胡蝶の迷宮
……なんで私は外にいるんだろう?
爆発して家が吹っ飛んだのなら五体満足でいられるわけがないし、さっきまで2階にいた私が往来に立っているのもおかしい。
周囲に瓦礫は見当たらないから爆発したわけじゃなさそうだけど……。
ここ、どこ!?
【免責事項】
・このゲームは開発中の製品のβ版です。お使いの環境により正常に動作しない可能性があります。
・β版は製品版とは仕様が異なる場合があります。
・β版でのプレイデータを製品版へ引き継ぐことはできません。
βテスト参加者募集。
それは動画サイトに投稿された怪しげな動画が始まりだった。
黒背景に煽り文句の文字だけで構成された謎の動画は娯楽に飢えていた好事家たちの目に留まり、瞬く間に情報が拡散された。
そのゲームの開発が発表されたのは5年前だった。デモ動画も画像も開示されず【オンラインゲーム】と仮称されたタイトルだけが公表された謎のゲーム。
常識的に考えれば実在が疑問視される次元の話なのに、そのゲームには何故か信じたいと思わせる求心力があった。謎の秘密結社の存在が世間で噂されるように、中途半端な情報開示をするよりは完全に秘匿した方が話題になることもあるんだろう。
洗脳プログラムを開発するための軍事プロジェクトだなんて荒唐無稽な噂まで流れたこのゲームはその後も情報の秘匿が徹底され、開発発表から1度も続報が報じられないまま忘れ去られていった。
企画が頓挫したと誰もが思い込んでいた幻のゲームが密かに開発されていた。話題性は抜群だ。
3DダンジョンRPGだと発表されたそのゲームが3ヶ月のプレオープン期間を設けて一般プレイヤーに限定公開され、本配信前の最終調整が行われる。
そこから先は急転直下だった。
仮設サイトが立ち上げられて募集要項が公開され、参加資格が先着300名だと明示された。文字通りの早い者勝ちでプレイヤーが採用されることになる。
そしてキャラクター登録の受付開始と同時にゲームのマニュアルを閲覧できるようになるらしい。
RPGはクラスとスキルの選択が重要なのに、出遅れたらβテスト自体に参加できなくなる。情報収集の時間が命取りにもなりかねない悩ましい仕様になっていた。
そして本日正午。ついに仮設サイトのレイアウトが一新され、キャラクターの登録受付が始まった。
【胡蝶の迷宮】と表示されたサイトの背景には複雑な紋様の翅を持つ揚羽蝶が描かれていて、画面写真らしき和風のグラフィックが所狭しと配置されている。
よく見れば揚羽蝶の翅が迷宮のマップに見えなくもない。なかなか手が込んでいるとは思うけど、画像の読み込みに手間取っているのかやけにページが重くてもどかしい。
まさかここまで重くなるとは思わなかった。型落ちしたとはいえ私はそれなりにハイスペックのマシンを使っている。普段ならこのくらいの情報量ではガタつかない。
これは処理能力の問題よりもサーバー負荷を疑うべきだろう。カウンターが無いから確認できないけど、相当な人数がアクセスしていそうだ。
この重さだと必要最低限の情報を見るだけでも結構な時間のロスが発生してしまう。情報収集は諦めるべきだろうか。
免責事項に書いてあるからデータが引き継げないのは確定だし、3ヶ月で終わりなら無理してまで攻略する価値は無い。
情報があっても参加できなきゃ本末転倒だ。どんなゲームでもキャラクターの作成くらいはマニュアルを読まなくたって勘でできるだろう。
日曜の真っ昼間に二度寝も外出もしないで待機していたんだから確実に参加したい。この時間が無駄にならないように登録を済ませてしまおう。
MMOは同名登録ができない仕様になっていることが多い。アクセスが殺到しているのなら名前の重複で弾かれたら終わりだ。作り直している間に定員が埋まってしまう。
速度勝負なら【あ】とか【A】が定番だけど競争率が高そうだ。【ああああ】辺りにしておくのが無難だろう。
名前【ああああ】
年齢【19歳】
性別【男】
ん? 年齢? 性別?
名前を入力しただけなのにキャラクターシートが出てきた。サンプルデータが残っていたんだろうか?
