第六話「危険なふたり 《後編》 」
***
「――高校三年生の秋だった。家に帰ると、母親が血まみれで倒れていたんだ。私はすぐに警察へ電話して、救急車を呼んでもらった。だけど病院に運ばれたときにはもう手遅れで……。犯人は当時、母親と付き合っていた恋人の男だった。警察の捜査で十中八九その男の犯行だということが証明された。だけど、あと一歩のところで決め手となるような証拠がなくてね、結局裁判でひっくり返されて、その男は証拠不十分で無罪になったんだ……」
優菜の表情に濃い影が落ちるのを、裕太は真っ直ぐな眼差しでじっと見つめていた。
「私は、悔しかった。その男が犯人だということはもうわかりきっていたんだ。それなのに、皆能面のような顔をして、どうしてこんなまどろっこしいことをするのかと苛立ちを感じた。無罪判決を聞いたとき、クロがシロにでも罷り通る世の中の仕組みに激しく腹が立った。今にして思えば、警察も裁判官も出来る限りのことはしてくれていたと思う。だけどそのときの私には、警察も、裁判官もあてにはならないと思えた。そしてなによりも、私は……自分自身の無力さを呪った」
優菜はぼんやりとした目でどこを見るでもなく、皮肉に笑った。
「あれだけ母親のことを嫌っていたはずなのに、自分でも不思議なものだと思うよ。だけど、やっぱり親子だったんだな……。本当にロクでもない母親だったけど、最後の最後でようやく私の心を駆り立ててくれた。死んでやっと、私の胸を熱くさせてくれたんだ……。これ以上ないってくらい、激しくね……。それから私は、ひたすら犯罪に関する知識を蓄えた。愛美にも協力してもらって、世界中のありとあらゆる犯罪に関する資料を集めた。母の事件と、過去に似たような事例がなかったかも徹底的に調べ、様々な検証をして、あらゆる証言を下に犯罪者の心理を独学で学んだ。もう二度とあんな不条理を許さないために……。狡猾な犯罪者を徹底的に追い詰めるために……。警察でも、裁判官でもなく、真っ向から犯罪者と戦える〝探偵〟という仕事を選んだんだ」
回想を終えてふと我に帰った優菜が視線をやると、裕太の目には涙が浮かんでいた。
「ごめんね。やっぱり、こんなことキミに話すべきじゃなかった……」
優菜はそっと手を伸ばして、懸命に涙を拭っている裕太の頭を優しく撫でた。
「約束するよ……。キミたちの伯母さんを殺した犯人は、必ず私が捕まえてみせる。どんな手を使ってでも、必ず……」
***
翌日、まっさらな画用紙にクレヨンを使って絵を描いている美希の隣で、愛美は酷くぼんやりとしていた。美希が色とりどりのクレヨンをとっかえひっかえ画用紙に走らせながら、饒舌に何か喋っているが、一つも頭に入ってこない。
愛美の頭を占めているのは、美希の体にあったあの痛々しい痣のことばかりだった。
美希が、相沢朋子から虐待を受けていた可能性……。
もしかしたら美希だけでなく、裕太の体にも痣はあるのかもしれない。
こんなことをしている場合ではないと、わかっていた。すぐにでも優菜や中野に相談して、事実の確認を取るべきだと頭の中の冷静な自分が告げて来る。
しかし愛美は突如として降りかかって来たようなそのどす黒い疑惑を前に戸惑っていた。
〝児童虐待〟――昨今ニュースなどではよく見かける話題だ。
しかし、どこか遠い世界の出来事のように感じていた。
まさか自分がその問題に直面することになるとは思いも寄らなかった。
しかも、もし美希が虐待を受けていたことが事実なら、自分はこのいたいけな少女が凄惨な暴力によって傷つけられている最中、それに気づくこともなく、一つ上の階で優菜と二人、笑いながら過ごしていたことになる……。
平穏で何気ない日常、しかし一枚板を隔てた先には真っ暗な闇が渦巻いている。
そんな恐ろしい構図が、愛美の精神にずっしりと重たく圧し掛かっていた。
「……お姉ちゃん?」
不意に呼ばれて我に帰ると、美希が心配そうに顔を覗き込んでいた。
「どうしたの……?」
愛美は動揺を隠し持ったまま、「ううん、なんでもないの」と答えた。
「えーっと、何の話だっけ?」
愛美が笑みを作って尋ねると、美希は再び画用紙に向かいながら言った。
「パパとママのこと」
ドキリと、思わず心臓が跳ね上がった。
しかし何も知らない美希は水色のクレヨンで空を描きながら、舌足らずの口調で楽しそうに語った。
「あのねぇー、ミキとおにいちゃんはねぇー、前は海の近くに住んでたの。風が吹くとちょっとしょっぱいんだよ。それでね? 夏になるとみんなで花火したり、スイカ割りしたり、バーベキューもしてたんだよー」
「そう、それは楽しそうね……」
「うん! 楽しかった!」
愛美はふと、美希の描いている絵を横から覗き込んだ。
空と海と砂浜があって、そこにぽつんと立った白い一軒家の前に四人の家族が並んでいた。
「お父さんと、お母さんと、お兄ちゃんと、ミキ。みんなで仲良く暮らしてるの」
順番に指を差して教えながら、美希はころころと無邪気に笑った。
子供らしいタッチで描かれた絵の中で、四人の家族はみんな幸せそうに笑っていた。
