2045年以後の世界
生きている意味は、遺伝子にある。みんなそうだったし僕もそうしてる。この情報化社会が行くだけ行き着いた世界では、はっきりとそれがわかる。僕の名は、更科0125。意味は更科の名が付くどこかの研究所で産まれた125番目の子供だということらしい。
「今日も一日なにをすればいいのだろう。」
僕はベッドの中で、つぶやいた。そうだ、ここはAIが多くの仕事が人にとって変わり、人はベーシックインカムに収入のほとんどを頼ってる世界。労働と消費が分離して人が消費に特化した全ての人が夢見た社会。
(何か食べようか。別に腹が減ったわけでないけど、少しでも時間を潰さないと。そしてこの感覚、ジリジリ精神の底を弱火でたきつけられるような不快感。今日も消えてくれない。)
「そのくせ、いつまでも寝床からでれないのだろう?」
自問が湧いてくる。ああ?でも何が悪い?これがどんなに無様な形でも、僕なりの、この世界に順応した形なのだ。不機嫌だ。もう一度寝てやろう。こうすれば軽い眠りが襲ってくる。そうすればまた1日すぎてくれる。仕方ないじゃないか。誰も僕が何かする事を期待しているわけではない。ただ人口減少中のこの国で人口数あるいは遺伝子プールを維持するために生かされている僕なのだから。
そして僕は浅い眠りに落ちることができた。
(でも、何故僕の脳は自分に反対する事ができるのだろう?悪魔のささやきという言葉があるのだから、僕以外の人にもごく普通にある話なのだろうか。わからない。なんせ僕は0125。遺伝子工学の産物。この脳もコンピューターのごとく、ただのオンオフのスイッチの塊かもしれない。)
た
「いつまで寝てるんですか?起きてください。」
不意に声がした。女性の声だ。
「もう昼過ぎてるじゃないですか。不規則な食事と運動不足と無駄に長い睡眠は、全て寿命を縮めます。長生きしたければ早く起きてください。」
トーストとコーヒーの香りがしてくる。僕は上半身を起こした。さらに声は続く。
「今日の一般教養の学習の予定は、はや四時間から遅れています。すみやかに朝食をとり端末の前についていただくようお願いいたします。」
僕は彼女の方を見た。緑色のショートヘアーにニコニコ笑うあどけない表情が目に入った。彼女は僕の枕のあるあたりからだいたい人一人分の距離を置いて立っていた。僕は口の中でモゴモゴ台詞をどもらせながら返事する。二度寝のちょっとした罪悪感のためだ。
「わかった。すぐ食べる。でも端末には座らない。図書館に行ってくる。」
彼女は軽くうなずいた。
「承知しました。それでは学習のノルマはそちらでの達成よろしくお願いします。」
そして彼女は左旋回すると軽い足取りで台所へ行った。そして不思議なことに、ここに香水の香りを残して行ったのだった。(なんでこのメイドロボットは、いつも香水をつけてるのだろう?)僕は彼女の後ろ姿をみつめた。
彼女の名前はニコ。いつも笑ってるからそう名づけられたらしい。僕が生まれた時からいた。僕専用のメイドロボだ。小さな時から生活の知恵から今日の専用的な知識まで教えてもらっている。一方で炊事洗濯掃除のメイドロボット本来の仕事もこなしている。僕にとっては母親兼先生のありがたい存在だ。(本当に人間みたいだ。僕は彼女が日々行われる雑務や会話から、またそれを処理するプログラム、さらに極小のスイッチに流れる電子の振る舞いにまで人的な感情の基礎を見出してしまい擬人化してしまいそうになる。)さらに彼女自身が自称美少女メイドロボだと宣言していた。本人曰く、メイドロボという立ち位置自体、大きな価値があり、特にその緑色のショートヘアーは昔いたとされる伝説のメイドロボをリスペクトした結果なのだという。(妙なAI。)
ともかく僕は、遅い朝食をとりに寝床から出た。
「図書館に行く時は学習カードを忘れずに持って行ってください。」
ニコは食器を洗いながら言った。
「もちろん。じゃ、行ってきます。留守番よろしく。」
僕は紺色の手下げを左腕にひっかけると、そのまま左手をズボンのポケットに入れた。つぎにあわただしく右、左とスニーカーに足を突っ込み、爪先を交互にトントンやりながらアパートの鉄の扉を出た。外は晴れ。雲は多いが今日雨が降ることはなさそうだ。春先の多少寒い気温だがすぐ慣れる程度。僕は図書館にむかってあるきだした。
ちょっとここで考えたい。どうだろう、自分は天才になりたいか?そうすれば何か良いことあると思うか?僕は今クレジットカードのような銀色の学習カードを持っている。ここには僕が今日やらねばならない学習内容と時間、達成されるべきレベルが入っている。それは退屈で自分を無理に引き立たせ無ければ達成しない課題が山積みで、たしかに天才なら軽く解決する事が出来るかもしれない。だが、この学習の本当の目的はAIに振り回されない自分を獲得することにある。この自律化したAIに囲まれたこの世界でも、まだ人間中心に事が回るようデザインされているからだ。人間はAIに飲み込まれないよう多様な選択肢をもてるようにした。こうすれば狼の前をジグザグに逃げるウサギのごとくいくばくかの個体は逃げ延びる事が出来ると政府機関は考えたのかもしれない。悪いAIがあらわれれば。
僕は学校に行ってなかった。気が付けば、そばにニコという良い家庭教師がいたし政府の医療機関の人からは、天才は幼い時から家庭教師がついていたとか学校に行っても落ちこぼれだったとか聞かされた。天才は天才という才能を使って長生き出来るはずだし、短命でもその業績は永久に残るだろうとも。だから僕は学校に行くのか自宅の学習を選択するのを求められた時、迷わず自宅の学習を選んだ。そして自分が天才になる夢をみた。例えば人に反乱を起こしそうなAIと対決、ギリギリまで交渉を重ねた結果AIを説き伏せるとか。あるいはイカれたコンピューターがいる巨大な計算センターに乗り込み、たくみに警備システムをかいくぐり、ついにはコンピュータの心臓部に到達。うまくプログラムを書き換え全ては平常運転。世界は平和を取り戻す。
でも現実はそうではなかった。AIはずっと賢かった。僕はいつしかこのコンピュータだらけの世界に慣れてしまい、しだいに天才などなろうとおもわなくなった。むしろ天才にでもなって下手に抵抗すれば余計に痛い目にあって苦しみ悶えて死ぬはめになるかもしれない。もし死ぬなら楽に死にたいから馬鹿な方が得するのではともおもっていた。
図書館に着いた。市営の二階建てのよくある白い鉄金コンクリートの建物だ。ただ一階がガラスばりで一般の閲覧者は外から丸見えなっていたので、利用者は学習中ずっと通行中の見知らぬ人たちからの視線を我慢しなければならなかった。確かに建物のまわりにはハクが等間隔に植樹され少しは外から見えづらくなってはいるが、建物の一階の床が道路より50センチほど高い所にあるため人間動物園になっている感はいなめない。市長か設計者の思想かわからないが、読書は明るいものだという印象をもってもらいたいという目的で設計した結果なのだと予想しているのだが、もしそうだとしても、この建物の一階に好意をいだくなどできそうにない。
そんな理由から僕は図書館にくればおもに二階の未成年用の学習室兼政府等の統計調査、刊行物等の閲覧室にいることとなる。まあ学習のノルマ達成するにはパソコンの前に座らねばならないし、パソコンが集中して置いてあるのはここだということであるのだけど。
二階への階段を上りきると、そこは二階の集合場所兼休憩所だ。テーブルに椅子が二人分、自動販売機が二台置いてある。八畳ほどの空間だ。道はここから左右へと別れる。階段を登ってすぐ正面の白く無地の壁には眼の高さほどに透明なアクリル板がかけられていた。そこに書かれてある黒字の矢印と文字に従い右に曲がれば、学習室にたどり着く。
学習室の壁もガラス張りだった。しかもスイッチ一つで磨りガラスなる。普段は透明なままだ。ガラスの壁には黄緑色の太い線が二重にひかれ、かつその上にポスターが貼られていたりする。これはガラスと気がつかずそのままぶつかってしまう事故を防ぐためである。ただガラスは頑丈で傷つくのは人だけだ。話によるとこれは防弾ガラスという事だ。何故ここにそんな物がいるのか理由はよくわからない。
一日5時間、ぶっ続けでも休みを入れながらでもいい。ノルマだけ勉強すればよかった。基本、50分の学習と10分の小テストの繰り返しで、先生はディスプレイの中のAI先生達だ。僕は自動ドアを通る一番近くの空いた端末のまえに座った。一般の公立学校の教室並の広さに、また似たような大きさの机と椅子が30セット並んでいた。これには同年代の環境をなるべく平等にする狙いがあるらしい。僕は着席すると手下げから財布を取り出し学習カードを取り出した。端末に電源を入れカードをリーダーのスリットに滑らせディスプレイに出た項目を指示通り打ち込むと学習開始だ。
学習中は周りの迷惑にならないようヘッドホンをしなくてはならない。今日は僕と同類が10人ほど来ていた。知ってる顔も2人か3人ほどいるみたいだった。たがもちろん勉強中の私語は原則禁止だ。僕は画面に集中した。ヘッドホンからは苦手な物理の授業が流れ出す。僕は10分しないうちにアクビを出し始めた。ほどなく画面の中の先生がいやな顔をして、僕に今、先生が言ったこと入力するようにと命令をした。僕は慌ててキーボードを打った。
そろそろ夕方に差し掛かろうかという時刻。僕は今日のノルマを終えて一階の図書館内に設けられたカフェテリアにいた。ここで唯一騒げる場所だ。今も他の学習を終えた連中が集まって何やら楽しそうにワイワイやっている。僕は窓から離れたテーブルに陣取り自動販売機で買ったサンドウィッチとホットココアをひろげ小腹を満たしていた。
ふっと目の前に影がさした。僕は反射的に顔を上げた。そこにはアゲハさんがいた。彼女は僕が体育や実験など共同作業系の学習ノルマがある時よく組まされる相手だった。なにやらいつも、つまらなそう顔をしていて話しかけづらく必要最低限の会話しか成り立たなかった相手だったが、なんの原因があったか彼女から積極的に話しかけて来るようになって自然に会話できる仲になった。黒のおさげを肩に乗っかる感じで伸ばしてる。白のブラウスに赤いジャンパーを羽織っていて、赤いスカートとさらに赤いナップサックを背負っていて、まあともかく赤が好きらしい。本人が言ってるのだから間違いはない。
「先生のカスタマイズ、いいのないか考えているけど、うまくいかない。いいの教えて。」
少しふてくされた感じで彼女は言った。
ここで図書館に本が残っているとした点を説明させてほしい。ただ単に端末とテーブルと椅子をずらりと並べて間に観葉植物でも置いて図書館と称しても良かった。だが数十年後の未来のことだから急に本がなくなると考えるのも難しい。多分、予言外して嘘つき呼ばわりされるのがオチだ。しかしもう少し積極的な理由がある。
