第十話 は・じ・め・て・の・で・え・と!
「ここがニシツメ……」
騎士団本部から行きと同じルートでリンドベリー西部へと戻り、
昨日潜った西門から少し離れた場所にある〝第二十二陣西方守護騎士団西門待機詰所〟通称〝西詰所〟と呼ばれる場所にカナタ達はたどり着いた。今朝方ガンツがここに入る直前にボニータに呼び止められた時、カナタはすでに中央通りの広場に停まっている騎士団専用馬車内で留守番をしていた為、ここを見ることなく本部へ出頭していた為、初めて見たニシツメに圧巻されていた。
陽は既に真上にあり、今朝食堂で一緒だったボニータとガンツを除いた騎士達一行はすでにグラナダ平原にて哨戒任務に出ており、現在この西詰所に居るのは交代要員として待機している他の部隊の連中らしい。
グラナダ平原は広く、リンドベリー周辺の警戒区域内にある同じ管轄地を三つの部隊が日没までの間、三交代で任務にあたる。それが西門のある担当地域で10の管轄地に分かれており、合計すれば一部隊約20名で三部隊を一管轄地、それが10か所あるという計算になり、予備部隊を含めればこの西詰所には800名近くの騎士が所属するという非常に大規模な施設になっている。特に西門はグラナダ平原を一望する立地になっており、他の三門と比べ遥かに人数が多い。それだけでいかにこの平原での治安がリンドベリーにとって最たる重要事項なのかという事を物語っている。
今カナタが目の前にした巨大な建物は西詰所の本体で、周りにはガルシュ用の厩や増築された宿舎用の天幕が立ち並んでおり、新たに増員された団員の為か、屈強な騎士達が急ピッチで新たな宿舎を設営中であった。
流石に名所となった天幕だらけの本部とは違い、一応こちらの詰所は石造りの建物だ。目の前の本体となる詰所は三階建てで、一見すると要塞の様にも見える。建物の角地には外壁よりも高い円柱型の物見台があった。
「ああ。このニシツメには800人程の騎士が所属してるが、全員が一度に集まる事はめったにねーな。せいぜい出入りは200人ぐらいだろう」
後ろを歩いていたガンツが本部からの復路で聞いた西詰所の説明にそう付け加えた。
「そうだね~アタシはここに来てから2年くらい経つけど、未だに会った事ない騎士もいるよ」
目深にフードを被ったボニータがガンツの話を肯定する。
「こ、ここでしばらくお世話になるんですね」
緊張するカナタは二人を見ることなく目前の石造りの建物を見上げる。今までバイトを含め働いた事が無いカナタだが、まるで面接を受けに行った企業の自社ビルを眺める気分だった。
「そうだ。しばらくはここで俺達がお前をか・ん・し・だっ」
「痛っ!」
「おっさん!」
ガンツがカナタの額を指先でつつきながら、冗談とも取れるニュアンスでハッキリと騎士団がカナタを監視すると宣言すると、その配慮に欠ける言葉に我慢の出来なかったボニータがガンツに詰め寄ろうとするが、カナタがそれを片手で制する。
「!?」
自分をなぜ止めたのか真意が分からないボニータがカナタを目で問い詰める。
その顔を見たカナタはニコリと笑みを浮かべながらボニータを止めた手をゆっくりと元に戻した。
「……わかってますから」
「カナタくん……」
「記憶も無くして身元も分からない僕なんか、どう考えても怪しいですからね。皆さんの対応は当然の事だと思います」
「そんなこと……」
「でも騎士団の皆さんには感謝してます! 僕一人じゃ絶対路頭に迷ってましたから」
「あーそういうこった。お前はあのままだと平原でくたばっちまってもおかしくなかったからな」
「もうおっさんっ!」