「……」
クレヨンを走らせる美希の手が、不意にぱったりと止まった。
「ん? 美希ちゃん……?」
小さな体が痛々しいほど小刻みに震えている。愛美が恐る恐る顔色を窺うと、美希は辛そうに表情を歪めて、ぽろぽろと涙をこぼしていた。
「――おうちに帰りたいよぅ。……パパとママに、会いたいよぉ……うっ、うぅ……げほっ、」
ずっとずっと堪えていたのだろう。裕太に泣かされたときとはわけがちがう。声を押し殺して涙を流す美希の姿からは、幾重にも積み重なって来た悲しみと苦しみの記憶が窺えた。
愛美は息が詰まるような思いで、それでも傷だらけの少女を前に、今はただぎゅっと抱き締めてやることしか出来なかった。
***
優菜は気晴らしにサッカーでもしないかと裕太を外に連れ出していた。
マンションに併設されている公園で、二人はボールを蹴りあっている。
「なぁ、裕太」
「……なに?」
「――美希のこと、大事にしてやれよ?」
優菜はそう言って、裕太の方へボールを蹴り出した。
「美希はちょっと甘えん坊なところがあるから、鬱陶しいって思うこともあるかもしれない。だけど、裕太はお兄ちゃんなんだ。もう少しそこを曲げて、可愛がってやって欲しいな。だって、たった二人の兄妹じゃないか。あいつを守ってやれるのは、キミだけなんだぞ?」
裕太は少し決まりが悪そうにツンと唇を尖らせながら、ボールを受け止めた。
「……わかってるよ、そんなの」
ふて腐れたようにぼそっと言って、裕太はボールを蹴り返す。
柔らかく微笑んだ優菜は、それからしばらく続いていたラリーを止めて、裕太に提案した。
「よーし、それじゃあ勝負するか。私がドリブルであっちの砂場まで行けたら私の勝ち、私からボールを奪って向こうのジャングルジムまで行くことが出来たら裕太の勝ちだ。私が勝ったら、知ってること全部話してもらうからなぁ~?」
「えーっ、ずるいよそんなのー!」
「なんだなんだぁ~少年? 女相手に勝つ自信がないのかぁ~?」
優菜の安い挑発を受け、裕太はムッとした顔つきになって「やるよ」と言った。
男の子の単純さにくすっと微笑んだ優菜は、「よーいどん!」と不意打ちを食らわせるかのように一対一の勝負を開始した。「あ、ちょっと待ってよ」と抗議の声を上げながら、慌てて裕太が向かって来る。
最初のうちは少々ムキになって応戦していた裕太だが、次第にその表情は心から遊びを楽しむ少年の顔つきに変化していった。
無邪気に笑いあう二人、そこには確かに心の交流があった。
そうして汗だくになるまで体を動かした優菜と裕太は、そのあと木陰に座り込んで少し休憩を取った。近くの自販機で買った水を飲みながら、汗が引くのを待つ。
「姉ちゃん、サッカー上手いね」
「運動神経だけは昔から良かったんだ。勉強の方はさっぱりだったけどさ」
「不良だったんでしょ?」
「まぁ、そうだな」
和やかな雰囲気の中、裕太が口を開いて静かに言った。
「約束……」
「ん?」
「知ってること、話すよ……」
「……そっかぁ」
優菜は清々しい心地で、夏の空に浮かぶ飛行機雲を眺めた。
「ありがとう――」
***
裕太から証言を取った優菜は、すぐさま中野に連絡を取り付けた。
「――やっぱりあの二人は相沢朋子に言われてプールに行っていたらしい。それから相沢が電話越しに〝大岡〟という苗字を口にしたのも聞いてる。ためしに中野さんから貰った資料に載っていた大岡の写真を見せたら、ビンゴだった。以前あの男が、相沢の部屋を訪れているところにばったり遭遇したことがあったそうだ」
中野は電話の向こうで低く唸った。
『よくやったな。これだけでも十分、令状を取って大岡を引っ張ることは出来るが――』
中野の言わんとせんところを察して、優菜は頷いた。
「あと一歩決定打が欲しいな。もう一押しあれば、確実にこのヤマは詰むんだけど……」
そうして何気なく優菜がポケットに手を突っ込んだとき、指先に何か角張った物が触れた。
取り出してみると、それは一枚の馬券。
中野と愛美と、三人で管理人室を訪ねた際、大岡が持ち出して来たものだ。
あのとき、中野から預かったまますっかり忘れていた。なんとなくそれを眺める優菜。
「……!!」
――そのとき、記憶の扉が開いた。
「中野さん、ちょっと確かめて欲しいことがある……」
『ん、なんだ?』
馬券に記された文字列を眺めながら、優菜は不敵に笑った。
《第三回・冥王杯競馬 第七レース 連複①‐⑧》
***
翌日の昼過ぎ、優菜と愛美は中野・五十嵐を伴って大岡のもとを訪れた。
大岡は無精ひげを蓄え、かなりやつれていた。眠れていないのか、目の下には深い隈が出来ており、目は真っ赤に血走っていてかなり精神的に追い詰められていることが窺えた。
「な、なんですか……?」
前回のことがあってか、四人が現れた際の大岡の動揺は、もはや隠しきれるものではない。
決着をつけるため、一歩前に出た優菜は例の馬券を取り出して見せた。
「大岡さん。これ、覚えてますよね?」
大岡はがくがくと首を振って答えた。
「え、ええ。覚えてますよ……」
優菜はにっこりと笑って伺いを立てる。
