第10話 南の国へ
「俺さ、ここを閉めようかと思ってるんだ」
晴哉とナオは、トレーニングが終わると急いで駆けつけてくれた。とくにナオは入り口を勢いよく開けて
「尋人! 大丈夫か?」
なんて大声で叫んで、迎えた俺がびっくりするくらいの焦りようだった。
何年も会ってなかった、中学の時のそれほど親しくもなかった「友だち」。俺はナオの優しくて純粋な心を感じて、こんなヤツもいるんだなって、すごく感動したんだ。
晴哉はナオの後から入ってきて、落ち着いたふうを装ってたらしいけどやっぱりすごく心配してくれてたみたいで、俺の顔を見るとちょっと泣きそうになって、ナオを押しのけて正面から俺をぎゅうっと抱きしめてくれた。
ナオが「晴哉ずるいぞ」って言って、俺の背中に抱きついて、三人で押し競まんじゅうみたいになって倒れかかった。俺は「苦しいよ、二人とも離してよ」って言いながら笑って、気づいたら嬉しくて涙が出てた。
三人で向かいのハンバーガー屋に行ってホットドッグとポテトを買って、劇場の屋根に上って食べた。
夏の夜のはじまりは、西の空に名残りみたいなオレンジ色がいつまでも漂って、曖昧に輝く星をいくつか抱いた濃紺の空が、だんだん滲むみたいに広がってくる。
そしていつか気づいた時にはもうすっかり日が暮れて、俺たちはぬるい風に頬を撫でられながら、屋根の上で並んで寝転んでた。
「閉めるって、オーロラ座やめちゃうの?」
ナオが上半身を少し起こして俺に訊いた。
「うん、そうしようかな、と思ってる」
俺が答えると、「そっか」って小さい声で言って、ナオは息を吐きながらまた仰向けになった。
「やめて、どうすんの」
今度は晴哉が俺に訊いた。
「まだわかんない。全然考えてない。やめようかと思ったのも、ついさっきなんだ」
「どうしてそう思った?」
晴哉の声が夢の中の歌声とダブって、頭の中でマーブル模様を描いた。
俺は目を閉じたまま、優しい声が優しい風になって、俺をどこかへさらってくれるような気がして、なんだか今のこの幸せを感じてる瞬間に消えてしまえたらいいなって、もっと言うと、死んでしまえればいいなって、まどろむような気持ちよさの中で思ってた。
「俺さ、初めての時、あの映画が観たくてここに入ろうとしたんだよ」
晴哉が低い声で言った。
「あの映画って?」
ナオが晴哉に訊く。
「『禁じられた遊び』。売店の奥に貼ってあるじゃん、なんか懐かしくてさ」
「あー、そっか、うん懐かしい。『ごっこ』したもんな、せぇちゃんと」
「うん。でも、尋人がフィルムを探したけどなかったんだよ。だからまだ観てない」
晴哉が残念そうに言った。うん、あれはこの劇場で観たらステキだと思うよ。俺もあまり記憶はないんだけど。
「それ、きっとアレだよ! じいちゃんが隠したか捨てたんだよ」
ナオがパッと起き上がって言った。
おじいちゃんが? どうして?