本が残っているのは、それが人間が人間に対してのみ書かれた媒体だからだ。もちろんAIもそれをスキャンすることができるけれど機械はもっと早く情報を伝達し合うことができる。AIが本を読むのは誰が見ても人間に対して手加減してこっちへ降りてきてくれてるようにしか見えない。しかし人が本を読むというのはAIとは違うという。AIの場合は情報の処理速度を遅くするだけだが、人がディスプレイから情報を得るのと本から情報を得るのでは脳の使い方が違うらしい。「ネットバカ」(青土社)には2008年UCLAの精神医学教授ゲーリー・スモールの研究を紹介している。それによるとウェブページを読むのと本を読むことは違うらしい。本と本をまねたスクリーン上の文章を読ませた結果、本を読む時の人の脳は、言語、記憶、視覚処理とその関連分野が活発に活動する。一方熟練したウェブの使用者は、それまで本を読むのに使っていた部分に加え脳の前頭前野でも大規模な活動が見られたという。これは人間がコンピューターを使うと頭が良くなるという証拠だろうか?だとしたら知能指数のテストの成績は昔と比べ良くなっているのに文章読んでも頭に入らない、などという話はどう考えればいいのだろう。それはウェブがテレビ画面上に字を書いている事にあるからではなかろうか。最近のブルーライトで目が悪くなるという話や眠れなくなるから不眠症気味の人は寝る前にパソコン等はつかわないようにするという話が本当なら、人はスクリーンの光を前にした時、何も学ばないのに勝手に神経が興奮していることになる。まあ本文では詳しいことはわからないから研究者もベテランなのでこの可能性は排除されていると考えていいかもしれない。でもこれは言えると思う。ウェブの達人にあって読書人になかった反応、前頭前野の活発化はそれが脳の問題の解決と様々な決定をつかさどるだけにディスプレイから高速かつ大量に流れてくる情報を何とか意味ある情報にしようと無意識下で必死に、なんか二択の問題出てるけど3秒で答えなきゃならないからとりあえず全部こたえは「はい」だとか、3Dゲームで何かゴチャゴチャ背景あるけど女の子キャラしか興味ないからそれ以外の情報は捨てるとかの作業しているのではないかということだ。
本はそういう意味で情報不足のメディアだ。マンガですらそうだ。読者はコマとコマとをつなぐため無意識にいろんな情報を付け加えているのではないか?活字だけならなおのことだ。読者は名詞ひとつひとつを思い浮かべねばならない。つまり読書を楽しく完遂させる為にはイメージを自分に与え続けられるくらいたくさん持った方がいいということになる。そして今でもそれは想像力と呼ばれものと考えられているようだ。
不足を補う力が想像力なら、すべて与えくれるコンピュータを前にし続けても身につかないだろう。ましてそれが生きる為に必要と考えられるのならぜひ身につけねばならない。本を残す理由はもう明らかだ。それに想像力の成長を期待するに他ならない。
アゲハというのは彼女の本名ではない。彼女も味気ないシリアルナンバーのような本名がある。もちろん改名は可能だ。彼女や僕が気に食わなければそうする。どうせ親からもらった名というわけでもないから気兼ねする必要もない。現在僕らが名前を捨てないのはただ単にそれが面倒だということだからだ。ただ彼女には本名にもう少し思い入れがあるらしい。彼女の生まれた研究所の誰かによくしてもらった事。アゲハというのもその人にもらったのだという事。決して僕に明かしてくれない本名には実はあまり良くない思い出があるらしいという事。
「先生のカスタマイズ?あれはデフォルトでやってるから。ていうかあれイジくってんすか。AIの判断に任せといて間違いないと思いますよ。」
僕は持っていたココアをテーブルに置きながら言った。彼女はテーブルの空いたところにナップサックを置くと正面のイスに腰かけた。
「えー。少しはいい点取りたいと思わないの?私もうちょっと国語の点あげたいのよ。でもあの先生じゃ絶対無理だと思う。」
「無理って、もともと内容が難しいなら誰が教えても同じじゃないですか。自分の頭で理解しなくちゃ。」
「えー?自分に相性のいい先生作るのも努力のうちでしょう。えー?デフォルト?いやない。ありえない。」
「あの自分もやったことあるからいってるんですよ。男女、性格、声の性質、話すスピード、年齢、あと細々した設定。もう小数点以下まで微調整して悟ったんです。やる気が一番の先生だと。」
「そんなのわかってる。だけどそれ以上のものが欲しいって思う時はやる気だけでは足りないっていうか、何か奥の手があるはずなのよ。」
「奥の手ですか。そんなのあったら僕が知りたいです。ずっと平均点あたりであきらめてましたからね。でも国語なんでしょう?日常会話さえできたら大人になっても問題ないですよ。」
「あーコウに聞いたのが間違いだった。なんでそんなにやる気ないのよ。」
アゲハさんは怒ったように言った。(ちなみのコウは僕の事。僕はヒトによって更科とかコウとか好きに呼ばしている。)
「やる気って。やっぱり僕より成績いい人のアドバイスでないと参考なんないですよ。とりあえずネットで聞いてみたら?」
「やったわよ。でも自分の好きな男にデザインしたら?とかディスプレイに先生を2人以上表示して合唱させると効果あるとか、本当ろくなこと言わないの。それなのに私どうも貴重なご意見ありがとうございました。なんて返事してるのよ。間抜けだったわ。」
「好きな男?効果あるんじゃないですか。」
「無理。だって好きな男いないもん。」
「ああ、そうですよね。わかります。」
「え、ええ?なにが?」
「ネットがあまり役に立たないということ。」
「そう!本当困っているのよ。」
彼女はそういうと何故か笑顔になって自分のナップサックの中を探し始めた。
「なんかコウ見てたら私も喉かわいてきたわ。何か買ってくる。」
サイフは袋の底にあるらしい、右手をナップサックの奥までいれていた。ガサゴソいう音とともに薬の錠剤のような音も聞こえてきた。やがて赤いサイフを見つけると袋から手を出し彼女は立ち上がった。
「でもAIから国語教えてもらうのも変よね。人間の言葉なんだからコンピューターが理解できるわけないじゃない。」
彼女は自動販売機に向かいながら言った。僕は呆れたように答えた。
「どうなんでしょうかね。先生のプログラムも今まで存在してた先生達の教育法のデータの蓄積のもと動いているし、なによりAIは人間の知能をこえたんでしょう?」
ニコは目を閉じ両手を膝の上に置いてキッチンの椅子に座っていた。誰もいないしやる仕事も無いからエネルギー消費を最小限に抑えるモードに入ったのだ。ここから彼女はコウが帰るまでピクリとも動かなくなる。例外はときどき来る宅配業者らへの対応だが今日に限っては何者かも訪ねてくる気配が無かった。
いつもの留守番の時間が流れた。車の通り過ぎる音、鳥達が互いにさえずり合う鳴き声、遠くに聞こえる近隣の住民の立ち話、道路工事の音。多少風があるのか木々のざわめく音や犬の鳴き声も聞こえてくる。あとは上空から旅客機が飛んで行く音。
ニコは目をつむったまま、ただ音を拾い続けた。この行為は防犯のためだった。何らかの不審な音に対する警戒はたとえ活動休止中でも途切れることはない。ただ目を閉じているのはコウが以前夜中に目を覚ました時、ここにこうして座ってじっとコウを見ているニコを見て気持ち悪いからやめてくれ、と言われたからだ。主人の要望なのでここは従わざるおえない。だがもしも泥棒等の犯罪が行われようとしても外部の防犯カメラとの情報の共有はできてるし、彼女のWi-Fiはサポートセンターにつながっていて怪しい情報は無いかと常にチェックされていた。
犯罪、特にロボットを使った犯罪が問題になっていた。動機の典型的なものはベーシックインカム等の収入以上の生活に起因するもので、それらの人々は自らの生活を維持するために借金や破産を繰り返し、最後にはロボットを違法に改造(ロボットのAIは犯罪に利用されないようプログラムされている。)してロボットに泥棒させたりしていた。
ニコはその時聞き慣れない足音が近づいてくるのに気がついた。その足音はコウの部屋の前を通り過ぎ隣のドアの前で止まった。隣は空き部屋だった。新しい入居者だろうか?ニコは、確認のため各場所の監視カメラの映像にアクセスできるようサポートセンターに問い合わせてみた。
不審に思うには理由がある。まず管理人や住人との共有する掲示板に訪問者予定の記述がない事。数分前に公共の防犯システムネットワークから不審者接近の警告を受けて受けていた事。最近この付近で空き巣騒ぎが6件ほど発生している事。
ガチャリ戸が開く音がした。「?」ニコは目を開け自分の部屋の扉を見た。扉は閉まっていた。開いたのはとなりだった。ニコの警戒レベルは一段階上がった。空き部屋は1ヶ月前隣人が引っ越してから鍵が外されたことはなかったはずだからだ。しかし空き巣なら何もない空き部屋に侵入する理由がわからない。即急に管理人と連絡を取って事実の確認をしなくてはならないのに何故か連絡がとれない。警察に連絡を入れるべきかどうか判断のしようがなかった。
ニコは監視カメラの情報を共有する権利を得た。不審者の情報が上がってからの時間、ニコを中心とする円内に存在する五台のカメラについてである。ニコはすぐにこの階に設置されているカメラのアーカイブをのぞいた。全身黒ずくめの人物が見えた。男女の区別はつかない。身長は低い部類に入るだろうか?全体的に華奢な感じがした。黒のニット帽にサングラス、白いマスク髪は黒く短めだが散髪前の人間のようにどこか乱雑な感じをうける。黒の革ジャンに黒の革手袋と、下には黒のタートルネックを着ておりそれで首を覆っていた。下は黒のジーンズに白の運動靴、靴紐のやつだ。それがわりとしっかりした足取りをして歩いているので年は若いように思える。あるいはロボットか?それが脇目も振らず空き部屋のドアの前へ進んで行くと、何事もないようにドアノブを回し、扉を開け中に入っていった。後はそれが後ろ手で扉を閉めると、それ以降は何の変化もない映像が続いた。
突然サポートセンターからニコへ連絡が来た。今から十分後に民間の警備会社から警備員が派遣されるとの事。どうやら無理にロックが解除されたときのアラームが鳴ったというのだ。犯罪の可能性が高く充分注意が必要だということらしい。
ニコは立ち上がり自分の部屋の扉へ進んだ。それは何らか方法で楽に解除できるらしい。監視カメラの映像はそれをよく写している。そうなるとここへ賊を入れないためには、ニコがドアノブをつかんで固定し扉を開けられなくする他ない。ニコは素早くドアノブにてをかけた。
「ただ今、近隣のアパートより不審人物による不法侵入があったと通報がありました。ここは他の連中に任せたから我々はそっちにむかえとの巡査長からのお達しです。」
警官ロボットが話しかけてきた。マネキンに警官の服を着せたようなやつだ。人間のように走ったり話したりするが、経費節減の関係で人間の表情等の細かい機能は着いていない。同じ顔をしてるし同じ声色で話す。
「わかった。直ちに移動する。あっ、兼山さん、なんか空き巣がでたらしいんでみてきます。立ち入り禁止テープはっといたんで、あと見張りたのみます。」
「うん任しといて。竹内君も気をつけて。最近も改造ロボットのせいで死人が出たっていうから。で、こっからちかくなの?」
竹内は路肩に停めていたパトロール用のバイクにまたがりながらうなずいた。相棒のロボットも同じようにバイクにまたがった。現場はこのロボットに伝えられてるから、竹内はともかくコイツの後をついていかなくてはならない。竹内のスマートウォッチにも住所が表示されているが正直詳しくはどこか分からなかった。
「準備はよろしいでしょうか。出発します。」
ロボットが言った。
「ああ、わかった。ナビゲートしてくれ。」
竹内が答えると、ロボットはこっちに向けていた顔を正面に戻すとそのままバイクをスタートさせた。竹内も後に続いた。
彼らが後にしたのは自動車のスクラップ工場。なんでも自動車のプレス機で爆発があったらしい。小規模なものだったから工場が燃える事はなかったが、原因がおかしかった。目撃者の話によるとどこからともなくロボットがやってきて自分でプレス機の中に飛び込んだというのだ。誰かのロボットが故障したのか、あるいは魔改造の失敗した結果か。もっともらしい理由をつけて自分を納得させるしかないが、もしかしたらこのロボット、自殺したんじゃないかとも疑ってみたりした。どちらにせよ真相をつきとめるのは専門家の仕事でこちらの仕事ではない。
竹内はともかくロボットに次いでバイクを走らせた。
ドンッ!
