第四話「生還への出口」
第四話「生還への出口」
七月も中旬に差し掛かった頃、優菜と愛美は休暇をとって海外旅行を計画した。
愛美の希望によって選ばれた観光地はラスベガス。アメリカ・ネバダ州にある、言わずと知れたギャンブルの都だ。ホテルのほとんどに二十四時間営業のカジノやレストランが併設されていることから、俗に〝眠らない街〟とも呼ばれている。
ラスベガス郊外にあるマッカラン国際空港に到着した二人は、さすがというべきか空港の中でさえスロットマシーンが置かれていることに目を丸くした。早速手を伸ばそうとする愛美を引っ張って、優菜は先に荷物を置くため、予約したホテルを目指す。
空調の利いた建物を一歩出ると、燦々と照りつける灼熱の日差しが二人を待っていた。アスファルトの地面は焼けつき、ヒーターのようになっているらしい。辺りからはもうもうと眩暈のしそうなほど陽炎が立っていた。
「あっつぅ~」
手で目元を翳しながら電光掲示板に表示された気温を見る。愛美は驚いたように言った。
「只今の気温43℃だってよ、日本より暑いじゃない」
「今さらナニ言ってんだよ」
やれやれと肩を竦め、既にサングラスと日焼け止めで紫外線対策ばっちりの優菜は、予め読んでおいたパンフレットの受け売りを話した。
「例年七月の平均気温は40℃だってさ。ラスベガスは砂漠気候だからな。まぁそれでも湿度が低い分、そこまで不快じゃないだろ?」
「いわれてみれば、確かに暑いけど肌触りはさらっとしてるわね」
二人はタクシーを捕まえ、街のほぼ中心部に位置する高級ホテルにチェックインした。
部屋は二階の203号室。
荷物を置くと、それから念入りに身支度を整えた。
優菜は情熱の赤、愛美は純潔の白、色違いのカクテルドレスはこの日のために誂えたオーダーメイド品。化粧は場所柄に合わせ普段よりも少し濃い目に、指輪やネックレス、イヤリングやブレスレットなど、きらきらとしたアクセサリー類も一通り身につける。
すべての準備を整えたとき、ちょうど辺りは暗くなり始め、色とりどりの派手なネオンが悪戯に心を掻き立てるような雰囲気を作り出していた。
「なんだかワクワクするね」
そう言った愛美の足元は小さく弾んでいる。
「今日は派手に遊ぼうぜ?」
優菜は悪戯っぽくウィンクして、愛美と仲良く手を繋いだ。
二人はまず手始めに、ホテル備え付けのカジノに赴く。一通り中の様子を見て回ると、そこからは各々好きなゲームに興じた。
優菜は手堅く初心者向けのスロットゲームを選んだ。自分から派手に遊ぼうなどと言っておきながら、いかんせん根が真面目である彼女は、手持ちの金子を使って適度に遊び、適度に負けた。悔しさは残るものの深入りはせず、愛美の様子を見に行くことにする。
愛美はテーブルに着いてルーレットをやっていた。
「どうだ調子は?」
声をかけると、愛美は台の上から目を離さないまま、「これからが本番よ」と強気に答える。どうやら今のところ成果は上がっていないようだ。
ディラーがホイールを回転させ、弾を投げ入れる。
「戦法は?」
「ゼロの一点張り」
「一枚賭けかよ」
ルーレットには1~36の数字があり、それぞれランダムに赤と黒に塗り分けられている。ベット(賭け)の仕方としては赤か黒、奇数か偶数かに賭けるものから、複数の目に賭けるものまで様々なパターンがあり、配当率はその確立に比例する仕組みだ。中でもある唯一の数字が出ることに賭ける〝一枚賭け〟と呼ばれる手法は、まさにギャンブルの真髄ともいえる。当たったときの儲けは大きいが、確率はかなり低い。所謂、大穴狙いというやつだ。
優菜はゼロの枠にベットされた額を見る。愛美は大胆にも千ドル分のチップを賭けていた。
「何回外したんだ?」
「まだたったの三回よ」
日本円にして三十万円近い金額が既に泡と消えていた。優菜は呆れて頭を抱える。
「馬鹿だなぁ、もう……。トーシローのくせにやる事が無茶なんだよ」
愛美は真剣な表情で、耳を貸さない。
「今度こそは絶対に当たるんだから!」と、根拠のない自信に満ち溢れていた。
優菜は達観した目つきで、成り行きを見守る。
ディラーがベットの終了を宣言し、ベルを鳴らした。
勢いを失った球がポケットに落ちる。銀色の球体が安息を得たのは赤でも黒でもなく、奇数でも偶数でもない、――緑のゼロだった。