「この馬券、頂いてもよろしいでしょうか?」
一瞬、呆気に取られた様子の大岡は、それから警戒するように頷いて「別に、構いませんけど……」と小さく言った。
「そうですか、ありがとうございますぅ! いやぁ~、こんな貴重なものを二つ返事で譲ってくださるなんて、随分と懐の大きな方ですねぇ~!」
「な、なにを、言ってるんですか……」
まるで要領を得ていない様子の大岡に、目つきを鋭くした優菜は低い声で言った。
「その様子だと、やっぱり何もご存知じゃなかったみたいですね……。あなた、とんでもない思い違いしてます」
優菜の指示で、愛美が持っていた紙の束を大岡に手渡す。
広げてみると、それはスポーツ新聞の紙面だった。
「このレースがあった翌日の記事です。どうぞ、よくご覧になってください」
そこに書かれている文章を読んだ大岡は目を丸くして、驚愕の声を上げた。
「ど、どういうことだ……!?」
大岡がわなわなと震えながら握り締める新聞紙面には、こう書かれていた。
《第三回・冥王杯競馬で前代未聞のアクシデント! 判定を巡ってレースは大荒れ! ……問題の場面は第七レースで起こった。一着・ショーケンオウ、二着・ヴァギナスターの順でゴールし、一度は連複②‐③と発表されたが、ビデオ判定の結果、走行中の進路妨害により、一二着共に失格という発表があり、三着・ドッヂボーイと四着・ブービーキングが一二着に繰り上がったのだ。ちなみに連複①‐⑧の配当は二百五十九倍と超大穴、この前代未聞の結果は各所で波紋を呼んでいる――》
優菜は大岡から譲ってもらった超万馬券をひけらかし、せせら笑うように言った。
「おわかりですか、大岡さん? これはね、ハズレ馬券なんかじゃないんです。逆ですよ、逆。えーっと、これ一枚で賞金は一体いくらになるんでしたっけ?」
優菜が後ろを振り返って尋ねると、中野がつっけんどんな物言いで答えた。
「七百八十万」
「――だそうです。フフ、これがハズレだなんて、とんでもない」
大岡は愕然とした面持ちで、力なく項垂れる。顔中から嫌な汗が吹き出していた。
「……あのぅ、落ち込んでらっしゃるところ大変申し訳ないんですが、話はまだ終わってないんですよ? というかむしろ、ここから本題で……」
大岡は酷くぎょろついた目で優菜を睨んだ。しかし優菜は意に介さない。
「私が聞きたいのは、どうしてあなたがこの結果を知らなかったのかということなんです。だっておかしいじゃないですか。あなた仰いましたよね? 事件のあったあの日はテレビで競馬の中継を観ていたと。それなのに、どうしてこんなことになっちゃったんでしょう?」
大岡が答えられないことを見越して、優菜は論った。
「えー、テレビ局に問い合わせて調べてもらいました。第七レースのスタートは午後一時三十分。すべての馬が一旦ゴールしたのが一時三十五分で、その結果に訂正の発表があったのは、それから約五分後の午後一時四十分だったそうです。――恐らくあなたはあの日、本当にテレビで競馬の中継を見ていたんでしょう。しかしあなたが観ていたのは、一時三十五分までだった。それ以降、あなたは一度もテレビを見ていない。それは今のあなた自身の反応が証明しています。……さて、ここからは私の想像になるんですが、どうかお気を悪くなさらないでくださいね?」
軽く断りを入れてから、「それじゃあいきます」と優菜は矢庭に語り始めた。
「――レースの結果を一度見届けたあなたはテレビの電源を落として部屋を出た。二時に人と会う約束をしていたからです。そして、その約束の相手というのは、相沢朋子です。人目につかないよう時間に余裕を持って管理人室を出たあなたは、非常階段を使って二十七階にある相沢朋子の部屋に行った。……実際にちょっと検証をしてみたんです。私は高所恐怖症なので、ここにいる愛美に、わざわざ非常階段を使って二十七階まで上がってもらいました。途中で休憩を取りながらゆっくりのぼってもらったんですが、かかった時間は二十分弱。あなたと愛美で多少の誤差はあるでしょうが、しかしそのことを含めて考えてみても……あなたが部屋を出たのが、レースが一旦終結した一時三十五分頃。――非常階段で二十七階まで上がるのに必要な時間が約二十分。――そして、相沢朋子の死亡推定時刻が午後二時前後……。時間的にピッタリなんですよ! それに、このレースの結果は、新聞にもあった通り結構話題になっていたそうです。たとえテレビを観ていなかったとしても、ギャンブル好きのあなたなら、あとからいくらでも知ることが出来たはずだ。だけどあなたは、今の今までこの事実を知らなかった。もはやそんなことに構っている場合ではなかったんです。あなたの頭の中はあの日以来、別のことで一杯一杯だった。それはあなたが、相沢朋子さんを殺したからです。違いますか?」
大岡は慌てて首を振り、優菜の推論を否定した。
「違うッ! 俺は殺してなんかいない! あの日は……そうだ、レースを観たあとはチャンネルを切り替えたんだ! 別の番組を観ていたんだよ!」
「へぇ、そうですか。ちなみにそれは? どんな内容の番組でした?」