感謝を述べるカナタに対して冷静に現実を突きつけるガンツ。そんな中年男の横暴な態度に苛立ちを見せるボニータはまたもガンツを睨みつけるが、当の本人は知らん顔だ。
「あ~だからなるべく早く皆さんに信用してもらえる様に頑張ります!」
「カナタくん……」
「ケッ。分かってんじゃねーか。ガキぃ」
「ガキ、ガキって、僕もう16歳なんですけど!」
「うっせ! ガキはガキだ! ガキガキガキぃ~」
「そう言って頭つつくのやめて下さいよっ!」
「い~や~だ!」
「もー二人してニシツメの前で騒がないの!」
子供の喧嘩みたく言い争う二人にボニータは呆れるが、意外とこの二人なら仲良くやっていけるのかもと、不安も含んだ期待を抱いていた。
※ ※ ※ ※ ※ ※
西詰所の中は人で溢れていた。
甲冑を身に付けた騎士達はこれから交代で巡回に出るのであろう、慌ただしく建物内を移動している。非番とみえる騎士や警備兵達は各々が楽な服装で建物内にある食堂を兼ねた酒場にて楽しそうに談話している。ガンツの言った通り所属する騎士達全員が入るには無理があるこのニシツメの中は、常時200人程度の人員がひしめき合っていた。
「な、なんかっっとと! す、すごく活気がありますね」
目の前をせわしなく通り過ぎた大柄な騎士が腰に携帯する剣の鞘が当たりそうになり、慌ててそれを避けながらカナタがニシツメの率直な感想を述べる。
「まあここにいる奴ら全員、今から命を張った任務に出かけるからな。そりゃ気持ちも高揚するさ」
「あ……」
テレビなどで見たことのある慌ただしい職場のイメージとは違い、先程の大柄な騎士を含めたこの場所にいる全員が今から凶悪な魔物達が生息するグラナダ平原へと出立する準備をしているのだという事をガンツの言葉で気付かされたカナタが呑気な感想を言っていた自分を恥じる。
「まあすぐに怠ける人も多いけどねー」
「ケッ」
そんなカナタの様子に気付いたボニータが横目でガンツを睨みながらフォローする。その言葉に見覚えがあるのか睨まれた本人は不服そうだ。
「あんな事言いましたけど、やっぱり僕なんか役に立てないような気が……」
騎士団本部でカナタが騎士団で働きたいと言った意気込みは、早くもニシツメの玄関口で消沈しそうになる。
「だいじょーぶだって! カナタくんが真面目に頑張ってくれたらきっとみんなの役に立てるって!」
隣で落ち込むカナタの肩に手を添えてボニータが励ます。
「雑用だけどなー」
「おっさんは余計な事ばっか言わないのっ!」
ボニータの気遣いを茶化すかのようにガンツが先程の意趣返しをする。
何かといがみ合う二人を横目に、自身を無くしたカナタが更に深いため息をつく。
「もうっ! おっさんはカナタくんの上司になるんだから、もう少しちゃんとしてっ!」
「バカ言え! あれはカレルが勝手に決めたんだ、俺がやるって言ったんじゃねえ!」
「あ、あのお……」
「「な(んだよ!)にっ!!」」
中々ほとぼりの冷めない二人に恐る恐るカナタが声をかけると、二人から同時につっこまれる。
二人の剣幕に若干引き気味のカナタが、ニシツメのロビーに向けて指を差す。
「み、みなさんがすっごく注目してますけど……」
「「あ……」」
その指差した方向の先には、ボニータとガンツの言い争いを見物する大勢の騎士達の姿があった。
誰もが任務の準備の手を止め、ニヤニヤする者、迷惑そうな者、冷ややかな眼差しを向ける者など多様で、ボニータは勿論の事、流石のガンツでさえもが固まってしまう程の衆目を集めていた。
「おやァ、おやァ、おやァ、おやァ、おーやァ~誰が騒がしいのかと思えばァ~お前達だったかァ~」