「やったぁー!」
喜びの声を上げる愛美。その場にいた紳士、淑女から俄かにどよめきの声が沸き立つ。
配当は三十六倍。ふふ~んなどと鼻歌を浮かべながら三万六千ドル分のチップを抱え込み、愛美は得意げな表情で衆目を集めた。
面白くないのは優菜である。世の中は不公平だと、やり場のない憤りに駆られる。
「そういえばユウちゃん、あなたの儲けはいくらかしら?」
白々しく訊いて来る愛美。「ゼロ……」と唇を尖らせて、優菜はいぢけてしまう。
冗談よと、愛美は優しく笑った。
「ユウちゃんは人を騙すのが得意なんだから、もっと頭を使うゲームがいいんじゃない?」
「人を騙すのが得意って……」
「ポーカーとか、ルール知らない?」
「いや、ルールは知ってるけどさ、あたしは英語がわかんないんだよ……」
「もう、それならそうと早く言えばいいのに。私が一緒について通訳してあげるから、行きましょう? ほら、いつまでも拗ねてないで」
愛美に手を引かれ、優菜はしぶしぶといった様子で該当のテーブルに着く。
ポーカーフェイスと心理戦に長けた優菜はやはり強かった。快勝を重ね、儲けも重ねると、すっかり機嫌は元通り。
頃合を見計らって引き上げ、二人はホテルの一流レストランで優雅に夕食を取った。
休憩がてらに噴水ショーやリサイタルなどのアトラクションを楽しみ、今度は外のカジノハウスでも回ろうかと、お祭り気分で街へと繰り出す。
夜のラスベガスは大勢の人々で賑わっていた。派手な車に、派手な格好をした人々。異国情緒たっぷりの雰囲気に酔い、アルコールも入ったことでいよいよとその興奮に拍車が掛かった優菜と愛美は、煌びやかな電飾の光に誘われるがまま、大風呂敷を広げて豪遊する。
――二人がホテルに戻ったのは、深夜三時を過ぎた頃だった。
「ふぅ~」
愛美はベッドの端に腰を掛け、疲労の乗った溜息を吐く。
「今日はいっぱい遊んだねー」
優菜はドレスを脱ぎながら、少し苦笑した。
「初日からちょっと飛ばしすぎたかもな」
「ねぇユウちゃん、明日は何して遊ぶー?」
「まだ五日はこっちにいるんだから、そう焦るこたぁないだろ。明日になってから考えよ?」
「それもそうねー」と愛美は大きく伸びをしながら、ベッドの上にごろんと転がった。
優菜がそれを窘めるような口調で言う。
「ちゃんと着替えて、シャワーを浴びてから寝ろよ」
「はーい」
愛美は暢気に返事をして、それからふと何か思い出したように紙袋を手に取った。
「そうそう、さっきお店の景品コーナーでね? ちょっと面白い物を見つけたのよ」
「んー?」
優菜は備え付けの冷蔵庫からブランデーを取り出しつつ、いい加減な返事をする。
ジャジャーンと、愛美が取り出したそれは怪しげなガラクタだった。
「なんだそりゃ?」
「盗聴レシーバーだってさ」
案の定、いかにも胡散臭そうな代物であることが分かり、優菜は呆れた表情をする。
「また妙なものを……」
愛美は好奇心に満ちた目をして、付属の説明書を読み漁った。
「電話でのやり取りを盗聴するんですって。録音も出来るらしいわよ、コレ。ちょっと試しにやってみましょうか?」
「いいよ、別に」
ごそごそやり始める愛美を尻目に、優菜は水割りを作り、夜景でも見ようかと窓を開けてベランダに出た。
「あら? どこかで火事があったみたい」
早速どこかの通話を盗聴したらしい愛美が、後ろの方でそんなことを言う。
「ねぇ、そこから煙とか見えない?」
優菜はグラスに口を付けつつ、ベランダから適当に辺りを見渡した。
「別に何も……」
言いかけたとき、どこかで悲鳴のような声が聞こえた。
何か大きくて重たい物がゴーッと風を切る音。
なんだろうと不審に思った次の瞬間――。
気づくと目の前に〝見知らぬ女〟が居た。
「――」
途端、心臓が凍りつき、全身の肌が総毛立つ。
女は長い髪の毛を一本残らず逆立たせ、酷く歪んだ形相をしていた。驚愕に見開かれたその瞳孔。不意に目が合い、優菜は茫然と言葉を失う。
そして突如として現れたその女は、また一瞬のうちに姿を消した。
ぺたんと腰を抜かす優菜。決定的瞬間を見逃した愛美が、あっけらかんと尋ねる。
「……ユウちゃん? どうしたの?」
――どん、どん、どん、どん!!