「それは……」
「――出任せ言ったって無駄なんですよ?」
大岡の逡巡を見透かした優菜は、取り出した一枚の資料をぱんぱんと叩いて示した。
「あの日やっていたテレビ番組のリストは、ちゃんとここに用意してあります。あなたの考え付きそうな嘘なんてお見通しなんですよ! 納得のいく説明が出来ますか!?」
しばし沈黙した大岡は、やがて観念したように、がっくりと膝から崩れ落ちた。
優菜の合図で前に出た中野と五十嵐が、逮捕状を提示する。
「――大岡源八、相沢朋子殺害の容疑で逮捕する」
***
大岡の事情聴取が始まって、優菜と愛美は隣の接見室からマジックミラー越しにその様子を眺めていた。大岡は全面的に犯行を認める供述をしており、今は犯行事実の確認のため、取調官からの質疑がなされているところだ。大岡は憔悴しきった顔つきで淡々と真実を語っている。
――本人の供述によると、大岡はやはり、相沢朋子から恐喝を受けていたらしい。
大岡は管理人という立場を利用して、マンションの居住者から不正に費用を取り立て、それを博打で作った借金の返済にあてていたという。それを知った相沢は大岡に脅しをかけ、警察沙汰にされたくなかったら、これからは横領した金の八割を自分によこせと言って来たそうだ。
大岡はもともと借金を返済したらやめるつもりでいたのだが、相沢の介入によってやめるにやめられなくなってしまったらしい。……そして、事件のあったあの日。相沢のもとを尋ねた大岡は思い切って「もうこんなことを続けるのはよそう」と相沢に申し出た。
しかし、それに対して相沢は激しく逆上し、足抜けしようとする大岡のことをそれはもう口汚く罵ったのだという。
カッとなった大岡は、思わず近くにあった置時計に手を伸ばし、キッチンに向かおうとする相沢朋子を後ろから殴り殺した。
――それが大岡の語る、今度の事件の全容だった……。
「ご苦労だったな」
大岡の供述はまだ続いているが、限のいいところで中野は優菜と愛美に声をかけた。
「お前たちのおかげて、晴れて事件は解決だ。何も礼は出来んが、せめて帰りはマンションまで車で送ろう」
「……」
確かに事件は解決した。
しかし何故だか、優菜は妙に胸の中がざわついて、酷く落ち着かない心地だった。
何か途轍もなく重大なことを見落としているような気がする。
それに、昨日から愛美の元気がないのも少し気にかかっていた。
『殺すつもりはありませんでした……。ただ、頭の中が真っ白になってしまって……』
『夢中だったというわりには、指紋を拭き取ったり、部屋を荒らして物取りの犯行に見せかけたり、随分と頭を使って偽装工作をしたもんだなぁ?』
隣の部屋からスピーカーを通して聞えて来る、大岡と取調官とのやりとり。
『違うんです。わたしは相沢を殴ったあと、確かに一度、慌てて逃げ出そうとしました。だけどちょうどそのとき、オルゴールの音が……』
『オルゴール?』
『――置き時計です。確かあれは、二時を知らせる音だったかと思います……。その音を聞いてわたしは、証拠を消さなければと、我に帰ったんです……』
そのとき、優菜の脳裏に電流が走った。
〝――!?〟
視野が狭窄し、思考が急速に一つの答えへと収束する。
今までにないほど強烈な眩暈と嫌悪感を覚え、優菜は近くの壁に手を着いて体を支えた。
「はぁっ、はぁっ、はぁっ……!」
額から滝のように冷や汗が吹き出してくる。吐き気を催した優菜は思わず口元を押さえ込んで必死に堪えた。
「ユウちゃん?」
優菜の異変に気づいた愛美が心配そうに寄って来る。
「気分でも悪いのか」と中野も怪訝そうな顔。
「ッ……!!」
二人を無視して部屋から飛び出した優菜は、そのまま隣の取調室へと駆け込んだ。
「なんだねキミは! ここは関係者以外立ち入り禁止だ! 出て行きたまえ!」
取調官の言葉を無視して、優菜は素早く大岡の襟首に掴みかかる。
「……おい、時計は動いていたのか?」
「なっ、なんですか一体!?」
「お前が相沢を殴ったあと、時計は動いていたのか?」
「はっ、離してください!」
「答えろッ!! 時計は動いていた……動いていたんだなァ!?」
鬼気迫る優菜の勢いに気圧され、大岡はがくがくと首を振って頷いた。
「――っ」
途端、優菜は愕然とした顔つきになって脱力する。
「栗原ッ!」
遅れてやって来た中野が優菜を大岡から引き剥がした。
「おい、どうしたんだ一体……!?」
優菜は無言のまま中野を振りきって、勢い良くその場から走り去った。
***
裕太と美希を警察署に預けたまま愛美が帰宅すると、まだ日は高いというのにカーテンを閉め切り、薄暗い部屋の中で優菜はデスクに突っ伏していた。
「……ユウちゃん」
愛美の呼びかけにも、優菜は反応を示さない。それでも愛美は静かに語りかけた。
「お願い……。全部話して?」
優菜は顔を机に伏せたまま、小さく身じろぎをして弱々しい声を出した。
「私のせいだ……私が、余計なこと言ったせいで……」
――――――――。
重たい沈黙が、二人の空間を支配していた。
