転生したら
もう終わりにしよう...楽になろう。
満員電車の中で、人の流れに身を委ねながら思った。人混みの中の特有の重苦しい空気、身動きが取れない苦しさは、まるで自分が泥沼の中にいるかと錯覚させた。
毎日毎日、こんな辛い通勤を続けている。吊り広告のくだらない週刊誌の宣伝は、同輩で成功した若き起業家たちの輝かしい姿と、それとは逆の泥沼の夜の生活を面白おかしく取り上げていた。
こいつらと、僕は何が違うんだ。
奏太は、都内のIT中小企業に勤めるサラリーマンだ。普通のサラリーマン家庭に産まれ、普通に勉強し、普通の大学を卒業した。その後、苦労の末にようやく都内の企業から内定をもらった。
元々、機械やパソコンは嫌いではない。だが、専門の学部を出たでもなく、かといって自分で進んでプログラムを書いているわけでもない学生が活躍するには大変な職場だった。
同期のほとんどは理系の大学や専門学校出身で、一通り動くプログラムを自分で書くことができた。
会社では新入社員向けの研修をしてくれたが、言われたことだけをやる受け身な生き方が染み付いた頭では、3ヵ月も意味のあるものにはならなかった。完全に落ちこぼれていた。
研修が終わり、プロジェクトへの参加が進むと、その差は歴然と、そして公然となった。
「あいつらばっかりチヤホヤされて。いいよな、理系出身でIT企業に入ったら、そりゃ楽だよ。」
自分が努力しないことを棚にあげて呟いた。本人にはその自覚はない。
「おれだって、頑張ってるんだよ...」
目の前がにじむ。満員電車は、疲れきった心を更に底に引き込むには最適の場所だった。
なんて惨めなんだ...。今日の出来事を思い出して、奏太の魂は泥沼の底に達していた。
やっとの思いで最寄り駅で電車を降りる。踏み切りを渡ればすぐに自宅のアパートだが、その距離でさえ今の奏太には途方もなく思えた。
カンカンカン...
聞きなれたはずの踏み切りの音が頭を揺さぶる。
「もう終わりにしよう...楽になろう。」
目の前は真っ暗だ。夜の闇以上に、心を包み込むモヤが何も見えなくさせていた。フラフラとしながら、足が前に進む。
一歩、踏み出そうとした。
ドン
体に衝撃が伝わり、体が地面につく。だが、それは鉄の塊がぶつかったものとは違う、何か柔らかいもの。
「痛いわね。ちゃんと起きてる?」
モヤが次第に薄れ、視界がクリアになっていく...目の前に立っていたのは一人の女性だった。黒いスーツに身を包んだ、いかにも仕事ができるキャリアウーマンといった感じだ。
「...はっ!すみません。ぼーっとしてて」
「あなたの顔をみれば分かるわ。大丈夫?」
そういいながら、女性は白い手を差し出す。
気がつけば、奏太達二人を中心に人の輪ができていた。その中心で女性に体を起こされているという状況が、奏太を更に惨めにする。
「ほら」
女性に急かされて慌てて手を取る。
「...ありがとう。」
まだかすかにモヤが残る視界の中、辛うじて礼を呟いた。
遮断機が弧を描いて上がっていくと、人の輪は自然と消えていった。残っていたのは、奏太と、彼がぶつかった女性だけだ。
なぜ、この人は行かないんだろう...怒ってるいるのか...?
「ごめんなさい。何て言うか...」
とりあえず、謝罪の言葉を口にしたその瞬間だった。
「死のうとしてた?」
えっ!っと思った。
と同時に、心の中がのぞかれた気がした。
「絶望したみたいな暗い顔と踏み切り。ありきたりね。」
何も言えなかった。
「分かりやすい外見と状況。私じゃなくても分かるわ。」
「...」
「ありきたりすぎるけど、おかげで手間はかからなくて良かったわ。」
なんのことだ。
「あっ、あなたのことだけど、いまは分からなくていいわ。誰だってそうだもの。私はあなたの手続きのためにきたのよ。」
何を言っているのだろう。手続きってなんだ?理解が追い付かない。
「とりあえず、ここでの立ち話では都合が悪いから、場所を変えましょう。」
回転が止まったままの奏太の頭では、従う以外の選択肢はなかった。促されるまま、近くのバーに入った。
テーブル席に、女性と向かい合わせに座る。こういうところは普段はこない。何を頼めば良いかと迷っていると、女性がワインと2つのグラスを注文した。
落ち着かずキョロキョロとしているのも恥ずかしくて、テーブルの向かい側に目を移す。こうして改めて見ると、本当に美しい女性だった。陳腐な表現だが、この世の人とは思えない。
この先、長い人生が続くとしても、出会うことはないであろう人だ。それほど、奏太の人生とはかけ離れた存在に思えた。もし、続くとすれば、だが。
「改めまして、私は奏といいます。」
「はあ、はじめまして。」
なんとも変な挨拶だと思った。
奏は気にする素振りもなく続ける。
「転生エージェントです。」
転生?転職エージェントのことか?