固まる二人に対し、やや皮肉めいた口調で話しかける者がロビーの奥から現れた。
カナタが振り向くとちょうど自分が指を差した延長線上にその声の主が立っており、下卑た笑いを浮かべてこちらに近付いて来る途中だった。
身長はカナタよりも少し低く、とても騎士団の一員とは思えないような華奢な体格で、手にはなぜか細長い錫杖を持ち、見た目はいかにも貴族らしい派手な服を身に着け、魚を連想させるその顔には三白眼の瞳がギラついている。
「チッ……めんどくさい奴に見つかっちまったな」
「……」
ボニータとガンツの顔見知りなのか、二人はあまり歓迎する様子ではなく、どちらかと言えば遭遇した事を悔やんでいるような表情でその男が近付く事を許してしまう。なぜならその男にはもう一人ガンツよりも大柄な騎士が随伴しており、立ち位置的には男よりもその大柄な騎士の方がこちらに近付いて来る意思を持っていそうな雰囲気だった為だ。
そちらの大柄の騎士は魚顔の男とは違って武人の風格を持ち、赤茶けた髪を後ろに撫でつけた髪型をしており、目付きは鋭く、使い込まれた黒い甲冑を身に着け、腰ではなく背中に刃渡りの長そうな得物を納めた鞘を背負っていた。
「追放者レイモンド卿ォ~。それにィ呪い兜の女騎士風情めェ~!!」
明らかに敵意をむき出しにした魚顔の男は、ガンツとボニータを憎悪を込めた声色でそう呼んだ。
「なんだよ。久々にあったのにまた嫌味しか言わねーのかよ、ゴルフィッシュ」
「そのぬゥわァむゥあァうェでェェェェよォぶゥぬゥうわああああああァァァァ!!」
やれやれと言った風で男に意趣返しをするガンツ。それに激高する男は、持っていた長い錫杖で地面を激しく突いた。
「私にはァれっきとした素晴らしい名前があるのだァ!ゴールド・フィッシュ・プープマンという格式高い家柄の名がァ!! それにィ――」
「れ、レイモンド卿?」
場の空気を読む気がなかったのか、ゴルフィッシュと呼ばれた男がガンツに向かってレイモンド卿と呼んだ事に違和感を感じたカナタが、何故か自分の後ろに隠れたボニータにそっと尋ねる。
「おっさんの家名よ!一応れっきとした貴族なんだしっ」
「でも卿って柄……」
小声でカナタの疑問に答えるボニータは、目の前で叫ぶゴルフィッシュと顔も合わせたくないのか、カナタの背中に顔を埋めながらコソコソ隠れていた。
「おいガキ~俺が貴族ってのがそーんなにおかしいか?」
「わわっ!」
二人の密談が聞こえていたのか、こちらに気付いたガンツがカナタの首根っこを掴む。
「だ、だって貴族ってもっと威厳があるってか……痛い痛い痛いっ!」
「ほお……言うじゃねーか、ガ――」
「私の話を聞けェェェェェェェェェェェェェェェェ!!!!!」
カナタとガンツの一方的な戯れは、空気と化したゴルフィッシュが叫んだ為に中断される。
「はあっ。はあっ。お前達ィ~私を無視するとは良い度胸だなァ……そこの坊主ゥ!!!」
「えっ?は、はいっ!!」
息切れを起こしたゴルフィッシュが自分を無視して揉めだした二人を睨み、その視線がカナタで止まると大声で叫びながら持っていた錫杖を突き付けた。
自分とあまり背丈の変わらないゴルフィッシュに突然坊主呼ばれたカナタは思わず返事を返してしまう。
「貴様、見慣れない恰好をしているが何者だァ?」
ゴルフィッシュの三白眼の瞳が更に見開き、制服姿のカナタを舐めるように観察しながらそう叫んだ。
その隣ではガンツが額に手を当て、この男に目を付けられた不幸に同情するような表情を見せ、後ろに隠れているボニータも無言のままカナタのジャケットの背中をギュッと掴む。