突然、入り口のドアが激しくノックされた。
扉の向こうから、尋常ならざる雰囲気を纏って男の声が呼びかけて来る。
「な、なに……?」
優菜は慄いて、愛美のそばにぎゅっと身を寄せた。
「なんだか知らないけど、開けてくれって言ってるみたいよ」と愛美が通訳する。
『すみません!! 開けてください!! お願いします!! 開けてくださいッ!!』
二人は恐る恐る近寄って、中から扉を開いた。
『夜分遅くにすみません! 隣の、203号室の者です!』
血相を変えたその男は物凄い勢いで捲くし立てた。
『連れの様子が変なんです! すぐフロントに連絡を! 702号室のマスターキーをお願いします! 私は先に行っていますから、お願いします!!』
一方的に言い残し、男は慌てて廊下を駆けて行った。
英語のわからない優菜が、再び愛美に通訳を求める。
「お、おい、今の男、何て言ったんだ……?」
「なんでも友達の様子が変だから、フロントに連絡して鍵を貰ってきて欲しいって……」
そのとき、再び悲鳴が――。
「……!」
今度は階下から上がったものだとはっきり分かる。
優菜は部屋を飛び出した。
「ちょ、ちょっと待ってよ! ユウちゃん!」
愛美も慌ててあとを追い、二人は階段を駆け下りる。
「アイ、お前はフロントに行け! あたしは表を確かめて来る!」
「え、ええーっ!?」
ロビーを走り抜け、玄関の自動ドアをくぐって外に出ると、人だかりが出来ていた。通行人たちは何事かをざわめきあっていたが、優菜は言葉が分からない。
人込みを掻き分けて騒ぎの中心を見ると、人が倒れていた。さっきの女だ。
女はぐったりとしていて、アスファルトの上にはドス黒い血がいっぱいに広がっている。既に息をしていないことは明白だった。
***
地元の警察が到着し、優菜と愛美も一応は事件関係者ということで話を聞かれた。二人はそこで自分達が日本で探偵をやっていることを明かし、捜査の協力を申し出る。もちろんにべもなく断られたが、上手く理由をつけて言い包め、とりあえずは現場検証に立ち会うだけの許可を得る。迷惑そうに顔を顰められながらも、二人は現地の捜査員に付き添われ、被害者の女性が宿泊していたという702号室に案内された。
現場を仕切っていたグレゴリー警部という巨漢に挨拶を通す。
警部は事情を聞くと眉をひそめ、二人を見下したように睥睨した。立派な顎鬚に手をやりながら「余計な真似はするなよ」と釘を刺す。愛美はグレゴリーの威圧的な態度を見て、優菜に耳打ちした。
「どこの国でも、刑事って皆あんな感じなのねー」
「フフ、そうみたいだな」と優菜も誰かさんを思い出して笑った。
――被害者は日本人観光客の柏原みゆき(29)
状況から判断して、被害者は七階にあるこの部屋のベランダから、二十メートル下の地面に転落したものと推測される。部屋の扉にはオートロック機能が付いており、事件当時は完全に密室の状態だったという。部屋が密室であったことに関しては、愛美も証人の一人だった。
「フロントで係員の人にマスターキーを持って来て貰ったあと、私も一緒に部屋へ入ったの。確かにそのとき、鍵はテーブルの上にあったわ……」
優菜は部屋に入るとまず、室内の様子をざっと全体的に見渡した。
室内に荒らされた形跡はなく、外部から何者かが侵入した可能性は低い。
ベランダも特に変わった様子はなく、これといった異常は見当たらなかった。
優菜が何気なく目を留めたのは、クーラーのリモコンだった。本体は停止しているが、画面に表示された冷房の設定温度は16℃になっている。
「ユウちゃん、ちょっとこっち来て」
愛美がクローゼットから鞄を発見した。
『おい、勝手に触るな!』
グレゴリー警部が厳しい口調でそれを咎める。愛美はぺらぺらと何か言って警部を宥めたあと遠慮なく中を検めた。鞄からは化粧品や生理用品などが出て来る。
「被害者の持ち物みたいね」
「……」
「どうかしたの、ユウちゃん?」
優菜は肯定とも否定ともつかぬ表情で少し考え、曖昧に首を振った。
それから二人は一見して事件とは関係の無さそうなところまで注意深く見てまわる。
バスルームの扉を開く優菜に、愛美が意見した。
「お風呂場なんて調べても、あんまり意味はなさそうだけど」
からからと音を立てて換気扇がまわっている。
優菜はバスルームの床がびっしょりと濡れているのを見て、にわかに首を振った。
「いやぁ、そうとも限らないぜ? 謎を解くための鍵っていうのは、こういう意外なところにこそ転がっているモンだ」
バスルームに続いてトイレを見たとき、優菜はあることに気がついた。
しばし何か思案するようにつんとした唇を触る。
「アイ、ちょっと頼みたいことがあるんだ――」