……まあ、この辺はどうでもいいか。名前が適当な時点で既に台無しなんだから自動入力に文句を言っても説得力が無い。
画面には能力値や適正値が表示されていて、右下に50という数字が点滅表示されている。多分この数字を振り分けてカスタマイズするんだろう。
このキャラクターはレアかもしれない。初期能力で既に【火魔法】を覚えているし、【属性】を上げれば少ないポイントで対応した魔法を取れる。適当に魔法を取って残りのポイントを能力値に振るだけでもそれなりに強くなりそうだ。
付与ポイントが固定なのか検証してみたい気もするけど今は時間が無い。でもランダムだとしたら50は最大値に近いんじゃないだろうか?
RPGはバランス型だと器用貧乏になりがちだから序盤は特化型の方がいい。欲を言えば脳筋じゃなくて稀少な技能を取れる能力に特化させたい。
気になるのは【覚醒】だろうか。見慣れない項目だけどレベルキャップの解除みたいな効果が期待できる上にポイントを全振りすれば【光魔法】を取れる。
定番だと光属性は癒しと浄化だ。回復魔法があれば薬代を節約できるし、これだけ条件が厳しいのなら取れる時に確実に取っておきたい。
全振りだと身体能力には振れなくなるけど能力値は装備品で補填できる。それで勝てないようなバランスなら他のプレイヤーだってきついはずだから野良募集くらいはあるだろう。
【確定して登録】
【はい いいえ】
え? これだけ?
んー。確認表示が出てるから抜けは無いはずだし、登録できるなら大丈夫か。
はい登録。
【登録が完了しました】
よし、と……えっ!?
もしかして、モニター壊れた!?
登録が完了した直後から画面が真っ白になってすごい光量で明滅している。
放電……はしていないと思うけど、不用意に触って感電するのは嫌だ。電源を落とすのはゴム手袋を買ってきてからにしよう。
うあー。目が痛いし頭痛もしてきた。ただでさえ目が悪いのに、これで視力が落ちたらコンタクトと眼鏡の新調で無駄な出費が嵩んでしまう。
……光はいつの間にか収まっていた。
でも原因がわからないからこのまま使うのは怖い。とりあえずメンテに出して徹底的に調べてもらう必要がありそうだ。
目がチカチカして視界がぐにゃぐにゃ歪んでいる。こんなのを何度もくらってたまるか。
やっとまともに見えるようになってはきたけど……なんで私は外にいるんだろう?
爆発して家が吹っ飛んだのなら五体満足でいられるわけがないし、さっきまで2階にいた私が往来に立っているのもおかしい。
周囲に瓦礫は見当たらないから爆発したわけじゃなさそうだけど……。
ここ、どこ!?
気がつくと、私は時代劇の世界にいた。いや、正確には時代劇の城下町に似ている場所だろうか。
ぱっと見はテレビで見る江戸時代の町並みに近いような気がする。でも住人の髪型と髪色は雑多で服装にも統一性が無い。
聞こえてくる声は日本語なのに、この光景が過去の日本だとは思えない。現代だとしても近所に映画村みたいな場所ができたなんて話は聞いたこともないし、そもそもどうやってここに来たのかがわからない。
そんな奇妙な光景の中に私は立っていた。
……ありえない。ありえない現象が起きているんだからこれは夢だ。
思い当たる原因は画面のピカピカしかない。あの光のせいでてんかんを発症したか催眠状態に陥ったかで意識を失って夢を見ているんだろう。
でも本当に夢だとしたら厄介だ。私には眠っている自覚が無いから起きられない。夢から醒めるには現実で目を覚ますのを待つしかないだろう。
そうなると今の私にはどうしようもないし、ここでどれだけの時間を過ごさなきゃいけないかが問題だ。食事とか睡眠とかが必要なのかもわからないし、この世界での体感時間が現実の時間経過と同じだとは限らない。とりあえず何日かはここで過ごす算段をした方がいいんだろうか?
滞在するとしたら先立つ物が必要になる。
どんな世界だって文無しが生きていけるほど甘くはないし、未知の場所で野宿するのは危険すぎる。
これがタイムリープなら古銭が必要だろうけど、夢なら現代の日本円が使えるかもしれない。たしか財布はポケットに……?
