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第五話「危険なふたり 《前編》 」

第五話「危険なふたり《前編》」


『――昨日未明、東京都世田谷区にあるアパートの一室から男性の遺体が発見されました。遺体となって発見されたのは、この部屋に住む無職の男性、鮫島健吾さん・四十四歳で、鮫島さんは市販の延長コードで首を吊った状態で発見されており、遺書も見つかっていることから自殺と見られています。また、遺書には〝自分は二十年前に川崎区で起こり、五年前に時効となった殺人事件の犯人です〟と記され、〝この二十年間、一分一秒を怯えながら過ごしてきました。何度も自首しようと考えたのですが、とうとう最後まで言い出すことが出来ず、このような結果となってしまい、亡くなった美代子さんとご遺族の方には本当に申し訳ないと思っています。死んでお詫びします〟と記されており、警察では遺書の筆跡鑑定を含め、事実の確認を急いでいます』


 ――実際に遺書の文面が映し出されるテレビの画面を眺めながら、愛美は「ふぅーむ」と不思議そうな顔をして首を傾げた。

「せっかく長い間逃げ延びたのに、今になって死んじゃうなんて勿体無いわ」

 傍らで雑誌を読んでいた優菜がそれを小耳に挟み、小さく苦笑しながら口を出した。

「お前、まかりなりにも探偵だろ。そういうこと言っちゃ駄目だよ」

「だってそうじゃない」

「うーん、まぁ私にもあんまりわからないけどさ、きっとプレッシャーに耐え切れなかったんじゃないか?」

「プレッシャーって?」

「そりゃあ、自分の犯した罪に対する重責だよ」

「だけどもう、五年も前に時効になってるのよ? 捕まる心配はないじゃない」

「仮にそうだとしてもだ。人を殺めてしまったっていう罪悪感だけは、きっといつまで残り続けるだろうからな」

「うーん、そっかぁ……」

 愛美は難しい表情をして、なにやら真剣に考え出す。

 そんな愛美の様子を横目に眺めて微笑みながら、雑誌をぱたりと閉じた優菜は大きく伸びをして言った。

「なぁアイ、そろそろ三時だろ。お茶にしようよ」

「あ、うん、そうね」

 黙考を打ち切った愛美は、ぱたぱたとスリッパを鳴らしてキッチンまで駆けて行く。


 テレビのニュースはスポーツ関連の話題に移っていた。


『――続いて、競馬です。本日開催されました第三回・冥王杯競馬で一着と二着が相次いで失格となるというハプニングがありました。このレースは第七レースで、一旦は連複②‐③と発表されましたが、走行中の進路妨害により、一着・ショーケンオウ、二着・ヴァギナスター、共に失格という発表があり、三着・ドッヂボーイと四着・ブービーキングが一二着に繰り上がるという、前代未聞の結果となりました。ちなみにこの場合、配当は①‐⑧で二百五十九倍という超大穴となりました……』


 ――八月も終盤に入り、連日の猛暑が続く中、YOU&I探偵社ではここ二週間ほど閑古鳥が鳴いていた。

「ふぅ、平和だなぁー」

 ほんのりと湯気の立ったダージリンティーに口を付け、優菜は気だるく眠たい午後のひとときを満喫していた。

「こうも平和だと、退屈しちゃうわよ」

 愛美はなんだか不服そうに溜息を吐き、お得意の空想に浸り始める。

「……束の間の平穏を引き裂いて響き渡る悲鳴。凄惨な現場に横たわった変死体。二人の名探偵が難解な事件に挑む、なぁ~んて展開にならないかなぁ~」

 期待に膨らんだ顔をする愛美にすっかり呆れた表情をして、優菜は長い脚を組みかえた。


「ドラマの見すぎなんだよお前は。大体そんなに都合良く事件なんか起こるわけが――……」



『うわぁああああああああああああああああああああ――――ッ!!!!』



 突如として響き渡った凄まじい絶叫に、優菜は言葉を失った。


 次の瞬間、二人は弾かれるように席を立ち、玄関から廊下へと飛び出した。


「チッ、どこだ……」

 首を左右に振って、辺りを見回す優菜。

「ユウちゃん!」

 逸早く悲鳴の出所を嗅ぎつけた愛美が、エレベータホールの方から優菜を呼んだ。

「一つ下の階みたい! 早く!」

 エレベーター脇の階段を駆け下りながら、優菜は愛美に言った。

「ったくお前はエスパーかよ!」

「エスパー愛美と呼んで?」

「やかましい!」

 一つ下の階に辿り着いたとき、既に二人と同じく先ほどの悲鳴を聞きつけた住人が数名ほど集まっていた。彼らの様相を見るに、なにやら只ならぬ雰囲気がむんむんと漂っている。

「上の階にある探偵社の者です」

 二人が申し出ると、他の者たちは慌てて道を譲った。

「……」

 優菜は人垣の先にあった部屋のドアノブに手を掛けて、試しに捻ってみる。がちゃっと音を立てて抵抗を失う扉。……鍵は開いていた。

玄関先に足を踏み入れる優菜と愛美。

 ふと優菜の目に入ったのは赤と青、二つのプールバッグだった。濡れた水着と湿ったタオルがくしゃくしゃになって突き込まれているのがわかる。しかし何故、こんなところに。


『うっ、うぅ、うっうっ……』


 奥の方から、すすり泣くような嗚咽の声が漏れていた。

 途端、背筋に緊張が差す。

 慎重に上がりこみ、二人は息を呑んで薄暗い廊下をひたひたと歩いた。

 どうやらその泣き声は、リビングの方から聞えているらしい……。

 扉にそっと耳を寄せ、声の出所を確認した優菜は、大きく一度深呼吸をした後、思い切ってそのドアを押し開いた。


「――!?」


 そこで二人が見たものは、……荒らされた室内、フローリングの床に広がった真っ赤な血だまり。……その中心でうつ伏せになって倒れている一人の中年女性。……放心状態でそれを眺めたまま腰を抜かしている少年と、激しく咳き込みながら泣きじゃくる少女の姿だった。


 優菜は目つきを険しくして、隣でしばし呆然としている愛美に言いつけた。

「アイ、警察に連絡を」

「はい」

 踵を返してリビングを出て行く愛美を尻目に、優菜は部屋の中の物に手を触れぬよう心がけながら、今一度じっくりと現場を見まわした。

 箪笥からはみ出た衣服、割れたガラスのコップ、脱ぎ捨てられたスリッパ。

「……」

 倒れている中年女性は大きく眼を見開いたまま完全に沈黙している。既に息をしていないことは明らかだ。出血は頭部から。遺体のすぐ傍に、血のこびりついた銀色の置時計が落ちていた。恐らくはこれが凶器だろう。壊れているのか、指針が三時を差して停止している。

 一通り状況を把握した優菜は、第一発見者と思われる少年と少女の方を見た。

 二人ともまだ小学生くらいだろうか。体つきや顔立ちには随分と幼さが残っている。ひとまずは二人をこの部屋から外に出そうと優菜は近づいた。

「大丈夫?」

 遺体を目の前に腰を抜かしている少年の側に屈みこんで、優菜はなるべく柔らかい口調を選んで話しかけた。しかし少年は目と口をぼーっと開いたまま、何の反応も示さない。

 無理もないだろうと優菜は思った。普通、殺人事件の現場に遭遇したら誰だって驚くし、少なからず心に深い傷を負う。大人だってそのショックから立ち直れず、通院を余儀無くされる人がいるくらいなのだ。こんな年端もいかない子供であれば尚のこと。しかも今回の場合、血だまりの中で無残に死んでいる女性は、恐らく、この子たちの母親なのだから……。