頼まれた愛美は適当に見繕った男性捜査員を一人、トイレまで連れて来る。
優菜は通訳担当の愛美を介して、彼に尋ねた。
これを見て何か気づくことはないか、というのだ。
男性捜査員は少々怪訝そうにしながらも、これと示された便器の方をじっと見て、事も無げに答えた。
『別に変わったところはないよ』
優菜が実験に付き合ってくれたお礼を言うと、彼はさっさと自分の持ち場に戻って行く。
例によって愛美が尋ねた。
「今ので何がわかったの?」
「お前はこれを見て気づかないのか?」
愛美はううんと首を振る。
「どこがおかしいのかは分かるわよ? 私が訊きたいのは、だから何なのっていうこと」
「ふふふ、それはまだこれからだ」
優菜ははぐらかすように笑うと、トイレに備え付けてあるゴミ箱の中身が空であることを確認し、今度は部屋中のゴミ箱を漁ってまわる。
野良犬みたいだなと他の捜査員たちから揶揄されながらも、二人は確認を終えた。
――そんな折、
「どうも、先ほどは失礼しました……」
別の捜査員に付き添われ、一人の男がやって来た。
「私は南郷恭介といいます。お二人とも、日本の方だったんですね。この度は連れの者がとんだご迷惑をおかけしてまって、本当に申し訳ありません」
男はそう言って丁寧に会釈する。二人も挨拶を返した。
「栗原優菜です」
「白鳥愛美です」
それぞれ簡単に自己紹介を終えたあと、優菜が切り出した。
「少々お伺いしたいことがあるんですが、お時間よろしいですか?」
「ええ、構いませんけど?」
「それじゃあ……」
傍らに立っていたグレゴリー警部が威圧的な咳払いをする。邪魔だからさっさと出て行けと言わんばかりの形相だ。愛美がにっこりと会釈をして返す。
優菜は苦笑して、南郷に提案した。
「場所を変えましょうか?」
***
三人はロビーのソファーに腰を下ろし、改めて顔をつき合わせた。
「――それで、私に聞きたいことというのは?」
南郷の方から切欠を得て、優菜は用件を話し出す。
「事件のことで、いくつか質問を。まずはあなたと被害者の関係から……」
南郷は苦笑した。
「なんだか刑事みたいなことを言いますね」
「いえまぁ、刑事ではないんですけどね?」
優菜は妙に勿体つけた間を置いて、素性を明かした。
「実は私たち〝探偵〟なんですよ」
途端、真顔になる男。
「……探偵?」
愛美は頷き、得意げに説明した。
「一応私たちも関係者ですし、警察の方にお話ししたら、是非とも捜査に協力して欲しいと頼まれましてね? いやぁ~、まったく困ったものですよ」
どうぞ、と優菜はこれ見よがしに名刺を差し出した。
「……」
おずおずと受け取った南郷の表情は、僅かに引き攣っている。
「驚かれました?」
男は思い出したように社交的な笑みを取り繕った。
「はぁ。ドラマや映画なんかではよく見かけますが、現実にそういった職種の方とお会いしたのは初めてなもので……。しかも、あなた方のように若くてお美しい女性とは……」
愛美は照れたように身をくねらせ、「何か有事の際はお気軽に利用してくださいね」とちゃっかり営業した。南郷はお愛想笑いで答える。
「あの、それで」と優菜が先を促すように言った。南郷は改まる。
「すみません、私と柏原の関係についてでしたね」
「まぁ正式な尋問ではありませんから、そう畏まらず」
「はい……」
それから南郷は膝を正したように改まって、供述を始めた。
「私はメディアプランナーの仕事をやっておりまして、死んだ柏原は私の秘書なんです」
「秘書、とういうことは社長さん?」
「ええ、まぁ一応。そんな大それたものじゃありませんけどね」
南郷は懐から名刺を取り出し、二人の前に差し出した。
「南郷コンサルティング……?」
会社の所在地を見た愛美が驚いたように言う。
「新宿代々木二丁目って、ウチのご近所じゃないですか」
南郷の方も受け取った名刺を確認し、YOU&I探偵社の所在地を知った。
「あ、ホントだ」
「世の中って案外、狭いものですねー」
「……はぁ、全くです」
「今回、こちらへはお仕事で?」
「いえ、プライベートです。休暇を取って観光に……」
「少々立ち入ったことを訊きますが、その、あなたと柏原さんは付き合ってらっしゃったんですか?」
「いえ、誤解しないでください。私と彼女はあくまでも仕事上の付き合いです」
「しかしですね、一般的に考えて、社長の観光旅行に秘書がついて来るというのは中々珍しいことなんじゃありません?」
「実を言えば、今度の旅行はもともと彼女のためにセッティングしたものだったんです」
「というと?」
「彼女、来月でこの仕事を辞めることになっていたんですよ」
南郷は表情に寂寥の思いを滲ませながら、しゅんとして語った。
