第18話 逆転KO
「……山口さん、今からでも選手交代できないかな? 尋人をあんなヤツと闘わせるワケにはいかないよ」
控え室の天井から吊り下げられたスクリーンの中のアルベールをじっと見つめ、横たわったまま晴哉は声を絞り出した。
「晴哉、もう何も喋るな。じっとしてろ……ほら、尋人くんの入場だ」
レッドコーナーが強烈なライトに照らされる。
そこに浮かび上がった尋人は、晴哉の黒いローブのフードを深く被り、せりあがる台の上で微動だにせず立っていた。
尋人の一歩後ろにいるナオは、緊張に頬を引きつらせながら先にリングインした相手を睨みつけている。
対戦相手は、尋人と比べるとまるで巨人のようだった。
晴哉自身も、この程度の体格の選手とは何度も対戦し、そして勝利を収めていたはずなのに、控え室のモニターで見る尋人のその相手は、とてつもなく巨大で強く、そして残虐そうに見えた。
晴哉は、初めてリング上の選手に対して恐怖を感じた。
「山口さん、頼むよ……」
「晴哉……」
こんな状態の晴哉を試合に出すなど、できるはずはなかった。
側頭部にパンチを受ければ、確実にその頭蓋骨は砕け散るだろう。いや、それ以前に自力で立っていることさえままならない晴哉がリングに上がっても、晴哉に賭けるものなど一人もいないはずだ。そんな利益の出ない試合を日向が許可するはずはなかった。
尋人はすでに花道を歩き出している。たとえ今、晴哉の頭蓋骨に生じている亀裂が消えるという奇跡が起こったとしても、もう間に合わない。
だが山口は、少しでも晴哉の心の負担を軽くしようと思い、日向にもう一度選手交代を頼む振りをするため、壁に取り付けられた電話機に手を伸ばしかけた。
その時、モニターに尋人の顔が大きく映し出された。
自信と誇りに満ちたその顔を見た瞬間、晴哉は自分の脊椎を何かがもの凄い速さで這い上がってくるのを感じた。それは腰から頭頂部までを突き抜けるように進み、晴哉に尋人の勝利を確信させた。簡易ベッドの薄いマットの上で、埋もれるようにぐったりしていた晴哉だったが、まるでモニターから見えない糸が流れ出て、その身体を引き寄せたようだった。
晴哉はその上に肘をついて上体を起こし、尋人と同じ顔で微笑う。
「尋人くんの気持ちをムダにしないよな? 晴哉」
「いや、尋人は勝つよ」
画面をじっと見つめたまま晴哉がつぶやく。山口は頷くと電話機から離れ、晴哉の背中にクッションを二つ押し込んでモニターを見やすいように調節してやった。
花道からリングサイドを通過し、レッドコーナーの下に尋人が辿り着く。そしてステップを上がる前にカメラを振り向き、唇の端をキュッと上げてみせた。リングに飛び上がり、目を閉じて天を仰ぐ。フードが脱げ、長い睫毛と意志の強そうな切れ長の目を持つその容貌が露わになった。
モニターにアップで映し出された尋人の笑顔に、客席には黄色い歓声と野次が飛び交った。
ゴングが鳴り、両者がコーナーを離れる。
まず尋人が軽いフットワークでアルベールのボディに右ストレートを打ち込むが、その太い腕にはじかれてダメージを与えることはできない。
尋人の胸の高さと、アルベールの腰の位置はほぼ同じだった。そこからの前蹴りは、ガードした細い腕もろとも尋人の胸を圧し潰すようにめり込み、その身体は放り投げられた人形が宙をさまようように飛んだ。ダウンは取られず、尋人はすぐに構える。
だがアルベールは、実力の差を会場全体に見せ付けるように、ゆっくりじっくりと尋人を弄りにかかっている。
わざと緩いパンチを繰り出し、ミドルで上腕をじわじわと痛めつける。アルベールが繰り出すミドルは、尋人にとってはハイキックと同じ高さだ。
視界の狭さが尋人の防御力を著しく低下させている。体格の割りに動きの早いアルベールのキックは、かなりの距離まで近づいてこないと見えないのだ。
尋人の狭い視界にアルベールの足が入ってきたときには、すでに避けられない状況になっている。だから尋人はつねに動いているしかない。それはスタミナを消耗させるが、致命傷を避けるためにはそれしかなかった。
