プロローグ
俺の名前は竹田裕一。趣味はガーデニングと女という、普通の健康で健全な四十六歳の中年だ。
職業はない。無職だ。
嫌いなことは我慢と苦労としんどいことで、汗水流して働らくぐらいなら酒を浴びて女に埋もれたい俺は、この歳で定職にも就かず、親の別宅で親の金で、悠々自適に生活を送っている。世間では俺みたいな社会から外れ働かない人間のことを「ニート」と口をそろえて呼ぶらしい。このいかにもだめな人間のためにしか用意されていないような言葉に、普通なら恥じるか、自分の行い云々棚に上げて憤慨するところだろう。しかし、俺は恥も怒りも感じないどころか、そんなことは欠片も気にしていない。
なぜなら、俺はモテるからだ。
自慢で申し訳ないが、俺は生まれてこのかた女に苦労した事が全くない。だからといって、目立った才能があるわけでもなければ、外見が特別いいというわけではない――己の名誉のために言わせてもらうが、別に不細工というわけではないぞ。ちょっとは整っているからな。しかし、モテる。とにかくモテる。誕生日に女子からプレゼントを貰うなんて当り前で、バレンタインなんて荷車が欲しいぐらいチョコを山ほどもらうから持って帰るのがいつも大変だ。道を歩けば必ずナンパされ、カフェや飯屋に入れば伝票と共にアドレスと名前が書かれた紙を一緒にテーブルにそっ、と置かれたりもする。高学歴高収入の奴らが集う合コンでも負けなしだ。俺の天才的な話術とさりげない優しさで見事全員メロメロにし、この世は金と職業じゃないんだよ、ということを野郎共にさんざん思い知らめし、颯爽と全員お持ち帰り。などなど、俺の華麗なるモテ記は語りだしたら切りがないが、とにかく俺の周りに女がいない日なんてないし、いなくなることなんてありえない。事実、過去から現在進行形で絵に描いたようなハーレム生活を俺はずっと送っている。そのハーレムさ加減はきっと世界で二番目にすごいんじゃないだろうか。ちなみに、一番はエジプトの石油王だ。実際見たわけではない。俺の勝手なイメージだ。さながら俺は、美しい蝶を引き寄せる香りを放つ花のごとし。
そんな風にこれからも適当に好きに遊んで楽しく暮らしていけると思っていた。あの時までは――。
「まったく、いつまでも親の脛をかじりおって。そろそろ職に就かんか」
うららかな五月晴れの午後のこと。桜の季節を惜しむようにどこからともなく聴こえてくるホーホケキョ。晴れやかな澄み渡る青空が眩しい陽気、俺はいつものように親父に小遣いをせびりに来ていた。耳にたこなお決まりの文句が出たところで「やっぱりお茶は番茶に限るなぁ」と、俺はこの近距離で聞こえないふりを決め込んだ。
「まったく、そんなんだからおまえはご近所から馬鹿にされるんや。ほんまに。五十万で足りるか?」
「ありがとうございます! お父様!」
そのくせ、なんだかんだ言いつつも、いつもこうして欠かさず小遣いをくれるのだからありがたい。これとは別に生活費も十分余って嬉しいくらい口座に毎月振り込まれているのだから本当にありがたい。俺の生活がずっと安泰なのはあなたのおかげですから、これからも俺のためにしぶとく長生きよろしく頼むよ、親父!
「今日お前を呼んだのは他でもない」
分厚い茶封筒をいそいそほくほくとジャケットにしまっていると、親父は一つ咳払いをしていきなりそう言い出した。何を改まって。ていうか、俺いつも通り勝手に来たよな? 改まって言った割にはいつもの気の抜けた軽いテンションだったので、まぁ、どーせまたくだらないことだろうと決めつけ、俺は「ほぉー」と興味ない丸出しの返事を返しながら茶をすすった。
「実はな、今まで黙ってたんやけど、おまえには娘がおるんや」
――ぶっ!