「とにかく、ここを出よう? 立てるかな?」

 優菜が少年の手を引こうと、その体に触れた途端。

「ひぃい!?」

 ビクッと肩を跳ねさせた少年は怯えたようにずるずると後ずさり、目の端に涙を浮かべながらガタガタと震え出した。

「はぁっ、はぁっ、はぁっ、はぁっ」

 少年のズボンが不意にじわっと濡れていく。恐怖のあまり、失禁してしまったのだ。

 優菜は悲痛に表情を歪め、真っ直ぐな眼差しで少年の目を見つめながら、青白くなって震えているその手をしっかりと握り締めた。

「辛いだろうけど、今は落ち着いて。私の肩に掴まれる?」

「……」

 少年の体から僅かに震えが引いた。優菜は少し落ち着いてなすがままになった少年を背負い、泣きじゃくっている少女の許に寄って行く。

 少女の方は優菜が一言声を掛けると、すぐさま泣きついてきた。そのまま少女の細い体を抱え上げ、優菜は前と後ろに兄妹を乗せて、血生臭い部屋をあとにした。


                ***


 通報を受けた警察がマンションに到着し、現場検証が始まった。

 鑑識が写真を撮る際に焚かれるフラッシュの光と、捜査員たちの緊迫したやりとりが盛んに交わされる中、優菜と愛美もその渦中に立って、到着した中野刑事から遺体発見前後での詳しい話を訊かれていた。

「――つまり、お前たちが上の階から悲鳴を聞いて駆けつけ、部屋に踏み込んだ際、既に被害者はこの場所で死んでいたというわけだな……」

「ええ、そうよ」

 愛美が得意げに胸を張って答えた。

「犯人らしき者は見なかったか?」

 ううん、と左右に首を振る愛美。優菜が腕組みをしながら言った。

「それに関しては子供達に聞くのがいいんじゃないか? 事実上の第一発見者はあの子たちみたいだし」

 中野はウゥムと悩ましげに唇をむすんで、顎に手を当てた。

「そうしたいのは山々だが、今は二人ともかなり精神的に衰弱しているようでな、あの子供たちから証言を取るのにはもう少し時間がかかりそうなんだ」

「中野さん!」

 他の捜査員らと話し込んでいた五十嵐がやって来て、手帳を開きながら報告を始めた。

「被害者はこの部屋に住む、相沢朋子・四十五歳。死因は鈍器による頭部の殴打。凶器はこの部屋にあったアンティーク物の置時計で、重量は一、五キロほどあったようです。それから、――」

「あ、ちょっと待って」

 五十嵐の報告を遮った愛美は、すぐ横を担架で運ばれて行く被害者の遺体に向かった。

「少し確認させてもらってもいいかしら?」

 担架を運ぶ捜査員たちは困惑した表情を浮かべる。

 中野が代わりに許可を出すと、愛美は遺体にかけられていた布を静かに捲って合掌、厳かな表情で検死の真似事を始めた。

「フムフム、なるほどね……」

 訳知り顔で頷く愛美に、優菜が尋ねた。

「アイ、何かわかったのか?」

「ううん、別に。ちょっとやってみたかったのよ、これ」

「……ッ!」

 ごっちんと、優菜のゲンコツが愛美の頭に落ちる。

 「あいたぁ~」と愛美は頭をさすってしゃがみ込んだ。これには中野と五十嵐もすっかり呆れた顔。

「おい、五十嵐。次ふざけたら、この女をつまみ出せ」

「はい」

 愛美は涙目になって「みんなしていじめるなんて酷いわー」と抗議の声を上げた。

 愛美に構わず、ふと遺体の方を見た優菜は、そこであることに気づく。

「傷口が二箇所ある」

 優菜の指摘を受けた中野が近寄って来て、「どういうことだ?」と尋ねた。

「最初に発見した時は、うつ伏せに倒れていたから気づかなかったんだけど……」

 優菜は額にある出血部分を一度指差してから、背中が見えるように遺体を横倒しにした。

「ここ」

 優菜が指し示す先、被害者のうなじを伝って血が流れている。

「二発、殴られたってことか」

「まぁ詳しいことは司法解剖でわかると思うけど、たぶん正面から殴りかかったあと、倒れこんだところにトドメの一発って流れじゃないか?」

「……そうか」

 中野の指示で遺体が運び出されて行く。

「五十嵐、報告を続けろ」

「はい。えーっと、どこまで話したっけ?」

 ぱらぱらと手帳を捲って確認した五十嵐は報告を再開した。

「――室内はひどく荒らされていましたが、奥の部屋にあった金庫は無事でした。中には現金で三百万円ほど入っていたようです。その他にも寝室の鏡台の引き出しに、アクセサリーや宝石類など、金目の物が結構あったみたいなんですけど、盗られた物があるのか、現状では把握できていません」

「物取りに入った犯人とばったり鉢合わせしちゃったのかしら」

 優菜のゲンコツから回復した愛美がおいそれと口を出す。

「それから、凶器の時計は三時を指して止っていました。恐らくは犯人がこれで被害者を殴った際、その衝撃で壊れたものかと……」

「死亡推定時刻は今日の午後三時ってことね」

「いや、恐らくそれはフェイクだろう」

 愛美の意見を優菜はすげなく否定した。

「世の中にはあてにしちゃいけないものが三つある。スポーツ新聞の見出しと、通信販売の売り文句、そして……犯行現場の壊れた時計」

「同感だな」と中野。

「実際の犯行時刻はもっと前の可能性がある。部屋が荒らされていたのも、物取りに見せかけるための偽装工作だろう。犯人は、被害者と顔見知りである可能性が高い」

「どうしてよ?」

 愛美の問い掛けに、優菜は答えた。

「スリッパだ」

 優菜が目を向ける先に、それは転がっていた。

「物取り目的で侵入した犯人が、律儀にあんなものを履いて上がると思うか?」

「あー、なるほど」と五十嵐。

「だけど、被害者が履いていたのかもしれないじゃない?」

「もし仮に被害者の女性が室内でスリッパを履く習慣があったとすれば、当然子供たちにもそうさせようとするだろう? だけど子供たちはスリッパを履いていなかったし、さっき玄関を調べたとき、あれと同じ種類のスリッパがもう一足だけあった。逆に言えば二足しかない。この部屋に住んでいるのは三人。数が足りないんだ。必然的に考えて、あそこに転がってるのは来客用のスリッパなんだよ。玄関にあるもう一足は、たぶんその予備」