愛美は足元の地面ががらがらと音を立てて崩れ落ち、光一つ差さない奈落の底へと堕ちていくような絶望感を味わった。それほどまでに、優菜の口から語られた真実は衝撃的なものだったのだ。震えがとまらない肩を抱いて、愛美もまた一つ隠されていた事実を告白する。
「美希ちゃんの体に痣があったの……。あの二人は、虐待を受けていたのかもしれない……」
優菜は黙ったままだった。
静謐の中で、不意に電話が鳴り響く。
状況が状況なだけに無視するべきかと迷った愛美だったが、一向に鳴り止む気配がなかったため、最終的には受話器を取った。
「はい、『YOU&I探偵社』です……」
愛美が沈んだ声で応対すると、相手は中野だった。しかしその声には何故か焦燥感が滲み出ている。雰囲気から察して、緊急の要件であることが窺えた。
『――裕太と美希がいなくなった! 二人を見ていた捜査員の話では、ほんの少し目を離した隙に行方を眩ませたそうだ。俺たちも今、手分けして周辺を探してる。二人の行きそうな場所にどこか心当たりはないか?』
愛美は電話を繋いだまま中野を待たせて、そのことを優菜に伝えた。
途方に暮れていた優菜も一瞬驚いたように顔を上げたが、芳しい返答は得られない。
「ごめんなさい、わからないわ」と言いかけたところで、愛美の脳裏にふと過ぎるものがあった。
〝あのねぇー、ミキとおにいちゃんはねぇー、前は海の近くに住んでたの!〟
〝――おうちに帰りたいよぅ。……パパとママに、会いたいよぉ……うっ、うぅ……〟
美希の楽しそうな笑顔と、辛そうな泣き顔が同時に浮かんで交差する。
愛美は目を閉じ、胸に手を当てながら中野に伝えた。
「私に心当たりがあるわ……。それから、大事な話があるの……」
***
その頃、裕太と美希は二人揃って電車に揺られていた。
裕太に手を引かれるがまま警察署を抜けて来た美希が、少々不安そうな塩梅で尋ねる。
「ねぇ、おにいちゃん? 勝手に出て来て怒られないかなぁー?」
裕太はじっと黙って席に座っている。美希は尚も尋ねた。
「ねぇ、おにいちゃん? これからミキたち、どこに行くの?」
「……家に帰るんだ」
裕太はぼそっと呟いた。
「おうちって? お姉ちゃんたちのところ?」
裕太は黙って首を横に振る。
「……パパとママの家だよ」
そう言ってやると、美希は嬉しそうに笑って食いついてきた。
「帰りたい!」
裕太は小さく微笑んで、美希に言い聞かせた。
「じゃあ連れてってやるから、その代わり僕の言うこと聞いて大人しく付いて来いよ?」
「うん! ミキ、おにいちゃんの言うとおりします!」
張り切って席に座りなおした美希は、それからご機嫌になって「まだかなー、まだかなー」と鼻歌まじりに足をぷらぷらさせている。
「……」
裕太はそんな美希の様子を眺めながら、どこか遠い目をして回想に浸った。
――――――
――――
――
事の発端は、新しく発売されたゲーム機が小学校で流行していることだった。
裕太の同級生たちはもうみんな持っていて、すっかりゲーム機を持っている者同士のコミュニティーが出来上がっていた。
今まではサッカーや野球をして一緒に放課後を過ごしていた友人たちが、揃ってゲーム機を手に、肩を組んで仲良く話し込んでいる姿を眺め、裕太はどこか仲間外れにされたような疎外感を感じていた。
そしてあるとき、友人の一人が裕太にこう言った。
「お前も、親に頼んで買ってもらえよ」
……そんなことできっこない、裕太は心の中で呟いた。
伯母である相沢朋子からは、これまで散々言い聞かせられてきたのだ。
ろくでもない親のせいで親戚中から邪魔者扱いされていたお前たちを、私がわざわざ引き取ってやったのだと。自らの妹である裕太と美希の母親のことを、相沢はいつも、二人の前で口汚くなじっていた。そして相沢の癇に障るようなことがあれば、容赦なく折檻された。
最初は本当に怖かった。だが、そのうちすっかり慣れてしまった……。
生来、我慢強く賢い裕太は、なるべく相沢の癇癪を避けるように立ち回り、上手くやり過ごすことが出来ていたが、美希はたびたび粗相を起こしてこっぴどく殴られていた。そうして、相沢の責め苦に耐えかねた美希が、壮絶に泣き叫ぶ姿を暗い瞳でぼーっと眺めながら、裕太はいつのまにか〝自分じゃなくてよかった……〟と心の底から安堵するようになっていた。
小遣いなんてもらったためしがない。服も両親が亡くなる前に買ってくれたものをずっと着ていた。常に気を遣って、媚を売って、決して相沢を怒らせないようにしないといけない。失態は許されない。そんな不満は小さな胸の中にだんだんと募っていった。
そして、ついには同級生たちに対する羨望と嫉妬の感情が引き金となり、――裕太はその日の夜、相沢の寝室に忍び込み、財布から一万円札をこっそり抜き取ったのだ……。
翌日の放課後、親からゲーム機を買うためのお金を貰って来たと嘘をついた裕太は、友人たちを連れ添って店に行き、念願のそれを手に入れた。