扉に近づいたニコの背中の方から音がした。ニコは立ち止まって音のした方に向いた。
ドンッ!
また音がした。明らかに隣の部屋に入った何者かが壁を蹴るか何かしているのだ。ニコは隣で不審人物が何をしようとしているのか探ろうとした。まず隣部屋の監視カメラが動いてないか確認した。当然の事だが動いていない。次に相手の動機を推論しようとした。まず相手が盗みを目的としてきたのだとしよう。だとしたら何故何もないことが明らかな無人の隣部屋に入ったのか?気まぐれや直感できたのなら、こうもやすやすと扉のロックが開錠できたのか万人を納得させられるような理由が思いつかない。
ドンッ!ドンッ!
音は明らかに怒気を含んでいるようだった。もしかしたら盗みに入る場所を間違えたことに気付いて怒っているのだろうか?それはない。間違いなら誰にも気づかれないようにして静かに出て行った方が警察に捕まる可能性が低くなるはずだ。ましてや誰かここに居ると主張し通報を促すような行動をとるはずがない。目的は別にある。コウかニコ、あるいは両方に関係があることだとおもわれる。
ニコは扉の前から離れた。もうカメラで扉の外には誰もいないことは確認している。危険はない。ならば相手の居る方へ近づいてなんらかの会話を試みてもよいのではないか?ニコは音をたてないようゆっくり壁に近づいた。
ニコのサポートセンターのAIは現場での処理に追われていた。警察が来る前に警備会社から派遣された警備員たちがニコのアパートの前に着いたからである。まだおそらく彼らは警察が来るという情報を得ていない。このまま放っておけばそのまま問題の部屋まで行き例の危険人物の事は処理してくれるかもしれない。だがもし相手が改造された殺人マシーンのロボットだとしたらどうだろう。おそらく戦闘は必至だ。警備員はロボットと人間の二人組であるという話だから数の上では有利だろう。ただ相手が無人の部屋に侵入するという目的が不明確な行動をとっているため、なんらかのテロ行為も想定することも可能になる。ニコからは相手がこちらに気づき威嚇されていると報告があった。最低でも暴漢レベルは想定される。そして最悪なら自爆テロがあるといえる。AIは警備員のロボットに連絡した。「これは警備員だけで問題を処理できない可能性がある。警察がむかっているので待っていて欲しい。」程なく相手から返事がかえってきた。「私たちも警察から連絡を受けている。警察の邪魔になっては駄目なゆえ私たちは近くで待機する。しかし今、身元不明の相手から圧迫を受けているロボットはこちらの警備対象なので、いざという時に逃げる手伝いくらいはさせていただきたい。」AIは了解と返事した。次にやらねばならないのは、ここの住人のコウをしばらく自宅に近寄らせない事だ。コウはまだ図書館にいるらしい。ならばもうしばらくそこにいてもらうのがいいだろう。AIはテンプレートから文章を拾いコウのスマホに送った。「ニコのメンテナンスの問題で自宅が塞がるからあと1時間ほどそとでつぶしてきてほしい。」1時間で事がすむかどうかわからないが正直に報告すると心配になってコウがすぐに帰ってくる可能性がある。逆に1時間もあれば警察がなにかカタをつけてくれるだろう。あとはニコのサポートに残りのリソースを注ぎ込むだけだ。
速報がはいってきた。近隣にあるプレス機で事故を起こしたロボットは、このアパートの管理人ロボットの可能性が高いらしい。このロボットは型番が古いとはいえ最近のメンテナンス後は良好で誤作動が起こった可能性は低いという。ならばなんらかのリモートコントロールを受けていたという可能性が高い。ならば相手はかなり悪質なハッカーで被害がこのアパートのロボットということから今回の不法侵入との関わりは極めて高いと判断せざるを得ない。わからないのはその動機だが?
AIは警戒レベルを上げることにした。
「すみません。どなたかいますか?隣は空き部屋のはずですが?引越しの準備ですか?」
ニコは壁に向かって大声を投げかけた。すると壁の音は止んだ。どうやら声はとどいたらしい。ニコは壁の音がしたあたりをじっと見つめた。
サポートセンターからの通信が彼女の脳内に響いた。「あまり相手を挑発する行為は控えた方がいい。警察が来るまではなるべく現状維持の方向で」ニコは脳内で了解と返事した。
ニコは壁を見つめた。もう声はかけてしまったのだ。相手がどんな行動をとるのか返事はあるのか注意は怠れない。緊迫する空気が流れた。そして2分ほどたった。なにも起こらなかった。
「サポートセンター、相手は隣の部屋から出たのでしょうか?」ニコは脳内で問うた。
「いや、その事実はない。君もカメラの映像を確認できるだろう。」サポートセンターが返事を返した。確かにそれは確認できた。でもそれもおかしい。このままだと、かくも手の込んだ不法侵入をした後、壁に八つ当たりを何回か行いあとは大人しく警察に連れて行かれることになる。そんな無意味な事はあり得ない。まだ何か考えている可能性が高い。
ニコはサポートセンターに尋ねた。「もう少し何か声をかけてみましょうか?」
サポートセンターは答えた。「オススメできない。じっとしているべきだ。」
ニコは助言にしたがった。疑問がなんにせよリスクを最小限に取る行動がロボットに求められるものだからだ。
ふと、壁の向こうから何かが聞こえた。「サポートセンターへ。いま隣からなにかきこえた。わかりますか。」センターは否定した。「いや何も聞こえない。」
ニコは耳を壁に向かって澄ました。確かに聞こえる、まるで古いハードディスクがカリカリ言っているような音。
ニコは言った。「これ聞こえますか?壁の向こうから機械音がします。」センターは答えた。「いや聞こえない。なんらかのノイズではないか?」
それでもニコには聞こえた。ニコは立った位置から壁へと少しずつ近付いた。「聴力を最大限引き上げます。音を拾うので判断して下さい。」センターは「わかった。くれぐれも慎重に。」と答えた。
ニコは音を立てないようにゆっくり静かに壁へと進んだ。あの音はなんだろう、彼女は音について検索をかけた。ハードディスクの音、歯車が噛み合う音、針時計の音。どれも当てはまらない。どれもアナログ過ぎると判断できた。これはむしろもっと最先端の技術が漏らす音ではないのか?過去をさらって当てはまらないのなら、まだみぬ機械が出す音と結論づけても妥当だろう。
ニコはそっと右肩を壁にあて、静かに右耳を壁につけた。「聴力を最大に上げます。よく聞いてください。」彼女は聴力を最大に上げた。
カチリ
ニコの背後、玄関の方から音がした。
この部屋のオートロックがはずされるおとだった。
先行する警官ロボットがバイクを停めた。竹内も後に続いた。目標のアパートから少し離れている小さな公園の入り口の近くだ。そばには警備会社の車が停められており、こっちはその後ろにつけた格好だ。車内から社員が助手席から頭をこちらに向けて会釈するのが見えた。こちらも軽く頭を下げた。相棒のロボットはバイクを降りじっと対象のアパートを見入っている。竹内もバイクを降りた。
ここはいわゆる閑静な住宅街だ。今の時間なら車もあまり通らない。現場の住人達も静かだ。通りを歩いている人も見えない。目指すアパートも外見上は何も問題なく見える八部屋ほどの駐車場もない学生用のアパートだ。歩いて何十歩か右手に折れる道をすぐ右手に人家、左手にそのアパートという配置で後は取り立てて気を引くようなものはない。
「あのアパート一階の左から二番目のところがそうか?」
竹内はロボットの背面から小声で聞いた。ロボットはうなずいた。竹内はロボットの右側にまわると侵入された部屋の扉から目を離さぬようにして続けた。
「中の様子はわかるか?」
「いえ、部屋の中にはカメラはありません。ただとなりの住人のロボットから脅しを受けているという報告があります。慎重に近づいた方が良いでしょう。」
「そのロボット、暴行でも受けたのか。」
「いえそうではないようです。ただ容疑者が目標にする部屋を間違えて入った結果がそれだということなら緊急を要すことになります。」
ロボットはそう言うと歩き出した。竹内も後に続いた。もしかすると拳銃を使うことになるかもしれないと竹内は思った。しかしもし相手が犯罪用に改造されたロボットならこれがどれほど役に立つのかは疑問だ。署内で聞かされた話しでも不審者情報からパトロールしていた警官が、物陰に隠れていたロボットに不意に襲われ死にかけたという。襲われたとき警官も反応したのだが相手が早すぎでとても追いつかなかった。やむなく激しいタックルを受け転倒。警官は怪我を負って動けずロボットは逃走してしまった。警官は相棒が呼んだ救急車で病院に運ばれ命は取り留めたものの右のあばら骨三本の骨折のうえ肝臓も破裂すると言う大怪我だった。相手がロボットである可能性があるのならロボットを向かわせた方がいい。これがこの話のミソだ。
竹内は後ろから話しかけた。
「俺はとなりの住人のロボットに事情を聞くから、そっち容疑者のほうたのめるか?」
「ええ。妥当な案と思います。私もそのように提案するつもりでした。」
「うん。じゃあそれでいきますか。」
アパートにも近づきあと数歩ほどで敷地内だ。ロボットが言った。
「ああ、中から新しい情報です。先ほど部屋のオートロッ」
一階の左端の部屋の扉が激しい音を立てて開いた。竹内はとっさにホルダーの銃に手を伸ばし、ロボットは竹内の前面をカバーしようと身構えた。
扉の内には緑色の髪をした女が立っていた。これは話に聞いていた隣人のロボットらしい。こちらのロボットの呼びかけに応じて出てきたのだろうか?しかしそれにしては何故かこのロボット、随分と怯えているように見えるのだった。
「空き巣の通報があったそうですが、そちらで間違いありませんか。」
竹内は出てきたロボットに近づきながら聞いた。しかしロボットは玄関に突っ立ったまま何の反応も見せなかった。
「ちょっと待ってください。」
前を行く相棒のロボットが言った。そして相棒は立ち止まり右手を手のひらを見せる形で前後に二回ほど軽く振った。竹内は立ち止まった。何かまずいことでもあったのだろうか。竹内は、じっと相棒の後姿を見つめた。相棒は相手のロボットをただ見ており、相手もまたそうしていた。こんな時はたいていロボット間で事態の情報を確認している時だ。当たり前の事だが、ロボットが喋るより通信手段で互いに情報を共有させた方が速く正確で情報量も多い。そもそもネット自体がコンピューターどうしの電信的な会話でなりたっているように見えなくもない。人間はそこではただの傍観者でコンピューター間の会話に割り込むことはないだろう。おとなしくコンピューターの処理やロードを待つか、せいぜい面倒になって作業を中断させるくらいだ。まあ通信の盗聴や妨害はあるが、それとても注目されるのは人間どうしで交わされる情報で、コンピューターどうしの会話ではない。でもこのように情報の共有を人間を間に入れるとどうなるだろう。コンピューターは自分の言語から人の言葉に翻訳され、次のコンピューターはその人の言葉をコンピューターの言葉にして解釈する。今日でも世界各地で人工知能どうしを人間の言葉で会話させた結果がトンチンカンな事になると確認できるが、これはコンピューター間の適切な言語より人間の言語に無理に置き換えたことの結果と考えられると思う。
結果、竹内は人工知能どうしで話してる時はじっとしているのが仕事がうまく行く一番の方法と考えていた。そしてそれは大概その通りだった。と、ふいに後ろからまたロボットが現れたのに気がついた。警備会社のロボットだった。それが竹内を無視して横を通り過ぎると相棒の左斜め前に立ち止まると顔を問題の扉に顔を向けたまま動かなくなった。どうも人工知能連中で相談してるらしいが、連中の会話は電波で交わされるのでこちらは何が行われているのか判らない。じっとしているロボット三体を眺め続けても仕方ないので竹内は相棒に話かけた。
「どうした?ロボットどうしで一体何の相談をしてるんだ。」
すると相棒はこちらに体を向け答えた。
「奇妙な事になりつつあります。」
竹内は苦笑いを浮かべた。
「奇妙な事とは何。全然わからないんだが。」
相棒は答えた。
「問題の部屋に空き巣はいない可能性があります。家政婦ロボットの記録とその他周辺の情報とを照らし合わせた結果、家政婦ロボットが得た情報だけ何者かに加工された跡があるのです。」
「本当か?そんなことができたりするのか。」
「ええ、システム全体を相手にするわけではなく、ロボット一体を相手にするので不可能ではないと思います。」
竹内はグッと息を詰まらせた。しかし管理人ロボットをハックする相手だとするとこれも当然の結果かもしれない。
「じゃあまず確認の必要があるな。問題の部屋、扉開くのか?」
「はい。さいわい警備会社のロボットが扉を開けられるそうです。」
そういう相棒の横で、そのロボットがこちらに挨拶してくるのが見えた。
家具もない空っぽの部屋。静かに差し込む午後の日光。人の影など見当たらない。急遽動かした問題の部屋のセキュリティシステムのカメラが映した映像は、このような様子だった。システムは部屋が空いた時、停止されていたが、システムを解体、再構築する工賃の支払いより、次の入居者を待って判断する方が安くつくという理由で、システム自体は存在していた。
ニコは自分の部屋に戻り、騒動の起きる前に座っていた椅子に座った。外からは、隣の部屋の扉が開く音がした。あらためて中に誰もいないのが確認できた。ニコのカメラに関する権限はまだ生きていたから、警備会社のロボットの目の映像が共有できた。
警察のロボットから連絡が来た。(誰もいません。確認しました。)
ニコは返事した。(すると私は、どうすればいいでしょう)
警察ロボットは答えた。(警戒レベルを上げてください。見渡した限り、何か実害があった様には見られない。警察は動けません。)
ニコは質問した。(私が得た情報に細工がなされた事は問題にならないのですか?)
