闇夜裂き彗星降りぬ
2015年 9月8日 PM3:59 太平洋上 高度四千フィート
東北沖の太平洋上では、ラスプーチン大統領から発令された「臨照の彗星作戦」のために中国南部に降下するスペツナズを輸送するためのTu-95「ベア」が飛行していた。
上空にはうっすらとした巻層雲が架かり、全体的に澄んだ印象を受ける。夕日に照らされて水平線の向こうに位置する層雲が燦然と輝き、下側一杯に広がるオレンジの海には、無数の漁船が停船して何かを行っている。それらの漁船の艦首には赤い国旗がかがげられ、漁船が中国所属だと言うことを如実に表していた。
「中国のサンゴ密漁船か・・・奴等、突然ロシア軍機がやって来たから驚いてんじゃないのか?」
「中国ではサンゴは幸運の印という風潮らしいですよ。しかし・・・他国の排他的経済水域どころか領海にまで入って盗ってきたサンゴをそこまでして手に入れたいって言う神経も分かりませんが」
低空をなめるように飛行するTu-95の機内では、Tu-95の機長と副操縦士が目の前に広がる中国の密漁船を眺めながら談笑していた。
「金になるんだろう。奴等の中には十億ルーブルくらい稼いだやつがいるんだってさ」
「そんで一攫千金を狙って来るやつがいるんすね」
爆撃手が後ろから首をつき出してそういう。機長はコーヒーを一口飲むとカップの蓋を閉め、数キロ程先にいる漁船を指差しながら無線機をとった。
「ちょっくら中国漁船をからかってやるか。こちらは機長だ。全員、Gに備えてくれ。ああ、それと後部銃座のタチャホ、聞こえるか?」
『聞こえてます機長。機関砲を取り外されてダミーにすげかえられてからはお役御免ですよ』
「タチャホ、まだ諦めるのは早いぞ。ガンカメラで二十秒後に出てくる漁船を撮影してくれ。ピンボケでも構わん。いいな?」
機長はそういって無線機をおき、機首を下へ傾けた。機体が風に押されながら降下し、中国のサンゴ密漁船に向けて低空で侵入し始める。微少ながら波がたっている海面が視界の下方に突き刺さるように迫り、眼底付近が少しうずむ。
「機長・・・まさか中国漁船の上を通って上の人間を海に叩き落とそうみたいなこと考えてます?」
「図星だ。よくわかったな」
「何となく分かりましたよ。奴等とも戦争中ですしね。現在の速度は三百五十ノット、高度は二千フィート、燃料も問題ありません。レーダークリア。周辺に敵影無し。目標との距離一.二キロです。奴等、きっと漏らすんじゃないですか」
「確かにな。お漏らしの感触を久々に味わってもらえば光栄だ」
副操縦士が機長と私語を交えつつ機体の状態を読み上げる。だんだんと漁船が近づいてくる。漁船の船体は青く染められ、日本のEEZ(排他的経済水域)に侵入しているのを誇示するかの如く、いくつもの中国国旗がたてられていた。
「五、四、三、二、一、それっ!!」
カウントがゼロになった瞬間、機長が機首を上に向けて機体を上昇させ、中国漁船のスレスレを飛び抜けた。
巨大な機体が舞い上がり、漁船がプロペラ後流の風圧で煽られて激しく揺れ、サンゴ漁のための道具が漁船の甲板を転がりまわり、幾人かの乗員が驚きの表情を浮かべながら海へと振り落とされ、人間大の水柱が幾つか上がった。
『バッチリ撮れました機長!!奴等間抜けな姿で落下してますよ!!ざまあみろ!!』
「了解。やったやった、ざまあみろだ」
機長は微笑みを浮かべながらスロットルレバーを上に押し上げ、爆撃手の方向を向いた。すると、強靭そうな男が二人、爆弾倉のドアを開けて操縦室内に入り込んできた。瞬間、空気が豹変し、機長の感覚が研ぎ澄まされ、自己防衛本能が隆起していく。彼らはバラクラバ(目出し帽)と緑を基準とした迷彩野戦服を着用し、近寄りがたい雰囲気をかもし出していた。その証拠に爆撃手が彼らを避けるように壁によしかかり、脂汗を垂らしている。
「いい腕だな機長さん。まるでジェットコースターだ」