「柏原くんは私にとって気心の知れたパートナーでした。五年前、私が今の会社を設立した当初から、ずいぶんとお世話になりましたよ。彼女はよく働いてくれましたから、せめてもの感謝を込めて、私が誘ったんです。……それがまさか、こんなことになるなんて……」
愛美が慰めるように声を掛ける。
「あんまり気を落とさないでくださいね」
「はい、すみません……」
優菜は気にせず、サバサバとした調子で話を進めた。
「こっちに着いたのは、いつ頃ですか?」
「今日です。ホテルに着いたのが、大体昼の三時前後だったように記憶してます」
「それからの行動は?」
「チェックインをしてからしばらくの間は、お互い部屋で自由に過ごしていました」
「そういえば、あなたの部屋は私たちと同じ二階でしたね。柏原さんの部屋は七階……部屋を分けるのはわかるんですけど、どうしてこんな離れた位置に?」
「別に意味はありません、ただ予約をしたときに開いている部屋がそこしかなかったもので」
優菜が納得すると、南郷は話を続ける。
「夕方になって私が食事に誘い、レストランで夕食を取ったあとはそのままカジノに。それから二時間ほど遊んで、今度はバーに行きました。そこで思い出話に華を咲かせたりなんかしているうちにすっかり夜も更けてしまい、彼女が大分酔ってしまったんで、私が部屋まで連れて行ったんです」
「連れて行ったというのは、彼女の部屋にですか?」
「ええ、もちろんです。彼女を部屋で休ませたあとは、私も自分の部屋に戻りました。――それから一時間ほど経って、電話が……」
「電話?」
「彼女からです」
内容を尋ねると、南郷の表情に厳粛な翳が落ちた。
彼は真に迫った表情をして、物々しく語る。
「酷く沈んだ声で〝お世話になりました、さようなら〟と……」
驚く優菜と愛美。
「それはまた、随分と唐突な話ですね」
優菜の反応に、南郷も同意を示した。
「ええ、私もどういうことなのか尋ねようとしたんですが、彼女は一方的にそれだけ言うと電話を切ってしまいました……。それで何か只ならぬ気配を感じた私は、彼女の様子を確かめようと急いで部屋を飛び出したんです」
二人の部屋を訪れるまでの経緯を一通り話し終え、南郷は意見を請うた。
「やっぱり、自殺でしょうか?」
「どうしてそう思うんですか?」
「さっき警察の人にお話したら、そんなことを言われたもので」
優菜は腕を組んだまま、ウーンと唸る。
「そうですねぇ……今の話を聞く限りでは確かにその線が強いかと思います」
「……なんて馬鹿なことを」
南郷は悔しそうに吐き出して頭を抱え込んだ。
「何か心当たりはないんですか?」
愛美の問いに、南郷は首を振る。
「わかりません。ただ秘書というのは大変な仕事ですから、彼女が何かストレスを溜め込んでいたのかのもしれません。もしそれが原因だとすれば、上司である私の責任です。柏原くんの苦しみに気づいて上げられなかった自分が不甲斐ない……」
南郷の顔色を見て優菜は伺いを立てる。
「あなたも随分とお疲れのようですね」
「いえ、私は大丈夫ですよ……」
愛美は優しくかぶりを振った。
「無理もありません。今日はこの辺にしておきましょう。今晩はゆっくり休んでください」
「すみません……」
「お付き合い頂いて、ありがとうございました」
優菜と愛美は愛想良くこうべを垂れる。
そうして席を立とうとしたとき、優菜は一つ思い出したように付け加えた。
「あ、そうだ、ちなみに南郷さん。――酔った柏原さんを運んだとき、彼女の部屋のトイレを使いましたか?」
「トイレ? どういうことですか?」
「いえ別に大したことではないんですけど……使いました?」
南郷は少し考えてから首を横に振る。
「いえ、使ってませんけど……」
「そうですか」
怪訝そうにする南郷。
「あの、それが何か重要なことなんですか?」
優菜は何やら含みを持たせて答えた。
「実は、もし使っていたら大変なことになるんです。念のためにもう一度訊きます、本当に使ってませんよね?」
「……は、はい」
「ホントにホント?」
「ええ」
「確かですか?」
南郷は苦笑した。
「くどいですよ」
「すみません。だけど安心しました。質問は以上です」
「あの、今の質問の意味は、答えていただけないんですか?」
優菜はどことなく攻撃的な笑みを作って答える。
「――それは次の機会にお話します。それではまた。おやすみなさい」
南郷の表情に謎を残したまま、二人は去って行った。
***
「犯人はあの男ね」
ロビーで南郷と別れたあと、エレベーター待ちの合間に愛美がそんなことを言い出した。
優菜はふと意外そうな顔をして尋ねる。
「どうしてそう思うんだ?」
「さぁ知らない。私にはあの人の考えてることなんて全然わかんないもの」
