二回叩いてやってからリングを降りた。その間もせぇちゃんは相手のエディをずっと睨みつけたまんまだ。俺の言ったことが聞こえてんのか怪しいけど、まあいつもの通り、きっとせぇちゃんは次のラウンドでキメる。
長い試合はあいつに向いてない。飽きっぽいのは何に対しても同じ。なにやらせても長続きなんてしたことねえ。だから試合も短く決める。飽きてせぇちゃんがやる気をなくしたら負けるからだ。
それにフルラウンド闘って判定じゃ、客だって飽きちまう。客が見てえのはいつだってKOだ。それも顔面流血でTKOなんかじゃなくて、ハードなパンチで失神KO。常にそんな試合が出来るヤツはそうそういねえ。
だけどせぇちゃんは試合の結果なんてどうでもいいと思ってる。痛い思いをすんのも、マットの上にカッコ悪くぶっ倒れんのも、あいつにはどうでもいいことだ。敵をぶっ潰すか自分がやられるか、せぇちゃんにはそれしかねえ。まあ、せぇちゃんが痛い思いをしたいならそれは俺の知ったことじゃねえ。ただ、負けるのは許さねえ。だって、俺たちはその金で生きてるからだ。
ゴングが鳴る。せぇちゃんがまだロープから離れないうちに、エディは猛然と突っ込んできやがった。このラウンドでキメてえのは向こうも同じか。スタミナはエディの方がありそうだけどな、突っ込んでくるってことは明らかにビビってる。まだ構えてもいねえせぇちゃんに、エディは左のフックを打ってきた。これは軽くよける。ガラ空きのエディにせぇちゃんがボディブローをねじ込む。前のラウンドで散々打ち込んでやったから、もうジワジワを超えて相当効いてるはずだ。苦しそうに腹をよじって右手で押さえてる。
「ボディいやがってんぞ! そのままいけっ」
エディに俺のわめいたことが解ったのかどうか、向こうのセコンドはボディをガードをしながら下がれって指示をだしてる。頭がガラ空きだ。せぇちゃんはそのままヤツをコーナーに追い詰めた。ゆるいガードをラクラク抜いてボディに連打。もう息もできないくらい苦しいはずだ。
そして右フック。エディはまったく見てなかった。ノーガードの左側頭部へ重い一発。エディの脳が揺れる。そのままロープに倒れこんだヤツは、弾みで顔面を打ちつけてから倒れた。瞼が切れて出血してる。レフェリーが急いでカウントを取る。
ワン、ツー、スリー、フォー……。
ファイティングポーズどころじゃねえ。エディは脳震とうを起こして完全にバランスを失ってる。上半身を起こそうとマットに肘をついても立ち上がることは出来なかった。
レフェリーが両手を大きく振って、続行不可能だとアピールする。せぇちゃんがエディのそばに近寄り、屈みこんで赤いグローブをはめた手でその肩をさすってやる。せぇちゃんの手を取って立たせたレフェリーが、せぇちゃんの勝利を店内に告げた。悲鳴と歓声とブーイングが同時に起こる。
悲鳴はせぇちゃんのファンの女から。歓声はせぇちゃんに賭けたヤツから。ブーイングは、もちろんエディに賭けたヤツからだ。
「晴哉、次はいつ出るの?」
女がテーブルを離れ、通路を歩くせぇちゃんに群がってくる。握手を求めて、せぇちゃんの汗だくの身体に手を伸ばして肌に触る。いつものように、せぇちゃんはそいつらをうるさい虫を払うようにしながらゆっくり歩く。女たちは「晴哉」の名前を呼んで、振り向かない晴哉の背中に声をかける。
「次も応援するからね、頑張って、晴哉!」
せぇちゃんが後ろ向きのまま右手を大きく挙げた。女たちは今日最後の悲鳴をあげてから、それぞれの男が待ってる席に戻ってく。俺はそいつらに
「次は一週間後だから、応援よろしく」
って声を掛けてからせぇちゃんの後に続いて廊下に出た。