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第1話 独りぼっちのロードショー

 I列十二番。 

 ここが俺の指定席。 

 子どもの頃、真っ赤なビロードはしっとりした光沢がすごくきれいで、ピカピカなのに濡れてるみたいで、豪華でカッコよく見えた。まだ小さかった俺の身体はすっぽり包まれるように収まって、前の席の背もたれが高くてスクリーンが見えなかった。だからクッションを二重に敷いた上に乗ったら、王様の椅子に座ってるみたいで嬉しかった。ジュースとポップコーンをもらって肘掛に備え付けてあるホルダーに入れて、俺のためだけにいくつもの映画がスクリーンに映し出されるのにいつまでも見入った。その頃だってすでに十分古かったのに、なぜか俺の目には全てがピカピカしててキラキラしてて、大きくて立派なものに映ってた。 


 冬の夜に家族で行った遊園地の、電飾で彩られたメリーゴーランドが夢みたいに綺麗だったように、俺の記憶の中で、ここは夢の世界だった。こうして椅子に座って、真っ直ぐ前を見る。日常とは全然違った世界が目の前に広がって、俺はどこにだって行くことができた。 


 昔、まだおじいちゃんが三十代だった頃、脱サラをした退職金で立てた劇場。もともと丈夫じゃなかったおばあちゃんは、俺が生まれる前にはもう死んでた。 


 母さんは地方出身で七人きょうだい。母さん以外はみんな実家の近くに住んでるから、いとこたちがみんな集まるお正月なんかは、東京で生まれて育った俺だけよその子みたいだった。そっちのおじいちゃん、おばあちゃんとは母さんが死んで十五年も経った今じゃ音信不通状態だ。 


 父さんはサラリーマンで、取引先で母さんと知り合って俺が生まれた。結婚したときに仕事を辞めた母さんが、おばあちゃんの代わりに劇場の手伝いをしてた。


 上映するのは封切り映画ばかりじゃなくておじいちゃんがセレクトしたものも多く、映画好きの間ではマニアックな作品が見られるって有名だったらしい。だから半分は趣味でやってるようなもので、収入は多くはなかった。でもやり甲斐があって毎日楽しかったって、おじいちゃんは言ってた。劇場の売り上げと父さんの給料で生活する、普通の家庭の普通の暮らし。そこで俺は普通に愛されて可愛がられた子どもだった。 


 父さんと母さんが死んだ夜も、俺は暗い場内のこの椅子に座ってスクリーンを見つめてた。俺の心は椅子から離れてスクリーンの中に吸い込まれて、そこで繰り広げられるいくつもの美しい夢を映画の中の子どもたちと一緒に旅してた。 


 俺のためのクリスマスプレゼント。家族みんなで食べるローストチキンとケーキ。父さんから母さんへ、母さんから父さんへのプレゼント。みんなからおじいちゃんへのプレゼント。家族の笑顔と幸せをいっぱいにするはずのものを持って家への道を歩いてた二人は、酒気帯び運転のトラックに一瞬でつぶされた。 


 サンタクロースが大きなソリにプレゼントをいっぱい載せて、晴れてピカピカの星が無数に瞬いてるのに粉雪が舞う空を、シャンシャンと鈴の音を響かせながら猛スピードで走っていく。大声で笑うサンタクロース。真っ白いヒゲが冷たい風を受けて綿菓子みたいにふわふわ動いて、手綱を引くたびにキラキラした粒子が画面に広がって、俺は思わず目を閉じてうつむいた。


 ヒーターで暖まった場内に凍えるような北風が吹いてる。顔を上げると閉じた瞼に粉雪の粒がパチパチといくつも当たって溶けて、俺の頬を濡らした。それが不思議で目を開けてスクリーンを見ると、子どもたちが歓声をあげながら、もらったプレゼントの包みを開く様子が見えた。外人の子どもがリボンや包装紙をビリビリやぶっていくのを初めて見て、誰かにもらったものを丁寧に扱わないのにびっくりした。そして子どもたちはパジャマの上に暖かそうなコートを着て、みんなでソリに乗りこんだ。厳かな聖夜の冒険。教会の上を通ると、大人たちが賛美歌を歌っているのが見える。鐘の音が街中に響いて星と雪が降り注ぐ。子どもたちの笑顔。遠ざかっていくソリ──。


『これからご馳走だから、今日はポップコーンはナシよ』


 そう言ってた母さんは、映画が終わっても帰ってこなかった。エンドロールが終わってスクリーンが真っ黒になった時、おじいちゃんが怖い顔をして扉を開けた。俺はおじいちゃんのその顔を見て、一瞬で何が起こったのかを理解したような気がした。肩から腕、そして顔にも頭にも寒気がはしって、ぞわーっと毛が逆立つような気がしたんだ。何か良くないことが起こったんだと思った。