友人たちからやり方を教わりもう嬉しくてしょうがない裕太は、早速部屋に帰って夢中でプレイしていた。そこへ美希がやって来て「あー、それどうしたのー?」と訊かれたが無視した。「ミキにもやらせてよー」と纏わりついてくる美希を邪魔だと怒鳴って突き飛ばした。すっ転んだ美希はわぁっと声を上げて泣き出したが、いつもすぐに泣いてうるさい奴だと無視を決め込み、ゲームに集中した。
しかし……。
その後、帰宅してきた相沢によって裕太と美希は薄暗い居間に呼びつけられた。
守銭奴の相沢は財布の中身を常に把握していたらしく、昨晩抜き取った一万円のことがバレたのだ。
「どっちがやったの!?」
二人は小一時間正座させられ、所在を問われた。
「アンタたちがやったってことはわかってるのよ!? 正直に言いなさい!!」
裕太は生きた心地がしなかった。相沢の機嫌は、今までにないほど悪かったのだ。もし自分がやったと判ったら、今度こそ何をされるかわからない。もうダメだと思った。美希にあのゲーム機のことを言われたらおしまいだ。怖くて怖くて、裕太は膝小僧をぎゅっと握ったまま、青くなってガタガタと震えていた。
そのとき、――
「……ミキが、やりました……」
隣に座っていた美希が、目に涙を浮かべながら細い声でそう言った。
相沢が怒りに肩をわななかせながら、小さく笑う。
「あぁそう、やっぱりアンタだったわけ?」
「……ごめん、なさい……ごめんなさい……」
「いいから、ちょっとこっちに来なさい」
「……はい」
よろよろと立ち上がった美希が、ゆっくりと相沢の方へ歩いて行く。
「――っ」
裕太はその後姿に手を伸ばし、やったのは自分だと言おうとした。
だが心臓を鷲掴みにされたかのように、息が詰まって声が出ない。
パァン、と物凄い音がした。美希が相沢に思い切り張り倒されたのだ。
美希は倒れこんだまま痙攣したように息を吐き、恐怖と苦痛に表情を歪めて涙を流す。
相沢はそんな美希の上に馬乗りになって何度も何度も、美希を殴りつけた。
「盗んだ金はどこへやったの!? 言いなさいッ!!」
美希は泣き喚くばかりで何も答えない。
答えられるはずがない。
「――いっつもいっつも余計なことばっかりしてッ、いつもいつも私をイライラさせてぇえッ!! 本ッ当に母親そっくりのロクデナシだお前はッ!! このッ!」
相沢の怒りは頂点に達していた。
「思い知らせてやるッ……!」
そういった相沢は美希の髪の毛を掴み上げて、その小さな体を引きずり回した。
美希は相沢に無理やり引きずられて居間を出て行く。とうとう我慢できず、必死に抵抗しながら美希は叫んだ。
「おにいちゃぁああああああんんっ!! おにぃいいちゃあああああ――――んん!! うわああああああああぁぁぁぁぁぁぁ――――!!」
「……美希っ、待って……ッ」
それでも裕太は痺れたようにその場から動けなかった。
やがて、廊下の奥からガラッとバスルームの扉を開く音が聞こえてきて……――。
「ア”ァアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアァァァアアア――――ッ!!!!」
熱湯のシャワーを浴びせられる美希の絶叫が響き渡った……。
――
――――
――――――
あの日のことを思い返しながら、裕太は隣に座った美希の手を、知らず知らずのうちにぎゅっと握り締めていた。
「おにいちゃん……?」
美希は少し驚いた様子で裕太の横顔をちらりと見た後、照れたように頬をあからめ「えへへ……」と嬉しそうに笑った。
***
駅員に道を尋ねながら電車に揺られ続けた二人が目的の駅に辿り着いたとき、辺りはもうすっかり夕焼けのオレンジ色に包まれていた。
裕太と美希は手を繋いで歩き、懐かしい我が家を目指す。
視界がひらけ、目の前に海が見えてきた。
風に乗って届く潮の香り。
ここからあと三つ角を曲がった先に父と母とともに暮らした白い一軒家がある。
胸が高鳴り、早くなりかける歩みを抑え、裕太は美希の歩調に合わせて一緒に歩いた。
そして、最後の角を曲がった先には――。
「「……」」
かつて家族四人が幸せに暮らしていたはずの白い一軒家は影も形もなく、家族の肖像があった場所には、だらしなく雑草の伸びきった空き地だけがあった。
しばし途方に暮れた面持ちで、呆然とその場に立ち尽くす二人。
そのとき。
「――裕太、美希……」
背後から声が掛けられた。父と母に呼ばれたような気がして、二人ははたと振り返る。
――そこには、優菜と愛美が立っていた。
後方には一台の覆面パトカーが停車しており、中野と五十嵐の姿もある。
「……きっと来ると思ってたわ」
夕陽の中、愛美が優しげに微笑みかけて、そう言った。
愛美の助言によって、三年前、両親が亡くなるまで二人が住んでいたこの場所を調べた四人は車で先回りをして、裕太と美希が現れるのを待っていたのだ。
「おにいちゃん……」
雰囲気から何かを察したのだろう、美希は不安そうな表情で裕太の後ろにすっと隠れた。裕太は愛美の手をしっかりと握ったまま、顔を上げて優菜を見る。
「――……ッ」
一瞬口を開きかけた優菜だが、躊躇うように表情をゆがめて、キッと唇を噛みしめた。
「ユウちゃん、やっぱり私が……」