「あ、僕は今度ガンツさんの――」
「ガンツだとおォォォォ?」
圧迫感のある目力にいたたまれなくなったカナタが説明を始めた途中でガンツの名前を出したことにより、ゴルフィッシュの三白眼が更に険しくなる。
「貴様ァァァ! レイモンド卿の縁者の者かァァァァ?」
相当な因縁があるのだろうか、隣に居るにも関わらずガンツと言う名前にいちいち反応を見せるゴルフィッシュに戸惑うカナタ。
「あ、えっと違いますけど……お世話になる予定でして」
「なにィ!? レイモンド卿のォ世話になるだとォどういう意味だァ」
「あー同じ職場?あ、衛生班……です」
流石のカナタもこの男の相手が面倒になって来たのか、たまに目線を浮つかせながら対応がおざなりになって来ると、その空気を読んだゴルフィッシュがまたも喚きだす。
「あーッ! あーッ! きッ、貴様ァ! しョ、初対面のくせにィ私をォ今、面倒くさい男だと思っただろッ!!」
「えっ、いやその……」
相手の心の変化には機敏な反応をみせるのか、即座に自分を蔑ろにする少年に指を突き付けて罵倒し始めるゴルフィッシュにカナタもだんだんと焦れてきた。
「いい加減にしろ。プープ卿」
そこでようやく会話に全く加わろうとしなかったゴルフィッシュと共に現れた大柄の騎士が口を開いた。
「でッ、でッ、でッ、でもォォォ! こッ、この坊主がァァァ」
大柄の騎士の一言で途端に飼い犬の如く気弱な態度に豹変するゴルフィッシュ。
「二度は言わぬぞ」
「はッ、はいィィィィ!!」
大柄の騎士の立場が上なのか、上からジロリと睨まれたゴルフィッシュが怯えながら小さくなる。
「すまない……見苦しい物を見せた」
「い、いえ……」
ボソリボソリと必要な言葉だけを語る大柄の騎士がゴルフィッシュに代わりカナタに謝罪する。
これからと言う時に出鼻をくじかれた三白眼の男の方は、カナタの方を忌々しそうに睨んだまま大柄の騎士の後ろに下がった。
「助かったぜ副団」
「いや」
ガンツがその大柄の騎士をそう呼ぶと、副団と呼ばれた騎士は一言だけ返す。
「えっ! 副団ってまさか副……団長ですか?」
「ああ。こいつはカレルの次に偉い副団長のカーマインさ」
この大柄の騎士が副団長だと気付いたカナタにガンツがそれを肯定する。
「そッ、そッ、そッ、そんな事もォ知らずにィいたのかァァ貴様ァァァァ!!!」
「うるさいぞ! プープ卿」
「はッ、はいィィィィ……」
隙あらばと言った風にカナタの不識を咎めようとするゴルフィッシュに再三苦言を呈したカーマインが声を荒げると、やっとゴルフィッシュは静かになる。
「てっきり本部に居るかと思ったらまさかニシツメに居たとはな」
「定期見回りだ」
カレルの時と同じく副団長にでも気安いガンツに、カーマインはこの場に居る理由をボソリと話すと、おもむろにガンツの前に立つ。
「な、なんだよ……」
「……行くぞ。付き合え」
「はあっ!? またかよっ! うおっ!」
ガンツが後ずさりすると、カーマインはどこかへ誘うようなセリフを呟く。
それが毎度の事であるかのようにガンツが言葉を返した途端首根っこを掴まれた。
「ま、待てって! 離せバカ! ぐあっ!」
「まッ、まッ、まッ、待って下さいィィ。カーマイン副団長殿ォォォ!」
カーマインが異常な怪力でガンツを肩に担ぎ上げそのままどこかへと向かおうとすると、後ろで静かに控えていたゴルフィッシュが情けない声を出しながらその後を追い始めた。
「貴様は誘って居ない。どこなりと行け」
「そッ、そッ、そッ、そんなあァァァァ!!」
「お、下ろせってカーマイン! くそっ!」