(たしかに巧妙で悪質な犯罪ですが、普通の不法侵入とは性質が異なります。存在しない罪には問えません。ともかく犯人が誰か、目的が何かが分かるまではどうしようもありません。今後の捜査の結果次第となるでしょう。)
隣から中から引きはらう足音と、扉がふたたびロックされる音がした。
ニコは質問を続けた。(ここの管理人ロボットが壊されたのでしょう?これは重大な事件に思えますが。)
(確かにそう言えますが、今日起こったばかりで、まだ事故とも事件とも断定できていません。こことの関連性も曖昧です。この時点で警察があなた達にできることは、あまりありません。)
(では、これから何かあったらどうすればいいのでしょう。)
(何かあったら、すぐに警察に通報してください。その部屋の住人のかたと警察にきて、専門の部署の人と相談するのもいいでしょう。)
そこへサポートセンターが割って入った。(今回はうちのロボットが標的になってるんですが、これは何かの犯罪集団かテロ組織が関わっていると取るべきですか?)
(それについても何とも。そういう情報なら、そちらの方が早い事もあると思うので、適切な対応をしてください。情報を開示され、必要と判断されたなら、警察も積極的に動けます。)
ニコが聞いた。(あらためて確認しますが、現状、警察は動けないのですね?)
(残念ながら、そう言わざる終えません。)
(分かりました。では、この事を当人に伝えるべきでしょうか?)
警察ロボットは、少し間を開けて答えた。(あなた方に、お任せします。)
ニコとサポートセンターは沈黙した。
警察ロボットは言った。(これで質問がすべて出たみたいなので、通信を閉じます。が、何か困った事があれば、すぐに連絡をよこしてください。)
それを最後に日常の静寂が帰ってきた。ただ車のドアが閉じられる音と、バイクが二台、走り去って行く音はよく響いた。もうサポートセンターからの問いかけもなく、ニコはただコウを待ち座り続けるしか無かった。
図書館、僕とアゲハさんは建物の中から出て施設の前庭の広場にいた。ここには図書館の駐輪場もある。そこそこ広い庭で、実際多目的に使用されている。フリーマーケットやジャズバンドの演奏会、地元有志によるマジックショーが開かれたこともある。
僕達はそんな庭の端に備えられている数脚の再生樹脂製の青いベンチの一つに座った。アゲハさんがこのベンチが好きだからと、イスを選んで座り僕は彼女の右手側に座った。
ここなら中で禁止されてるゲームをすることができる。だから僕らは家に帰るまでの空き時間、ここでスマホの対戦ゲームをして過ごす事にした。
それからしばらくして、ゲームの方はひと段落ついた。ダンジョン攻略に失敗したのだ。二人ともすっかりしょげかえってしまい、パーティにもっと強い奴スカウトしなきゃならないと相談しながらゲームを閉じた。
そこで僕は新しいメールが届いているのに気づいた。ニコからだった。また帰るついでに夕飯の材料を買ってきてくれ、ということかなと思いながら開けてみた。
読んでみると予想は違っていた。
僕はアゲハさんに言った。
「今メール来たから読んでみたんだけど、急に家に用事ができちゃって帰れなくなった。もうしばらく図書館で時間つぶすから、アゲハさん、忙しかったら先に帰ってもらえるか?」
アゲハさんは怪訝な顔をした。
「なんで?用事あるならコウこそ早く帰らないと大変なんじゃない?」
コウの脳裏が一瞬真っ白になった。だがすぐ言い方がまずかったかも知れないと気が付いた。
「あー。いや、僕に用事があるわけじゃなくて、うちのロボットのメンテナンスか何かの話しらしくて、それで部屋がふさがってるんだって。」
アゲハさんはグッと押し黙ってしまった。僕もつられて次の言葉を失ってしまった。
数秒、沈黙が続いた。僕は何を言おうとしたのか思い出そうと、いろいろ頭の中をめぐらせた。でもうまく思いだせそうにないので、アゲハさんに質問することにした。
「えーと、何か変なこといったっけか?」
「それちょっとおかしい。」
二人は同時に喋ってしまった。
僕達は互いに顔を見合わせた。
「まあ、先にどうぞ。」
僕は手ぶりも入れてアゲハさんに話すよう促した。彼女は、一呼吸おくと喋り始めた。
「私のとこのロボットもメンテナンスとか言って工場の人来る時あったけど、実際大したことなくて、私が外に締め出されることはなかったわ。本当に必要なロボット点検なら工場行っちゃうし。それに、こういうの思い当たることあるの。」
今度は僕が怪訝な顔をする番だった。
「え?いったいなにが。」
「実は私も急にこういうメールもらったことあるの。」
「それでなにかあったの?」
アゲハさんは、ちょっと息を詰まらせた。そして一回まばたきすると喋り続けた。
「それ読んだ時はなんとも思わなかったけど、その日ね、家帰ると私の家のロボット居なくなって別なのいたの。」
「え?」
「で、新しくきたロボットが言ったの。前任のロボットが交通事故にあって修復不可能になったから私が代わりに派遣されましたって。」
「本当に?」
僕はアゲハさんを見た。嘘はついてないようだった。僕はスマホでニュースを探した。すると近くのスクラップ場でロボットの事故があったのがわかった。まさか?僕は不安で一瞬、身がすくんだ。
僕は慌ててニコに電話した。呼び出しベル、ほどなくしてでんわはつながった。
「はい、ニコです。コウさん御用はなんでしょう。何か忘れものがありましたか?」
僕の中で安心感が拡がった。
「いや、たまたま近所でロボットの事故があったって知ったから、もしかしてと思って電話したんだ。なんでもないならいいよ。」
「はい私は大丈夫です。ご心配かけてすみません。メンテナンスも早くすんだし、いつでも帰てっきてください。今日の夕食はカレーですよ。」
「わかった。じゃあそのうち帰るから、何かい」
急にドサッと音がした。僕は電話を一時中断して音のした方を見た。するとそこにはベンチから倒れて地面に横たわるアゲハさんの姿があった。
僕には、アゲハさんが倒れたのは、ベンチから立ち上がる途中でつまずいたかに見えた。だから僕は、このとき多少の笑みを浮かべていた。
「危ないですよ、アゲハさん。こけましたか?」
そう言いながら、アゲハさんのそばに座った。彼女は何か手を貸そうとすると、余計な事をするなと、すぐ怒るので、とりあえず様子を伺うしか無かった。するとスマホから、
「なにかあったのですか?」
と、ニコから質問が飛んで来た。どうやらただ事ではなさそうな様子を推測したらしい。
「ああ、今、アゲハさんが転んでね。ちょっと助け起こさないといけないんでね。後でかけなおすから。それじゃ。」
僕は、そう言うとスマホを切り、そのまま胸ポケットにしまった。
「アゲハさん、大丈夫ですか?」
僕は、うつ伏せの顔を見ようと、座ったまま横歩きをし、頭の方にまわった。彼女は固く目を閉じて動かなかった。当然、返事も無かった。顔色も、幾分青ざめてきているように見えた。
もしかして転んだ拍子に頭を打ったのだろうか?僕は慌てた。しかし何をしていいかわからなかった。ただ急な事故の時の生半可な知識だけが脳裏を飛びかった。脳震とうを起こした人を、揺すったり、移動させていいのか?しかしこのままでは、地面に体温奪われて寒そうだし、通りで目立って晒し者になりそうだし、ベンチの上に寝かした方がまだ服が汚れなくていいのではないか、と心配になった。ともかくどうにかして彼女を動かさずにはいられない状況のように思えた。僕は確認のため、もう一度彼女に声をかけた。
「大丈夫?アゲハさん、僕の声聞こえる?もしかして、頭のどこか打った?」
彼女は動かなかった。しかし周りは異変に気づき始めた。互いに、どうしたの?とかささやき合いながら、僕らを中心に小さな人垣を形成しかかっていた。そのうち人垣の中から、象牙色のシャツにウグイス色のベストを着た、頭頂がハゲかかった壮年の男性が出て声をかけてきた。
「どうしたの?彼女病気なの?救急車呼ぼうか。」
まさに天の助けだった。僕は助かった、と心底安心した。僕は男性の方を向き、お願いしますと言って頭を下げた。そして彼女の顔に目を戻した。
するとアゲハさんの眉が少し動くのが見えた。あれ?と僕が思う間にアゲハさんは、だるそうに上体を起こすと、上体ごとベンチの上に倒れこみ、そのままベンチに寝そべろうとした。僕は寝るのに邪魔にならないよう、彼女のナップサックをベンチから取り上げた。さっきの男性もスマホで消防に連絡しようとした手を止めた。
ベンチで、あおむけになっているアゲハさんを囲んでいる人達に彼女は言った。
「すみません。大丈夫です。私、昔からてんかん気質というか、興奮しすぎると気を失うコトあるんです。じきに治りますので、救急車はいいです。」
すると最初に声をかけてくれた壮年の男性は聞いた。
「本当に大丈夫?病院には、行ったほうがいいと思うよ。」
「ありがとうございます。でも本当に大したことないので、ここでしばらく横になってれば、歩いて帰れるようになります。」
「わかった。それじゃ僕はかえるけど、くれぐれも体には気を付けて。まあ友達もいるし、いらない心配か。じゃあ後はよろしく頼むよ。」
男性は、そう言うと僕の方を見てうなづいた。僕は男性を見て、次にアゲハさんを見た。
「わかりました。後は僕もなんとか気を付けてやりますので、まあなんというか、お騒がせしました。」
「いいって。こういう時は誰でも慌てるよ。後はちゃんと気を取り直して、あの子の面倒見てくれたらいいんじゃないかな。」
そう言うと男性は僕に軽く手を振り、出口の方に振り向き歩き始めた。僕はその後ろ姿に
「ありがとうございます。」
と、声をかけた。男性はちょっと振り返り笑ってうなづくと、そのまま出口から出て行った。残りの人達も男性の行動につられるように、思い思いのほうこうへちらばっていった。