「なんだよそれ」
見事な肩透かしを食らわせたあと、愛美は付け加えた。
「だけどユウちゃんが考えていることなら分かるわ」
「……ん?」
不思議そうな顔をする優菜に、ふふふと笑いながら愛美はのたまった。
「――ユウちゃんは犯人の心を読むプロかもしれないけど、だったら私はユウちゃんの心を読むプロよ。隠したってダメ。あなたの考えてることなんてお見通しです」
ビッと鼻っ面を指差され、優菜は弱ったように頭を掻いた。
「かなわねーな、まったく……」
「今度の事件、本当は殺人なんでしょう?」
優菜は観念したように頷く。そのときちょうどエレベーターの扉が開いた。
「もう一度、被害者の部屋に行こう。一つ確認しておきたいことがあるんだ」
「ワケは話してくれるんでしょうね?」
「まぁ、追々な」
再び七階を目指し、まだ警察関係者が出入りしている部屋まで赴くと優菜は遺体を見せて欲しいと言い出した。愛美が流暢な英会話で捜査員と交渉する。
さすがに遺体そのものを見せてもらうことは出来なかったが、写真を借りることが出来た。
「……」
優菜は写真に写った被害者の遺体を見て、何かを確かめた。
***
一夜明けて、優菜は愛美に自らの推理を話した後、一つ実験をしてみることを伝えた。
「南郷には被害者が転落したとき、自分の部屋に居たというアリバイがある。証人は他ならぬ私たちだ。被害者が転落してから、あの男が私たちの部屋に来るまでの時間は、およそ二十秒前後……」
「その間に犯行が可能かどうかを、これから検証するのね?」
優菜はこくんと頷いた。
「そこさえ崩せれば、解決は一気に近づくんだが……」
――――。
愛美を自分達の部屋で待機させ、優菜は被害者の宿泊していた部屋の前まで来ると腕時計を確認した。秒針が頂上に到達するのを待ってから、勢い良く走り出す。
階段を使って五階分の段差を一気に駆け下り、自分たちの宿泊している部屋のベランダまで駆け込んだところでタイムを見る。
掛かった時間は約二分半。男女の体力差という面を差し引いても、二十秒前後でこれを行うことは不可能だ。
「エレベーターを使ったのかも」
愛美の意見に、優菜は難しい顔をして首を捻る。
「……確かにエレベーターを使えば時間を短縮出来た可能性はある。だけどその逆だって考えられるんだ。いざ乗ろうとしたとき運良く籠が七階に止まってるとは限らないし、途中の階で他の宿泊客が乗り込んで来るかもしれない。これが計画的犯行だとすれば、当然その程度のことは想定していたはずだから、やっぱり階段を使ったと考えるのが妥当だろ」
「だったら何か仕掛けをして、時間差で被害者を落としたってことは?」
「いや、ベランダにそんな細工をしたような跡はなかった。――だとすれば、やっぱり被害者は自らの意思であそこから飛び降りたって線が有力になるんだよな……」
優菜は頭を悩ませる。そこで一つ視点を変え、愛美に意見を求めた。
「アイ、お前は何か気づいたことないか?」
「え? 私?」
優菜は期待を込めて頷く。
「お前は事件の起こった直後に、一度彼女の部屋に入ってる。そのときに何かおかしなところはなかったか、よく思い出してみてくれ」
そう言われた愛美は唇を軽くへの字に曲げ、じっと考え込むポーズを取る。
「ウーン、そうねぇ」
しばらく考えたのち、そういえばと愛美は口を開いた。
「事件と関係があるのかはわからないけど、部屋の壁が少し湿っていたの」
「壁が湿ってた?」
こくんと頷き、愛美はそれを説く。
「たとえば、梅雨の時期なんかに窓の内側がしっとり濡れていることってよくあるじゃない? ちょうどあんな感じよ」
「ふーむ、そいつはちょっと妙だな……」
「何が?」
要領を得ない愛美に、優菜は少しもどかしげな口調で説明した。
「言っただろう? この辺りは砂漠気候だって。空気は乾燥してるんだよ。自然にそんな現象が起こった可能性は低い……」
「バスルームを使ったんじゃないかしら?」
優菜はそれだと言うように、ピンと人差し指を立てる。
「確かに浴室の床は濡れてた。だけど、そうなるとまた新たな疑問が湧いてくるんだよ。――誰が、一体何の目的で浴室を使ったのかって……」
「そりゃあ被害者じゃないの?」
「何のために?」
「体を洗うためでしょ?」
さも当然のように答える愛美。優菜は自信を持って首を振った。
「それはちょっと考えにくいな」
「どうしてよ?」
「――遺体は化粧をしてたんだ。彼女が体を洗う目的でバスルームを使ったとすれば、一度化粧を落としたあと、また化粧をしたことになる。おかしいだろ?」
「ウーン、そっかぁ……」
愛美は何やらもぞもぞと露出した肩の辺りをさすっている。
「ねぇ、なんかちょっと寒くない?」