 中野が仲介した。

「まぁ、スリッパの件に関しては子供達から証言を取ればハッキリするだろう。問題はその来客があった時間帯だ」


 そこで、優菜は一つ推理する。


「玄関を入ってすぐのところに、子供たちのプールバッグがあった。もしかすると、犯人と面会の約束を取り付けていた被害者が、子供たちを遊びに行かせたのかもしれない」

「だとすれば、犯行時刻は子供たちがプールに行ってから、帰って来るまでの間ってことになるわね?」

「五十嵐、近辺の遊泳施設をしらみつぶしにあたれ」

「わかりました」

「被害者が故意に子供たちを遠ざけたとなると、そこでなんらかの聞かれちゃまずいやりとりが行われた可能性がある」

「犯人と被害者との間には、何か秘密の関係があったのかもしれないな」と中野。

「犯行の動機もそこにありそうですね」と五十嵐。

「もしかしたら、あの子たちは犯人の名前を聞いてるかもしれないわ」

 愛美が身を乗り出す勢いでそう言った。

「なんにしても、今度の事件を解く鍵は、あの子供たちが握っていそうだ」

 中野の見解に、優菜は腕を組みながらこっくりと頷いた。


                ***


 深夜、トイレに起きた愛美が寝室を出ると、リビングの方から明かりが漏れていた。

「ユウちゃん……?」

 ソファーに深く腰をかけ、一人ぼんやりとしていた優菜が声に反応して振り返る。

「なんだ、まだ起きてたのか」

「ユウちゃんこそ」

 テーブルの上に目をやると、ボトルが二本ほど空いていた。

 普段から酒を嗜む優菜だが、今日はいつもより深酒している。

「もうやめた方がいいわ。体に悪いわよ」

「うん……」

 生返事を返しつつ、空いたグラスにとくとくと酒を注ぎはじめる優菜。愛美はそれを横から取り上げて、ふと心配そうな顔をした。

「眠れないの?」

「……」

 優菜は答えなかったが、その表情からは深い感慨の気色が窺える。

 付き合いの長い愛美には思い当たる節があった。

「――お母さんのこと、思い出したの?」

 しばしの沈黙のあと、優菜は取り繕ったように「敵わないな」と小さく笑った。

 だがその瞳には、執念にも似た強い意思の篝火が、奥のほうで静かに揺れている。

「今度の事件は、私の手で解決したいんだよ。どうしても……」

「……うん」

 愛美は優菜の手を取り、寝床に促した。

「もう寝ましょう? あんまり夜更かししてると、大事なときに頭が働かなくなるわ」

「あぁ、わかったよ」


                ***


 翌日、中野が新たに仕入れた情報を持って、探偵社を訪れた。

 応接用のソファーに腰を下ろし、出された紅茶に口を付けながら、中野は資料をめくった。

「――解剖の結果、被害者・相沢朋子の死亡推定時刻は午後二時~三時の間だと判明した。さらに聞き込みの結果、階下に住む住人の一人が不審な物音を聞いている」

「その住人というのは?」

「被害者の部屋の真下に住んでいる会社員の男だ。仕事で使う資料を取りに帰ったときに、上の部屋からどたどたと争うような物音を聞いたらしい。そのときは子供がふざけて暴れているんじゃないかと、気に留めなかったそうだ。正確な時間は把握していなかったようだが、防犯カメラの記録から男がマンションに一度帰宅したのは午後一時五十六分、資料を持った男が再びマンションを出て行ったのが午後二時三分ということがわかっている。解剖の結果とも一致したため、犯行が行われたのは、午後二時前後と断定された。しかし、その時間帯に録画された防犯カメラの映像には、被害者の部屋に近づく人物は映っていなかったんだ」


「このマンションで防犯カメラが設置されてるのは、玄関ホールと各階のエレベータホールだけだ。外部からの侵入は不可能でも、同じ建物の中にいる人間なら、防犯カメラに映ることなく、被害者の部屋まで行けるんじゃないの?」


「問題はこの建物の構造と、被害者の部屋がある位置なんだ。このマンションにはお前たちの住む最上階を除いて、各階におよそ二十から部屋があり、エレベーターは東側・中央・西側と実に三箇所も設置されている。被害者・相沢朋子の部屋は西側の角部屋だ。そこから二つ部屋を挟んだところにエレベータホールがある。つまり、例え同じ階に住む住人であったとしても、それより先にある部屋から被害者のいる部屋に行くためには、必ずエレベータホールの前を通らなければならない。当然、防犯カメラの映像にも映る」


「それじゃあ、エレベータホールよりも手前側にある部屋の住人は?」


「防犯カメラに映ることなく被害者の部屋まで移動できる範囲にあった部屋は、被害者の部屋を除けば五つあるが、そのうち二つは空き部屋、残る三つの部屋に住む住人は、平日の昼間ということもあってかそれぞれ仕事で不在だったらしい。無論、アリバイも取れてる」


「事実上の密室殺人ね……!」


 思わず興奮した様子の愛美に、優菜はあっさりと水を差した。


「いや、出入り口はまだ他にもある。――非常階段だ」



 ――実際に被害者の部屋の前まで移動した三人は、部屋を出てすぐ右手のところに『非常口』と書かれた鉄扉があることを確認した。

「ここからなら、防犯カメラに映ることなく、誰からも気づかれずに被害者の部屋を訪ねることが出来る……」

「俺たちももちろんその可能性は考えた。だが見ての通り、非常階段に通じる扉にはどの階も内側から鍵がかかってる。鑑識に言って鍵穴も調べさせたが、ピッキングによって抉じ開けたような痕跡はなかった。そもそもそんな技術を持った犯人なら、被害者の部屋にあった金庫をそのままにしておくはずがないだろう」


 優菜はカチッとつまみを回して、非常口の鉄扉を押し開いた。すっと通路に風が吹き込む。


「鍵は内側からなら開けられる。被害者と犯人が秘密裏に面会の約束を取り付けていたとすれば、被害者自身に鍵を開けておいてもらうことだって出来たはずだ」

「だが、帰りはどうする?」

「うーん。そもそも事件のあった直後、ここの鍵は閉まっていたのか?」

「少なくとも昨日、俺たちが確認したときは確実に閉まっていた。まぁ、遺体発見直後の混乱に乗じて戻って来た犯人が内側から改めて鍵を閉め直した可能性も否定できないが、そもそも犯人が非常階段から出入りしたとなれば、この階に住む人間ではないということになる。さっきも言ったように他の階にいる人間がここに辿り着くためには、必ずエレベータホールの前を通らなければならない。犯人が戻って来た可能性があるとすれば、遺体が発見されてから警察関係者がここに到着するまでの十数分の間だ。その時間帯の防犯カメラの映像を見れば、容疑者を絞り込むことは出来るだろうが……」


 優菜は少し考えてから言った。


「犯人が鍵を持っていたとは考えられないか?」

「非常口の鍵をか? しかしそんな物どこから手に入れる?」

「管理人なら持ってるんじゃないかしら」

「管理人か……。そういえば、私はまだ一度も会ったことないな」

「私も」と愛美。

「俺は昨日、防犯カメラのビデオを借りる時に顔を会わせたが」

「どんな人だったの?」

「五十過ぎのおっさんだ」

「管理人室はどこに?」

「一階だ。……っていうかお前らなぁ、このマンションに住んでるくせにそんなことも知らなかったのか?」

「そうは言っても、私たちがここに拠点を構えたのはつい三ヶ月ほど前だし、マンションってのは意外と住人同士の繋がりが薄いからなぁ」

「隣にどんな人が住んでいるのかすら知らないっていうのも珍しくないらしいわよ? 実際、私も他の部屋にどんな人が住んでいるのかなんてほとんど知らないし」

「――いや、ちょっと待て」


 そのとき中野が、不意に何か思い出したように口を開いた。


「……そうだ。管理人室は確か、西側の角部屋だった……」

「なんだって?」


 ――三人はエレベーターに乗って一階まで降り、管理人室に向かった。

 中野の言った通り、管理人室を出てすぐのところ非常口の扉があることを確認した優菜は、顎に手をあてて考える。

「管理人室から被害者の部屋までは、非常階段を使えばほぼ直線で行くことが出来る……」

「だが、被害者の部屋があるのは地上二十七階だぞ」

 そう言った中野は非常口を開き、そこから雲の上まで続いていそうな螺旋階段を見上げた。

「これを歩いてのぼったっていうのか?」

「それでも不可能じゃない。階段の途中で休憩を挟みながらゆっくり上がったとしても、たぶん三十分あれば最上階まで行けるはずだ。それにこの位置関係、全くの偶然だと思うか?」

