真心と無知の知
「無知の知」は西洋哲学の名言だが、
その意味は「知ったかぶりの知恵者
よりも自身の無知を自覚している者
の方が知恵がある」みたいになって
いる。禅問答風な趣味人の私でさえ
「な~んだかなぁ」と思うが、これ
が哲学の歴史なのだから仕方ない。
でも「無知の知」を「何も知らない
心を知覚している」と解釈したら?
生死、感覚、感情、欲徳等の何にも
汚されていない心を己の本心、正体
として生きる道を解いたとすれば?
それなら「神」や「皇帝」の権威が
絶対であった当時、異端として処刑
されたことも理解できる。権力者が
最も恐れるのは「賢い民衆」だから。
そして、そうなると東洋哲学の代表、
仏教の用語「仏陀」にも考えが及ぶ、
「目覚めた人=気付いた人=知覚者」、
何を知覚した人か?何も知らない心、
人間=高度な知性を持つ生命の本来の
精神を人の根源として説いたのでは?
「無知の知」は「私はソレを知って
いるだけ」と言う、お釈迦様は「気
付いただけ」と言い、「こんなコト
説いてもバカにされるだけ」と一度
は布教すら考えなかった。それほど
当たり前の、だからこそ揺るがない
真実に目を向けるべきときでは?