ゴルフィッシュに冷たくそう吐き捨てると、カーマインは騒ぎ続けるガンツを担いだままニシツメを出て行った。
「……な、なんだったんですか……あれ」
すっかり蚊帳の外となったカナタ達はその場に呆然と立ち尽くす。
「きっといつもの酒場へ行ったのよ。カーマイン副団長はいつもああやって、おっさんに会うと強引に連れ去ってしまうの」
「な、なんて豪胆な……」
ボニータの話でカーマインの人となりが分かったような気がしたカナタは、ふとその場に残されてしまったゴルフィッシュに目をやる。
先程までとは違い威圧的な態度はなりを潜め、二人の去った後の扉を見つめながら口をパクパクと開閉させる姿は、さながら次のエサを求める金魚の様だ。
少し気の毒に見えたカナタだったが、突然後ろに居たボニータにグイとジャケットを引っ張られ思わずのけ反ってしまう。
「痛たた。な、何ですかボニータさん」
「アタシ達も行こ! カナタくん」
「……あっ! は、はい」
喉を摩りながら抗議するカナタの腕を掴み、小声でこの場から立ち去る事を提案するボニータ。ストッパーとなっていたカーマインとガンツが居なくなった今、次に標的とされるのは自分達しかいないからだろう。それを直感したカナタはボニータに合わせて自分の声を潜めながらその意見に賛同する。
カナタの返事を受け取ったボニータはそれを最後まで聞き終えるよりも早く掴んでいた腕を引っ張ると、ガンツ達が出て行った扉を目がけて走り出す。
途中、しょぼくれたゴルフィッシュの横を通り抜けそうとすると、それに気付いたゴルフィッシュが驚きの表情を浮かべて叫ぶ。
「どッ、どッ、どッ、どこへ行く! お前らにはまだ話があるのだッ! 止まれェ、止まれェ、止まってくれェェェェ!!」
その魚顔を金魚のように赤らめて錫杖を振り回しながら激怒するゴルフィッシュの言葉を無視し、カナタを引っ張って走るボニータは、ニシツメの出入口にたどり着くと、その扉を素早く開けて颯爽と走り抜けていく。
自分の制止を無視され、後に残されたゴルフィッシュはワナワナと震えだし、慌てて回りを見渡し、次の標的を探そうとするが、すでに事態を察した騎士達はこの場から去っており、誰もロビーに残っている者は居なかった。
「わッ、わッ、わッ、わッ、わッ、私はァァ誰の後をォ付いて回ればァいいのだあァァァァァァァ!!」
周りから人が消え唖然とするゴルフィッシュの叫びがロビー全体に空しく響き渡っていった。
※ ※ ※ ※ ※ ※
「も、もう大丈夫ですって! と、止まりませんかボニータさんっ!」
ニシツメを出た後も依然として走り続けるボニータ。
すでに扉を開けた時点でゴルフィッシュに追従の意思は見えず、振り返ってニシツメの様子を見ていたカナタもこれ以上走り続ける理由は無いと思っていた。
しかし、俯いたままのボニータはそれを聞き入れることなく、カナタの腕を掴んだまま何かに怯えるようにその足を止めることなく走り続ける。
「ぼ、ボニータさんっ!」
「――!」
すでに体力の限界だったカナタは自分の足がもつれ出すのと同時にその腕をを振り払うと、自ら崩れるように地面へと倒れ込み、そこでようやく気付いたボニータが数歩先で走りを止めると黙ったままそこに立ちつくす。
立ち止まった場所はニシツメの隣に広がる小さな森林地帯で辺りには人の気配も無く静けさが満ちており、ちょうど草木が開けた場所で倒れ込んだカナタの激しい息遣いだけが唯一の音としてその場を支配していた。
「ど、どうしたんですか。ボニータさん……」
少し息が整い始めたのか、重い体を少し起こしたカナタがボニータの独走の理由を尋ねる。