そう申し出る愛美を無言のうちに制して、優菜は一歩、また一歩と、二人の前に歩み出る。
深く息を吸い込んだ優菜は、決然とした態度で、兄妹との最後の対話に臨んだ。
「あの日……大岡が相沢を殴ったとき、時計は止まらなかった。相沢は……死んでいなかったんだ。恐らくは殴られたショックで一時的に気を失っていたんだろう。時計が止まったのは、それよりも、もっとずっとあとだった……」
悔しさとやるせなさと、その他様々な感情が綯い交ぜになって奔流のように押し寄せてくる。
「時計が止まったのは……」
優菜はそれらすべての感情を拳の中に握り締め、静かに目蓋を下ろす。
「……時計が、止まったのは……――ッ」
そして、最後の真実を紐解いた。
「――キミたちが、相沢朋子を殺したときだ!」
………………
…………
……
あの日。二人が近所の市民プールから帰宅すると、本来居間にあったはずの置時計が何故か玄関先に転がっていた。
しかもよく見ると角のところに薄っすらと赤い液体が付着している。
「……?」
不思議に思ってそれを拾い上げた裕太は、プールバッグを玄関先に放ってリビングに向かった。美希も裕太の真似をしてプールバックを置いたあと、すぐにその背中を追いかけて行く。
居間に入った二人は驚いた。
部屋は滅茶苦茶に荒らされていて、相沢朋子が倒れていたからだ。
「――」
困惑して立ち尽くす裕太とは対照的に、美希はすぐさま倒れている相沢に駆け寄って、懸命にその体を揺すった。
「おばちゃん! おばちゃん!」
「うっ、うぅ……ッ」
意識を取り戻した相沢は、後頭部を抑えて呻きながらむっくりと起き上がった。
酷く虚ろな目をして荒らされた室内を眺め、相沢は茫然とした声を発した。
「なによ……これ……。なんなのよ……」
しかし頭に走る激痛がぶり返してきたのか、また苦しそうに喘いで蹲る。
「おばちゃんっ!」
辛そうな相沢を心配して呼びかける美希。
相沢の真っ赤に血走った目がぎょろっとした動きをみせ、目の前の美希をガッと捉えた。
「アンタが、やったのね……!?」
「え?」
「――アンタがやったんでしょ!?」
相沢は美希の肩を掴んで、激しく前後に揺さぶった。
「ちっ、違う!」
状況を理解できない美希は必死に首を振って私じゃないと訴えた。
しかし相沢は美希を張り倒し、一方的に捲くし立てた。
「いいえ、そうに違いないわ! だってこんなことするの、アンタしかいないじゃないッ!! ええっ!? そうなんでしょ!? アンタがやったのよ!」
髪の毛を振り乱して興奮する相沢の姿は、完全に常軌を逸していた。
実をいえばこのとき、大岡に頭を強く殴られた相沢はそのショックによって軽い記憶喪失状態に陥っていたのだが、まだ幼い二人にそんなことが理解できるはずもない。
「このクソガキぃいいいい!! 引き取ってもらった恩も忘れてえッ!」
「おばちゃ……ちが……かはっ、ァ”ア……くるし……ッ!」
錯乱した相沢は馬乗りになって美希の首筋を力いっぱい締め上げた。
「殺してやるッ! やっぱりアンタたちなんて引き取るんじゃなかった! はぁっ、はぁっ、ぶち殺してやる、殺してやる、殺してやるぅううううう……くぅうううッ!!」
酸欠状態に陥った美希は目を大きく見開き、口をぱくぱくとさせながらどんどん青ざめていく。唾液がこぼれ出す唇の隙間から、掠れた声が微かに漏れた。
「おにい、ちゃん……たすけ……て……」
「――っ!?」
あまりにも理解を超えた状況に思考が滞り、今まで茫然とその光景を眺めていた裕太はそこでようやく我に帰った。
つい先日の出来事が裕太の脳裏に蘇る。美希は自分のことを庇って酷い目に遭わされた。あのとき自分は、声を出すことすらも出来なかった。そのときの後悔が裕太の心を駆り立てる。
「やめろぉお!」
裕太は勇気を振り絞って、相沢に立ち向かった。
しかし狂気に満ちた相沢の力は物凄く、とてもじゃないがまだ幼さを残す少年の細腕で引き剥がせるようなものではなかった。裕太は突き飛ばされて倒れ込む。
「……ア、ァ……」
美希の顔色は赤紫になっていて、泡を吹く寸前だった。恐怖に怯え、大きく見開かれたその瞳から一筋の涙が静かに伝う。
心臓が跳ね上がり、鳥肌が立った。
早く助けないと美希が死ぬ。だが、どうすればいいと裕太は焦った。
頭の中が真っ白に染まる。
――……そのときだった。
突如として響き出した、場違いなまでに温かなオルゴールの音色。
『トロイメライ』の安らかな旋律が、一瞬だけ時を止める。
それは置時計が三時になったことを知らせるものだった。
――そして。
――咄嗟に置時計を握り締めた裕太は、両手でそれを頭の上まで大きく掲げ、――只ならぬ気配を察知した相沢がゆっくりと裕太の方を振り向く――瞬間、裕太は固く目を瞑ってすべての悲しみを振り切るが如く、力の限り咆哮した。
『うわぁああああああああああああああああああああ――――ッ!!!!』
――思い切り振り抜かれた細い腕。――痺れるほどに重たい衝撃が走り、直後、糸が切れた人形のように相沢朋子の体から力が抜け落ちてゆく。――トロイメライのしらべが最後の一小節を残して途切れ、――べったりと血の付着した置時計が音を立てて床に転がった……。