無い。ポケット自体が。
これは私の服じゃない。
いつの間にか私はお公家さんみたいな直衣姿になっていた。
どう考えてもおかしい。いや、時代設定的には間違ってはいないのかもしれないけど、こんな服に着替えた記憶は無い。
財布は無かったけど袂に巾着袋があった。中を見たら十円玉に似た硬貨が大量に入っている。結構重いけど何枚あるんだろう?
あと、さっきの光で乱視が悪化したかもしれない。視界に文字が重なって見えるような気がする。
ステータスとかレベルとか、ゲームで見慣れた単語がアクリル板に書いたみたいに浮かんでいて、巾着袋には数字が重なって見えている。
……まあ、もしかしなくてもこれはそういうことだと思うしかなさそうだ。
なんとなくわかってはいたけど、巾着袋から硬貨を出したら数字が変わった。多分この数字は硬貨の枚数を表示しているんだろう。
謎現象だけど数える手間が省けるのは便利だ。これが所持金だとすると……。
【100CP】
……物価がわからない。
時代劇なのによりによって通貨がCP!?
いや、十円玉に似てるから多分銅銭なんだろうし、銅ならCOPPERのCなのかもしれない。
こういうのも和洋折衷なんだろうか。よくわからないけど多分そういうものなんだろう。
ステータス画面が見える時点で現実なわけがない。ゲームだとしたらやっぱりあれか。たしかタイトルは【胡蝶の迷宮】だっけ?
そういえばサイトで見た画面写真が和風テイストのグラフィックだったような気がする。ここは多分あのゲームの世界だ。
3DダンジョンRPGならどこかに迷宮があるんだろうし、いざとなれば日銭くらいは稼げるだろうか。
生身で迷宮になんか行きたくはないけど、住所不定で身元照会すらできない私が真っ当な職に就けるとは思えない。ステータス画面の確認くらいはしておいた方がよさそうだ。
名前【ああああ】……これは、仕方ない。仕方ないとしか言いようがない。
年齢とか入力画面が出なかった項目は多分ランダムで設定される仕様になっていたんだろう。 職業【異邦人】……これも選択した記憶が無い項目だ。この町にはさっき来たばかりだから異人さんには違いないんだけど、ただの外国人? これは職業なんだろうか?
魔法【火魔法】……これは最初から覚えていた魔法だ。ポイントを振らなかったからか、覚えているのは火球だけ。火球は流星観測の時に1度だけ見たことがある。夜空に軌跡が残るくらい豪快に燃える魔法なら威力は抜群だろう。
魔法【光魔法】……こっちは目眩ましと照明だけ。さすがにこれは想定外だ。いくらレベル1でもこれはひどすぎる。回復どころか攻撃手段すら無いとは思わなかった。
魔法はMP制じゃなくて属性毎に使用制限があるらしい。光魔法は1日に3回使えるのに火魔法は1回しか使えない。
身体能力は初期値のままだから白兵戦は自殺行為だし、攻撃手段が火球1発だけじゃ連戦はできない。
どうやら迷宮に行くには道連れを探す必要がありそうだ。
迷宮探索が目的のゲームならパーティは最大6人が基本だから大規模戦特有のクランシステムは無いだろう。冒険者ギルドがまとめて管理しているはずだ。
念のため迷宮が本当にあるのか確認して、それからギルドでメンバー募集か。なかなか忙しい。
とりあえず通りすがりの町人さんに迷宮の場所を訊いてみよう。特定の人じゃなくて何人かが塊になったタイミングで声をかければ1人くらいは足を止めてくれるだろう。
「すみませーん。お尋ねしたいんですけどー」
えっ!?