カナタと違い、全く息の乱れも無いボニータはその問いかけには答えず、そして振り返る事もないまま黙って俯いていた。
「さ、さっきのゴルフィッシュさんて人が現れてから様子がおかしいですよ」
「――!」
ゴルフィッシュの名前にわずかに反応したボニータは、少しの間を置いた後、こちらを振り向く事はせずに自分の頬を両手でパンと叩くと、深い深呼吸を一つした。
「ごめんね、カナタくんまで巻き込んじゃって。ちょっとあの人が苦手で。へへへ」
「ボニータさん……」
そう言って振り向いたボニータがいつもと同じ調子で明るくカナタに謝る。
その態度に少し拍子抜けしたカナタだったが、気丈に振舞うボニータを見るとそれ以上の追及は出来なかった。
「それよりどーしよっか~おっさんも居ないし」
「あーそうです……あ!」
そこでようやくカナタは事の重大さに気付いた。
そこは誰も居ない森の中、鉄兜のアーヴェインならいざ知らず、目の前に居るのは紛れもない正真正銘の美しい女性だ。
カナタには母親を除き、今までに結来はるか以外の女性と二人きりになった経験が全くない。それでも美少女に対しての免疫は出来ていた為に、ガンツを間に入れた三名ならこの見目麗しいボニータとの距離感に戸惑いはあるものの何とかクリア出来ていた。だが二人きりとなると途端にそのハードルが高くなってしまう。
ニシツメを出た時点で気付くべきだったと今更ながらに後悔し、同時に緊張が心と体を支配し始める。
「ど、どう……し、しましょうか」
焦るカナタが脳内であれやこれやと思案していると、ボニータがそれを察して話しかけた。
「ヤだなぁ~カナタくん。別にデートするんじゃないんだからそんな緊張しなくても~」
「で、デート!? い、いや、僕はそんな事考えてないですって! な、なに言ってるんですかあー」
「あらあらあら~? もしかしてカナタくんデートした事ないのー?」
本来イタズラ好きな性分であるボニータはここでも揶揄い気味にカナタを煽る。
「な、ないですよ!なくてすみませんねっ! てっ、てかボニータさんこそデートした事あるんですかっ!」
「えっ? そ、そりゃあアタシだって……ない」
「あ」
揶揄われたカナタが苦し紛れに放った言葉がボニータの地雷を踏んだのか、そのまま黙り込んでしまう。てっきりあのカレルとデートくらいの経験は済んでいるだろうと思い込んでいたカナタは、ボニータの態度でその事実はなかった事を知り、慌てて前言を謝ろうとする。
「す、すみませんボニータさーー」
「デート」
「えっ?」
俯いていたボニータを気遣い、謝罪の言葉を述べるカナタの台詞を遮るようにボニータが突然ボソリと呟き、困惑するカナタの両肩をガッと掴むとこう叫んだ。
「デートしよっ! カナタくん!」
「えっ……えええっ!?」
― デート ―
カナタにとっては夢のまた夢であって、元世界ではついぞ叶う事は無かった一大イベントである。
周囲の人間には誤解されがちではあったが、結来はるかとの登下校をデートと規定する程、カナタは浮かれてはいなかった。あれはあくまでもカナタを守ると言う結来はるかの便宜上の行為であって、そこは彼女にも他意はなかったはずであり、カナタ自身がそれをデートと呼ぶには憚られる思いもあったのか、結局二人の間では最後までデートと言う言葉が出る事は無かった。
それがこの異世界に来て間もないこの時期に、しかも現地の美少女からデートに誘われたのだ。あまりの衝撃にカナタの思考は停止するが、それはボニータによってすぐに現実へと引き戻される。