 優菜の問いかけに、中野は深い沈黙で通した。

「とにかく、管理人に話を聞いてみよう」



 三人は管理人室の扉を叩いた。

「はい……」

 しわがれた低い声で返事があり、扉の隙間から初老の男が顔をのぞかせる。

 先頭に立った中野が警察手帳を取り出して見せると、男は「ああ、昨日の刑事さんか」と小さく呟いた。中野は無愛想な調子で尋ねる。

「少々お伺いしたいことがありまして、よろしいですか?」

 男は一瞬警戒したように表情を引き攣らせたが、喉に詰まった声で、

「え、ええ、いいですよ……。少し散らかってますが……」

 と、三人を室内に招き入れた。

 中に入ってすぐ、不快そうに顔をしかめた愛美は優菜の肩をちょんちょんとつついてこっそりと耳打ちした。

「うわぁ、汚い部屋……。よくこんなところで生活できるわね……」

 優菜は小さく苦笑する。ゴミや洗濯物や週刊誌が床を埋め尽くし、少しどころか部屋の中は足の踏み場もないような惨状だった。煙草と汗の臭いが充満しており空気も悪い。

 靴を脱いで中に上がるように促されたが、愛美はすっかり顔色を悪くして躊躇していた。

 玄関先には男の物と思われる運動靴があった。本来、白かったと思われるその靴は一体何年間履き古されたのかと思うほど、踵の部分は潰れ、全体が真っ黒に汚れている。

「もう新しいの買えばいいのに。何でこんなの捨てないのかしら」

 嫌悪感むき出しの愛美に、優菜は少々困った顔で囁いた。

「なるべく早く出るようにするから、余計なこと言って話をこじらせないでくれよ?」

 優菜に諭され、愛美はしぶしぶと靴を脱いで、中に上がった。

 お茶でも入れましょうかと立ち上がる男を引き止めて、中野はすぐさま本題を切り出した。

「――早速ですが、昨日の午後二時頃、あなたはどちらにいらっしゃいました?」

「それは所謂、アリバイというやつですか……?」

 中野が忌憚なく首肯すると、男は額に汗を滲ませながら逡巡を始めた。

「えーっと、確か昨日の二時頃は……そうだ、テレビで競馬の生中継を見てましたよ」

「それはこの部屋で?」

「はい」

「一人で?」

「ええ、まぁ……」

「どなたかそれを証明できる人はいませんか?」

「いえ、それは……」

 言葉に詰まった男は居心地が悪そうに膝を揺すっている。

 優菜はそんな男の表情をじっと観察するように見据えていた。

「――あぁ、そうだ……! 証明になるかはわかりませんがね、そのときの馬券がありますよ」

 慌てて立ち上がった男は、どこへやったかなと一人ごちながらゴミ袋の中を漁ってまわる。

「あったあった! これです!」

「どうも」

 差し出された馬券を受け取る中野。

 優菜と愛美もそれを横から覗き込んで見た。

 競馬に疎い優菜と愛美にはよく分からない表記が多かったが、それでも確かに日付は昨日のものになっていた。馬券を優菜に渡して、中野は男の方に向き直る。

「これは一旦、こちらの方でお預かりしてもよろしいですか?」

「ええ、それはもう、どうせハズレ馬券ですから……」

 近くにあったタオルでしきりに汗を拭いながら、男はおずおずと伺いを立てた。

「……あのぅ、私は疑われてるんでしょうか?」

「あくまでも形式的なことですから、お気を悪くなさらないでください」

「はぁ……」

 それまで黙って男二人のやりとりを聞いていた優菜が、不意に口を開いて言った。

「すいません、私の方からもいくつか質問していいですか?」

「構いませんけど……」

「マンションの管理人さんって、具体的にどういったお仕事なんですか?」

 予想に反して平穏な質問の内容に、男は安心した様子で話し出した。

「あ、ああ、色々ありますよ? 設備の点検やら、支払い事務やら……」

「お掃除なんかも?」

「ええ、美化活動も業務の一環ですね」

「このマンション広いから、一人じゃ大変でしょう」

「まぁ、仕事ですから」

「非常口の鍵、お持ちですか?」

 何気ない話題から一転、いきなり核心を突く優菜の質問に、男の顔色が変わった。

「え……。それはどういう……」

 男の動揺を見て、優菜は不敵な笑みを浮かべる。

「――捜査の結果、犯人はですね? 非常階段を使って被害者の部屋まで行った可能性が非常に高いということがわかったんです。もちろんご存知だとは思いますけど、非常口の鍵は階段側に鍵穴が、通路側に開閉のためのツマミがついています。つまり非常階段を使って被害者の部屋がある二十七階まで上がることはその気になれば誰にだって出来ます。しかしそこから非常口の扉を開けて建物の中に入るときには当然、鍵が必要なはずなんです。百歩譲ってその階の非常口だけがたまたま開いていたとしましょう。しかし事件のあった直後、あの階の非常口にはきちんと鍵がかかっていました。それを見たとき、私ピンと来ました。犯人が出て行くときに鍵を閉めなおしたんですよ。しかし何故そんな面倒なことを? ……そこで私は一つ仮説を立てました。犯人には普段から非常口に鍵をかける習慣があったんじゃないかと。……それじゃあ、この事件の犯人に必要な条件を思いつく限りでいくつか上げてみましょうか?


 ――一つ、犯人は普段からこのマンションに出入りしている人物。


 ――二つ、防犯カメラの位置を含め、この建物の構造を熟知している人物。


 ――三つ、普段から非常階段を使う姿が目撃されていても特に不審には思われない人物。


 ――四つ、非常口の鍵を持っている人物。


 ――五つ、一~四までの事柄に共通する職業、またはそれが可能な立場にいる人物。


 ――六つ、昨日の午後二時頃に、はっきりとしたアリバイのない人物。


 えー、今言ったすべての条件に当てはまる人物に、心当たりはありませんか?」

「い、いえ……」

 空気が抜けるようなすかすかの声。顔面を蒼白にした男は、微かに首を横に振った。

「ちなみに管理人さん、あなたは?」

「……」

 男は愕然とした顔つきになって硬直した。

 優菜は小悪魔的な微笑を浮かべ、竦み上がる男を正面からじっくりと見据えた。

「すごい汗ですけど、大丈夫ですか? 顔色も悪いですよ?」

「す、すいません……。ちょっと失礼」

 逃げるように立ち上がった男は、「空調利いてねぇな……」と震える声で一人呟きながら、優菜に背を向けエアコンを操作した。


                ***


 管理人室をあとにした三人は、最上階の探偵社に戻ってお茶を飲みながら話し合った。

「思った通り、かなり動揺してたわね……!」

 先のやりとりを振り返り、したり顔でしめしめと一人頷く愛美。

「結局のところどうなんだ?」

 中野が尋ねると、優菜は難しい表情でうーんと首を捻った。

「九分九厘クロだとは思うけど、決め手がない。まぁ、ばっちりカマはかけておいたから、上手く行けば(やっこ)さんの方から動き出してくれるかもしれないな」

「しばらくは泳がせてみるのね?」と愛美。

「一応、捜査員を一人、監視につけておくか」

「うん。それがいいと思う」

 優菜が頷き、管理人についての方針が決まったところで、中野は話題を変えた。

「――被害者の相沢朋子について洗ってみたんだがな、こいつが調べれば調べるほど胡散臭い女なんだ」

「どういうこと?」

「元は暴力団幹部の愛人だったそうでな、色んな方面に顔が利くみたいだが、それを上手いこと利用して後ろ暗いところのある企業や個人を相手に、ユスリタカリの真似事やってるなんて噂もあったらしい」