「……へ?」
思わず、淹れてくれた、いつ飲んでも薄いお茶を吹き出した。閉まることを忘れた口からだらだらと茶を垂れ流し、俺はたった今、いつもの気の抜けた軽いテンションでとんでもないことを言いだした目の前の親父を穴が開くほど見つめた。
「ちょうど二十二年前や。わしの家に女が一人赤子を抱いて訪ねてきてなぁ。いやぁ、それはそれは美しい女やった。あんなえぇ女を捨てるなんて、おまえはとんだろくでなしやな。ちょっとぐらいわしにもお裾分けしようって気遣いができんか? ほんまいっぺん死んできたらえぇわ」
目の前で盛大に茶を吹き出した息子の心配なんのその、親父は淡々と事の経緯を説明しだした。
なんだ? いい加減もう年も年だが、いよいよボケたか? ボケた人間が言うにしてはしっかりした悪口が飛んできたが。せめて「汚いな」ぐらいのツッコミは入れてくれよ、関西人。本当にただ汚いことを勝手にしただけになったじゃねぇか。
「まぁ、それでな、他に行く宛てもなく途方に暮れておったから、わしマンション買うたげて今までいろいろ世話したっててん」
尚もお構いなしに続ける親父の話を、口元とテーブルを拭きながら俺は混乱している頭と心をなんとか落ち着かせ内容を整理した。話が適当過ぎてアレだが、要するに、俺がかつて関係を持った女がうっかりおめでたして親父に泣き付いた、ってことか。……え、なにそれ、こわい。長年かけて培った、こういった親父の珍発言に対する免疫のおかげで早くも冷静さを取り戻せたことにより、俺は純粋にそう思うことができた。いつのまにか子供がいたことも、どうやって住所を突き止めたのか俺じゃなく親父を頼った女も、そんな見ず知らずの女にマンションまで買い与え今まで世話してた親父も、色んな意味でこわすぎだ。下手な怪談話なんかよりも断然こわかった。「最上階ぜーんぶ買い占めてあげてん」とすごい自慢げにドヤ顔で、俺に嬉々と話している親父もこわいというか気持ち悪い。せめてシンプルに、親父が援交でまんまとカモにされたとかだったらよかったのに。しかし、この願望は思いのほかしっくりきてちょっと悲しくなった。
ていうか、なんで今さらそんなこと俺に告白してんだよ。俺にどーしろって言うんだ? しかもこの流れだと、これから俺に面倒を見ろと言われるパターンだと思うが、俺はあんたみたいなただエロいお人好しでも気前も良くないから、そんな面倒くさいもの絶対引き受けないからな! あ、でもよくよく考えてみればだいぶ年月が経っているし、子供の方も自立してもおかしくない年まで成長しているみたいだから、今さら責任どうこう言われることもないよな? ていうことは、俺は今まで通りの生活しても何も問題ないわけで……なんだ、何も焦る必要ないじゃないか。そう結論にたどりついて心底ほっとした。この親父の突拍子もない発言に振り回されるのには昔から慣れっこだったが、今回のはさすがに動揺してしまった。でも、俺はこれからも今まで通りでいいんだ。あー、よかった、びっくりした!もう、なんだよ。びっくりさせんじゃねーよ親父!ハハハハハ!
そうすっかり安心しきって俺は心の中で盛大に笑った。
「で、つい二年前じゃ。その女はかくかくしかじかで、結局わしに何も恩も返さんと死によってな。ほんで、昨日に残された娘におまえのことを話したら、おまえと一緒に暮らすって言い出してのぉ。つーわけで、よろしくじゃ!」
ハハハ……はい?
