人、三界に家無し(三十と一夜の短篇第32回)
登場人物
女 三十代の前半
男 二十代の終わりから三十代の始め
女の夫 三十代半ば
女の子ども 二歳くらい、人形でも構わない
通行人
舞台は夜、駅の近くの公園か、広い歩道。真ん中にベンチがある。
女が上手から出てきて、ベンチに座る。ふらふらと体を引きずっているような感じ。
女「くたびれた。これからどうしよう。ここにいたら、いかにも捜してくれるのを待っているみたいで嫌だわ。かといってもう歩きたくない。
少し休んでから考えよう」
何人かが下手から上手へと、ベンチの前を行き過ぎる。駅の近くを表すように、バラバラだが、電車の到着を示すように一斉に通る。
少し間を置いて、また下手から上手へと数人が通り過ぎる。
その中の男が一人、下手から出てきて、女に気付いて足を止める。女はうつむき、泣いているようにも見える。
男「朝の通勤電車でいつも見掛ける女性だ。こんな所でどうしたんだろう。鍵を落としたのだろうか。
気になる。声を掛けてみようか。しかし、夜のこんな時間に不審者と思われかねない」
男は女を見詰めつつ、しばらく迷う。
男「いや、声を掛けてみよう。拒否の態度があればすぐに退散すればいい」
男は女に近付く。
男「気分が悪いんですか?」
女、はじめて男に気付いて驚いて見上げる。
女「いえ、少し疲れただけです」
男「気になったものでつい、ごめんなさい」
女「気になさらなくても大丈夫です」
男、ゆっくりと上手に向かい、立ち止まって振り返る。
男「当然の反応なのだろうけれど、気になる」
女「本当に優しいのか、下心あるのか判断が付かないけれど、今は一人になりたい」
女は情報を遮断するかのように両手で顔を覆う。
男はまたベンチに近付く。
男「お節介で済みませんが、本当に大丈夫なんですか?」
男、女の隣に座る。
女「大丈夫ですってば、夜の散歩の途中で座っただけ」
男「ああ、もう帰宅されてたんですね。
僕、毎朝電車で貴女を見掛けていたので、残業で遅くなって調子が悪いのかと思っちゃいました」
女「そうなの? 私は貴方の顔を覚えていない。でも貴方は今帰りなのね? お仕事ご苦労様」
男「(独白)優しい言葉を掛けてくれた」
女「(独白)出会いの場面と勘違いされても困るからはっきり言っておこう。
(男に向かって)私みたいな既婚者に構わなくていいのよ」
男「ああ、ご結婚されているのですか?」
女「(独白)ほらご覧、がっかりしたような顔をした」
男「奥さんなのに一人で夜出歩いちゃいけませんよ。それとも旦那さんと待ち合わせでデートですか?」
女「面白いことを言うのね」
男「そうですか? 僕は独り者だから、ご夫婦の機微なんて判りませんからね」
女「夫婦の機微なんてものじゃないわ。
(独白)この男性相手にお喋りしてしまおうか。引いて逃げていくならそれでもいい。
(男に向かって)流行りのプチ家出かな?」
男「一人の時間が欲しくなったようなものですか? でしたら僕は邪魔でしたね」
女「(皮肉っぽく)女の詰まらないお喋りを聞かせられる破目になるわよ」
男「構いませんよ。帰ったってどうせ一人なんですから、聞きましょう」
女、男を初めてよく見る。女、また正面を向く。
女「私と旦那は共働きでね、毎朝電車で見掛けているなら判るでしょう? 子どもを保育園に預けて、電車に乗って出勤。今日は保育園から、子どもの調子が悪いと連絡が来て、仕事を早退して、お迎え、小児科、自宅に帰って、様子を見ていたの。
子どもは微熱があって、おやつを戻したと保育士さんから言われたけれど、家に着く頃には機嫌が良くて、ちゃんと休ませようとしてもじっとしていないくらい。折角早退したのだからと、散らかった部屋を片付けて、まともなご飯でも作っておこうとバタバタしていたわ。それでも子どもは、早く家に帰って私といることを喜んでいるみたいで、まとわりついてはしゃいでいる。子どもの気持ちが判らないでもないけれど、熱が上がったら困るからじっとしていて欲しくて、でもそれだと側に付いて添い寝してやらなきゃいけなくなる。添い寝していたら、こっちも寝落ちしてしまう」