「よ、予行演習だって! その……いつかお互いに本物のデートをする……時の……」
「あ、あー演習……で、ですよねえ……」
勢いで自分から誘った事に後から照れだしたボニータが顔を赤らめながら慌ててその弁明を始める。
予行演習と聞いて何故かテンションが下がってしまうカナタだったが、演習とは言えデートには変わりのない事に気付かないのか、気のない返事を返すだけだった。
「アタシとじゃ……ダメ……かな? カナタ……くん」
「あ……」
気乗りしないカナタに更に頬を赤く染めたボニータが上目遣いに誘うと、その潤んだ瞳に魅入られたカナタは言葉に詰まってしまう。
「だ、だいじょうぶ……です」
語尾に予行演習と鍵かっこが付くはじめてのデートは、異世界二日目のカナタに初めての経験をもたらす事となった。
※ ※ ※ ※ ※ ※
「えーっと、こ、これがデート?」
今の状況に不安げなカナタが思わず問いかける。
「そー! 騎士団ではこれがデートと言うものよ」
と得意げに答えるボニータ。
カナタ達はニシツメから少し離れた広場に居た。
ここは騎士団が管理しているグラナダ平原から続くほぼ草原に覆われた土地であり、周りを木の柵で簡易的に囲んだいわゆる〝牧場〟と呼ばれる場所だ。
カナタの目の前には異世界転移初日にグラナダ平原で乗ったガルシュが馬と同様ブルルッと息を吐き、その場で足踏みをしている。口元から下がる手綱は横に寄り添ったボニータが掴んでいた。
「付き合っている男女はガルシュでデート! これが常識なんだよカナタくん」
そう目をキラキラさせたボニータが嬉しそうに話す。流石に異世界でウインドウショッピングなどに洒落込むといったデートはないだろうと思っていたカナタだが、まさかの乗馬デートと聞いて一瞬たじろいだ。そして昨日の馬上での記憶が甦ったのか痛まぬ尻を思わず庇ってしまう。
ガルシュ好きのアーヴェイン=ボニータだけの趣味かと思いきや、その言葉通り周りにはチラホラとカップルと見受ける男女が楽しそうに二人乗り専用の馬具を身に纏ったガルシュに跨っている。
「えっと、き、昨日これには乗ったんで、ぼ、僕はいいかな」
「なーに言ってんの。昨日アタシ(アーヴェイン)と乗馬訓練の約束したじゃない」
「してませんよっ! アーヴェインさんには断ったでしょうが!」
「あーあー聞こえなーい」
「なにベタに聞こえないフリしてんですかっ」
定番なやり取りをする二人の会話が周りにも聞こえていたのだろうか、辺りのカップルからクスクスと失笑が聞こえてしまったカナタは恥ずかしさもあってか小声になる。
「わ、分かりましたから、もう少し声を小さくして下さい」
「分かればよろしー」
意見が通ったボニータは勝ち誇った顔でガルシュの手綱を寄せる。
「はーい。ルシータちゃん今からお散歩ですよ~」
「る、るしーたちゃん?」
「よっ!」
ボニータは寄り添ったガルシュの顔を優しく撫でた後、ヒラリとその胴へと跨った。カナタはその無駄の無い所作の見事さに一瞬にして目を奪われた。
「そ。可愛いでしょーたった今アタシが名付けたの」
「えっ、名付けた?」
「ホントはこの子ゴスデガルムって名前らしいんだけど、ぜーーんぜん可愛くないからアタシが可愛い名前をつけてあげたんだ~」
「で、ルシータちゃんと?」
「そ!アタシの周りには可愛くない名前や物なんて存在させないんだから」
「あ、あはは……」
馬上で拳を握り締め熱く語るボニータ。彼女が可愛い物好きと知り、騎士団の隊長をやっているという立場にいながらも、やはり元世界に居た同年代の女子と同じ感覚はあるのだなと妙に感心してしまったカナタが思わず笑う。