あれ?なんか今、世界の終わりを告げられたような……。俺はピタリと笑うのを止めて、でも顔はその時の笑顔が貼り付いたまま、天井を見上げていた顔をギギギ……とゆっくり親父の方に首を傾けた。
「だれが?」
「おまえの娘が」
「どこに?」
「おまえの家に」
「……何しに?」
「おまえと一緒に暮らしに」
――静まり返った部屋で、小鳥の鳴き声と、親父の茶をすする音だけが、俺の耳に鮮明に聞こえました。
「はあぁぁぁぁぁぁぁぁ!?」
やっと内容を理解した俺はみるみる顔色を変え、両手でテーブルに音を立て大声を張り上げ身を乗り出した。さっきの比じゃない、いや、今までと比べものにならないくらい仰天した。本当にびっくりすると人ってこんなにも反応が遅れるんだと身をもって知った。
「なんや、嫌か?」
「あたりまえだろ!」
親父はそんな俺を鼻をほじりながら不思議そうに眺めていた。俺からしたらそんな目で見られていることが不思議でならない。突然こんな話されて快く受け入れる奴の方が珍しいだろ。だいたい、母親だれだよ!? だれとの子だよ!? 俺はすぐさま思い出の引き出しを上から下まで高速で開けていった。……だめだ、心当たりが多すぎる!
「えぇやないか。息子と二人暮らしなんてむさっくるしいだけでなんもおもろないけど、ぴちぴちぷりぷりの若い娘と二人だけの生活なんて想像するだけでも羨ましいわ」
ほじくり出した鼻くそを丸めてピンッと飛ばして、親父は飄々とそう言った。
何を言ってるんだ、このエロじじい! ていうか、もしや俺にあの家を与えさっさとこの家から追い出したのはそういうことか!
「まぁ、そうやな。女呼ぶ時は邪魔かもしらんが、その時は出て行ってもらったらえぇし」
「俺は家に一度たりとも女を連れ込んだことはねぇよ!」
そう、実は俺、家では一人でゆっくりくつろぎたいタイプなのだ。自分がどれだけ惚れ込んだ女であろうとも敷居を跨がせることにひどく抵抗があるし、プライベートな空間をそういう場に使うのは嫌なのだ。もちろん、俺の家に行きたいと言う女は今までにも大勢いたが、得意の話術でうまいことかわしてきた。それに、ラブホとか車とか女の家の方がなんか興奮して燃える。これにはさすがの親父もびっくりしたみたいで、「てっきりラブホテル代わりに使い倒していると思っていた」と罵られた。相変わらず、俺に対する親父の評価は著しくひどいものだ。話を本題に戻そう。
「そもそも、なんで今さら父親の存在発表してんだよ! せめて母親死んですぐだろ!」
「いや、だって、おまえみたいな奴が父親って……」
「あんたに言われたかないわ!何笑ってるんだ!」
「まぁ、それもあるねんけど、うっかり忘れてて昨日思い出したんや。つーわけで、よろしくじゃ!」
「だから軽く言うなー!」
あまりのことに俺は頭を抱え、本格的に焦り出した。まずい、まずいぞ。このままでは本当に一緒に暮さなければいけなくなってしまう……!いつものごとく、開いてんのかさえもわからん眠そうな目をしているが、本気だ。このじじいは一度言い出したら聞かない。なんとしてでも阻止しなくては!
「そんな重大なことうっかり忘れてんじゃねーよ!絶対一緒に暮さないからな!」
「あーそうそう。娘の名前は正彦や」
「人の話聞け!ていうか、なんで男の名前なんだよ!女の子なんだろ!?」
「わしはなぁ、かわいくて聞きわけのえぇ息子が欲しかったんや」
おい、悪かったな。かわいくも聞きわけもなくて。いや、こんなこと素直に聞きわけてたまるか!いい笑顔で言うな!