僕はそんな人達の後ろ姿をひと通り見おくると、アゲハさんの方をむいた。彼女は目を閉じたままじっと横になっていた。
「ごめん、なんか迷惑かけたね。」
アゲハさんが目を閉じたまま言った。僕は慌てて答えた。
「いや、僕は何もしてないけど。ただ慌ててただけで。でもビックリしたよ。アゲハさん、あこんなにるなんて、はじめて見た。体、弱かったのか。知らなかった。何が病気なの?」
アゲハさんは、右手の甲を額に当てた。
「いえ、そうじゃないのよ。まあこれ病気かどうか聞かれたらそうなんだけど。」
アゲハさんは口をつぐんだ。そしてしばらく何が考えている風に黙り込むと、再び口を開いた。
「悪いけど、私のナップサックから薬と、さっき図書館の中で買った飲みかけの水のペットボトルを出してくれる?」
僕はナップサックの口を開けた。中には筆記用具にノート(自分の手でものを書く行為は大切な学習行為だとみなされていた。)ダブレットに充電用のコードがあり、さらにその下に白いプラスチックのピルケースがあった。また水のペットボトルはナップサックの底に横倒しになっていた。が、さいわい水は漏れ出してはいないようだった。
「あったよ。でもこれ、ここでのむの?」
僕の声に反応してアゲハさんは上体を起こした。そして一回手櫛で髪を撫でつけると、僕の方を見た。どこか気の抜けた視線だった。いつものはじけたような軽やかな感じがない。
「何を言ってるのよ。発作を起こした今飲まなきゃ意味ないじゃない。」
アゲハさんは、右手をこちらに伸ばした。僕はピルケース、水の順に彼女に手渡した。彼女はそれらを膝の上に置いた。そしてまずピルケースの蓋を開けた。中にはカプセル、錠剤等の七種類が入っていた。
「すごいな。それ全部のむの?」
僕は少し驚いて、反射的に質問した。アゲハさんは、やや不審そうに僕を見上げた。
「私達、純粋なクローンは、生まれてからこれまで、なんらかの障害を負う人も多いって言う話だけど、コウは違うの?」
「うん。今のところはなんともない。これからはどうかわからないけど。」
「そうね。ドリーの話もあるしね。」
僕達はすっかり黙り込んでしまった。
ここでどうしても避けられない話題をしなくてはならない。それは日本では2001年にクローン人間は禁止されているということだ。これを破る者は、10年以下の懲役か1000万円以下の罰金に処せられる。まあこの反応は日本国内だけのこととは言えない。2019年1月24日には中国科学院神経科学研究所が人に近い猿のクローンを生み出したと発表した。この時、ゲノム編集の技術を用いて、体内時計の機能を壊された猿を生み出し、そしてその猿は精神疾患、糖尿病、循環器系疾患を患ったことも明かしたのだが、これに対する反応は、実験の意図がわからないとか、そもそも必要な実験かなど激しい反発を招いた。近縁種とはいえ猿に対する実験なのだが、いざ現実にそれをやられると、自分達にとっても思いがけないほどの、実験に対する嫌悪感に気付かされる結果となったように思う。
科学技術庁研究開発局ライフサイエンス課のレポートではクローン人間の問題について、人間が稲や牛のように品種改良されて良いのか、人間の道具化はゆるされるのか(先の猿の例を思い出して欲しい。科学は、ただ内蔵移植のためだけにゲノム編集によって脳味噌を持たない人間を生み出す事も不可能ではない。あとは脳死判定で確実に通るから、かの内蔵を好きなように切り分けることができる。)、実際に社会に出たクローン人間は差別されないのか、またそのクローン人間は実験の結果から先天的な障害を負ったりしないかと指摘している。
しかしそれでも、これら法や倫理観はクローン人間の存在に有利な方に流れて行くと思える。その第一の動機がこの話しの最初に少し触れた人口減少問題だ。日本の人口は2019年8月で約1億2621万9千人(総務省統計局の人口推計確定値)で27万7千人ほど減った。27万といえば、ちょつとした地方都市と同じ規模で、それが一年で丸ごと無くなったことになる。それがさらに2050年くらいには約一億人前後くらいに減ると予想されている(国立社会保障人口問題研究所 2006)。さらに国連によると2100年には人口は7496万人くらいとなるらしい。1967年に日本は有史以来初めて総人口が1億人突破したが、この時は人口がこんな形で萎んでゆくとは思いもしなかっただろう。(ただ日本の人口は、江戸時代の1600年ころは全部で約1200万人、明治の初めには3000万ほどだと言うことだから、7千万ほどいれば日本が滅びることはないだろう。)
こうなったのは赤ちゃんを産まなくなったこととはよく知られている。2019年には生まれた赤ちゃんの数は2016年の100万人の大台割れをさらに割り込み90万人も切るらしい。東洋経済オンラインでは、それが長男長女を産む年齢が上がっていることと指摘する。日本では子供を初めて産む年齢が1950年代では24.4歳だったのが2018年では30.7歳になっているという。これは次男次女、三男三女を得る機会を失うことにつながっていると指摘する。(日本人の寿命が伸びているのだから当たり前と思うかもしれない。でもこの30歳以降というはのちに問題になってくる。)
何故、出産の年齢が遅くなるかの原因は明らかだ。経済問題だ。内閣府の「少子化社会対策白書」では100人のうち約42人が結婚の前提として経済的に余裕が出来ることをあげている。異性と巡り会う機会があることが36人ほど、精神的な余裕があることは30人、希望の相手に出会うが30人となる。これらは全部、別の事を聞いているようだが聞かれた本人たちが「私に経済的な余裕があって、でなければ誰か金持ちを捕まえて」でないと結婚しないと思っているなら、先のアンケートは同じ質問を違う言い方で聞いているにすぎないことになる。そして「はい」と答えなかった残りの人の頭の中もはっきりする。それは自分には経済的な安定や金持ちと結婚する機会は無いからあきらめる、だ。これは金銭の話しを過大に見積りすぎた見方とは思わない。実際このアンケートの対象になったのは日本で就職氷河期と呼ばれた世代の声だからだ。彼らのうち結婚の必要性を感じるのは100人中28人ほどにすぎないらしい。
これは多くの人が子育てには莫大なお金の負担がかかるという意識を共有した結果かもしれない。昔、農業従事者が多数を占めた時代なら子供は田畑を手伝ってくれる労働力で金になった。しかし今日では子供の多くが法律により働くレベルが制限されており、かつ親達は過剰なまでの教育サービスにさらされる。出費はかさむばかりだろう。現代日本では大家族は珍しく、テレビ番組になるくらいだが、大家族で育った人たちには懐かしく涙が出て来るような世界かもしれないが、あの親達と同年代以降の人間には、苦しい実情を見て戦慄を覚えているかもしれない。そしてこの空気はずっと先の世代まで支配するかもしれない。そうなると日本の人口減少は深刻で、追い詰められた我々は、きっと安全、安価になる遺伝子工学のサービス、ひいてはクローン技術まで手を出すことだろう。
もしかしたら、よその国がやり始めたから日本も始めましたという形になるかもしれない。先のオンラインのレポートではアメリカやヨーロッパの先進国の少子化の問題が指摘されている。話が深刻になれば彼ら自ら封印を解くかもしれない。あるいは東、東南アジアの国々。シンガポール、台湾、香港に至っては日本より少子化が進んでいる。女性一人当たり産む子供の数は1.13~1.16人だという。タイでも1.47人で日本の1.43人をわずかに上回る程度だ。これらの国も教育の投資を少数に集中し始めたと予想できる。ならば未来、そういう賢い子らが自国の緩い法体系を利用しクローン技術を解放する可能性は高いように思える。また人口増加している地域も例外ではない。基本的な宗教信条が人口増加を許すこともあり得るが、紛争地域においては優秀な戦力は敵を圧倒するほどに必要だし、兵器が発達した今日、司令官のクローンを作ることはいろんな意味で魅力的だろう。まあ軍事的な野望があればどこでも、司令官が決断しさえすれば、宗教、法律は拡大解釈され資本と人がクローン量産をこころみるだろう。
でもそれは、技術的にもまだ先の話だろう。ここからはアゲハさんの話に関わってくる。
クローン羊のドリー。メス羊の乳腺の細胞の核から生まれ、精子を必要としなかった羊。しかしアゲハさんは、もう少し先にいる。彼女は卵子も必要としない。彼女はコピーの元となる女性の、口の中の粘膜か何か楽に取れる細胞の中から生まれた。(山梨大学ではネズミの小便から細胞を採り出し、クローンマウスを作る事に成功している。)
またドリーは、乳腺の細胞から核をとりだして、まだ受精してない卵子に入れこんだ(もちろん、もとあった卵子の核は捨てる。)あとに、羊の子宮に移植してできた。だがアゲハさんは、実験室に用意された人工子宮により生まれた。この時代、人間を生み出すのに人間は、ほぼ必要とされないのだ。
悪いけれど、これは永遠に実現しない夢の話ではない。早くも1996年には、リチャード・シードが自分の体から作ったクローン胚を、自分の妻の子宮に移植し、自分のクローンを作る実験をしている。これはシードの妻が高齢だったため失敗したそうだ。だが2014年にはアメリカで75歳の男の皮膚からDNAを採取して、クローンの細胞を作ったところ、勝手に分裂を始め、最後には鈴か小さな丸いカステラのような、胚盤胞の形まで成長するのが確認された。胚盤胞は胎児なる前のごく初期の形で、まだ子宮に着床する前の形だ。だが、人間の細胞でも誰かが好き勝手作った細胞が子宮なしで実験室で勝手に成長することがわかったのだ。あとは実験室で、それなりの道具をそろえれば、後は割と簡単に赤ちゃんまで育つんじゃないのではないか?
