表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

登場人物と物語の二律背反



 僕のアドバイスなんて特に誰の参考にもらならないだろうが、『僕にとっては』参考になるので、少しアドバイスじみた事を書いておこうと思う。


 小説とプロットの関係について記すのは案外難しい。案外、というのはプロットが小説の軸になっていると考えている人にとっては楽であり、そうでない人にとっては難しい、という意味だ。

 僕は今小説を書き始めた人に対しては、プロットを綿密に立ててから書く事は絶対におすすめしない。それは多分、小説を書き始めた人間のする事ではない。(エンターテイメント系は別だと思う。僕が小説という場合は常に文学を想像している) では小説を書き始めた人間のする事は何だろう? それはちょっとした散文とか、詩とかを書いてみる事ではないか。あるいは、ちょっとした身近な風景や、人物のスケッチなど。まず、最初の人間が絶対にやってはいけない事は大作を志して書く事。何百枚もある綿密な小説を書こうとする事。これはやめておいた方がいいと思う。


 なぜ、そんな事を偉そうに言うかというと、それは僕がそれを散々やって、散々失敗してきたからだ。従って、別にやった所で、まあいいんだろうとも思う。でも、多分、ロクな事にならない。つまり、文学というものを志しているなら、どうしても小品から始めた方が良いのではないか。あるいは新人賞に送る場合でも、短いエッセイみたいなものを寄せ集めて小説と称して送っても全然構わないと思う。村上春樹の『風の歌を聴け』とか、高橋源一郎の『さようなら、ギャングたち』も、短い文章の寄せ集めと考えられる。とにかく、適当に短い文章を書いてそれをつなげて中編小説にして、新人賞に送っても全然構わないと思う。


 では、なぜ僕がこんな事を言うのかという、根本的な問題に写ろう。どうして僕がこんな事を言うかと言うと、そこにはそれなりの理屈がある。元々新人賞も取った事のない(かすった事もない)僕がこんな事を言うには、そういう理屈があり、その理屈だけにすがって今僕はこの文章を書いているのだ。


 プロットというのが、芸術としての文学において上手く左右しだすのは、その作家が大家になってからではないかと僕は思っている。あるいは、プロットが弱いと感じている作家ならば、過去の伝説や古典から、その形式だけを借りてくるのも大いに有効だろう。太宰治はそうやって成功したし、シェイクスピアなどは過去の作の改変者、編集者として超一流だった。


 プロットというものが正当に機能にするためには、一つの条件があると僕は思っている。それは、作者に何らかの巨大な思想があるという事だ。しかし、今の小説家は、思想なんて言葉を聞いただけでアレルギーを出して逃げ出すのではないかと思っている。綿矢りさや、白岩玄や金原ひとみにいかなる思想があるのか? 吉本ばななには、ものすごく微弱だが思想らしきものはある。村上春樹や村上龍にも思想はある。しかし、思想とプロットというものはいかなる関係があるのだろうか?


 思想がない、あるいは個人の内面に対する深い洞察もないパターンで作家が綿密にプロットを立ててから小説を書く場合を想定してみよう。まず、作家は最初に、登場人物を一ダースか二ダース用意して、綿密にそれらを走らせるレールを準備する。そして作品は、よーいドン!で、スタートする。登場人物は作者の手の上で踊り、色々な事を喋ったり行動したりする。しかし、あらかじめ準備済みのレールの上を人物が歩いて行って、それで何が楽しいのだろうか? 個人の人生においても、生まれてから死ぬまでの人生のコースが全て決められ、それを丁寧に歩いて行って何が楽しいのだろうか? 人間というのが真におもしろく、また滑稽で哀しいのはそれが自由な存在だからである。ドストエフスキーの登場人物は皆、自分が考えたり思ったりしている事と逆の事をしてしまう。しかも、彼らはその事をもしこちらが指摘すると、おそらく今度は彼らは、自分のしている事や考えたりしているその通りに行動するに違いない。ドストエフスキーの登場人物は天邪鬼である。ドストエフスキーの作品において、登場人物は真に生きている。彼らは、作家の手によって書かれた人物なのに、しかも、彼らは内面を持ち、自由を持っている。彼らは時に、作家の手を離れ、自己主張をしてみせる。彼らは独立して、紙の上で生きている。少なくとも、そう錯覚させるだけのものを持っている。しかし、僕達がプロットを綿密に立てて書き始めると、途端に登場人物はその自由を奪われ、ロボットじみた振る舞いを強いられる事になる。僕は例えば、西尾維新などは、確かに才能あふれる作家だろうが、しかし彼の登場人物は永遠に自由になる事を作者によって留められているのだと感じる。しかし、作家の筆は愉しげに運動している。しかし、登場人物はそれに対し、色あせている。一人の個人として独立して、自由ではない。


 つまり、ここには二律背反の関係があると考えればわかりやすい。登場人物に自由を与えれば、その運動は勝手気ままになり、物語の正道は定まらない。そして物語をきっちり決めると、登場人物は敷かれたレールをその通りに歩き出すので、まるでロボットのような人物になり、色あせて、精彩を欠いてしまう。確かにプロットはその通りに実行される。しかし、はっきり言って、読んでいてつまらない。


 思えば、僕はこの二律背反の中に閉じ込められて、この十年近く(長い!)をがんじがらめにされてきたようなものだった。僕は散々馬鹿みたいに失敗してきたので、今やってこの二律背反が飲み込めつつある。そしてその解決法を今探っているが、その解決は想像を絶するものになるかもしれない。