「信憑性は?」

「あくまでも噂だからなんとも言えんが、愛人だった暴力団幹部の男と死別して、フラフラしてるだけの女が新しいパトロンもなしに、こんな高級マンションに住んで悠々と暮らしてたんだ。普通に考えてまともな収入源じゃないだろう。一時期は恐喝の疑いもかかっていたみたいだが、証拠がないために検挙までは至らなかったそうだ」

「それじゃあ、怨みを持ってる人間も多そうね」

「ああ、性格的にもかなり高慢で底意地の悪い女だったらしいからな」

 しばし考え込んでいた優菜が、ふと顔を上げて口を開いた。

「……管理人は何か弱みを握られていたんじゃないのか?」

「わかったわ! あの男はそれをネタに被害者から脅されていたのね!」

「まぁ、そう考えれば犯行の動機については説明がつくが、一つわからないことがある。あんな男を脅して一体何の得があるのかということだ。とてもじゃないが、金なんか持ってるようには見えないぞ?」

「そこんとこは私にもよくわからないんだけどさ……」


 大きく欠伸をしながら天井を見上げた優菜は、ぽつんと一言浮かべた。


「――来客用のスリッパ……」


「ん?」

「なぁアイ、お前だったらどういうとき、どういう相手にスリッパを出す?」

「そりゃあ、おうちに来てくれたお客様をおもてなしするときでしょう?」

「たとえば強請る側と強請られる側の関係においても、そのおもてなしはあると思うか?」

「う~ん、紳士的な悪者だったらあるかも」

 愛美があてにならないと踏んだ優菜は、中野の方を向いた。

「中野さん、相沢は高慢で底意地の悪い性格だったって言ったよな? アンタはどう思う?」

「わからんな。何が言いたいんだ?」

「さっき管理人室を訪ねて行ったとき、靴が汚れてた。あの男の靴だ」

「あー、覚えてるわよ。汚かったわねーあれ」と暢気に相槌を打つ愛美。

「それで思ったんだ。スリッパを出したのはおもてなしがどうこうとかいうんじゃなくて、あんな汚い靴を履いていた足で部屋の中に上がられたんじゃ、床が汚れると思ったからなんじゃないかって……」

「なるほど、それなら辻褄が合うな」

「それじゃあやっぱり、あの男は被害者の部屋に行っていたのね」

「とにかく現状じゃ状況証拠しかないことに変わりはない。中野さん、あの男の素性を徹底的に調べて欲しいんだ。そこから何か掴めるかもしれない」

「わかった」

 ティーカップをソーサーに戻した中野は上着を持って席を立った。

「それじゃあ、俺は一旦署の方に戻る」

「ああそうだ、中野さん」

 何か思い出したように優菜が中野を呼び止める。

「子供たちの方は、どんな様子?」

 中野は振り返り、少々難しい表情をして答えた。

「二人とも相変わらず塞ぎこんだままで、証言を取るのはまだ難しそうだ」

「そっか……」

「それと、お前の推理、当たってたぞ」

「え?」

「近くの市民プールであの兄妹の目撃情報があった」

「あ、ああ……」

 あの幼い兄妹のことが気にかかっているのか、優菜はどことなくぼんやりと愁いを帯びた表情をしている。その心中を汲んだ愛美は、中野に一つ提案した。

「ねぇ? あの子たち、ここに連れて来たらどうかしら?」

「んん? それは、お前たちに身柄を預けるってことか?」

「そう。ここなら部屋も広くて明るいし、いい気分転換になると思うの」

「しかしなぁ、あの二人はいちおう重要参考人だぞ」

「でも、警察ではまだ何にも喋ってくれてないんでしょ?」

 それを言われると立つ瀬がないのか、中野は言葉を詰まらせた。

「私たちと何日か暮らしてるうちに、ひょっこり喋る気になるかもしれないわ。大体ねぇ、こんな怖い顔した男の人たちに囲まれていたら、喋りたくても喋れなくなっちゃうわよ」