男「いいじゃないですか? 忙しくしているのですから、お子さんと一緒にネンネしていればいいでしょう」
女「そうね、でもやっぱり、同じように忙しく働いて帰ってくる旦那にはきちんと夕飯を作って出迎えたい。そうじゃないと、旦那から早退したのだから、家の中のことを少しはしておいたらと、言われそう。
いえ、そんなことを言わない人だと判っているのだけれど、私はそうしないではいられない。
子どもを医者に連れていって様子を見ていると連絡したから、旦那も残業しないで帰ってきた。私は子どもを抱っこして、玄関に出て、旦那にお帰りなさいを言い、みんな揃って晩ご飯食べようと言えた。
三人揃ってご飯を食べて、子どもは元気そうで、薬も飲んだ。旦那も安心している。子守りを頼んで、後片付けをした。
終わって台所から居間に行ったら、二人とも眠っていたわ。子どもは熱はない、でも明日、預けていいのか、休ませたらいいのか。休ませるにしても、一体夫婦のどちらが休んで面倒を見るのか、今日早退したのは私だから、明日は旦那が休んでと決められるのか。
今日、私がてんてこ舞いしていたのに、旦那は子どもとすやすや眠っている。旦那だって疲れているのは判っているの。
でも、私だって疲れて疲れて、涙が出てきそうになった。
何だか自分のしていることに自信がなくなってきてしまって、思わず、外に出てきてしまった。
話してしまうと、莫迦々々しい。でも、私は辛い」
男「僕には何もできないですが、辛いのなら全部話してしまえばいいんです」
女「女のお喋りに付き合うなんて、貴方はお人好しなのね」
男「これからの生活の参考にします。いつかは誰かと暮らすかも知れないですから」
女「独身って言っていたわね?」
男「そうです。一人暮らしで、最低限の家事はしますけれど、やっぱり家族の為って縛りがなければ、丁寧に、頻繁にしないです」
女「男の人はそれでも許されるでしょう」
男「そうですか? 今は家事のできない男は結婚の条件として女性から嫌われると聞いていますよ」
女「私の兄は家事できないわ。兄が独身の訳ね。
親は勉強に関して兄を見習えとうるさかった。兄は優等生で、県で一番偏差値の高い高校に合格して自慢の息子、私にも同じくらいの高校に合格しなければといつも言っていた。それでいて、掃除や炊事、これくらいできなければお嫁に行ったら苦労する、恥をかくと言われて躾けられた。兄はそんなこと言われなかったし、家事も適当、手伝い程度にしかできない。
親にあれこれ言われるのが嫌だったけれど、兄だけが特別ではないと、頑張って勉強して、兄と同じ高校に入れた。親から褒められて、嬉しかった。これで私も自慢の娘になれた。でもその先、大学受験には親は嫌な顔をした。
進学が当たり前で就職を希望されたら逆に進路指導の先生が困るくらいの偏差値の高い高校なのに、四年制大学に女が入ったら婚期が遅れるなんて、いつの話っていうようなことを平気で言ってきた。それでも私の言い分に母が賛成してくれるようになってくれて、最終的に地元の国公立大学ならと、認めてくれた。そして地元の大学に入って、少しは世間が拡がった。
親の言うことばかりが正しいのではない。自分で見聞を拡げて判断できるようになろうと努力した。
就職するなら自宅から通勤できる所と母は願ったけれど、今度は父が理解を示した。小姑がいない方が兄の結婚にいいだろうと計算があったみたいだけれど、就職先を自由に選ばせてくれた。
働いて、結婚して、子どもを持ったのだから、独立して安心させる、親への孝行の一つは果たした。
仕事も順調だし、産休や育児休業の取得ができて、保育園からの連絡があって早退できる、理解のある職場で、私は恵まれている。
判っている。でも辛い」