「これは、立ちくらみが来たときに飲む薬。これは普段から飲む薬。それが三種類と、その副作用を抑える薬が一つ。あとは最近風邪気味だったから風邪薬と、ついでにお腹痛かったから胃薬。」
アゲハさんは上体を起こして、僕にひざの上で開いているピルケースの中身を説明した。
「私ね、医者から統合失調症に軽いナルコレプシーにかかってるって言われているの。だから精神がたかぶっちゃうと、さっきみたいに急に気を失うことあるんだって。ちゃんと薬飲んでなきゃいけないのに、ゲームに夢中で薬飲む時間を忘れてたせいよ。ちゃんと飲んでたらこんなことならなかった。」
アゲハさんは、ピルケースから一錠摘むとそのまま口に放り込み、あとはペットボトルの水をひとくち口に含み、薬とともに喉の奥に流し込んだ。次にキャップでボトルに栓をすると両手で軽くボトルを掴んだままベンチの上で伸ばした両足の上に置いた。そして顔を僕の方に向け、ニッと笑った。
「ほら見て。なんともないでしょ。」
「うん、まあよくわかんないけど、アゲハさんが大丈夫というから大丈夫なんだ。でも、本当知らなかったよ。そんな病気持ってるなんて。薬飲んでるなんて初めて聞いたし。」
「やーね。私がいちいち自分で病気持ってるなんていいふらしたりしないわよ。知らなかったのは私が気をつけて飲んでたから。今日みたいに突然な事件がなかったら絶対知られることなかったはずなのに。」
「事件?そういうほどの事もなかったと思うけど。アゲハさん、よっぽど前にいたロボット好きだったんだね。」
そう言われるとアゲハさんは視線をペットボトルに移しうつむいた。
「そう。それもそうだけど、あのロボット。時々私の夢に出てくるの。」
「夢ですか。」
「うん。夢。」
「どんな?」
アゲハさんはこちらに顔を向けた。まるで面白くないという表情をしていた。
「聞きたい?」
僕は曖昧ながら、ウンとうなずいた。
「ふーん。でも大した話じゃないわよ。あのね、だいたいこの夢は私が夜中の道を歩いてるか、真っ暗な部屋の中に立っているとこから始まるの。で、私は考えるの。これから家にかえろうか、とかご飯温めてたべよとか。で、辺りを見回すのだけど、体は動かないのよ。だんだん焦ってきてしきりに頭動かすのだけど、どうにもならない。でもそのうち目の前に誰か座っているのに気づいて、そっち目をこらすと、それが以前いたロボットだってわかるの。私はびっくりしてなんであなたがここにいるの?とか壊れたの修理できたの?とか次々に大声で質問しようとするんだけど、口が動かなくて全然言葉にならないの。そのうちロボットもこっちに気付いて、こっちに歩いてくるの。服が汚れてますね、とか髪をとかしましょうか、とか言いながらね。私は動けずにじっとロボット見てるのだけど、頭の後ろではしきりに声がするの。あれはもう死んでるのだから、触られるとあっちに連れてかれるぞとか、あれはあのロボットのフリをした何かだとか。で、私は近寄らないで、来ないでって必死に叫ぼうとするんだけど声になんなくて、結局ロボットに息がかかりそうなとこまで近づかれて、ロボットは私の喉に手を伸ばそうとするの。
その時、突然、私はロボットを見つけてから全然呼吸してないことに気づいて急に苦しくなるの。それでもうダメだ、という時に目を覚ますんだけど、目を覚ました時、掃除機みたいに思いっきり空気吸い込んでるの。」
アゲハさんは、ガーと音が出るくらい空気を吸い込んでみせた。僕はただ驚いて彼女を見た。普段元気そうなアゲハさんがこんなに苦労してるとは思わなかったからだ。
「すごく大変そうだね。」
僕は言った。何も思いつかないけど何が喋らなくてはという気分から、不意に出た言葉だったが、案の定、アゲハさんは何か不満そうな顔をした。
「大変よ。本当に。」
僕は彼女から目をそらして聞いた。
「それ、遺伝子提供した人の持ってた病気なの?」
彼女は、ぐっと言葉を飲んだ。そしてしばらく思考をめぐらした後、再び口を開いた。
「お医者さんが言うには、ナルコレプシーは遺伝的な要因はあるけど、後天的な要因が強いんだって。」
「へえ。」
「でも統合失調症は、両親が二人ともその遺伝子を持っていれば50%の確率で発症する、君の場合、親が一人だから、その人が発症している場合、私がこうなる確率はそれより高かったのだろうって。」
彼女はうつむいた。僕は、ちょっと疑問に思い彼女に聞いた。
「なんで?遺伝子に関する病気なら、先に遺伝子編集して病気を取り除いてるものじゃないのかと聞いてるけど?」
「わからない。お医者さんも何か実験室での事情があったんじゃないかとしかわからないって言ってたし。」
「本当に?何か調べる方法ないの?」
「ある事はあるんだけど、何か手続きが面倒そうなの。それにこの手の情報公開には、遺伝子提供側の同意も必要だって。」
「じゃあ、遺伝子提供者に直接会えばいいじゃないか?」
アゲハさんは、ちょっと泣き出しそうな感じになった。僕はその様子に一瞬言葉をつまらせてしまい、後は意図的に自分の言葉を飲みこんだ。
「聞いてみたいけど無理なの。知ってるでしょ、提供者の名前と住所は本人が希望しない限り公表されないって。」
多少震えの混じる声でアゲハさんは言った。僕ら互いに言う事を無くしてしまい、すっかり黙り込んでしまった。気まずい沈黙が流れ始めた。
そこにふいにピアノの音が響いた。クラッシックの曲のようだった。アゲハさんは、少しの間ぼんやり音に耳を傾けていたが、急に背筋をシャンと伸ばすと、慌てた顔で胸ポケットの辺りを右手で探った。
「あっ、無い。私のスマホ。さっき転んだ時飛び出したんだ。どこ?どこで音鳴ってるの?」
僕らは地面を見回した。だがそれらしいものは見当たらない。ただ音は近くで鳴っていた。ならば必ずそう遠く無いところに落ちているはずだ。僕はかがんでベンチの下を見た。案の定、ベンチの右手奥の脚元にできた、小さな落ち葉の山の中に突っ込んだスマホが見えた。
「ベンチの奥に落ちてるよ。ちょっと待って、すぐ取るから。」
僕はかがんで、ベンチの下に頭ごと突っ込むと、ぐっと右手をスマホに伸ばした。スマホには簡単に手が届いた。僕は軽く落ち葉を振り払って、光る画面を注視した。どうやら正常に作動するらしい。とりわけて目立つ傷もなさそうだ。僕は、吹き溜りの中からスマホを拾うと、上半身をベンチの中から起こした。そして右手をアゲハさんの前に突き出すと、軽く左右にスマホを振って見せた。
「これであってる?」
「そう、これ。私の。」
アゲハさんは、僕が差し出したスマホを受け取った。そして、ジッと画面を見て相手を確認すると、スマホを右耳にあてた。
「はい、私。マーさん、何か用?バイト先で何かあった?」
アゲハさんは電話の相手に向かって話した。相手が誰か僕もわかった。マーは、彼女の所有するロボットだった。どうやらアゲハさんは、ベーシックインカムで足らない分を、昼間ロボットをバイトに出して稼がせているらしい。まあそれは珍しい話ではないし、僕も近いうちニコにやってもらおうと、たくらんでいることでもあった。ちなみに、マーさんのマーは、マーズ、火星のことで、当然あの星が赤いから、彼女がロボットの名前にしたのだ。
アゲハさんら初期のクローン達には、ある都市伝説が伝えられ共有されていた。それは1996年7月5日に誕生した世界初のクローン羊、ドリーについてだった。ドリーは、大人になった羊から採取された細胞を使って生まれたのだが、そのせいでドリーのテロメアは短かった。テロメアとは、生き物の寿命の長さを決めるかもと考えられているDNAの端っこの部分で、ここが短くなりすぎると細胞は分裂できなくなる。生き物は細胞のレベルで、どんどん死んでいくので、自分を維持するには、どんどん細胞が増えなくてはならないが、テロメアの消失によって充分細胞の供給がなくなるとどうなるか。細胞の足らなくなった部分は空白になるか、あるいは余計なモノが流れ込んでくる。つまりシワやシミになる、というのが考えの一つだろう。そしてドリーは、早くに老化を示したという。そして2003年2月14日には、同じ飼育場にいた羊からうつされた病気、一般的な呼吸器感染症で肺の疾患が原因で、安楽死させられる事となる。享年6才で、これは普通の羊の半分ほどの寿命であるらしい。
だがこれは病死である。テロメアが短くなったせいで天寿が尽きたと言えるのだろうか?その疑問に答える為、2007年に科学者達は冷凍保存された体組織(当然ドリーの原材料でもある。)からさらに10匹のクローン羊を生み出した。寿命の長さを決めるかもしれないテロメアも短い。これで首尾よくこの10匹がドリーと同じ年齢で死んでくれれば、ラッキーこの上ない。なぜなら、ここから科学者達は、寿命と言うのは、生き物のテロメアの長さだけで決まると断言でき、そして次の段階へ進むことができるからだ。すなわち、人間をはじめ、全ての生き物はテロメアの長さだけ維持すれば、もう死ぬ事はない。不老不死の夢を初めて科学的に可能にすることができるのだ。いや、もう実現したかもしれない。我々はすでにテロメアの長さを戻す物質を知っている。テロメアーゼだ。そうだ、これを効率良く全身に行き渡らせる方法を開発し、定期的にこれを行えば、後は交通事故で死ぬ以外は死ぬ心配など無くなるではないか?
もちろん事はうまくいかない。今度の羊は死ななかったのだ。生まれてから10年たっても。このノッティンガムドリーと呼ばれる羊たちは生まれてから10年後の2017年、10匹のうち4匹が餌に混ぜる形で鎮痛薬を投与、安楽死させられた。10年は羊として寿命であり、加齢もあった為だ。(4匹の中の1匹など、もう歩けないほどの変形性関節症をわずらっていた。ちなみにドリーも関節炎をわずらっていた。)ここよりドリーも病気にさえかからなければ、このくらいの長さは生きられたのではないかと結論され、寿命の謎の解明、不老不死の夢の完成がとおくなるのだった。
でも何故だろう。僕らには不安が残らずにはいられない。そもそもドリーは早くから他の羊より老けていると言われなかったか?そもそもドリーが病死したのも偶然、同じ飼育場にいた病気がいたせいだ。ドリー自身の体に問題が無いのなら何故ドリーは死んだのか。それはなんらかの実験ミス、管理のミスを意味しているように思えてくる。ドリーとノッティンガムドリーの実験の間には10年ほどの開きがある。ましてやドリーは、世界初の実験だ。大小の想定外のミスがドリーの上にのしかかり、その死につながったと考えるのが自然だろう。そしてこういう運命は初期のクローン人間達にも等しくかかってくるに違いない。
アゲハさんは、今ではなんでも無い風で電話している。でも遺伝子の欠陥を抱え人知れず苦労していたのだ。多少の同情心と現状への反発。でもなんのことはない、明日からも、ただいつも通り接すれば済む事だ。アゲハさんも多分そうして欲しいはずだと思う。
僕は自分のスマホを覗き込んだ。ただ何となくだったが、その時、目に入った数字から、今がもう日が落ちる時刻だと気がついた。ああそうだ、ニコに買い物頼まれてたっけ。僕はアゲハさんの方を見た。買い物も大事だが、ともかく彼女の容態の確認は必要だ。
アゲハさんは、やたら熱心に電話先のロボットと話込んでいた。どうも無人タクシーでロボットが迎えにくるそうなのだが、アゲハさんが、そんな金のかかる事をするなと怒っているらしい。ロボットには所有者に対して、一番有益になる行動をとるようプログラムされているのだから、アゲハさんが怒っても仕方ないと思うのだが、彼女はそれが許せないらしい。しきりに、それじゃダメのセリフを繰り返していた。
不意にアゲハさんの目がこっちを向いた。
ここは僕のアパート。僕は夕食を終えて、ベットに寝転がっていた。頭にはラグビーのヘッドギアみたいなヴァーチャルゲーム機をかぶっていた。ニコは食後の食器を洗うなんて、アナログな事をしていた。キッチンからは、水の流れる音と食器のぶつかる音。
僕は仰向けになって目を閉じていた。ゲームでもして時間を潰そうと思うのだけど、その気になれなかった。アゲハさんが別れ際に言った言葉が頭から離れなかったのだ。
(コウには、本当は両親が、いるんじゃないの?)