びっくりした。この体だとこんな声になるのか。
「あん? どうした兄ちゃん」
「え? あー、えと、なんか迷宮があるって噂を聞いたんですけど、それってどの辺にあるか知らないですか?」
「なんだ余所もんか。町を出てあっちの方に半時くらい行ったとこだ」
「はんとき……え? そんなに遠いんですか?」
「近かったら危ねえだろ。近頃は物見遊山の余所もんが増えたが大抵はくたばっちまうよ。命が惜しけりゃやめときな」
町人さん意外と面倒見がいいタイプだな。私だって生活費さえあれば危ないとこになんか行きたくない。
半信半疑だったけど本当に迷宮があるらしい。でもやめとけとか言われちゃったからギルドの場所は訊けなかった。
町人さんとの話を切り上げて改めて周辺を観察すると、見える範囲には片仮名が見当たらないけど平仮名と漢字はあった。
ここがどこかはわからないけど、少なくとも言葉が通じて文字も読める。これなら外国で路頭に迷うよりは救いがある……わけないか。帰れないんだから。
よく考えれば大使館がある外国の方が救いがありそうな気がした。
まずはさっきの町人さんが指差した方角に行こう。利便性を考えるなら迷宮を行き来する冒険者が立ち寄りやすい場所にギルドがあるはずだ。
町人さんは余所者が増えたと言っていた。余所者が集まるギルドを町の中心部に置いたりはしないだろうから探すなら町外れだ。
そこにギルドが無かったとしても冒険者の拠点くらいは見つかるだろう。
結果的にはギルドは見つからなかった。でも目当ての建物はやっぱり町外れにあった。
広大な敷地に建つ旧家の邸宅という佇まいの建物には縦書きの看板が掛けられていて、その看板には毛筆で【萬冒険者管理処】と書いてある。
よろづぼうけんしゃかんりどころ?
これは和風なのか、それとも中華風なんだろうか。とにかく冒険者を管理している場所ならギルドみたいなものなんだろう。 和洋折衷かと思っていたら想定外の世界観だった。中世と白亜記(中生代)を間違えたくらいの別物感が醸し出されている。
玄関の内側はだだっ広い空間だった。
正面の壁に巨大な掲示板が設置されていて、向かって左側はラウンジ、右側には窓口らしきカウンターがある。書き入れ時のためかラウンジには数人の冒険者がいるだけで、新参者の私は見向きもされていない。
掲示板にはクエストが貼られていた。文字も文法も日本語そのもので書かれていて、外来語はあまり見当たらない。数字は漢数字とアラビア数字がごちゃ混ぜだけど、報酬だけは漢数字で統一されていた。
銅壱拾枚とか銀参枚とかは硬貨の種類なんだろう。銅と銀があるのなら定番の金貨もありそうだ。
考えてみれば、こうして掲示板を眺めていても時間の無駄だ。私は異邦人なんだからまずは冒険者として登録しなければクエストは受けられない。
とりあえず窓口で訊けば冒険者にはなれるだろう。この場で登録できない場合でも手続きの方法くらいは教えてもらえるはずだ。
窓口で、訊けば……。
目指す場所には、陰鬱な印象を受ける妙齢の受付嬢とお局様が並んで座っていて、刺すような視線を私に向けていた。
……私には、無理だ。
あまりにも威圧感が強すぎて、素人が話し掛けてはいけないような気がした。
掲示板のクエストを眺めるふりをしながらしばらく様子を窺っていると、どう見ても不馴れな初心者という印象の気弱そうな男が入ってきた。このタイミングで来た初心者なら無関係だとは考えにくい。あの男も私みたいにゲームに取り込まれたのかもしれない。
男はきょろきょろと辺りを見回すと絶望的な表情を浮かべ、やがておずおずとお局様に話し掛けて何やら書類を書かされた後に連行されていった。
気弱そうに見えて意外に行動力があった男に感心していると、続いて入ってきたこれまた初心者風の男が陰鬱な受付嬢に話し掛け、やっぱり何かを書かされている。もしかして初心者は試験を受けさせられるんだろうか?
ふと、お局様がいた席に目をやると、いつの間にか芳記の受付嬢が座って茶を飲んでいる。多分お局様はまださっきの気弱そうな男を拘束中なんだろう。
この受付嬢はなんとなく威圧オーラが少ないような気がする。陰鬱な受付嬢はまだ対応中だから行くなら今しかない。そして今を逃せば次のチャンスは無いかもしれない。
べつに冒険者になりたいわけじゃないけど、日銭を稼げなければすぐに文無しになって野垂れ死ぬ。私は覚悟を決めて受付嬢に話し掛けることにした。
「こんにちはー。冒険者になりたいんですけど、登録って紹介状とかが無くてもできますか?」
「はい、一見さんでも戸籍が無くても登録できます。登録には申請書を書いていただく必要がありますが、読み書き十露盤はできますか?」
よかった。なんか丁寧なのかぞんざいなのかよくわからない言葉遣いだけど、とりあえず笑顔で対応してくれた。
さっきの2人は試験じゃなくて申請書を書かされていたのか。掲示板の文字も日本語だったから読み書きはできるとして、十露盤?