 怖い顔の代表として指を差された中野はわなわなと眉をひくつかせて、怒りを露わにした。

「お前なぁ……!」

「――中野さん」

 優菜の一声に、二人はやりとりを中断して振り返る。

「私からもお願いするよ」

 その言葉を聞いた愛美は、にっこりと笑って中野を見た。

 むっとした顔つきになってしばらく考え込んだ後、中野は深々と溜息を吐いた。

「はぁ……。一応、上には俺の方から話してみる」


                ***


 翌日の夕刻、中野と五十嵐に連れられて、二人の兄妹が『YOU&I探偵社』にやって来た。

「うわぁ~、可愛い~!」

 子供好きの愛美は早速その大きな目を爛々に輝かせて、二人の前に屈みこんだ。

「ねぇねぇ、あなたたちお名前はなんていうの?」

「……」

「……」

 強気な顔立ちでツイっと目を背ける兄と、怯えたように下を向いている妹。

 人の善い五十嵐が小さく苦笑して、代わりに答えた。

「裕太くんと、美希ちゃんです」

「そう、いくつ?」

「……」

「……」

「あはは……小学校四年生と、一年生だよね?」

 笑わないし、喋らないし、目をあわせようともしない。そんな子供たちの現状を目の前にしても、愛美は決して笑顔を絶やさなかった。

「これからしばらくの間、一緒に暮らすことになりました。白鳥愛美です。よろしくね?」

 心を閉ざした兄妹を相手に一人懇々と語りかける愛美の姿を、優菜は見ていた。

 普段は世間知らずで子供っぽくて、手のかかる妹のように思っていた愛美のことが、このときばかりは少し年上の優しいお姉さんに見えた。

「二人ともお腹空いてるでしょう? お口に合うかはわからないけど、腕によりをかけて作ったから、みんなで一緒に御飯食べましょ?」

 二人の手を取って、部屋の中に上がるように促す。

 妹の美希はおどおどしながらも靴を脱いでそれに従ったが、兄の裕太は愛美の手を振り払いそのまま玄関から出て行こうとする。裕太の前に、中野が立ち塞がった。

「おい、どこへ行く気だ」

「……帰る」

「今のお前らに帰る家なんかないだろ」

「――ッ!」

 冷たく突き放すような中野の言葉に、裕太は顔色を変えて目の前の大男を睨み付けた。

 中野は中野で表情一つ変えず、怒りを露わにする少年を高所から見下ろしている。

「ここでおばさんたちの世話になるか、それとも俺の家に来るか……どっちか選べ」

「お、おばさんっ!?」

 聞き捨てならない表現を耳にした愛美が驚愕の声を上げた。

「っ……」

 悔しそうな顔で中野を睥睨する裕太。中野も裕太から目を逸らさない。

「どっちだ」

「……くッ」

 諦めたように肩を落とし、裕太はしぶしぶと引き返して来る。

「これから世話になるんだ、挨拶ぐらいしろ」

 中野から言われて、裕太はぶすっとしたまま小さく口を開いた。

「お世話になります……」

 不機嫌そうな声。それでも愛美は嬉しそうに微笑んで、手を拱いた。

「さぁ、上がって?」

 愛美が兄妹二人をリビングの方へと案内する。

 手を繋いで歩く愛美と美希の後ろから少し離れてついて行く裕太が、不意に玄関の方を振り返った。優菜と一瞬、目が合う。

「……」

 玄関先に残った五十嵐はふうっと息を吐いて中野に言った。

「先輩、ちょっと厳しすぎるんじゃないっすか? 相手はまだ子供なんですから」

「あれぐらいで丁度いいんだ。子供だからといって甘やかすとロクなことにはならんからな」

「そんな大袈裟な」


 小さく苦笑いする五十嵐に、中野は尚も仏頂面のまま厳かに語った。


「子供は大人の小型に過ぎん。嘘もつけば、人を傷つけもする。知識と経験が浅い分、倫理観や自己抑制といった機能が未発達で欲求にも際限がない。可能性という意味では、大人よりも数倍危険な存在なんだ」


「そんなもんですかねぇ」

 五十嵐は半信半疑で相槌を打った。

「二人を預けるにあたって、話しておきたいことがある」

 中野はそう言って優菜と向かい合った。


「話って?」


「――裕太と美希は、相沢朋子の子供じゃない」


「……どういうことだ?」


「本当の両親は三年前、交通事故で他界してる。もともと駆け落ち同然の結婚だったことが原因で、親族間での交流はほとんど絶たれていたらしい。両親が死んで、残された子供たちを誰が引き取って育てるか、身内の間では相当揉めたみたいでな、あの二人は親戚の家をたらいまわしにされて来たらしい。それで最終的には母方の伯母である相沢朋子が面倒役を押し付けられる形で、兄妹を引き取ったそうだ」


「それじゃあ、今回のことで……」


「ああ。その相沢朋子が死んだことで、親族間では醜い責任の押し付け合いがまた始まってる。現時点で、まだ誰もあいつらのことを引き取ろうと名乗り出てきた者はいない。はっきり言って、あの兄妹はこれからどうなるか分からんということだ」


 重たい沈黙が尾を引く中、優菜はふと顔を上げて中野を見た。


「でも、どうしてそんなことを私に?」


「……さぁな」


 中野は優菜からの問いを振り切るように踵を返して、玄関の扉を押し開いた。

「五十嵐、帰るぞ」

「はい」

 中野が一足先に玄関から出て行くのを見届けた五十嵐は、素早く振り返り、優菜にこっそりと耳打ちをした。


「――あのですね、先輩はつまり、たとえ少しの間でもあの子たちの心の拠り所になってやれと、そう言いたいんだと思います。少々偏屈ですけど、見た目ほど悪い人ではないんですよ?」


「知ってる」

「そうですか」

 密かに苦笑を交える優菜と五十嵐。外の方から中野の怒鳴り声が飛んできた。

「五十嵐ッ! なにやってんだ、早く来い!」

「あっ、はい! すいません!」

 それじゃあまたと手刀を切って、五十嵐はいそいそと帰って行った。

 

                ***


 四人で囲む、はじめての食卓。

 夕飯の献立はカレーライスとハンバーグだった。

 この子供の好物・二大巨頭で、まずは胃袋から二人の心を掴もうというのが愛美の作戦だった。「カレーとハンバーグだったら、きっと二人とも喜んでくれるわ!」と張り切って作る愛美に、「今時の子供はそんなに単純じゃないぞ」と小姑のように口出ししていた優菜だったが、結果的に愛美の作戦は案外成功していた。

「どう? 美希ちゃん、美味しい?」

 愛美が尋ねると、美希は小さな口にスプーンを運びながらこっくりと頷いた。

「フフ、よかった。――裕太くんはどうかな?」

 裕太は愛美を無視したが、手と口の動きだけは止めず、無心に皿の上の物を掻き込んでいる。

 二人ともまだまだ表情は硬いが、それでも一歩前進したことを知った愛美は嬉しそうに笑って、優菜に小さくピースサインを出した。優菜はくすっと微笑んで、子供は子供かと心の中で呟いた。

 夕食のあと、愛美は二人を遊びに誘った。

「トランプでもしない? ババ抜き」

 美希はそろそろと寄って来たが、やはり裕太は愛美の誘いを無視してテレビの前に座った。

「ねぇ、裕太くんもこっちに来て一緒にやろうよ」

「……」

 裕太はむすっとしてテレビの画面を見つめたまま、何も答えなかった。

 愛美はふっと小さく息を吐いて、にっこりと美希に微笑みかける。

「それじゃあ、二人でやろっか?」

 しかしふるふると首を横に振った美希は突然立ち上がって、愛美の側から離れて行く。

「あっ……」

 引き止める間もなく、テレビの前に走っていった美希は裕太の隣にちょこんと座った。

「ははは、振られたな」

 優菜が可笑しそうに笑いながら、愛美の肩をぽんぽんと叩く。

「やっぱり、お兄ちゃんがいいのかしらね……」

 優菜と愛美は、寄り添いあうような兄妹の後ろ姿を遠くからそっと見守った。


 ――――。


 それからしばらくして、裕太がとことこと、優菜のもとにやって来た。

「ん? どうした?」

「……トイレは」

「ああ、こっち」

 優菜が案内しようと廊下に出て振り返ると、裕太の後ろから美希がついてきていた。


「お前ッ……!」


 それに気づいた裕太はキッと顔を強張らせて、美希を睨みつける。


「いちいちついてくんなよ!」


 裕太の剣幕に、美希は怯えたようにスカートの裾をきゅっと握った。


「こっちくんな!」


 それでも離れようとしない美希を、裕太は力ずくで突き飛ばした。


「あっち行け!」

「――っ!!」

 どてっと転んだ美希はそのまま声を上げて泣き出してしまう。

 一部始終を見ていた愛美がすぐに駆け寄ってきて、美希の相手をする。

「あらあら、泣かないで? んん? よしよし」

 それを見た裕太は少々バツの悪そうな顔をしたが、それでも負けじと突っ張って顔を背ける。

「……ふぅ」

 優菜は困った顔で溜息を吐き、泣きじゃくる美希のことは愛美に任せ、裕太をトイレまで案内することにした。


                ***


 深夜十二時を過ぎ、寝室で裕太と美希に付き添っていた愛美が、少し疲れた表情を浮かべてリビングに戻って来た。ルームライトのぼんやりとした明かりの中、手酌に耽っていた優菜はバーボンの入ったグラスを掲げて声をかける。