「だいたい女には女らしい名前を付けないかんと誰が決めた?わしにはそんな世間の常識なんてもんは通用せん。せやから、おまえがいつまでもニートやっとってもほったらかしとるんや。とにかく、今日の三時のおやつの時間、おまえの家に訪れる予定やさかい。仲良うせぃ」
意味がわからん。
あの後、こちらはまだうんともすんとも言ってもいないのに、「つべこべ言わんと、もう来てまうから早よ帰ってもてなせ。わしのかわいい初孫よろしく!」と、強引に決定され強制的に追い出され、こうして帰路につく羽目になった。
いくら血が繋がっているのだとしても、なんで今さら、しかもこんな急に一緒に暮さなきゃならねぇんだ。一人で生きろよ。俺でさえ一人で生きてやってるんだぞ、親の金でだけど。だいたい、なんでそんな大事なこと今まで隠してたんだよ。隠し子というより隠された子じゃねぇか。立派に社会問題だ。本当に今さら俺にどうしろって言うんだよ。俺、父親のやり方なんて知らねえよ。何をどうすればいいんだ?結婚願望なんざ持ったこともないから当然父になる心構えもシュミレーションもしたことないし、俺の親父はあんな感じだし。なんかないのか?マニュアルとか。どこに行けば買えるんだ?金ならあるから買えるなら買うぞ。親の金だけど。
あぁ、本当なら今日は紫乃ちゃんとのどかちゃんと花織ちゃんと李緒ちゃんとオードリーとリンリンとドライブして、朝までみんなで仲良く楽しむはずだったのに、ふざけんじゃねーよ、ちくしょー。
そうぶつぶつ文句を思いつくままに垂れ流している間に、いつまにか家に着いていた。平屋だが広い庭がもれなく付いた昔ながらなデザインがとても魅力的な我が家だ。門から玄関までちょっと距離があるところも地味に好きだ。ガキの頃からこの家が好きで、この家に住んで好きに暮らして余生を送ることが俺のささやかな夢だった。それを突然ひょっこり現れた、どこの馬の骨ともわからん奴に台無しにされてたまるかってんだ。とりあえず、ブサイク、デブ、もしくはその両方を兼ね備えていたら全力で追い返そう!そう心に決め、門を開けようと手を伸ばした。その時だった。後ろに何か気配を感じた。
……誰かいる。
そのただ者ではない気配におそるおそる振り返った。そして、俺は絶句した。そこには 、頭にアルパカとヤギが合体したようなわけのわからない動物のかぶり物をかぶり、白タンクトップにジーンズのホットパンツを穿いた女がガムを噛み、時折風船を膨らましながら、とうに流行は過ぎ去ったキックボードを携えて堂々と立っていた。顔だけ見たら美少女だが、纏うオーラは紛れもなく変人だった。
「……あの、なにか?」
本当にただ者ではない者だった。故に、ものすごく関わりたくなかったが、あまりにもじっ……とこちらを見つめてくるのでしょうがなく尋ねてみた。しかし、女はこちらの質問に答えず、それどころかキックボードを引きずりながらそのまま俺の前を横切り、あろうことか勝手に門を開け人の敷地に入っていくではないか。
「て、おい! ちょっと待てって!」
しまいには、そのまま勝手に家の中に入ってしまったそいつの後を慌てて追いかけようと門に手をかけた時、門に文が貼りつけてあった。あの女が貼ったのだろうか? とりあえず門からそれを取って広げた。そこには「世話しろ 正彦」と、汚ねぇ字で書いてあった。
「まさひこ?」
どこかで聞いたような名前だ。いや、まぁまぁ有り触れている名前だからどこかで聞いたことは一回ぐらいあるだろうけど、それにしては記憶が新しいような……。そこまで考えた時、数分前の親父の言葉を思い出した。俺は思わず自分の腕時計を確認する。時刻は午後三時。世間的にはおやつの時間。もしかして……まさか――!
「ちわーっ、さわやか引越センターでーす!」
驚く間もなく、今度は後ろでトラックが止まった。次々と中から従業員が出て俺に礼儀正しく、且つ元気よくあいさつした。笑顔の従業員達は立ちつくす俺の前を横切って、どんどん段ボールを家の中へ運んで行く。俺はそれをただ茫然と見ているしかなかった。
「荷物そのままでいいってことだったんで、失礼します!」
数回往復した後、笑顔の従業員達はこれまた笑顔で「ありがとうございましたー!」と元気よく一礼して、その名の通りさわやかに去って行った。
うららかな五月晴れの午後のこと。桜の季節を惜しむようにどこからともなく聴こえてくるホーホケキョ。晴れやかな澄み渡る青空に向かって、俺は腹の底から絶叫した。
かくして、俺と正彦の日常は幕をあけた。