たしか商人が足に装備してローラースケートにするやつだっけ?
「読み書きならできます。十露盤は使ったことないですけど、金勘定はできますよ?」
「チッ ……そうですか。ではこちらの申請書に記入をおねがいします」
今、笑顔で舌打ちしなかったか? まさかとは思うけど、できないとか言ってたらふんだくられたりしたんだろうか。
それに、申請書か……。名前の欄に【ああああ】と書くのは気が重い。
「……書きました」
「では拝見します。お名前は【ああああ】さんでよろしいですね?」
「……はい」
「年齢は19歳。修得技能は火魔法と……光魔法? これ間違ってませんか?」
「いえ、間違いないです」
「そっ、そうですか」
受付嬢が困惑している。どうやらさっきの舌打ちの意趣返しができたらしい。
50ポイントも注ぎ込んだんだからレベルが上がれば強い魔法を覚えるだろうとは思っていたけど、これは予想以上の反応だ。
「光魔法って珍しいんですか?」
「え? ああ、はい。適性を得る人が少ない魔法ですし、現役の冒険者の中には光魔法の使い手はいないと思います」
なるほど。誰も使えない魔法を新人が覚えていたらこういう反応にもなるか。
……いや、いくらなんでも珍しすぎじゃないか? 癒し系がいないパーティで迷宮探索なんてどう考えても難易度が高すぎる。
「あの、とりあえず内容に間違いは無いです。これで登録してください」
「……承りました。この申請内容ですと【ああああ】さんは魔術師となります。新規登録ですので本日のみ訓練場で初心者講習を受けられます。魔術師でしたら銅伍拾枚……50CPでいずれかの系統の基礎知識を学ぶことができますよ?」
やっぱり魔術師なのか。直衣姿だと見た目は呪術師か陰陽師みたいだけど。
そしていきなり所持金を半分よこせとか言われたのは仕様だろうか。今日だけとか言っているから何かのフラグかもしれない。
ゲームなら受けるべきなんだろうけど、日銭稼ぎが必要な時に生活費が半分になるのは困る。
「んー。結構高いですね。まだ回復魔法が使えないんで光魔法の講習は気になりますけど」
「かいふ……?」
「迷宮探索するなら怪我の治療はできた方がいいですよね。それだけ教えてもらえればいいんで安くなりませんか?」
「はい? ……ええと。これでもかなり格安なはずですので安くはなりません。それに光魔法……閃光魔法と医療魔法は性質が根本的に違う魔法ですので関連は無いですよ?」
回復じゃなくて医療? あと光魔法が閃光魔法で、性質が根本的に……?
「……へ?」
「もしかして、知らなかったんですか?」
「……はい」
なんだか知っているのが当たり前みたいな言い回しだ。こういう設定もサイトに載っていたんだろうか。
「光魔法は適性を得ること自体が稀ですので受講料を支払ってまで希望する人は滅多にいませんし、講師の確保も難しいので対象外となっています。初心者講習の内容は飽くまで基礎知識ですので、まだ適性を得ていない基本系統を学ぶ機会だと考えてください。強制ではないので無理に受講する必要はありませんが、どの系統にしますか?」
「その言い方は絶対に受講するのが前提になっていますよね?」
「いえいえとんでもない。どうしても受講料を支払えないですとか、特別な事情があるのでしたら強制はしませんよ?」
「特別な事情が無い人には強制するんですね?」
「いえいえこれは善意による助言ですよ? 本日のみの特権なんですから受けることをおすすめします」
やけに食い下がるけど、何か裏があるのか?
「……私が講習を受けたら臨時収入があるとか?」
「人聞きの悪いことを言わないでください。飽くまで善意です。善意を邪推するのはよくないですよ?」
受付嬢の表情は変わらない。笑顔のままだ。
間違いなく笑顔のはずなのに、何故か背筋が凍るような威圧オーラを感じる。
「さっきから殺気を感じているのは何故でしょう?」
「気のせいです。先程からおかしなことばかり言っていますが大丈夫ですか?」
「それはブーメランです。おかしいのはお互い様ですよね?」
「ブーメラン?」
あ。しまった。
ブーメランて、この世界にあるんだろうか?