「ム~。なんで笑うのー」
「いやーボニータさんも女の子なんだなってつい……」
「あーバカにしてる? アタシだって普通に可愛いモノが好きな女の子なんだからねっ!」
ムッとしたボニータが馬上からカナタを睨む。
「えっ、いやバカになんてしてませんよ! て言うか、ボニータさんの名前なんて僕の居た所の言葉で、美しいとか可愛いって意味ですし」
「えっ?」
睨まれたカナタはつい苦し紛れに元世界で聞いた事のあるボニータの意味を説明し、それを聞いたボニータが驚いた表情を見せる。
「カナタくん……今の話ホント!?」
「え、ええ。確かそう聞いた事が……」
馬上に居たボニータがまたも華麗な仕草で地面に降り立つと瞬く間にカナタに掴みかかる。その顔は歓喜に満ち溢れ、カナタを尊敬の眼差しで見ているかの様にも見受けられた。
急に近寄られたカナタが動揺しながらもボニータに名前の意味をきちんと肯定するとボニータはカナタの両肩に手を置いたまま俯く。その体は微かに震えていて、何か不味い事でも言ってしまったかと思ったカナタは恐る恐るボニータに話しかけた。
「ボ、ボニータさん?」
「――だ」
「はい?」
「可愛いは愛だああああ!」
ガッと拳を上げて感動に打ち震えるボニータが叫ぶ。余程カナタの言葉が嬉しかったのか、目に薄っすら涙が浮かんでいる程だ。一頻り感動を噛み締めたボニータはカナタの手を取り、潤んだ瞳で見つめる。
「ありがとうカナタくん。今……今アタシはアタシとして生まれてきて良かったって初めて思ったよっ!」
「そっ、それは良かった……です」
「今までのアタシはこんなにも自分の名前が愛おしいって思った事なんてなかったもん。絶対いつか改名してやるって思ってたくらいだし」
「は、はあ」
「でもカナタくんの故郷でアタシの名前は可愛いって意味だって知ったら、もう永遠にボニータで良いやって思っちゃった」
「そ、そんなに?」
「うん! そんなにそんなに」
「ホントに可愛いモノが好きなんですね」
「そう!だーーいスキっ! 世界中を可愛くアタシ好みに変えたいくらい大好きっ」
「じゃあ、あの呪いの兜なんかあんま可愛くないんじゃ……」
「え、あれはダサ可愛い部類だから許すの」
「そ、そっちかあー」
カナタが想像した可愛いの法則とはあきらかに方向性が違ったが、ボニータが良ければそれでいいのだと自分に言い聞かせる。
「カナタくんのおかげだよ。アタシはこれからもどんどん可愛いを追求しても良いんだって、作り出しても良いんだって、やっと決心出来たよ。だってアタシは可愛いを背負って生まれたんだから!」
元世界に居れば、可愛い物や名前で溢れている。しかし、この中世に近い異世界では、なかなかそれも叶わないだろう。ボニータの目指す可愛いは言わば世界への挑戦の様なものだ。新しい文化を作り出す可能性をカナタは彼女に感じ、思わず応援したくなってしまった。
「頑張ってください……ボニータさん」
「うん。ありがと」
カナタはその時、繋ぎ合った冷たいボニータの手に一瞬の温かみを感じた気がした。
それはボニータの気持ちの表れだったのだろうか。
消えた温もりを追いかけようとその手を強く握り返したカナタにボニータが優しく微笑んだ。
「いつかカナタくんの故郷に連れて行ってね」
午後の日差しを浴びたボニータの美しく輝いたその笑顔に、
カナタはただ黙って見惚れるしかなかった。
ここまでお読みいただきありがとうございます。
続きが気になった方は、良かったらブクマ・お気に・評価・感想などよろしくお願いします。
作者のモチベが爆上がりします。