「あの映画は、主人公の女の子の両親が爆撃で死ぬところから始まるんだ。だから尋人には見せたくなかったんじゃねえかな」
向かいのビルでは、白い蛍光灯の下、まだ仕事をしている人が何人か机に向かってる。ナオはそこから洩れてくる弱い光と、隣のビルの外壁につけられたネオンを顔に受けながら言った。
「……そうなのかな。え、でもナオなんでそう思うの? 俺のおじいちゃんと話したことあるの?」
「尋人のじいちゃんはさ、俺に時々ここの売店で売ってるサンドイッチを持ってきてくれたんだ。最初は、尋人が弁当を忘れた時に届けに来たらしいんだけど、ピロティのところにいた俺が尋人と同じクラスだって言ったら、渡してくれって言われてさ、そん時に偶然俺の腹が鳴って、じいちゃん笑って『お腹すいてるなら食べな』って、俺にくれたんだ。尋人にはパンを買うように渡してくれって、五百円預かった」
「ああ、うっすらと憶えてるよ」
「そんで、なんかの拍子に俺が施設にいるって話になって、それから時々俺にサンドイッチを届けにきてくれたんだよ。その頃に映画館やってるって聞いてたら、手伝いだってできたのにな」
ナオはおじいちゃんを思い出すように目を閉じて、懐かしそうに言った。
「なんでその時俺に言わなかったの」
「中坊ん時だぜ。学校に家族……それもじいちゃんが来て同級生と話してるなんて、知ったらぜってー尋人が嫌がるから、ナイショにしようって決めたんだよ」
「そうだったのか、全然知らなかったよ」
ナオはまた仰向けになって、それから横を向いて肘で頭を支えてから言った。
「ねえせぇちゃん、尋人がここをやめたらさ、俺たちの夢に混ぜてやろうよ」
ナオと晴哉の夢? 二人とも夢があるの? 俺がそこに混ざってもいいの?
「うん、そうだな。そうするか」
晴哉が目を閉じたまま言う。二人の夢がなんなのか、俺はナオに訊いた。
「南の国で暮らすことだ。そのために今がんばって稼いでる」
「南の国で暮らす……そっか。いいな、俺も一緒に行っていいの?」
「いいよな、せぇちゃん」
「……ああ」
夏の夜。劇場の屋根の上で仰向けでいる晴哉は綺麗だった。閉じた瞼に赤いネオンが反射して、それから青くなって、晴哉の表情を微妙に変化させた。俺はその顔をじっと見つめた。
ナオとずっと一緒にボクシングをしてる晴哉。その手で掴もうとしてるのは何なんだろう?
南の国に幸せが眠ってるなら、俺はナオと晴哉と一緒にそこで新しい夢を見よう。
俺は晴哉の胸に寄りかかるようにしてそっと頭を載せた。晴哉は目を閉じたまま頭の下に敷いてあった腕を伸ばして、俺の髪を撫でてくれた。
反対側からナオが同じようにして、晴哉のお腹の辺りに頭を載せる。ナオの髪も反対の手で撫でて、「お前ら重いよ」って言いながら晴哉が笑う。
晴哉が目を開けて俺を見上げた。そして目が合ったとき、俺は晴哉が大好きだってわかったんだ。
「俺は赤ん坊の頃に捨てられて、ずっと施設で育ったんだ。捨てた女は警察に捕まったけど、不起訴になって俺はそいつに引き取られた。だけど毎月のように、俺は怪我をしたりアザだらけになって施設に連れてこられて、ずーっとその繰り返しだったよ。中学に入った頃にそいつが男とどっかに逃げて、それっきり。もうその女の顔なんて憶えてねえよ」
「親が続けて死んで俺は施設に入った。敬愛園ていうんだけどさ、そこでせぇちゃんと出会ったんだ」
「え、じゃ晴哉は俺たちが中二の時、三年にいたの?」
「学校には園から通ってたけど、せぇちゃんの住所は実家のまんまだった。だから学区が違ってたんだよ」
「俺の親は、俺が六歳の時に二人いっぺんに車に轢かれて死んじゃったんだ。ちょうどクリスマスで、だからそれ以来うちにクリスマスは来ないんだ」
「クリスマスか、園じゃツリー飾ったりケーキ食ったりは一応してたな、ボランティアのヤツが手品見せに来たりして、小さい子は喜んでたっけ」
「俺ん家は、オヤジが生きてた頃はクリスマスやってたよ。だけど肺癌で死んで、そんですげえ貧乏になってさ、オフクロも身体壊して入院して、二年入ってた病院で死んだんだ」
三人でぼそぼそと喋りあった。みんなそれぞれ子どもの頃に辛い経験をしてて、だから夢がすごく大事なんだって思った。
特に晴哉、晴哉はゼッタイ、幸せにならなくちゃいけないんだよ。俺はこの二人に会えて、この二人と運命を共にしようと思ってる。そうしたいと願ってる。三人で見る夢はきっと現実になる。俺は曇りはじめた夜空を見ながら、そう確信してた。