「……」
優菜は答えず、愛美の反応をじっと窺っていた。
愛美は空調を操作しようと、リモコンを手に取る。冷房の設定温度が16℃になっていた。
「あー、もうユウちゃんねー、こんなに温度低くしたの! 体に悪いじゃない」
ピッ、ピッ、ピッと設定温度を上げる愛美に優菜は言った。
「実はそれも謎の一つなんだよ」
「え?」
「――被害者の部屋も今と同じようになっていたんだ。もともとホテル側が設定していた温度は25℃だったから、誰かが設定温度を10℃近くも下げたことになる。ここでまた話は気候のところに戻るんだけど、砂漠気候には気温の高低差が著しいっていう特徴があるんだ。夏は猛暑だけど、冬は逆に氷点下まで冷え込む。だから大体この辺の建物はみんな、空調完備で機密性が高く作られているはずだ。つまりエアコンが効きやすいんだよ。それに16℃っていうのは、常識的に考えても低すぎると思わないか?」
「でも、そういうのって個人的な基準でしょ? それに欧米の人なんかは結構ズボラなところがあるから、そんなにおかしなことでもないんじゃないかしら?」
「被害者は日本人だぜ? それに社長秘書っていうくらいだから、かなりきっちりした性格だったらしい。彼女のバッグを調べたときも、中身は几帳面に整理されてた。そんな人間がただ暑いからという理由だけで、こんな浅はかなことをすると思うか?」
「それじゃあエアコンの空調を下げたのも、何か他に理由があったからだっていうの?」
「まぁ、その理由が解れば苦労はしないんだけどな……」
***
二人はそれから裏づけのために、各所をまわった。
昨日の行動が南郷の供述通りかどうかを順々に聞き込んで行く。
昨夜、被害者と南郷が訪れたというレストラン、カジノ、バーではおおよそ供述通りの証言が得られた。
フロントを訪ね、チェックインの記録も見せてもらったが、特に変わった点はない。
予約名簿に記された名義は702号室、203号室共に〝Kyousuke Nangou〟となっている。
「……」
しかし館内の通話記録を調べてもらった結果、彼の供述とは相違する箇所を発見した。
供述では被害者から南郷に電話があったとされていたが、実際は逆だったのだ。
南郷の方が被害者に電話をかけている。
係員にいくつか質問した後、二人は自分たちの部屋に戻った。
***
日が暮れ始め、ラスベガスの街並みが活気づいてくる頃。
優菜はベッドに寝そべってぼんやりと考え事をしていた。内容はもちろん事件のことだろうなと愛美は思う。
愛美は先ほどからそわそわと落ち着かない。何度か迷った末、優菜に伺いを立てた。
「ねぇユウちゃん、今日は遊びに行かないの?」
優菜は天井を見つめたまま、気のない返事を返す。
「私は部屋にいるよ」
大方予想通りの反応に、愛美は落胆の溜息を吐き、それからごにょごにょと小さな声で不満を漏らし始めた。
「そりゃあ事件の解決も大事だけどさ、せっかく旅行に来たんだし……」
「んー? 何か言ったか?」
「もうっ、いいわよ! 私も部屋にいる!」
「な、なに怒ってんだよ……」
優菜は困った顔をして言った。
「アイ、お前は遊んで来てもいいぜ?」
「どうせ一人じゃつまんないもの……ユウちゃんのばか」
愛美がふて腐れていると、電話が鳴った。
受話器を取って、用件を聞いた愛美はつんとした態度で優菜に伝えた。
「フロントからよ。国際電話だって」
「繋ぐように言ってくれ」
愛美は指示通りの通訳をすると、ベッドから起き上がって来た優菜に電話を代わった。
「――ああ、栗原です。……なんだ、もう調べてくれたのか? フフ、さすがに仕事が速いね。うん、……うん……それで首尾は?」
優菜は電話越しに、なにやら数分ほど親しげな口調で話し込む。
「……そうか、わかった。それじゃあまた。失礼します」
最後だけ丁寧に言って受話器を置くと、愛美が意外そうな顔をして言った。
「ユウちゃんにわざわざ、旅行先にまで電話してくれるようなお友達なんていたの?」
「失敬だなぁー。それじゃあまるで、私が友達いない奴みたいじゃん。まぁ別に、今のも友達じゃないけどさ……」
「誰から?」
「城南署の中野だよ。南郷と被害者のことを調べてくれるように頼んでおいたんだ。ちょうど南郷のやってる会社は、あいつらのテリトリーだしな」
「それで? 何か判ったの?」
「ああ、これで動機はハッキリした」
さてと膝を叩いて立ち上がった優菜は服を着替え、愛美を誘った。
「アイ、夕食に行こうか? ついでに今聞いたことも話すよ」
***
「――問題は、どうやって殺したかだ……」
夕食を終えた二人は、証拠を求めて再度被害者が宿泊していた部屋へと向かう。
途中でばったりグレゴリー警部と出くわした。