僕は最初は意味がよく理解出来なかった。僕には、物心つくまでの幼い記憶の中に、両親の記憶はなかったし、周りがある程度理解できるようになってからも、自分がクローンだと聞かされた。一体何を根拠にアゲハさんは、そんな事を言うんだろう。
(コウは私達みたいに持病持ってないし、何かそんなふうに感じる。私の勘は、わりと当たるのよ。)
だったら何故、僕はニコと二人で生活しているのだろう?子供がいるとわかっていて、ロボットに教育に一切を任せたまま、もう二度と会う事のないことがあるのだろうか。
(これは私の勘だから、あまり深く考えないで。)
アゲハさんは、そう言った。でも、引っかかった。何か許せない事を言われた気がした。もしかすると、彼女が持病を持たない僕に嫉妬して、根拠のない言葉を投げつけたのかもしれない。そうだ、そこが一番正解に近い気がする。違うと言うなら他にどんな理由があるのだろう。僕が知らない事実を何か知っていると言うのだろうか。
(ごめんなさい。でも、これは最初、コウに会ってから、なんとなく感じてた事なの。)
僕は天井をぼんやり眺めた。どうしたものだろう。謝られても、次会った時に、いつも通りの顔して話できそうもない。あの時は、僕はなんの反応も見せず、そのまま別れることができたけど、今になってやってくる疑問と気持ちは、アゲハさんを責めずにはおわれなかった。
(私達、もうすぐ16歳でしょう?だったら自分の遺伝子について、その持ち主だった人の情報を知る権利が使えるようなるじゃない。だから、その時が来たら私、すぐ調べてもらうんだ。絶対に。なんで私がこんなのか知りたいもん。)
アゲハさんはそう言った。わかった。なら、僕も調べてもらおう、そして彼女の勘がどれほどのものか確かめようじゃないか。僕は憮然と目を閉じた。
キッチンの方で音が止んだ。洗い物は終わったのだ。イスが動く音がした。ニコが休憩するいつもの行動パターンだ。
「ねえニコ。」
僕は声をかけた。
「なんでしょう。コウさん。」
「実は、今日アゲハさんが言ったんだ。もう16歳になるから自分の遺伝子情報、開示してもらうんだって。それ聞いて僕も自分の調べたいと思ったんだけど、どうしたらいいかな。」
「そうですか。なら条件が整い次第、情報が開示するよう手続きを進めさせていただきます。」
「ああ、全部自動でやってくれるんだ。思ったよりぜんぜん楽そうでよかった。」
「はい。お手間は取らせません。ただ正式な政府の文章なので、電子メールではなく、書類が郵送されるということです。」
「わかった。でも全部わかるかな。相手の同意がないとダメなんだろう?」
「その通りです。でもこれだけは申請した後でないと確認できません。」
「ああそうか。やっぱり。じゃあどうするかなあ。」
「それでは情報開示が出来るかどうか、確認の問い合わせだけにしときますか?それだけなら時期が来れば、私が代わりに答える事ができますが。」
「いや、やっぱり文章を請求して。だって自分の遺伝子情報しりたいつってんだから、そこ抜かしたら、何にも意味ない。」
「わかりました。ではコウさん。目を開けて、こっちを見てくれますか?」
「えっ?何。」
僕は上体をおこしてニコを見た。ニコはいつもの微笑みを浮かべていた。いつの間にかイスをこちらに向け、背筋を伸ばし両手を軽くひざの上で重ねた姿勢で、こちらをうかがっていた。
「いいですか、これから質問をします。よければ、はい、ダメならイイエとお答えください。」
僕は、いつもと違う感じに、幾分戸惑いながらもうなずいた。するとニコはクスっと笑ってみせると言った。
「これは公式なものになるので、きちっと声に出して確認をとる必要があります。うなずきでは承認されません。」
「えっ?いや、何?」
「いいですか?これからの質問に、よければハイ、ダメならイイエと、お答えください。」
僕は思わずベッドの上で正座してしまった。
「はい、わかりました。」
ニコは、よろしいと言わんばかりにうなずくと、まっすぐに僕を見た。もう笑ってはいない。
「今からDNAの情報開示の要請に基づき、その前段階として二つの事をしていただきます。一つは、高度な個人情報のアクセスに必要な認証方法、指紋、声紋、その他の本人確認が可能な物の登録。もう一つは、これを実行するに及び、発生するお金や時間、具体的な行動についての説明と理解です。」
ニコは、そう言うと口を閉じ、一拍おいた。そして、
「よろしいですか?」
と、僕をやや下から見る感じの目線で見つめた。僕は慌ててうなずいた。しかしすぐに気が付いて、またまた慌てて返事した。
「は、はい。わかりますよ。先進めて。どうぞどうぞ。」
ニコは、んっという感じで口を結んでみた後、愛想笑い程度に笑ってみせた。
「大丈夫です。今日はこれからコウの音声データを取るだけです。後の詳しい話しは、長くなりそうなので明日にしましょう。音声データの入力は、私に話すだけでいいので、すぐに終わります。よろしいですか?」
僕は、うなずきながら答えた。
「うん、大丈夫。それで僕は何で言ったらいい?」
「そうですね。自分の名前とか、あとは、私は自分の遺伝子の情報開示を希望します、でもいいようです。」
「わかった。じゃあ言おうか?」
「いつでもどうぞ。」
僕は、わざとらしく一回咳払いして、口を開いた。
「私は自分の遺伝子の情報開示を希望します。」
一連の手続きが終了して、室内はすっかり静かになった。ただ空調機の動作している音や、時々聞こえる救急車のサイレンの音などが、この静けさにわずかなさざ波をたてていた。
ところで今日、僕には学習の課題が全然出ていなかった。幸いな事に。僕には寝るまでの間、充分遊ぶ時間が残されている。ようやくこの最新のゲーム機が活躍する時がきたのだ。
僕はあらためてヘッドの上に寝っ転がった。そしてこの黒いヘッドギアがニコと話している間に、随分と位置がずれてしまっていたので、きちんと定位置に動かした。あとはアゴひもで、きっちり固定してヘッドで横になった。
このゲーム機はBMI、いわゆるブレインマシンインターフェイスと呼ばれるハードウェアのゲーム機だ。以前、産業技術総合研究所がニューロコミュニケーターという名で出ていたものが、はるかに進化した物といえる。
このBMIは、ディスプレイもスピーカーも存在しない。情報のやりとりを直接、機械と脳との間でするからだ。難しく言うと没入型の非侵襲式入出力介入BMIといえるかもしれない。
具体的にみてみよう。まずこのハードを買ったゲームユーザーは、ヘッドギアをつけて簡単なテストを受ける。まあ、ただ単にディスプレイから流れる映像と音を数分眺めるだけなのだが。一方でヘッドギアの側では活発な解析が行われている。脳の働きを、ハードに内蔵されたセンサー、脳波(EEG)脳磁波(MEG)近赤外分光計(NIRS)などで拾って、その人固有の映像や音の情報処理のやり方を理解する。そして満足する程度にゲーマーのデータが整うと、今度は機械から人の脳へ話しかける段階へ移る。ここで機械から直流交流電気、磁気が流れるのだが、このエネルギーの流れが、ちゃんと「こんにちは、私はBMIです。」等の意味あるものになっていなくてはならない。ゲーマーは、そして機械の言葉が正しく届いてやっと「こんにちは。よろしくBMI」。」などと(多分、頭の中で)答える事になる。ここで上手くいかなかったり、てんかんの危険性が判明すると、ゲームをあきらめて、商品をクーリングオフしてもらうしかない。
コウはベッドの上に横たわり、両手を組んで腹の上に置いた。そして目を閉じ、これから展開するであろうゲームの世界にむねおどらすのだった。
ニコは台所の椅子からそれを見守った。それは本当にそうする義務があるからだ。実はコウは、かなり危険なゲーム機を使っていた。具体的にみてみよう。まずユーザーはこのゲーム機を作動させた時、強制的に眠ってもらうことになる。これにはゲーム世界に純粋に没入してもらう目的と、実際に脳内に構築された世界とシナリオに、ユーザーの体が勝手に反応してしまい、思わぬ大怪我を負う危険を回避することにある。しかしそれでもユーザーが夢遊病者のような反応をして、無謀にも部屋から街中に飛び出す可能性がある。
また、一旦睡眠状態に落とすため、脳幹(脳と背中を通る神経がつながる部分。脳に属するらしいが、素人目には背中の神経の先がタツノオトシゴのような形で膨らんで脳にくっついているように見える。)など、脳を眠らせない活動をしている部分を休ませる事になるのだが、そのままでは、いつまでもゲームが始まらない。ゲームを楽しむのは脳なので体は眠らせたままで、再び脳には目覚めてもらうことになる。しかしそれは、脳幹などの目覚めのシステムと、視床下部(脳幹の上に付いていて、痩せたハート形をしている。その断面図はアサリの中身に見えなくもない。)にある睡眠中枢などの睡眠システムが同時に作動するという、健康な普通の人なら、まず経験する事のない生理現象が起きることになる。
これはある意味で人工的に金縛りを起こそうとしているように見える。この状況下だと人は意識がはっきりしているのに体が動かない恐怖体験を味わう。またアゲハさんのところで述べたナルコレプシーも似た経験をする事があるらしい。寝入りばな、すぐに夢を見るレム睡眠に入ってしまうため(一般人は多く、寝てすぐ、ハッキリした夢を見ないノンレム睡眠の第一段階に入るという。)現実としか思えない恐怖をともなった夢を金縛り付きで見てしまう事があるという。この睡眠麻痺という現象は、実際には脳幹等の目覚めのシステムは寝ていて、ただそれまでシステムが出し続けた覚醒物質が、まだ充分に分解されてなかった結果で、この残った物質は大脳、特に大脳の前頭前野背外側部(額からこめかみあたりか。)を寝かせず、ただその脳の活動は鮮明な夢として残る。
とりあえずこのマシンは、人工的な金縛りを行うこと。そして何よりもリアルな夢を見せる事ができるというのを理解して欲しい。そして両立しない覚醒と睡眠のシステムをどう動かすのかだが、それはゲームのデバイスを介して双方のシステムに外部から偽の情報を送り込み、適度な金縛り状態を維持させる事で解決を試みている。
(この物語の発想の元ネタの、カーツワイル「ポストヒューマン誕生」には、いくつか2020年についての予想がある。これには没入型のゲーム機に関する発言もあるので見ておきたい。
2020年代に起こると彼が予想する技術の一つとして、まず人間の脳の機能を模倣できるハードウェアが、およそ1000ドルで手に入るというもの。これは人間の脳の中身が機械で表現できたという意味ではない。ただ単に人間の代わりに掃除してくれる機能があるとか、将棋で勝つ能力がある、という事だ。たからけっして大脳の半分とりのぞいて、替わりに電子基板に繋げたら無事に人間の能力をとりもどしましたなどという話しではない。十万円そこそこで、本当にそんな事が出来るのなら、受験勉強等に本当の革命が起こりうるが、本筋の話ではないゆえ、ここではそれ以上言及しない。