……
…………
………………
寄せては返す波の音が聞こえる。
拙いことばで、裕太がすべてを語り終えたあと、静謐が辺りを包みこんでいた。
ぽろぽろと涙をこぼしながら、裕太は美希をぎゅっと抱き締める。
「なぁ美希、……辛かったろ? 苦しかったろう……。ごめん……ごめんなぁ……。僕に勇気がなかったから……ッ、お前を守ってあげられなかったよ……」
美希は「うぅん」と必死に首を振って答えながら、涙を堪えて笑おうとしていた。
「僕はおにいちゃんだからッ、お前を守らなきゃいけなかったのにッ! ごめん……っ――」
裕太は美希を抱いたまま、大きな声を上げて泣いた。
それはどうにもならない悲しみを天に向かって訴える、歳相応の少年の姿だった。
美希は裕太にしがみつき、その胸に顔を埋めて、声を押し殺しながら泣いていた。
それは別れを知って尚、兄を心配させまいとする妹からの、最後の最後の愛情表現だった。
「……くッ!」
優菜は湧き上がる激しい感情を抑えきれず、踵を返してその場から立ち去った。
中野と五十嵐は愛美に向かって、行ってやれと無言のまま目で合図を送った。
愛美は裕太と美希の姿を何度も何度も振り返りながら、それでも優菜の背中を追いかけた。
***
ぽつぽつと茜色の空から冷たい雨が降り出した。
夏の終わりに降り注ぐ激しいスコールの中、海岸線を歩いた優菜は浜辺に立って海を眺めていた。愛美は土砂降りの雨に濡れて立つその儚げな背中に、ゆっくりと近づいて行く。
「ユウちゃん……」
優菜は振り返らず、自責に満ちた低い声で言った。
「私のせいだ……。私があいつらを不幸にした……。私があいつらの未来を奪ったんだ……」
「そんなことは……」
愛美が口にする気休めの言葉を遮って、優菜は激しく懺悔した。
「汚い大人たちから傷つけられていたあいつらに、追い討ちをかけたのは私なんだ!」
すべての真実を知った今、優菜は自らの犯した過ちに気づき、己の愚行を呪った。
〝約束するよ……。キミたちの伯母さんを殺した犯人は、必ず私が捕まえてみせる。どんな手を使ってでも、必ず……〟
〝――美希のこと、大事にしてやれよ? ……たった二人の兄妹じゃないか。あいつを守ってやれるのは、キミだけなんだぞ?〟
あのとき、裕太は一体どんな思いでその言葉を聞いていたのだろう。
あのとき、自分が余計なことを言わなければ、裕太はもっと早くに本当のことを話してくれていたかもしれない。それに、なによりも。
「殺意を持って相沢を殴ったのは大岡だったんだ。大岡自身、自分が相沢を殺したものだと思い込んでいた……。私一人が口を噤んでいれば、あいつらはこれからもずっと、一緒にいられたはずなのに……。そんな些細な願いさえも、私は二人に許してやれなかった……ッ!」
優菜は涙を呑んで、現実の壁に打ちひしがれる。
「私はッ、こんなことのために探偵になったわけじゃない! 私は……私は二人を救いたかったのに……。どうして……ッ、どうしてこんな……っ!」
それに対して、愛美には思うところがあった。
「私は、これでよかったと思う……裕太くんと美希ちゃんのために」
愛美は胸に手を当て、その思いを語った。
「確かに今度の場合、悪いのは大人たちよ。あの子たちは最大の被害者だった……だけどね、裕太くんが人を殺したことは紛れもない事実なの。やむにやまれぬ事情があって、仕方なく犯してしまった罪かもしれない。それでもやっぱり、それは許されないことなのよ……! ユウちゃんが黙っていれば、真実は闇に葬られていたかもしれない。けれどそれじゃあ、あの子達の心はどうなるの? 人を殺したことを隠し続けたまま、一生を過ごすことが出来るほどあの子たちは無神経じゃない。あの子たちには優しい心があって、赤い血が通ってる。人間なの。きっとそう遠くないうちに、心が折れてしまったと思うわ」
――それはちょうど事件のあったあの日、テレビの報道番組を眺めながら、優菜と二人で話していたこと。
時効になった殺人事件の犯人が自殺したというニュース。
自殺した犯人が書き残した遺書の文面と、あのとき交わした会話の内容を、今一度深く思い返し、愛美は言った。
「罰を受ければ、それで犯した罪すべてが消えてしまうなんてことはないけれど、それでも贖罪の機会が与えられるということは、一つの救いだと私は信じる。――だから、ユウちゃん? あなたは何も間違ってなんかいないわ。何も、間違ってなんかいない……。探偵としても、人間としても……――」
優菜はがっくりと地面に膝をついて、力なく這い蹲った。
「アァ……ァ、ああああああああああああああああああ!!!!」
突き刺すような雨に打たれながら、砂を握り締めて感情を解き放つ優菜。
魂を吐き出すようなその慟哭を聞きながら、愛美もいつしか涙を流していた。
――激しく降り頻った雨が止み、やがて雲の切れ間から差し込んだ光が、びしょ濡れの二人を優しく包み込んだ……。
第六話「危険なふたり《後編》」おわり