「まあ、墜落してくれなければ何をしてくれてもいいんだ。頼むよ」
彼らは濃厚そうに言うと、相手の返答を待たずに「カミエータ」が搭載されている爆弾倉へと戻っていった。
「・・・ふう。スペツナズの奴等はやっぱり怖いな・・・あと少しで漏らしてたぜ、俺は」
「俺もですよ・・・そういえば俺は中高生あたりの時に、夜トイレに行くのが面倒臭くてペットボトルに小便をしてたんですよ。そしたら、あるときにそれをベットの上でこぼしてしまって・・・ベットがアンタッチャブルになって数日間は床で寝てた思い出がありますね。あのときの臭いは最悪でしたよ」
「そういえば、密輸人が麻薬や人間の臓器を運ぶときはコーヒー豆の入った袋をそういった『本命の積み荷』の前に積んで臭いを消したり偽装したりするらしいぞ」
そういった機長はコーヒーカップの蓋を開け、コーヒーをすする。ふと、その横にいる副操縦士がレーダーを見ると突然血相を変え、左側にいる機長の方を向いて叫んだ。
「機長!!五時方向、方位二十に反応ありました!!日本のスクランブル機と思われます!!数は二!!」
「やはり来たか・・・低空で侵入したから気付かれにくかっただろうが・・・巡視船に通報されたか」
機長はコーヒーを置いてレーダーを見つめつつ、退去警告を出されたときの言い訳を頭のなかで考えていた。
「スクランブル機、本機に接近中です」
『こちら後部銃座。スクランブル機はF-4EJです。いつものF-15じゃありません。百里っぽいですね』
「そうか・・・いつもの『東京急行』ってことでF-4EJで来たわけか。時代を感じるな」
彼らがそのような雑談を行っている間にもレーダーの光点は着々とTu-95に近付いてくる。やがて、F-4EJが肉眼で確認できる距離に達すると無線機の音が鳴り、自衛隊機が警告を行う旨の通信を送ってきた。
機長は無線機の受信ボタンを押す。すると、ノイズ混じりに日本人らしいはっきりとした、だがあまり流暢ではないロシア語が流れてきた。
『前方の国籍不明機に告ぐ。貴機は日本国の領空を侵犯しようとしている。所属と飛行目的を述べよ』
『繰り返す。貴機は日本の領空を侵犯しようとしている。所属と目的を述べよ』
「あー、こちらはロシア空軍のとある爆撃機。諸事情により貴国のEEZに進入している。領空に侵入する予定はない」
『貴機の所属及び目的は了解した。ただ、ここは日本国の排他的経済水域だ。貴機が日本国の領空に侵入した場合は警告射撃、撃墜も辞さない』
「了解。現進路を維持する」
『ちくしょう、舐められてるというか我々が撃墜出来ないのを知っているらしいな。どうせこいつらはチャンコロ共を爆撃しにいくんだろう。我々の排他的経済水域は露助どもの回り道につかわれてんのか』
『ミリスチン1より2へ。言いたいことは激しく分かるがこのお騒がせな「熊」は他の基地に任せよう。帰還するぞ・・・というよりあのTu-95、胴体に「勇敢な馬鹿」って書いてあるな』
しばらく愚痴のような日本語が聞こえた後にF-4EJは右旋回し、夕日のある方向へと消えていった。
◇
三時間後 中華人民共和国 雲南省上空 ベトナム国境付近
「現在高度一万メートル。爆弾倉開放。スペツナズはカミエータの発進用意をしてくれ」
「機長。レーダーに敵影なし。ですが、長距離対空ミサイルに警戒するべきです」
日が地平線の下に落ち、天頂付近ではこと座のベガ、はくちょう座のデネブ、わし座のアルタイルで形成される夏の大三角形や天文ファンの中ではM13球状星団が観測出来ることで有名なヘルクレス座が輝き、南では過ぎた夏の風物詩であるさそり座にいて座、東からはこれからの夜の時間の主役である秋の星座たちが顔を出し、それと対をなすよう西では春の星座が沈んでいく高度一万メートルの凍空では、言わずもがな、「臨照の彗星作戦」に出撃したTu-95が上空を飛行している。