 例えば、ドストエフスキーやトルストイの小説には、登場人物の内面の自由と物語としての道が、両方確保されているように見える。しかし、そういう事が可能になるまで、どれほどの辛い作家道を歩んできたかと考えると、気が遠くなる。太宰治は「新ハムレット」とか「御伽草子」とかで、古典作品の骨組みを上手く利用して、彼の作品の物語性の弱さを克服している。太宰の作品は根本的に饒舌体であり、そこではその饒舌の主の自由の確保が何より重要な議題となっている。そして太宰は、それを物語の一貫として、ドストエフスキーやトルストイのように作品の中に組み込んで、壮大な作品として作り上げる事はできなかった。最後の作品『人間失格』は確かに傑作だが、これは太宰が自身の生涯を物語として利用している。また、彼は手記という方法で、根底的に一人称的のやり方を越えられなかった。ドストエフスキーが地下室の手記から罪と罰へのジャンプアップで、一人称から三人称へ移行した事を考えると、それは相当な違いである。(もちろん、単に三人称を採用すればいいとか、一人称は駄目とか、そういう問題ではない。言っているは根底的な方法の事である)


 登場人物の内面と、物語の構築。その二つは基本的に相反する。では、その二つをどうやって統合するか、という問題が作家には残る。しかし実際の所、そんな問題に行き着くことのできる作家はほんのごく少数なのだろうと思う。リルケがマルテの手記でとどまり、壮大な大傑作を書かなかったからと言ってリルケを批判するという事はありえない。まず、一人の登場人物ーーーつまり、主人公とか語り手の生き生きとした自由、この世界における全く自由な人物を生み出す、それだけでも一生をかけられる大事業みたいなものである。キルケゴールの「死に至る病」を一人称の小説として考える事は可能であろう。この時、キルケゴールは哲学的方法、思惟を通じて、一人の自由な人物(語り手)を創造する事に成功しているのである。


 では、実際に、ドストエフスキーとかトルストイとか、あるいは夏目漱石とかシェイクスピアみたいな、個人の自由と物語としての大枠が同時に成立する事はどうして可能なのだろうか? ここに、先に言った思想の問題が出てくる。あるいは、神の問題と言ってもいい。神というのは宗教的な話でなく、抽象的な話である。個人の内面を全て見渡し、そしてそれらがどのように運動していく事ができるのかを記述できる、心理的実体みたいなものを頭の中で思い浮かべると、それはもう「神」というポジションでしか表現できない事がわかるだろう。そしてその神というのは、対立する個人達を制御する「思想」というものとほぼ同じものである。


 ここからは極めて難しい問題に入る。例えば、夏目漱石がどうしてああいう物語を書いたのか。「それから」の主人公の代助は知識人であり、インテリとしての内面を持っている。彼は色々な事を侮蔑して、自分に満足して生きている。しかし、その人物も一歩を、人生の一歩を踏み出さねばならない。そしてそれは、「罪と罰」のラスコーリニコフのように、社会的には間違った行為である。しかし、にも関わらず、彼らは最初の一歩を踏み出さなくてはならないのだ。そしてこの最初の一歩から始めて、この人物は自分以外の他者に、他人の存在に出会う事になる。


 しかし、これ以上書くとなると、非常に面倒で広大な話になるので、ちょっとここらで止めておこうかと思う。…尻切れトンボで申し訳ないが。…一般に、人間というのは個々の内面を持った自由な存在であり、それを描くとすると、その外側の問題は次第にぼやけたものになる。これは量子論的文学論という過去の論考で言おうとした事だ。そこには量子論的な二律背反がある。人を描こうとすると、その内面の宇宙は自然に忘却される事になる。そして今の若手作家らが嬉々として、物語に取り組んでそれなりの結果を残しているようにみえるのは、彼らが作家として優れているからではない。そうではなく、我々の社会そのものが極めて表皮的なものなので、個人の実存とか内面とかを掘り下げずに、『リアリズム』の線に沿いながら、物語を構築する事が可能だからである。従って、そこには彼氏、彼女、友達、就活、結婚、妊娠の悩みなどが極めて薄っぺらい形で(それらの事象がそれ自体で薄っぺらいとは限っていないが、それらが薄っぺらく現れる事は可能である)現れる。そしてそれらはリアリズムであるという言い訳も成り立つので、そこに、大衆との一種の契約が成り立つ事になる。つまり、人々の薄っぺらい生活とそれを描いた薄っぺらい物語は、互いに妥協可能である。しかし、その表皮的な社会に疑いを抱いてみせたのが、少なくとも、村上春樹、村上龍の価値であった。従って、ここに本当の物語が生まれる動機、あるいはそのきっかけがある。しかし、両村上はドストエフスキーやトルストイに叶うとは言いがたいが。


 とりあえず、この論考はここで終わる事にしたいと思う。僕は今の若手作家らが考えているように、小説というものは安々と書けるものだと思っていない。それは結局、不器用な歩みであり、遠回りであり、うさぎではなく亀の一歩である。死の一歩手前で真理に辿り着いたとしても、非常に早い段階で偽の真理を掴むよりはマシだと僕は考えている。そして物語と個人の内面の結合はーーーおそらく、『歴史』が我々の意思とは関係なく(また、それを統合する形で)蠢き、運動するように、どこかある一点から見れば、可能なはずである。あるいはそういう視点がどこかにあるはずである。そしてそれを探す試みは僕は面白いものだと思っている。それでは、この論考はここで終わる事にしよう。



評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
[良い点] 今現在の私の創作原理と同時に傾倒している自然主義文学や私小説との概念を念頭に置きつつ読ませていただきました。 現代の作品については私は接する機会が少なく言及できませんが、過去の文学者たちが…
2015/02/14 21:23 退会済み
管理
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