「尋人くん、いい動きしてるじゃないか」
山口が晴哉を励ますように言う。晴哉は頭の芯に重く鈍い痛みを感じて一度目を閉じたが、すぐに画面を食い入るように見つめる。
「尋人、がんばれ」
時折り親指の爪を噛みながら、祈るように尋人を見つめ続けた。
一ラウンドが終わり、ナオが尋人に水を飲ませている。ミドルをいくつか受けた上腕をマッサージし、心配そうに話しかけているのが映る。
その様子を見た山口は、自分もセコンドとして会場について行けばよかったと後悔したが、ダメージの激しい晴哉を一人にするわけにはいかない。
もしも、尋人が試合に負けたとしても、それは仕方がない。尋人は晴哉のピンチヒッターとして日向が認めた選手だ。試合を放棄すれば法外な違約金を請求されるか、火曜の夜の「特別ショー」に出場させられてしまうかもしれないのだ。
晴哉も山口も、尋人の病気のことは知らなかった。尋人が晴哉と同様に、頭部を攻撃されれば命の危険にさらされるということは、ナオだけが知っている事実だったのだ。
第二ラウンド。
尋人の攻撃はアルベールに届かない。逆に左右のパンチで押され、ロープ際にジワジワと追いつめられる尋人。素早く相手の横をすり抜けた振り向きざまに左右のストレートを放つが、アルベールの強烈な左が尋人の顔にガードの上から叩き込まれる。そして巨大な岩が飛んできたような膝蹴りを顔面に受け、尋人はダウンを喫する。
カウントシックスでファイティングポーズをとった尋人だが、鼻からかなりの量の出血がみられる。そこへ相手が突っこんで来たところで、尋人はゴングに救われた。
「尋人くん、こんなデカイ奴相手によく頑張ってるが、ダウンをとられたのは痛いな……」
モニターの前に仁王立ちになった山口が、腕組みをしたままつぶやいた。晴哉を見るとその額には脂汗が滲んでいた。苦しそうな呼吸をしているが、真剣な眼差しでモニターを見つめている。
「晴哉、大丈夫か。クッション外してちゃんと横になった方がラクなんじゃないか」
「いや、尋人の試合は見届けてやらなきゃ。あいつは俺たちのために闘ってるんだから」
弱々しく微笑む晴哉だったが、その頭は熱をはらんで膨張したようにズキズキと脈打ち、見えているものがいつかのように突然回りだした。
自分はベッドの上にいるはずなのに、この控え室の中が無重力であるかのように上下左右にあるものたちがメチャクチャに視界にあふれてくる。目蓋を閉じても同じことだった。
アルベールの数倍も大きいような巨人に頭をつかまれ、ぐるぐると振り回されているような不快さ。こみあげる吐き気。手指と舌が痺れている。自分で触れてみたその指先は氷のように冷たくなっていた。
第三ラウンド開始のゴングが鳴る。最終ラウンド。このラウンドでアルベールを倒さなければ尋人は勝てない。ただダウンさせただけではダメなのだ。判定に持ち込まれれば手数もヒット数も上回るアルベールが優勝するのは間違いなかった。
……KOだ。尋人が勝利するにはそれしかない。
アルベールが中央に進んでくる。尋人の顔面にジャブ。軽いあたりのように見えたが、尋人はグローブで顔を押さえてレフェリーを探すような動きをしている。
「あの野郎、ワセリン盛りやがったな」
山口がチッと舌打ちをした。尋人に戦意喪失させるのが目的か、それとも単に尋人をバカにしているとアピールしたいだけなのか、アルベールはワセリンをたっぷりとグローブに塗ってきたらしい。それが今のジャブで右目に入り、尋人の狭い視界をさらにぼんやりと霞んだものにさせたのだ。
レフェリーが指示し、アルベールがブルーコーナーに下がってセコンドにグローブを拭かせている。余裕たっぷりという仕草でマウスピースをはめた口を大きく開けて笑っている。尋人はナオに目を拭ってもらい、またリング中央に進んでいった。リングから降りるナオの不安そうな表情が画面に入った。
何故そんな顔をするんだ? ナオ、尋人は大丈夫なのかよ?