彼らは領土問題で中国と不仲になっているベトナム領の上空を通過し、国境線から僅か数百キロしか離れていない中国軍のミサイル基地「連弩」へとスペツナズを「カミエータ」で送り届けるという任務を帯びているのだ。
「カミエータ(ほうき星)」とは、ロシア軍の新型パラシュートシステムである。全体的なフォルムは輸送機から飛び降りて滑空するための「グリフォン」パラシュートシステムに似ているが、「カミエータ」はこれに固体燃料の推進装置を付けて降下距離を延伸している。降下距離は約八十キロと、完全にアウトレンジ降下を行える訳ではないが、母機が敵の対空ミサイルの餌食になりにくいという利点はある。
Tu-95の機内では、酸素マスクを装着しカミエータを背負ったスペツナズの隊員が降下準備を行っていた。
「降下まで二分だ。酸素ホースの点検をしろ。窒息しても知らんぞ」
降下などの指示を出すジャンプマスターが隊員たちに言い聞かせる。八名のスペツナズ隊員は、デルタ後退翼に二つの噴射装着と操縦板、それに手動開閉式のエアブレーキがついた「カミエータ」を背負い、RPG-22使い捨てロケット発射器三発とAK-74Mアサルトライフルを詰め込んだコンテナを胴体に巻いていた。
やがて爆弾倉がゆっくりと開き、風がものすごい音を立てて機内をかきまわした。
「機長!!レーダーに反応!!小型機のようです!!」
「まずい!!勘づかれたか!!スペツナズに告ぐ!!いますぐ降下しろ!!当機は敵航空機に発見された!!繰り返す、スペツナズは直ちに降下しろ!!」
そのころ操縦室では、機長と副操縦士が突然の敵発見に驚いていた。そして機長が無線で爆弾倉にいるスペツナズ隊員へその旨を伝える。
『降下しろと?敵の航空機か?』
「その通りだ!!責任は俺が持つから降下してくれ・・・うわっ!!」
突如キャノピーの目の前を小型機が通り抜けた。小型機にはキャノピーがなく、機首まわりが丸く、胴体にカナード翼と傾いたLの字のような主翼が生えていた。
「くそっ!!奴はキャノピーがない!!ザトウイチだ!!無人機だ!!」
「ハーピー!?」
それは、中国がイスラエルから輸入した無人機「ハーピー」であった。この無人機は敵のレーダーサイトに突入するために爆薬が搭載されている。米軍のRQ-4やMQ-1といった無人機には叶わないが、中国軍の新型無人機「暗剣」の礎となり、中国軍の無人機開発に一役買っている。中国軍はハーピーを五十機輸入したが、コピー生産により百機以上を配備している。
突然、物凄い振動と共に機体が激しく揺れ、機体が僅かに傾いた。機長は左から主翼をのぞきこんだ。すると、ハーピーがTu-95の左翼の付け根に突き刺さり、主翼と一体化して炎上している光景が目に入った。
「つっ、突っ込みやがった・・・」
「一番、二番エンジン停止!!出力及び高度低下中!!」
『すまない・・・我々のために』
スペツナズからの無線が聞こえる。機長はあらん限りの力を込めて怒鳴った。
「いいから早く飛び降りろ!!!あんたらの無事を確認しないと安心できねぇんだよ!!!」
『り、了解!!全員降下!!降下!!』
スペツナズ隊員たちは爆弾倉から次々と飛び降り、カミエータの噴射装置に点火し、彗星のような二つの尾を曳きながら加速して闇の中へと飛翔していった。
コクピットのすぐ下を飛び抜けていくスペツナズたちを見ると、機長は「高瀬舟」の喜助の弟のような微笑みを浮かべ、座席に深くもたれた。
「やったぞ・・・俺はあんなに綺麗な彗星を見たことがない。我々は任務を果たしたんだ」
「隊長、左翼が脱落しました。体勢復帰は不可能。墜落します」
副操縦士が恐ろしいほど静かに状況を伝える。爆撃手も諦めた様子で微笑んでいる。
「機長、副機長、悔いはもうありません」
『墜ちる!!誰か!!誰か助けてくれ!!!』
後部銃座から大声で助けを求める声が聞こえてくる。機長は無線の主電源を切ると、二人の部下と共に静かに目を閉じた。