「……ブーメランてわかります? こう、【く】の字になっていて……」
「ああ、舶来品の狩猟武器ですね。わかりますよ?」
あるのか。
「その、ブーメランで戻ってきていますよ、と」
「……はい?」
「おかしなことを言っているという言葉がブーメランみたいに自分のとこに戻ってきていますよ?」
「戻ってくる?」
「……え?」
なんでだろう。
本気でわかっていないような気がする。
「ブーメランは標的に当たらなければあらぬ方向へ飛んでいくだけです。相応の技量があれば戻るように投げることも可能かもしれませんが、標的を外した時点で未熟が証明されますので無意味です。そんな曲芸を練習する暇があるなら少しでも命中率を高める努力をするはずですので、戻ってくることなど絶対にありえませんよ?」
……ごもっとも。
実戦でブーメランを投げたら絶対に戻ってこない。そもそも命中すれば手元に戻るわけがないんだから、外れた時のことを考えながら投げるのは無駄だ。
わざわざ戻ってくるのを待ってから投げ直すくらいなら予備を持ち歩く方が遥かに合理的だし、仮に手元に戻ってきたとしたら投げた人の技術を称賛するべきだろう。
考えてみれば当たり前のことなのに、今まで疑問を感じたことすらなかった。いつの間にか先入観や偏見を【当たり前】だと思い込んでいたのかもしれない。
「……そろそろ決まりましたよね? どの系統にしますか?」
受付嬢が笑顔で威圧しながら選択を迫る。どうやら受付嬢の中では私が講習を受けることが確定しているみたいだ。
抵抗しても無駄だろう。逃げられないのなら手短に済ませるしかない。
「じゃあ、医療魔法の講習を受けます」
受付嬢は怪訝そうな表情を浮かべながら「ふう」と溜め息をついた。
「医療魔法は生産系魔法と同様に先天性の才能に依存する魔法なんです。教わって修得できるものではありませんし、僧侶の加護魔法に分類される魔法ですので魔術師の系統魔法と同時に修得できた事例は歴史上でも数えるほどしか確認されていません」
「そうなんですか? あ、でも修得できた人はいるんですね?」
「その年齢で発現していないなら諦めてください」
「簡単に諦めないでください。光魔法だって適性を持つ人が少ない珍しい魔法なんでしょう? 私には魔法の才能があるってことじゃないんですか?」
受付嬢は再び溜め息をついた。なんとなく、気の毒な人を見るような目で私を見ている気がする。
「どうやら齟齬があるようなので説明した方がよさそうですね。ええと、魔法にはそれぞれ修得条件というものがあります。修得条件は適性と才能に分類されていて、適性は後天的にも得られる可能性があるもの、才能は先天的にしか得られないものと定義されているんです。光魔法の修得条件は適性ですが、医療魔法の修得条件は才能です。才能があれば無条件で発現するはずなんですよ」
つまりキャラクター登録の時点で医療魔法を取っていなければ諦めろと。
「じゃあ光魔法が珍しいっていうのは……?」
「光魔法の使い手は確かに非常に珍しいです。適性を得る人が少ないことも理由のひとつですが、そもそも光魔法というのは明かりを灯したり闇魔法の幻影を打ち消したりする魔法なんです。その性質上、一般的な魔物に対して有効な魔法は目眩ましくらいなので修得の優先順位が低く、適性を得ていたとしても大抵の人は修得を後回しにします」
優先順位が……低い?