男「疲れているんですよ。
仕事も家庭も育児もと、そんなに頑張らなくてもいいんですよ。全てを完璧にこなそうとするのは無理です。
僕に姉がいますが、姉はもっと気楽にして、はっきり言って旦那さんをこき使っています。共働きだから家事の分担は大事なのは判りますが、姉の言い方がきつくて、義理のお兄さんに同情しますよ。
姉は僕にとって怖い存在です。
僕は男の子なんだから我慢しなさいと言われて育ってきて、親から甘くされる姉に不公平感を持っていたなあ。姉はそんなこと気にせず、親と一緒になって男なんだからしっかりしろ、はっきりしろと言って、自分は気ままを通しています。力仕事を一方的に言い付けてきてなあ。
家によって違うんですねえ」
女「そうね、色々あるのね」
男「家事も育児もできなければお嫁さんに行ってから苦労するなんて思い込みです。義兄は家の中のことはなんでもやっていますし、結構休んで子どもの看病しています」
女「思い込み……、刷り込みってものかしら?」
子どもの鳴き声が聞こえてくる。上手から子どもを抱えた女の夫が出てくる。
女は、鳴き声に反応して上手を見る。
女の夫「こんな所にいたのか? 子どもの鳴き声で目を覚ましたら君がいなかったから、捜しにきた」
女「ごめんなさい。二人ともいい気分で寝ているようだったから、気分転換しようと散歩していたのだけれど、疲れて座っていたの」
女の夫はベンチの側まで来る。
女の夫「その人は?」
女「この人は気分が悪いんじゃないかと心配して声を掛けてくれた親切な人なの、あなたもお礼を言って」
女の夫「妻を気遣ってくださって有難うございます」
男「いいえ、気になさらないでください。ご主人が来たから、僕は行きますね。(立ち上がる)
左様なら」
女「左様なら」
女の夫「左様なら」
男、上手に歩き、立ち止まる。
男「旦那が来たなら僕は用無し。彼の女が愚痴を吐き出し、旦那が迎えに来てくれたのだから、気が晴れたんじゃないだろうか。
僕の心は寂しいままだが、人助けになったと思って満足しよう」
男、舞台から去る。
子どもは泣き続けている。女の夫は子どもをあやしつつ、妻に話し掛ける。
女の夫「子どもと眠ってしまったのは悪い、謝るよ。怒っているかい?」
女「いいえ、外の空気を吸いたくなっただけ。さあ」
女は子どもを夫から受け取り、あやす。子どもはすぐに泣きやむ。
女の夫「お母さんが好きなんだな。
(独白)俺だって子どもが可愛いし、一生懸命やっている。侘しい」
女「ごめんね、夜に外に出させちゃって。すぐにお家に戻って、休もうね」
女の夫「(独白)妻の方がなんでもできる。仕事もフルタイムで働いて、家事も育児も、同僚から羨ましがられるほど、俺の負担は少ない。子どもは妻に懐いている。まるで俺が働いて、給料を運んでくるだけの存在のようだ。もっと自分から家事をすればいいのだろうが、手の付け方が判らないし、下手をすると妻から抗議が来る。
俺の器に合わない女なのかも知れない」
女「(独白)虚ろな心は充たされない。恐ろしいほど何も感じない。しかし、子どもと旦那が私を必要としてくれているのだから、きっと私は仕合せなのだ」
女、子どもを抱いてベンチから立ち上がる。
女「帰りましょう」
女の夫「ああ、帰ろう」
女「お願いがあるのだけど、聞いてくれる?」
女の夫「ああ」
女「明日、この子の調子が悪かったら、保育園に連れていけないじゃない。明日仕事を休める?」
女の夫「ああ……、考えてはいたんだけど……」
女「(ぴしゃりと)無理なのね」
女、夫に先立って歩き始める。
女「あったかくして、早く寝ようね」
女の夫「妻を失望させた」
女「さあ、早く帰りましょう。休まなければ良くなるものも良くならないわ」
女の夫「どうやったら妻を喜ばせられるだろう」
女「あなた、どうしたの?」
女の夫「なんでもない、帰ろう」
夫、女に追い付いて、肩に手を置く。
女は夫を見上げる。
親子三人上手に去る。
幕。