06話 倉庫の住人
フィーリオの鋭い爪が、ジジの制服へと近づく。ジジの手のひらほどもある巨大な爪を持ってすれば、制服を切り裂くことなど造作もないことだろう。
「……お母さん………助けて……」
髪と同じ緑色の瞳には、涙が溜まっている。
「お母さん‥お母さん…お母さん……っ!」
ジジの声は固く閉ざされた扉から外に漏れることもなく、倉庫の中で反響を繰り返している。
「無駄だ、こんな場所誰も来やしねぇ。もう諦めて……」
――― うるせぇな
フィーリオの声を遮るように別の声が響いた。ジジが反応して顔を上げる。
「満足に昼寝もできねぇよ。誰だお母さんお母さんうるせえのは……」
突如、体育倉庫の奥に置かれていた”跳び箱の一段目”がズコッっと間抜けな音を立てて持ち上がった。
中から顔を出したのは、白髪でメガネをかけた青年。眠そうな半目で辺りを見回すと大きなあくびを一つした。
「誰だてめぇ……」
「ほたる……さん……?」
フィコルの問いに答えたのは、青年ではなく、ジジだった。瞬きした瞳から涙がこぼれ落ちる。
蛍は眠そうに頭を二、三度掻くと、ゆっくりと腕を持ち上げ、フィーリオを指さした。
「お前が何をしようと構わないが、ここは俺の昼寝場所だ。他所でやってくれ」
それだけ言うと、蛍は再び跳び箱の中へと戻ろうとする。
「えっ…?えっ…!?」
「ちょっと待てや!!」
跳び箱の一段目を閉めようとする蛍の手を、フィーリオの巨大な手が掴む。掴む際、爪がわずかに皮膚を切り裂き、蛍の腕には血が流れた。
「今すぐここから出て行け。誰にも話さないなら、お前のことは殴らないでおいてやるよ。ただし、もし話したら……」
フィーリオは爪と爪をこすり合わせる。倉庫中にまるで刃物をこすり合わせるような不快な金属音が響いた。
金属音が響いた瞬間、蛍は一瞬顔をしかめると、”やれやれ”といった様子を全身で表しながら再び立ち上がった。
「なぜ、俺がどこかに行かなければならない。そして俺が何を話すと思っているんだ?お前がこれまでたくさんの女子生徒をここに連れ込んでいることか?それともそこいるような馬鹿なお人好しを騙して、パンを買いに走らせていることか?なんにせよ、正当な理由を聞かせろ。でなければ、俺はここで昼寝をする」
「蛍さん、そんな風に言ったら……」
すべてを知られていると悟ってからのフィーリオの行動は早かった。わずか数歩程の距離に立っている蛍に向けて腕を振りあげると、そのまま振り下ろした。
容赦など微塵も感じない一撃。普通の人間ならば急所を避けたとしても、皮膚は裂け、肉が抉れ、血はとめどなく溢れ出るだろう。
「いきなり暴力か。わかりきってはいたが、単純だな」
白髪の青年は、まだ跳び箱の中に立っていた。それも、わずか半歩、体をずらしただけで巨大な爪を躱している。
「なっ……!?」
フィーリオは振り下ろした腕を、そのまま横に薙いだ。しかし、蛍は凄まじい速度で迫るそれを”まるで来るのが分かっていたかのように”下へしゃがんむことで避ける。
腕を振った勢いのままフィーリオは一回転すると、今度は丸太ほどもある巨大な足で跳び箱を踏み潰す。
「……ハァ……ハァ……」
跳び箱は粉砕し、倉庫内に再び埃が舞い上がる。その残骸の中に、蛍の姿は無かった。
「呆れるほど単細胞だな。俺を殺したら自分がどうなるかもわからないのか? 俺が避けてくれて良かったな。馬鹿な火竜くん?」
「ウガァァァアア!!!」
先程よりも素早い速度で繰り出される爪は、すべて紙一重のところで躱される。蛍は、勢いよく突き出された爪を優しく掴むと、それを受け流すように手前へと引っ張った。
引っ張られることでバランスを崩したフィーリオは、そのままジジの横、体操マットへと大きな音を立てて倒れ込んだ。
「ぶっ殺す!! 消え失せろ!!」
火竜の喉、そこには、三本の管がある。一つは、空気を通す”気道”、食べ物を通す”食道”そして、体内に溜めた炎を一気に吹き出すときに使われる特殊器官”炎道えんどう”
フィーリオが息を吸い込んでから数秒後、その足元にへたりこんでいたジジの視界が、真っ赤に染まった。
巨大な火球は一瞬にして蛍を包み込み、その姿を隠した。
「人間なら五秒で丸焦げだ! クソが殺してやった!」
「そんな……蛍さん……」
炎が、徐々に収まっていく。しかし、その様子は普通の炎が収まっていく様とはどこか違っていた。徐々に弱まっていくのではなく、まるで中心に向かって小さくまとまっていくかのような。
――― まるで"何かに吸い込まれていく"ような
「普通の人間なら五秒、ね。あいにく俺は普通の人間じゃない」
炎の中心には、白髪の青年が立っていた。右腕を前に突き出したその先で、炎が小さくまとまっていく。
そしてそれは人間のこぶし大ほどまでに小さくなると、ついには蛍の右腕に掴まれるようにして消えた。
フィーリオは再び炎を吐き出そうと息を大きく吸い込んだが、それが吐き出されるよりも早く、その口元に蛍の腕が突きつけられた。
「何度やっても同じだ。俺に、お前《火竜》の炎は通用しない」
蛍は、笑っていた。
「お前のせいで眠気が覚めちまった。このままじゃ俺もお前もあらの虫が収まらねぇ。一つ、賭けをしないか?」
「賭け?」
「そうだ、賭け。この世界で唯一、絶対で、完璧なルールだ」
――― さぁ、賭け(ゲーム)の始まりだ ―――
読んでいただき、ありがとうございます。
次回更新は10月7日の金曜日になります。
次回からやっとこさ賭けの始まり。どうぞ、ごゆるりとお楽しみください。