カーツワイルは、AIがどれだけ人の仕事に勝てるかに注目した。その為の準備として、人間の玄人という人達の頭の中を数字で書いてみた。彼に言わせると、それは十万語収録された国語辞典ほどのものらしい。玄人ゲームマスターは、十万のスキルを駆使して仕事というラスボスをやっつける。なるほど、ならAIはその量を上回るスキルを記憶すれば良い。さらに玄人の極限、チェスの名人やシェイクスピア能力を押さえれば、もうこれを超える人類は現れないだろう。そして彼は、チェスの世界的な名人は、約10万種類のボード上のコマの配置を記憶している事、シェイクスピアは2万9000個の単語を使って、10万ほどの意味を表現したことを突き止めた。しかしまだ人間の能力をあなどってはいけない。これら人間の専門家の能力が脳の力の1%の力だとしたら、100%の力に目覚めた人類は1000万ほどの意味を駆使して仕事に勝利を収めるはずだ。
よろしい。ならば今度はAIのターンだ。カーツワイルはスキルに基づいたエキスパートシステムを設計した経験から次のように述べる。人の持つスキルは、体や想像を制御、生成するソフトウェアと解釈できるから、これをコンピュータの言語に書き直す事が出来る。実際、人ひとつのスキルの情報量は100万ビットくらいになると見積もられ、人間のスキルすべてを飲み込むには、10兆ビットあれば足りると言う。(ここまでスキルとよんだものは、本書では塊と呼ばれている。そこをあえてスキルとよんだのは、ただ単に自分が理解しやすくなるからというのにすぎない。よって、これまで、そしてこれからの解釈が間違っているリスクは多分にあるゆえ、慎重な読者は、ぜひ翻訳書や原著をあたってもらいたい。)
さらにコンピューターの中に脳の中の神経、ニューロン同士のつながりを一つ再現したあと、その数を、現実の脳の中で神経同士がつながっている数まで増やしてやれば本当の脳の記憶量が再現できると考えている。具体的には、一つの神経同士のつながりは、神経のどの部分にくっつくかとか、情報を伝える物質(多分、脳内麻薬やらギャバとかが当てはまるかもしれない。)を何にするかで決まると考え、その能力は1万ビット、現実の脳の中のつながりが百兆個あるとすれば、全力の記憶力は百京ビットになるという。なるほど、あとは街で売られているPCのパーツ使って、これが実現するか確認する必要がある。
だが残念なことに、ここらあたりでカーツワイルの予想が怪しくなる。彼は言う。彼が予想する一年ごとに増えるCPUやメモリー書きこめる配線の量(正確には配線の長さを指すと思われる。これが短くなり続けるということらしい。短くなれば使うインクの量も少なくすむし、作業時間も減るし他に書きこめる余白も増えるしくらいの理解でいいかもしれない。特に彼が注目しているのはメモリーのDRAM)さらにそこから、メモリーの能力と価格の関係を予想する経済モデルを提示し、お値段のわりに性能がいいじゃないのノリが毎年続くのだと主張する。これ自体は間違ってないと思われるかもしれないが、彼が言うには「2018年ごろには、十の十三乗ビットのメモリーが1000ドルで買える。このメモリーは、人間の脳で使われる電気化学的なプロセスより数百万倍も速く、したがって効率がはるかに高い。」という。
これはおおよそ、1.25テラバイトのDRAMが十万七千円ほどで買えると主張しているよう思える。ご存知のとおりPCのショップで買える物は32ギガバイトあたりが中心であるから現実とのこの差は大きいように思われる。
しかしこれは技術の進歩がなかった、と結論付けるより、そんなやたらデカくて高いメモリーなど誰も欲しがらないから企業が生産しなかっただけかもしれない。だから、いろいろ思いつくまま調べて見たのだが事情はよくつかめなかった。ただ1ギガあたりどのくらいするのかで単純に比較すると32ギガは1ギガが420円から620円あたりにおさまり、1.25テラだと1ギガは85.6円となるから、ここからはカーツワイルの予想はかなり気の速い物ではなかったか?との印象をうけざるえない。
また彼の経済モデルが供給曲線だけで経済成長を説明しているように見えるのも不満が残る。つまりメモリー作って販売し始めたが、それを見て我々がそれを買うかどうかを考えている部分が抜けてるように思えるのだ。もしこの解釈が妥当なら、カーツワイルは生産したものは、作れば作っただけ全部売れる、あるいはもう少し優しく解釈して、メモリー作って売れ残りが出ても作ってる工場が潰れるほどの売れ残りなど絶対に出ないと主張していることになる。そしてメモリーはそれほど強力な商品だから需要曲線、つまり買い物する人達が何考えようが関係ないという結論も同時に得られてしまう。だがこの高価なメモリーが2020年に作られてしまうという結論が導かれる事を考えると、それはかなりよろしくない経済モデルと言わざる得ない。(この作った物は必ず売れるという前提はセーの法則というのに当たり、19世紀以前の経済学に属する。まあそういう主張もありだが、経済学やっている人達からすると、どっと疲れる物を感じざる得ないのでは無いか?と考えてしまう。)
だがカーツワイルが全く間違った主張をしたと言い切る事はできない。彼は、技術には限界があっていずれは天井についてしまい、これ以上発展しなくなることなど実際は良く知っている。何故なら彼自体が発明家で、その事を何度も経験しているからだ。本文中にちょこちょこ出てくる彼自身の研究の話からそれを想像するのは不可能ではないだろう。だが一方、そこからまた違う地平が拡がっているのを発見してしまう。多分この事も何度も経験している。
知っておいて欲しいのは、彼の著書「ポストヒューマンの誕生」は2005年に出版された事だ。その後に起こった重要な変化は触れる事ができない。例えばSSDだ。これはすでに1988年にサンディスクが20MBものを売ってたとはいえ、本格的に普及しだしたのは2010年にサンディスクが64GBのものを発売したあたりらしいし、スマートフォンも1992年にIBMが発表したのが最初だが、本格的に普及しだしたのは2007年アップルのiPhone、あるいは2008年以降のAndroid版あたりからだろう。これらメモリーの用途の拡大や端末の多様化は、カーツワイルの経済モデルを後押しする力になるかもしれない。ちなみにクルーシャルのMX500 CT1000MX 500SSPI/JPは1Gあたり12円と、すこぶるパフォーマンスがいい。もちろんメモリーに対して読み書きがかなり遅い事は間違いないが、インテルとマイクロンが開発した3Dクロスポイントは従来のSSDの読み書きより1000倍速いという話だから、これが今までのPCのスタイルの変革に成功すれば、意図しない形でのカーツワイルの予言の的中はありうると言えるかもしれない。
では、もともと彼が頭に描いていたコンピューターの進化とはどういうものか?カーツワイルはこれまでコンピューターは5回、雪だるま式に膨れ上がる成長を経験してきているという。最初は機械の歯車を電気で動かして計算した電気機械式計算機。2回目が、その歯車をバネ、電磁石に変えたもの。昔、電話をすると電話交換手が出てきて、この人に電話したい相手への電話線つないでもらわないと電話できなかったそうだが、これをステッピングスイッチとかリレーとか呼ばれる電気機械で置き換えて電話の自動交換が実現した。先のバネ、電磁石こそ、このリレーで、リレー式計算機と呼ばれる。そして3回目が真空管4回目がトランジスタ、5回目にお馴染みの集積回路となっていく。
現在この集積回路が大規模集積回路(LSI)になりコンピューターを動かしているのだから、もし人間の脳と同等の機能を持つコンピューターが2020年にあらわれるなら大規模集積回路がそれを実現するはずなのだが、彼は2020年には次の6回目のコンピューターの進化が三次元分子(TRAM SYSTEMのホームページでは三次元自己進化型分子回路という名になっている。)の形で実用化され市場にあふれている事を前提に話を進めている。TSMCが回路線幅が2ナノメートルの製品を2024年あたりに量産化するという話だそうなので(有名な分子としては、サッカーボールのような炭素分子フラーレンが幅10ナノメートル、DNAの縦幅2ナノメートル、ブドウ糖の長さが1ナノメートルほどらしい。ちなみに1ミリは1ナノより1000倍そしてさらに1000倍大きい。)そいういう事かなと言うとそうではない。分子コンピューターとはどうもトランジスター、ダイオード、スイッチ、配線などを最小単位で実現させるシステムらしく、現実残念ながら研究室内での話しにとどっまっているもののようだ。確かに2019年の東京工業大学のホームページのニュースによると単一分子素子が従来より21倍安定化、伝えられる情報に混じるノイズが40%減ったと喜ばしい情報を伝えているが、具体的な産業化につながるほどの感じではなさそうだ。
結論を出せるほどこの分野に詳しいわけではないが、カーツワイルのモデルが、かなり不利な状況なのは間違いなさそうだ。実際、分子コンピューターで検索してもトピックとして引っかかるのは量子コンピューターの方が多かったりして、これが素人の目から言わせて貰えば、分子コンピューターは量子コンピューターの基礎研究の一分野で、これ独自で製品化されるよりは先に量子コンピューターが実現するのではないかと思えてしまう。もしヒットしたトピックだけ考えれば、量子コンピューターの方が、投入された資金、人材、施設、原材料、話題性まで分子コンピューターを上回っている印象を受ける。(まあこの事自体は、AIの人間同等、それ以上の知能の実現を早めることになるかもしれないが。)
最後にはカーツワイル本人が自分の提案したモデルを、これら昨今の事情を顧慮し幾分修正したりする気があるのかに行き着くのだろうが、素晴らしいというか残念にもというか大筋でシナリオを修正する気はまるでないようだ。2020年8月に日本語版が出た「人工知能のアーキテクトたち」(オーム社)で著者のマーチン フォードはカーツワイルにインタビューして、カーツワイルが人間レベルのAI は2029年ころ達成されると確信していることを確認した。
結論としては、2020年の予言としては細かなハードウェアの選択には失敗したが、人間並みのAIの出現についてはまだ結論は出ていないという事になりりそうだ。
ブックマークつけてくれた人に感謝と弁解。
最初ただハードSF書きたくて出した物だから、読者0人でも不思議はないと思っていたので、1人でも読んでいる人がいると分かって、とても嬉しい気持ちで感謝します。
でも悪い話をしなくてはいけない。実はコレ、もっと早いペースで書き上げるつもりのものだったのです。が、あんまり設定にこだわりすぎたせいで、当初予定していたエピソードと決定的に矛盾してしまい話を最初から組み直ししなくてはならなくなったのです。結果、文章が滞りがちになりなかなか先に進まなくなりました。
そんな訳で私の唯一の読者様には、長い目と忍耐をよろしくお願いするしかありません。
それだけ、このネタになったカーツワイルという人の世界が深かったのだ、という事に尽きます。結果、これからも、ああでもない、こうでもないとヨタヨタ進むことになりそうですので、そのように考えおつきあい願えたらと、思っています。
では、これまでのあなたの読書に感謝します。