「違います。転生です。」
思わず呟いていたのかと慌てるが、そうではなかった。
「大丈夫ですよ、声は出ていませんでした。でも、分かります。みなさん同じ反応ですから。私たちは、魂が終りに向かわないように転生を斡旋するものです。」
「...天使みたいな?」
「そういう表現をする人はいます。ですが、私たちは魂を救済するのではなく、あくまで次の道を紹介するだけです。」
違いが分からない。死んだあとの行き先を示してくれるのであれば、同じではないかと思った。
奏太ははっとした。不安と少しの恐怖がよぎる。
「やっぱり、僕は死ぬんですか?」
さっきまで、自ら命を絶とうとしていたのに、こうして死と向き合うことになると恐ろしかった。
奏はあくまで事務的に答えた。
「今すぐでなくても構いません。転生先が気に入らなければ、今のまま生きることもできます。」
死ななくてもいいという言葉と、死と言うものを事務的に話される非現実が、少しだけ心に落ち着きを取り戻させた。
話はつづく。
「ただ、契約は生きているときに済ませてしまうのが一番処理が早くて良いのです。ですので、終わりが近い方から順番にお伺いさせていただいています。」
「なるほど。」
何がなるほどだ。いまの状況、奏が話す内容も頭では、何も理解していない。だが、もし別の人生が生きられるなら、文字通り生まれ変われるならそれも良いかと思っていた。
テーブルの上には、いくつかのパンフレットが並べられた。
保険の外交員みたいだな。
そのパンフレットには、自分の魂の転生先が示してある。分かっていながら、そう呑気に考えていた。
「いますぐ転生できるものの中でおすすめなのは、これとこれと...」
「タニシと、タンポポ...。植物も転生先の候補なんですね。」
「もちろんです。命あるものは、すべて転生先になり得ます。」
「人間にはなれないんですか?」
恐る恐る聞いた。
「わかります。みなさんそうおっしゃいますので。ただ、当然ですが人間への転生は倍率が高いのです。」
「倍率...。死ぬときも競争しないといけないんですね。」
人間へのこだわりはなかった。いまの人生がこんなに辛いのに、次がうまくいく保証はない。タンポポでもいいかと思いながら、ふと疑問が浮かんできた。
転生先を決めなかったらどうなるんだろう?
その質問には、言葉を出さずとも答えが得られた。奏太は思ったことが顔にでる分かりやすい人間だった。
「転生先を決めないまま終わりを迎えると、魂は迷子のような状態になります。いわゆる、浮遊霊や地縛霊です。ときどき、決められない方がいるので、そういう存在が産まれてしまいます。」
「あぁ、あれが」
見たことはないが、そういう霊的なものを全く信じていないわけでもない奏太は、なるほどと納得する。
「人間への転生に固執したり、人生に固執したり...いろいろですが、おすすめしません。いまも昔も、終身魂用なんて流行らないのですが、なかなか理解して頂けなくて。」
吹き出しそうになった。自分の死と向き合いながら、我ながらのんきなものだ。
しかし、死ぬことがこんなに難しいなんて...。優柔不断な性格の奏太には、転生先をすぐには決められなかった。
死ぬことが怖くなったのではない。生きていたいと思った訳でもない。
おかしな会話だが、人とこうして話すのは久しぶりだった。
この不思議な時間が、奏太を死から遠ざけていた。
「...いま決めないと行けませんか?」
ポツリと零れた奏太の言葉に、奏は初めてニコリと笑った。
「いつでも構いませんよ。ただ、そのときには連絡くださいね。」
名刺を受け取り出口に向かう。
「いつでも相談に乗りますから。何もなくても連絡くださいね。」
そう後ろから声をかけられて、振り返った。会釈をしながら、自然と微笑んでいた。会社でする作り笑いとは違う、本当の笑顔だ。
死ぬことも、生きることも難しい。なら、もう少しだけ、この生を続けよう。
奏太は、バーのドアを開けた。