晴哉の胸に不安が霧のように広がった。
巨大なアルベールの拳が、左右から尋人の顔めがけて飛んでくる。尋人はなんとか避けながら自分もフックを出すが、次第にロープ際に追いつめられ、ボディに重すぎるパンチが叩き込まれる。
「尋人、尋人……」
熱病にうなされるように晴哉は尋人の名前を呼ぶ。
晴哉はオーロラ座にいた。朝日が射す売店の中に立つ笑顔の尋人に、裏口から搬入されたスナック菓子と缶ジュースが入った段ボール箱を渡し、自分もカウンターの内側に入る。商品を棚に並べながら感慨深く場内を見渡した。
今日が最後の営業日だ。深夜までずっと回ごとに違う作品を上映し、長年親しんでくれた客たちとの別れを惜しむのだ。
ナオはガラスを磨いている。晴哉は翼の形をした鉛色のノブを拭き、それから『当劇場は本日をもって閉館いたします。長い間ありがとうございました』と書いたポスターをそのノブの上に貼った。そして客席の床を掃除し、糊のきいた白いカバーを、一つ一つの背もたれに掛けて回った。
最後に上映するのは何にしよう? ゆうべ遅くまで三人で話し合った。
ナオが言う。俺たちの旅立ちにふさわしいのがいい。
尋人が言う。俺たちが一番好きだったのにしようよ。
晴哉はこう言った。最後までいたお客さんたちの多数決でどうだ?
それがいいね、そうしよう。みんな喜んでくれるよね……。
尋人が嬉しそうに言う。ナオが笑う。晴哉は二人の笑顔を交互に見ながら胸に手をあてる。
自分がこんな想いで生きていることを不思議に感じ、刻み続ける鼓動に感謝しながら瞳を閉じた。
尋人はほとんど失神しているように見えた。ボディに食い込む巨大なグローブは、その細い肋骨に守られた内臓にまで届いているかのようだった。かろうじてロープに寄りかかっている、少年の形をした崩れおちる寸前の人形……そんな印象の尋人を、今度こそ血の海へ葬り去ろうと、アルベールは飛び膝蹴りの構えをとった。
瞬間、尋人の身体が弾きだされたようにロープ際から飛び出し、樹の幹のようなアルベールの脚を登ると、強烈なパンチをその顔面と即頭部に繰り出した。
アルベールは突然の尋人の猛攻に驚き、ガードをする余裕もなかった。尋人の正確なパンチはアルベールの脳を揺さぶり、激しいダメージを与える。目を開けていることもできないアルベールは、呻きながらゆっくりと後ろに倒れた。
場内は静まりかえった。レフェリーが泡を吹いているアルベールを覗き込んで両手を顔の前で大きく振ったその瞬間、大歓声が沸きあがる。
鐘の音のようなゴング。高々と上げられる尋人の右腕。血まみれの顔で笑う尋人の身体を、ナオが駆け寄って抱きしめる。
「やったあ! やったぞ晴哉! 尋人くんが優勝だ!」
興奮した山口がモニターから視線を外そうとした時、尋人はナオの腕から滑り落ちるようにマットに倒れこんだ。
そして晴哉を振り向くと、閉じられた蒼い瞼とは対照的に、鼻から流れ出る鮮血が生きもののようにその皮膚の上を這い、シーツに赤い染みをひろげていた。