「お疲れさん、一杯飲むか?」

「うん、それじゃあ少しだけもらおうかしら」

 愛美はそう言って、優菜の作った水割りに口をつけた。

 二人はほろ酔い加減で、少し話をする。

「結局、二人ともあんまり喋ってくれなかったわね……。裕太くんはともかく、美希ちゃんからもさ? お風呂一緒に入ろうって誘ったら、なんだかすごく嫌がられちゃったし……」

「まぁ、いきなり仲良くなろうったって無理な話だよ。子供はけっこう繊細で、警戒心が強いんだ。時間をかけてゆっくり距離を縮めていくしかないさ」

 溶けかけた氷が、グラスの中でからんと音を立てて揺れる。

「でも、兄妹っていいものね」

「……んん?」

「美希ちゃん、本当にお兄ちゃんのことが大好きみたい。裕太くんにぴったりくっついて離れようとしないのよ。裕太くんの方は、それがちょっと鬱陶しいみたいだけどさ……」

「きっと照れてる部分もあるんじゃないか? 小学校四年生だろ。あの年頃の男の子は、中坊とはまた少し違った気難しさがあるからなぁ」

「フフ。そういえばさっきもね? 美希ちゃん、どうしてもお兄ちゃんと一緒に寝たかったみたいで、同じ布団に入ろうとしてまた泣かされちゃってた」

「あはは……」


 小さく苦笑して、優菜は一つ思い出したように言った。


「そういえば、お前も確かお兄さんがいたよな?」

「うん。だけどうちは八つ違いだから、あんなふうに喧嘩して泣かされることもなかったけど、逆にあんまり仲良く遊んだって記憶もないのよね……。可愛がって貰ってたとは思うけど、お兄ちゃんは昔から優秀で、いっつも色々と忙しそうだったから」

「まぁ、関東一帯を束ねる白鳥グループの跡継ぎだからなぁ。そういう優秀なお兄さんがいてくれたおかげで、お前が今こうして自由にしてられるってわけか」

「うん、そういうこと」

 話が一段落着いたところで、愛美は気だるく欠伸を漏らして立ち上がった。

「私は美希ちゃんと同じベッドで寝るけど、ユウちゃんはどうするの?」

「私はしばらくの間、ここのソファーで寝るよ」

「そう、お酒はほどほどにしてね?」

「わかってる」

「フフ……おやすみなさい」

 愛美は静かにリビングから出て行った。



                ***



 翌日、午後になって中野が探偵社に訪ねて来た。

「どうだ、あいつらの様子は?」

「うーん。まぁ、ぼちぼちかな……」

 優菜はそう言って、小さく顎をしゃくった。

 中野は腕組みをして、邪魔をしないように兄妹の様子をざっと眺めてみる。

 美希は愛美と一緒にぬりえをやっている最中だった。

 まだ表情にぎこちなさは残るものの、それでも一晩過ごしたことで多少は慣れたのか、愛美の問い掛けに答えたり、時折自分から話しかけている場面もみられた。

 それとは対照的なのが裕太で、相変わらず人を寄せ付けない刺々しさを纏ったまま、アニメの再放送をぼーっと眺めている。

「美希の方は、もうある程度順応してきてる。ただ、やっぱり問題は裕太だな」

「うぅむ……あの分じゃあ、まだもう少し時間が必要か」

 優菜は黙ったまま、こっくりと頷いた。

「それはそうと、管理人のことについて色々調べてみたんだがな……」

 中野は封筒から資料を取り出し、優菜に仕入れてきた情報を開示した。

「――大岡源八、五十六歳。既婚暦あり、現在は独身。もともとは青森の出身で、中学を出たあとすぐに上京して下町の工場に勤め出したそうだが、同僚とトラブルを起こし、五年ほどで解雇。それからはひたすら職を転々としていたらしい。かなり短気な性格みたいで、十年ほど前には一度傷害事件を起こして警察に引っ張られてる。結果は懲役一年六ヶ月の実刑判決。それを機に長年連れ添った女房からも逃げられたみたいだ。出所後は居場所を転々としながら酒と博打の泥沼に嵌り込んで行ったそうだ。特に博打の方ではいくつかの消費者金融に借金まで抱えてる」

「ロクでもない男だな」

「ああ、だが面白いのはここからなんだ。別れた女房の話では、酒にイカレちまう前は登山が趣味だったらしい。あの富士山にも登ったことがあるらしいぞ。もともと山奥の出身だったからか、どこかシンパシーを感じる部分があったようだと女房は語っていたが」

「何の情報だよそれ」

 優菜は小さく苦笑した。中野は人差し指をピンと立てる。

「――それからもう一つ、大岡は博打でこさえた百万近い借金を、二年前、たった半年間で綺麗サッパリ返済してるんだ。そして、大岡がここの管理人職に就いたのも二年前……」

「そいつは臭いな」

「ああ、いくら高級マンションの管理人とはいえ、貰える給料は高が知れてる。それに以降、大岡はどこからも借金をした様子がない。とりわけ、博打を控えているわけでもないのにだ」

「……何かあるな。恐らくはそれが、被害者と大岡を繋ぐ唯一の糸なんだろうけど……」

「まぁ、また何か新しい情報が入れば、随時伝える。お前は子供たちの方から、何か聞き出せないか色々と探りを入れてみてくれ」

「うん、それはもちろんそのつもりだよ」


                ***


 ――裕太と美希が探偵社にやって来てから、数日が経ったある日のこと……。


 昼下がりの気だるさに誘われて、ソファーでうとうとしかかっていた優菜がふと目を覚ますと、裕太の姿がない。

 愛美に尋ねると、「あれ、さっきまでそこにいたのに」と首を傾げる。

 トイレではないかと言われ、見に行ったがやはり裕太の姿はなかった。

 俄かに不安が募る。

もしかしたらと思い玄関に向かうと、案の定鍵が開いており、裕太の靴がなかった。

 裕太を探しに下りた優菜は、エントランスホールを出たところで、その後ろ姿を見つけた。


「……」


 強烈な日差しと陽炎の中、裕太は駐車場の隅にぽつんと一人で立っていた。こちらに背を向けた格好なので、優菜のことにはまったく気がついていない様子だ。

 裕太を見つけてほっとしたのも束の間、その様子を見てなんとなく不審に思った優菜は、そのまましばらくのあいだ、隠れて動向を窺うことにした。

裕太はきょろきょろと辺りを窺って近くに人がいないことを確認すると、花壇の植え込みに手を入れて、ごそごそと何かをやりだした。そして、根元の方から取り出した何かをじっとしばらく眺めたのち、また元に戻してエントランスの方に帰って行く。