 小さかったから、具体的なことなんて分かるはずはない。だけど、昨日まで当たり前に過ごしてきた幸せは、今夜からもう永遠に来ないのだと、わかったような気がしたんだ。


『まだ小さいのにかわいそう』


 周りの大人たちは、そう言って泣いた。だけど俺は何もわからなくて、それがどんなことなのか想像もできなくて、そのわからなさがはがゆくて悔しくて、恥ずかしかった。俺に解ったのは、ただもう二度と父さんと母さんに会えないということ。頭を撫でてもらうことも、抱きしめてもらうことも、もう二度とないってこと。 

 だから俺は泣くしかなかった。両親を亡くして悲しいから泣いてたんじゃない。寂しくて泣いたんじゃない。不安で何もできない自分が恥ずかしかった。六歳の子どもが自分を恥じて泣いたんだ。笑っちゃうよね、なんでそんな子どもだったのかな。 



 両親のことを想うようになったのは、もっと大きくなってからだ。短かったけど幸せな人生だったのか、どんな夢を描いていたのか、何を思って毎日を生きていたのか……。俺が生まれて二人は嬉しかったんだろうか。どんな大人になってほしいと思っていたんだろうか……。 


 俺には両親との、家族の思い出がほとんどない。だからその分、大人になってから両親を亡くすよりも悲しみは小さくてすんだんだ。俺の人生に両親が関わった時間は短かった。当たり前だけど、両親を亡くしてから今までのほうが俺の生きてる時間は長い。だからって一人で生きてきたわけじゃない。両親が死んだあとはおじいちゃんが俺を大切に育ててくれた。色んなことを教えてくれた。生きてゆくのに必要なたくさんのことを。……いや、そうじゃなかったのかな。


「大切なのは、夢見ることだ」って、よく言ってた。


 もちろん眠っている間に見る夢のことじゃない。自分が何になりたいか、何をしたいか、どんな人になりたいか、どこへ行きたいか、どんな世界を作りたいか……。 


 思うことや想像することが、その度に違ってたって構わない。空想することは大事だぞ……って俺の頭を撫でながら言ってた。だけどそのおじいちゃんも死んだ。もう二年になる。俺にはこの古い映画館を遺してくれたけど、思い出だけがめいっぱい詰まった建物はもうボロボロで、お客さんは全然来ない。それでも俺にとっては大切な場所だし、劇場の掃除は毎日必ずしてる。看板を拭いたり、ロビーにモップをかけたり、椅子の肘掛けだって一つ一つ丁寧に拭いてる。 


 深夜になると、俺はときどきこうして自分のためだけに映写機を動かして、コーラとポップコーンを持って席に着く。こんな昔のままの機材を使ってる劇場なんて、おそらくほとんどないだろう。小さい頃に見た映画を何度も何度も繰り返しスクリーンに映す。暗い場内に掠れた音声が響いて、キズが目立つフィルムは、ところどころ変色してる。俺の保存の仕方が悪かったからだよね。おじいちゃんに怒られそうだ。



 ねえ、おじいちゃん。俺はちゃんと夢を見ないまま今日まで生きてきたみたいだ。こうして一人になって、何もないことに気づいたよ。行きたい場所もない。なりたい自分も描けない。「作りたい世界」なんて、俺には想像もつかないよ。ただこうして毎日同じことを繰り返してる。劇場の掃除をして映写機を動かし、切符売り場に座る。ごくたまに入るお客さんのためにお菓子や飲み物を仕入れて売店に置く。 


 商売としてやる気がないのかと聞かれれば、そうなのかもしれない。俺はただここを失くしたくないだけで、映画を観に来てくれる人がどうすれば喜ぶか、それ以前に、どうすればたくさんの人がこの劇場に足を運んでくれるか、そんなことさえちゃんと考えられない。俺が子どもだった頃のように、大勢の人が楽しそうな顔でロビーを行き来して、パンフレットを見て微笑んで、ポップコーンをねだる子どもがいて……って、切符売り場にぼんやり座ってると、ときどきそんな幻が見えるんだ。こうしてただ毎日感傷に浸って、そうして年月が経って俺もこの建物と一緒に朽ちていくのかな……。「夢」ってどうすれば見られるんだろう。映画の中の子どもたちのように、俺もいつか大人になれるのかな……。 



 ブーツを脱いで椅子に立てた膝を抱えた。スクリーンからまばゆい光が溢れて、それはドライアイスの煙のようにステージから客席へ降りて、俺の足もとまで這ってくる。煌びやかな金銀の粒子をまき散らしながら。いつか誰かが俺をここから連れ出してくれるように願いをこめて、自分の腕に顔をうずめる。そのまま目を閉じて、もう憶えてしまった映画のセリフを主人公と一緒につぶやく。だけど、何も起こらない。そして映画は終わる。俺は真っ黒になったスクリーンを見つめ、全然減ってないコーラとポップコーンを持って厚い扉を押し開ける。ロビーの外には薄日が射して、今日も夜が明けると俺に知らせていた。

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