第16話 三人だけの宇宙
「困ったねえ。さっきの晴哉くんの相手、マックスが反則負けになったんで、自動的に晴哉くんが決勝に進んだんだよ。ここで棄権ということになると、ペナルティだ。違約金を払ってもらうことになるよ」
控え室のベッドで休んでるせぇちゃんに、日向さん、いや、日向は冷たく言った。救急車を呼ぼうと、山口さんと話してたとこだった。
「ふざけんなよ、この状態見てみろ、試合なんかできる訳ねえだろ」
「おやおや、随分な口のきき方じゃないか。いつからそんなに偉くなったんだ」
日向は俺に言うと、指を五本立てて笑った。
「どうしても出られないなら、これだけ用意してもらうよ。閉店までに五億だ。当然だと思わないかね? 千人近く入っているお客様の九割が晴哉くんに賭けているんだ。それで棄権じゃ納得してもらえるわけがない」
「社長、この状態では無理です。命を落とすことになりかねません。すぐに救急車を呼んだ方がいいと思います」
山口さんも切羽詰まった様子で日向に言ってくれたけど、逆にこう怒鳴られた。
「救急車だと? そんなものをここに呼ぶと言うのか。この状況をどう説明する? お前だって知らない訳じゃないだろう、マーキュリーでやっていることを」
賭け試合が違法だなんて、そんなこと俺たちだって分かってるよ! でも、今はそんなの知ったことじゃねえ。客が千人捕まろうと、せぇちゃんの身体の方が大事なんだよ。
だけどそれを聞いた山口さんは、下を向いて唇を噛んで黙っちまった。
……やっぱり山口さんだって日向に雇われてる人だ。俺たちの友だちじゃない。仕方ねえよ、救急車呼ぼうって、それだけでも言ってくれて、感謝するよ。
「……ナオ、なに大声出してんだよ。俺なら平気だ。今夜も優勝だ」
せぇちゃんがベッドから上体を起こして言った。弱々しい声で、苦しそうな息づかいで。
そりゃ閉店までに五億なんで用意できるハズがねえ。だけど、こんな状態でリングに上がるなんて、殺されに行くようなもんじゃねえかよ。
ちゃんと見えてねえんだろ! 頭がガンガンに痛てえんだろ! フラフラしてゲロだって吐きそうなくせに、死んじまうじゃねえか! それでもいいのかよ!
だめだよそんなの、だめだよ……。
「俺が代わりに行くよ」
声がして振り向くと、尋人が立ってた。赤いピカピカのトランクスの上にせぇちゃんの黒いローブを羽織ってる。いつもの尋人じゃねえ、そう思った。晴哉の魂が乗り移ったように、不敵な笑いを口許に浮かべて俺たちを見てる。尋人がボクシングやってた? 知らなかったよ。だけど尋人だって病気が……。
「尋人、やってたのか? それにお前病気は……」
尋人の病気……せぇちゃんに聞かれないよう、俺は小さな声で言った。
「一応プロ目指してたけど、おじいちゃんが死んでから余裕がなくてやめたんだ。……病気のこと、ナオ知ってたの?」
「うん、偶然みつけた」
「俺は大丈夫だよ」
尋人は白い歯を見せて笑った。子どもみてえな笑顔だって思った。
尋人、お前わかってんのか? 対戦相手、きっとでけえ外人だぞ。
昔ボクシングやってたって、勝てるワケねえよ。尋人まで痛てえ思いしたらせぇちゃんが可哀相じゃん……。
せぇちゃんが尋人を見上げる。尋人も真っ直ぐにせぇちゃんを見た。一瞬、俺には二人が真っ白い光でつながってるように見えた。つながってるっていうより、二人の身体全体がパールをかけたみてえに白っぽいもんで包まれてた。
ほんの一瞬の、俺だけの錯覚だったはずなのに、その光は二人の周りから溢れて、ドライアイスのスモークみたいに床を這って俺のとこまで来た。俺の足首から膝へ、膝から腰へって、どんどん昇ってきて俺もその中に取り込まれるように包まれた。
三人だけの世界。これが俺たちの世界。なんて狭くて小さくて、そんで綺麗なんだろう。
あったかくて優しくて、「世界」っていうよりもそこは「宇宙」だった。
俺はせぇちゃんと尋人を交互に見て、三人で頷きあった。尋人は勝つ。晴哉のために、俺たちの世界のために。俺は本気でそう思った。
「きみは誰だ? 晴哉くんの代わりが務まるわけないじゃないか、そんな細っこい身体で。ボクシングなめちゃいかんよ。これは遊びじゃないんだ。ヘッドギアをつけて闘うわけにはいかないんだぞ」
「黙れよ、おっさん。相手がどんなヤツだろうとぶちのめす、それだけだ」
尋人が日向を睨みつける。その顔を見た日向は急に態度を変えた。ルックス的においしいと思ったんだろう。尋人のこの外見なら、女の客も晴哉が欠場したって文句はねえだろうって、そう考えたみたいだ。
「わかった。認めよう。晴哉くんのピンチヒッターとして、ええと……」
「尋人だ」
「尋人か。よし、それで行こう。分かってるだろうが、もう逃げられないぞ。棄権は絶対に認めない。そんなことをしたら二人分の十億だ」
日向は尋人の顔に人さし指を突きつけて、一語一語はっきりと言ったあと急いで控え室を出てった。
負傷した晴哉の代わりに、細い身体で健気にリングにあがる初心者の少年、尋人。
ライオンの檻にウサギを放り込むみてえなもんだって、そう演出するつもりなんだろうな。絶対に勝てるわけがねえ、散々デカいヤツに殴られたあと、ジワジワとコーナーに追い詰められてなぶり殺し。八つ裂きだ。
『こんな残酷な試合があるでしょうか。これはもはや試合ではなく、公開処刑です! ご来場の皆様、今夜ここでご覧になることは、決して口外なさらないでください……』
俺が思ってたら、その通りのことが重なってアナウンスされた。
会場からは一斉に歓声があがった。誰もが残酷な光景を見たがってる。
会場中のだれもが、尋人の血がぶちまけられるのを望んでやがる。
「尋人」
せぇちゃんがベッドの上に起き上がり、尋人の方に両腕を広げた。尋人はにっこり笑ってからその腕に吸い込まれるように入ってった。
尋人がせぇちゃんの背中に腕を回す。せぇちゃんが尋人の髪を撫でる。
それはいつか美術館でせぇちゃんと一緒に見たピエタのようで、俺は生きることと死ぬことには、きっと大した違いなんかなくて、どっちに振れても大好きな人と一緒なら幸せなんじゃないかって、何故かそう思った。
尋人がそっと腕を伸ばしてせぇちゃんにキスをする。それは恋人同士の行為というよりも、もっと大きな、遥かに大きなものを俺に感じさせた。
俺は目を逸らさずにそれを見つめ、気が付くと泣いてた。
もう、俺には何がいい方法なのか分からなかった。ただ、尋人をリングに送り、尋人が勝つように信じるだけだ。
せぇちゃんの身体をそっと離して、尋人が立った。尋人は笑ってた。そして見送るせぇちゃんを振り向いて言った。
「かならず勝つよ。勝って、戻ってくるから」