 裕太がエレベーターに乗って部屋に戻るのを見届けた後、優菜はその場所を探ってみた。


 花壇の土が荒らされている。そこには確かに何かを埋めたような痕跡があった。


 優菜が恐る恐る土を払い除けてゆくと、出てきたのは不透明なビニール袋。中に入っていたのは小型のゲーム機だった。


 優菜は植え込みで見つけたそのゲーム機を持って、部屋に帰る。


 玄関を開けると、愛美が待っていた。


「あ、ユウちゃん! 裕太くん、さっき帰ってきたわよ?」

「ああ、知ってる……」

「ん……? なぁにそれ?」

 優菜は事情を話して、愛美にゲーム機を見せた。

 愛美の話によると、このゲーム機は数ヶ月前に発売された最新型で、子供たちのあいだでは今かなり流行しているとのこと。

「……だけど、どうしてこんな物が花壇に?」

 愛美の疑問に、優菜はわからないと小首を傾げる。

「何かこれを隠したい事情があったのか……」


 と、そこへ――。


「お姉ちゃん、早く続きやろうよぅー」

 トランプを中断されていた美希が待ちくたびれたのか、愛美を呼びに玄関までやって来た。

 そして、優菜の持っているゲーム機にふと目を留め、――

「あ! それおにいちゃんのだぁー!」

 何も知らない美希は優菜の手からゲーム機を掠め取って、裕太のいるリビングの方へと走っていく。

「あっ、ちょっと待って!」

「美希ちゃん!」

 優菜と愛美が引き留めようとするが、もう遅い。

「おにいちゃーん!」

 大好きなお兄ちゃんから褒めてもらえると思ったのだろうか、美希は嬉しそうな笑顔で裕太に駆け寄り、「はいこれ!」とゲーム機を差し出した。

「――っ!?」

 途端、裕太の顔からさーっと血の気が引いていくのがわかった。

 裕太は美希を思い切り突き飛ばして泣かせ、ゲーム機を奪い取ると、勢い良くその場から走り去る。わんわん泣き喚く美希を愛美に任せ、優菜は裕太のあとを追った。


「裕太!」


 しかし、今度は探すまでもなかった。


「――ッ!!」


 裕太は玄関を飛び出したところで、ゲーム機を力いっぱい床に叩きつけていた。乾いた音を立てて、破片が飛び散る。


「……くそっ! くそっ! くそぉおおッ!!」


 憎悪に満ちた表情で、目に涙を浮かべながら、何度も何度もゲーム機を踏みつける裕太の姿からは、何か尋常ならざる気迫が感じられた。


「裕太……」


 もはや原型を留めないほどぐしゃぐしゃに潰れたゲーム機を前に、裕太は頭を抱えて蹲る。


「ァ……アァ……ッ!」


 その細い体は凍えたようにがたがたと青白くなって震えていた。


                ***


 その夜、夕食の席にも裕太は姿を見せなかった。

 お盆を持った優菜は薄暗い廊下を歩き、一番奥の普段二人が衣裳倉庫として使っている部屋の前までやって来た。控えめにノックして、扉越しにそっと声をかける。

「裕太……? 晩飯、持ってきたよ?」

 中から返事はない。裕太はあのあと、この部屋に閉じ篭もってしまっていた。

「ここに置いておくから、落ち着いたら食べなよ……」

 優菜は部屋の前にお盆を置いて、廊下を引き返す。

 脱衣所の方から、美希の声が聞こえてきた。

「もうっ! お姉ちゃんなんか嫌いっ!」

 がらっと扉が開け放たれて、美希が怒ったようにリビングの方へと駆けて行く。

「あっ、美希ちゃん! 待って!」

 愛美が出て来て、優菜とばったり鉢合わせした。

「どうしたんだ?」

 優菜が尋ねると、愛美は弱ったように引きつった笑みを浮かべる。

「いやぁ、ね? 一緒にお風呂入ろうって言ったら、すごく嫌がられちゃって……。それでそのぅ、少しだけしつこく誘ったら、怒らせちゃったみたい」

 優菜はやれやれと嘆息した。

「バカだなぁ。嫌がってるんなら、無理に誘うことないだろう?」

「うん……。だけど、もうすっかり仲良くなれたと思っていたのに、どうしてもお風呂にだけは一緒に入ってくれないのよね、美希ちゃん……」

「何かこだわりでもあるんじゃないか? 子供って結構、潔癖なところがあるからさ」

「うーん……」

 愛美はしょんぼりと肩を落とし、それからふと話を変えた。

「ねぇ、裕太くんの様子はどうだった?」

 優菜は難しい表情で首を横に振る。

「そう……。心配ねぇ。出来ればなんとかしてあげたいけど……」

「あいつが話してくれないことには、な……」

 優菜と愛美は、二人して憂鬱な溜息を吐き出した。


                ***


 深夜の二時を過ぎた頃、例によって優菜が一人、薄暗いリビングで深酒していると、裕太が姿を見せた。泣き腫らしたのか目は真っ赤に充血していて、表情は酷く憔悴している。

「……眠れないのか?」

 優菜が尋ねると、裕太は小さく頷いてそろっとソファーに腰掛けた。

「晩飯は食べたか?」

「うん、食器持ってくる……」

「いいよ。あとで私がやっとくから」

 立ち上がろうとする裕太を引き止めて、優菜は台所に向かった。

「ジュースでも飲む?」

 裕太が背中越しにこっくりと頷くのを確認して、優菜は冷蔵庫を開けた。

 レモネードを作って裕太の前に差し出し、優菜は向かいのソファーに座った。

 そうして裕太が自分から話し出すのを待つ。

 しかしやはり、なかなか言い出し辛いことのようで、裕太は表情に迷いを見せている。


 そこで優菜は少し、自分の話をすることにした。


「――私も昔、母親を殺されたんだ……」


 裕太は驚いたように優菜を見る。


 優菜は薄っすらと自嘲の笑みを浮かべて、自らの過去を語り出した。


「こんなこと、キミぐらいの年頃の子に話すべきじゃないのかもしれないけど……。私の母親は水商売の女で、男をとっかえひっかえ銜え込むようなロクデナシだったんだ。父親は誰だかもわからない。こんな生まれのせいで、小学校時代はいじめられることにもなった。私は母親を心の底から軽蔑してた。それで恥ずかしい話、私はグレたんだよ。中学や高校では不良だと言われてみんなから避けられた。いつも母親が知らない男を連れて来る家に帰りたくなくて、毎日夜の街をぶらついていたら、いつの間にかそう呼ばれるようになってた。愛美と出会ったのはちょうどその頃なんだ。最初は変な奴だなぁと思ったよ。私なんかにくっついて来て、なんだかやたらと楽しそうにしてるんだから……。まぁ、育ちの良い愛美からしてみれば、私みたいなのが珍しかったんだろうな、きっと……。はじめのうちは私も鬱陶しいと思っていたけど、だんだん、あいつといるのが楽しくなって来たんだ。愛美と出会えたことが、私の人生で唯一の救いだったんだと思う……」


                ***


「すぅ……すぅ……」

 トイレに起きた愛美は、隣で寝ている美希の安らかな寝顔を見てふっと頬を緩めた。

 それから乱れたタオルケットを掛け直してやろうと手を伸ばしたところで、美希が寝返りを打った。その際、Tシャツの裾の部分が少し捲れて、ちらりとおへそが見える。


「……ん?」


 美希のお腹には痣があった。なんだか火傷の痕みたいだ。それもまだ、比較的新しい。


 不審に思った愛美はそっと手を伸ばし、美希を起こさないように気をつけながら、Tシャツの裾を捲り上げていく。


「――っ!?」


 それを見た愛美は、思わず目を疑った。


「なに、これ……」


 痣は胸の辺りや背中にも、服で覆われていた部分のほぼ全面にあったのだ。


 よく見ると、中には煙草の火を押し付けられたような痕まである。


 一緒にお風呂に入ろうと誘ったとき、美希が酷く嫌がっていたのは、この痣を見られたくなかったからだと気づく。


 そして、そこから連想されるものを想像した愛美は、悲痛に表情を歪めて、叫びだしそうになる口元を必死で押さえ込んだ――……。



                   第五話「危険なふたり《前編》」おわり

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