「同様の理由で闇魔法……冥闇魔法の使い手も少ないので幻影に惑わされるような機会なんて滅多にありませんし、惑わされたとしても所詮は幻影です。勘が良い人なら光魔法が使えなくても対処できるんですよ。そのため魔術師を志す人はまず基本系統の魔法……つまり地維魔法、流水魔法、火焔魔法、回風魔法を優先して修得するのが一般的なんです」
あー、なるほど。普通の魔術師は光魔法なんか覚える前にまず基本の属性魔法をマスターするものだと。
それに、地維と回風か。どうりで不自然な名前だったわけだ。治癒だと地維、回復だと回風に似てて紛らわしいから【医療魔法】になったんだろう。
光魔法を取るのにべらぼうなポイントが設定されていたのは、重要度が低いから不用意に取れないようにしてあったんだろうか。
でも今更そんなことがわかっても私は光魔法以外は火魔法しか使えないんだからどうしようもない。
「と、いうことは……」
「申請書を拝見した限りでは【ああああ】さんは基本系統を疎かにして光魔法を修得しているように見えますので、このままでは三流の魔術師、或いは色物だと思われて敬遠されてしまうかもしれません」
「そこまで言いますか!? いや、それよりも光魔法の価値とか利点とか、良い部分を探してくださいよ。何かないんですか?」
「角灯や灯火の巻物を使わずに明かりを点けられます。荷物を減らせますし、お財布にも優しいので迷宮探索では便利ですね」
「他には?」
「よからぬお店では幻影で容姿を偽ることがあると聞きますので現実を知ることができます」
「……その現実は知らないままでいた方がよくないですか?」
「さあ?」
受付嬢は強かった。
冒険者登録を終えた私は火魔法との相乗効果が期待できる風魔法の講習を希望した。でも受付嬢は火魔法による延焼被害の危険性を延々と私に説き続け、ほぼ強制的に水魔法に変更させられてしまった。
駆け出し冒険者にとって50CPは大金だ。何しろ定職に就いていないんだから出費は死活問題になる。多分受付嬢は業務の一環として無知な新人に助言をしてくれたんだろう。
たまたま受付嬢が水魔法の講師だっただけで、他意の無い善意の助言だったんだと思いたい。
初心者講習を終えた私が萬冒険者管理処を後にすると、町には既に夜の帳が降り始めていた。周囲に街灯は見当たらず、物騒な武装をした人が薄暗い町を闊歩している。
控え目な表現をすれば、必ずしも安全が保証された環境とは言えないのかもしれない。
私は逡巡の後に、使い手がほとんどいないと言われた魔法……光魔法で明かりを灯し、受付嬢に教えてもらった安宿を目指して歩き出した。
こうして冒険者になった私は【ああああ】としての最初の夜を迎えた。
明日の朝はどちらの世界で目覚めるだろうか。現実に戻っているのかもしれないし、いつまでも戻れない可能性だってある。
夢が必ず醒めるとは限らない。そんな保証なんてどこにも無い。
このままなら明日は金策に腐心することになるだろう。
プレオープンには3ヶ月の期限が設定されていた。最長でもβテストが終わるまで待てば強制排除されて現実に戻れるのかもしれない。でも、戻れなかったとしたらこの世界と私はどうなるんだろう?
隔離されて存続するのな
らまだいいけど、世界ごと消去されたり凍結されたりする可能性だって無いとは言い切れない。
それに……。
もしもこの世界での生活がずっと続くのなら、私はいつまで現実の世界を覚えていられるだろうか?
現実の私は19歳じゃないし男でもない。でも人間の脳は総ての情報を正しく認識できているわけじゃなく、断片的な情報を補完して錯覚する性質がある。
記憶は時間の経過に伴い曖昧になっていく。ここで何年もの時間を別人として過ごすことになれば、私の記憶の中の現実はこの世界での日常へと書き換えられていくだろう。
いつか現実の世界こそが夢だったと思う日がくるのかもしれない。
未来は不確定の連続だ。 何しろ【事実は小説よりも奇なり】なんて言葉があるくらいだし、世の中にはコントみたいな本当の話はいくらでもある。
夢と現実の境界は紙一重でしかない。今いる世界が夢でもゲームでも、結局は現実とあまり変わらない。
私は脳が認識する世界を現実だと思うしかないし、その世界の中でしか身動きがとれないんだから。
夢幻の迷宮を当てもなく彷徨うように、先のことなんて誰にもわからない。
わかっているのは、この現象は時間が解決してくれるのを待つしかないということだけだ。
いつになるか、どんな形で解決するのかはわからない。でも、少なくとも光明は目の前にある。
不安だらけの状況だからこそ、今は無理にでも前を向こう。どうなるのかで悩むよりも、どうするのかを考えた方がいい。
この世界でなら輝かしい日々を送れるはずだから。
<了>