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短編・童話集

長い髪の女――ガムと失恋とわたしのショートカット――

 朝起きると、髪にガムが巻きついていた。


 昨日の夜はずいぶん飲んで酔った。

 ガムをかみながら眠りについた記憶がある。

 目をさましたとき、口の中に残っていたガムはほんのわずかで、そういや食べながら眠ったんだっけとわたしは考えた。

 髪のガムには気がつかなかった。


 寝惚け眼でシャワーを浴びて、髪をお湯でとかしはじめたとき、妙な感触に気がついた。

 ねっとりとした感触が、ちょうど後頭部の真ん中あたりにあった。

 すぐにはなんだかわからず、ひともみ、ふたもみしてから気がついた。

 げっ、っと声に出してしまった。


 ガムだ。

 しかもひどい位置だ。

 お風呂場から出るとすぐに姉に電話した。

 姉は美容師だ。


「お姉ちゃん、お願い、なんとかして」

「なになに、どうしたの、藪から棒に」


 一通りわたしの話を聞いた後、姉はげらげらと笑い出した。


「バカみたいね、あんた。自業自得よ」


 ちょっとかちんときた。

 バカなんて、ひどい言い草だ。


「酔っ払うのがそんなに悪いこと?」

「大学生の分際で、とは私は言わないけどさ。酔っ払って髪の毛にガムくっつける人イコールバカだと私は言う」


 姉の言葉は相変わらずキレがある。

 大したこと言っていないくせに妙な説得力がある。

 わたしは黙った。

 そして助けてくれるだろう姉の言葉を待った。


「それじゃ、今日は休みだから助けてやろう。店に来る? あんたの部屋、行く?」

「うちに来て」

「しゃーない、昼飯おごりね。じゃ、待ってろ」




 姉は一時間もしないうちにきた。

 電話が終わった後、すぐに準備をして駆けつけてくれたらしい。いつものハサミのケースを持っていた。

 姉から髪を切ってもらうのは久しぶりだった。

 大学に入ってからははじめてだった。


「あらま、これは見事だ」


 イスに座ったわたしの後頭部を見て、姿見の向こうの姉があきれた顔をしていった。


「どう見事なのよ。絡まっててよく見えない」

「量が、だよ。いったいどのくらいのガムを頬張ってたのよ、あんたは」


 しかし姉の診断によると、切らなきゃならないのは髪の毛の表層部分だけだと言う。

 不幸中の幸いだ、とも言ったけれど、背中まで届いていたわたしの髪はばっさりと落とさなければならないと言う。

 そうじゃないと髪のバランスがおかしくなる。


「マジで? 何で、お姉ちゃん、美容師なんでしょ。プロなんでしょ」

「それが何か」

「プロならさ、切らずにすむ方法知ってるんじゃないの? だから電話したんだけど」

「へー」


 肩をすくめながら姉は答えた。

 そうして首を傾けた。


「まあ、いい機会だと思ってさ。その髪、切りたかったんだよね」

「なんでさ」

「ずっとぼうぼう伸ばしているからさ。フラれてから、ずっとじゃないの」


 すぐには言い返せず、わたしは口を閉じた。

 だって、そのとおりだったからだ。


 あの人は、長い髪が好きだといった。

 そんな思い出。


「あんな男、大したやつじゃなかったよ」


 鏡の向こうの姉をわたしはにらんだ。

 しばらくしてから言った。


「なんでそんなこと言うの?」

「だって本当のことだもの。俳優だかなんだか知らないけどさ、全然売れてないくせに。私のかわいい妹をこっぴどくフッたくせに」

「やめてよ」とわたしはうつむきながらいった。「思い出させないで」

「忘れもしてない人から言われたくないね。もう一年以上も前のことなのよ」


 いきなり、姉はぽんと勢いよくわたしの頭を叩いた。

 それから素早く、ささやくように告げた。


「切るよ」


 わたしは首を振ろうとした、けれどその前に、じょきりという感触が髪を伝わった。

 すでに手遅れだった。




「法律上、嫌がる人の髪の毛を切るのは傷害罪に当たるんだよ」


 近所のファミレスで、チョコレートパフェを頬張りながらわたしは言った。

 姉は口笛を吹いて答えた。


「そういう余計な知識ばっか増やしてるわけね、法学部に入って」


 わたしの髪はすっかり軽くなっていた。

 いまはもう、肩までも届いていない。耳だって隠れていない。

 いわゆるショートカット。

 こんなに短いのはいつ以来だろう。


「似合ってるんだからいいじゃないの。自分でもそう思わない? ウソついたら、これやっぱ全部あんたのおごりね」


 姉はさっきわたしたちの平らげたテーブルの上の料理に目を向けながらいった。

 いまのところ、それらは姉のおごりだった。

 むりやり切った髪の毛を、あきらめながらもわたしが姉を責めた結果、そういうことになっていた。


「うん、似合ってる」半ば本気でそういったあと、わたしは眉をひそめて、「そう言っておけばいいんでしょう?」

「素直じゃない子ね。あんたってやつは」


 はあ、とため息をついて姉は席を立つ。


「どこ行くの?」

「トイレ」


 一人になったわたしはガラスへ目を向ける。

 透明なガラスの向こうに、薄く反射したわたしの姿がある。

 もう髪は長くない。


 頭はすっかり軽い。

 そう、なんだか軽い。


 わたしはあの人を思い浮かべてみた。

 まだ心はちくりと痛む。

 でもそれはどこか、思い出の中にいる薄っぺらなわたしの心であるような気もする。


 わたしはもう、長い髪の女ではない。

 なんて考えていたあたりで姉が帰ってきて、


「何にやにやしてるのよ。気持ち悪い」


 そんな言葉を聞いてすっかり風情が消えうせてしまい、それでも、


「まあ、そんな簡単に変われるものではないよね」

「何この子。ほんとに気持ち悪い」


 真顔でひどいことを言う姉に、笑ってみせるぐらいの余裕は生まれた。

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