警部ははじめ胡散臭い笑顔で近づいてくる二人を見ると、あからさまに嫌な顔をした。
しかし優菜と愛美が独自に掴んだ根拠を開示し、それを基にした推理を話すと驚いたように目を丸くする。『私は君たちを少し誤解していたようだ』とそれまでの態度を謝罪し、『改めて捜査に協力をお願いしたい』とグレゴリー警部は警察の掴んだ情報をいくつか教えてくれた。
――まずは、ベランダの柵から被害者の指紋が検出されたということ。
これは被害者が自らの意思によって柵を乗り越えたことを決定付けるものだった。
そして優菜が着目したのは、事件当時、隣の部屋にいたという滞在客からの証言である。
被害者の部屋の方から何かキーンという高い音が聞こえていたらしい。
音が聞こえていた時間は大体、深夜の二時頃から三時頃までの間。南郷に付き添われた被害者が部屋に戻ってから、転落するまでの時間とほぼ一致する。
グレゴリー警部が今日こうして足を運んだのも、実はその音の正体を確かめる為だという。
証言者の男性にもご足労願い、一同は件の702号室に入る。
グレゴリー警部は音を聞いた張本人に尋ねた。
『キーンという音の他には、なにか聞こえませんでしたか?』
男性は「OH……」と呟き、しばらく逡巡する。
『そういえば、微かに水の滴るような音が……』
優菜は先頭を切って、バスルームの扉を開いた。
蛇口を捻ってシャワーを出す。
「うーん、別に変な音はしないわね」
「……」
温度調節のハンドルに目をつけ、試しに操作してみる。
適温である40℃のところにあわせられていた目盛を、一度下限の20℃まで下げてから、今度は上限の60℃に向けて徐々に上げてゆく。
そしてハンドルを上限の60℃までまわしきったとき、水が沸騰したことを伝えるヤカンの笛のような音が壁際から漏れ始めた。
証言者の男性がハッとした表情で言う。
『この音です!』
グレゴリー警部が再度確認を取り、男性は間違いないと頷いた。
「たぶん、ボイラーか何かの部品が弛んでるんじゃないかな」
優菜はそう言ったあと、60℃まで上げた目盛を一旦50℃まで引き下げる。
すると音は再び鳴を潜めた。
愛美とグレゴリー警部は、それからじっと考え込む優菜の動向に注目した。
事情をよく知らない証言者の男性だけが、少し戸惑った表情を見せている。
「……」
――二階と七階に分かれた部屋、低すぎるエアコンの設定温度、高すぎるシャワーの温度、オートロック機能、そして、南郷が被害者にかけた内線電話……。
何かあと一歩で、すべてが繋がりそうな予感がしていた。
***
被害者の部屋を出たあと、エレベーターに乗って自分たちの部屋に帰る二人。
優菜は終始物思いに耽った表情で、いかにも心此処に在らずといった様子だった。
「なんだか、もどかしそうね?」
愛美が苦笑まじりに声をかけると、優菜はこっくり頷く。
「もう喉のところまで出掛かってるって感じなんだけどな……」
不意にエレベーターが停まって扉が開く。カップルが立っていた。
「あ、ほら着いたわよ?」
優菜を促し、愛美はエレベーターを降りる。二人と入れ違いにカップルが搭乗し、籠は再び下がって行った。
部屋の前まで行き、鍵を取り出す。
しかし、――
「あれっ?」
鍵が穴に上手くささらない。
愛美がもたもたやっていると、優菜が呆れたように言った。
「なにやってんだよ……ったく不器用だな」
「違うのよー、おかしいわこれ」
「そんなわけないだろ。ほら、貸してみろ」
やれやれといった表情で優菜が代わるが、やはり鍵はささらない。
そこで愛美は、はたと気がついた。
「あれっ? ――っていうか、ここ……」
よく見ると、扉のプレートに記された番号が302となっている。二人の部屋は202号室。
廊下の途中にあった案内図を見ると、やはりそこは三階だった。
「ユウちゃん、私たちどうやら一つ上の階でエレベーターを降りちゃったみたい」
愛美はちょっぴり恥ずかしそうに言って笑った。
「ホテルに泊まっていると、よくこういうことがあるのよね。ホテルってさ、大体どの階も同じような構造をしているでしょう? 廊下側には窓もないし、ややっこしいのよ」
そのとき、優菜の脳裏に電流が走った。
〝――!!〟
来た。脳内が収縮してゆくようなあの感覚。
開放感と同時に軽い立ち眩みを覚えて、優菜は額を押さえ込む。
「……ユウちゃん?」
怪訝な顔をする愛美に、優菜は一呼吸置いてから清々しい笑みを向けた。
優菜の目の奥になにやら妙な輝きが宿っているのを見て取った愛美は、ただそれだけのことですべてを察したように笑う。
「謎が解けたのね!」
優菜は頷いた。
「またまた大手柄だよ、アイちゃん?」
***
こん、こん。――
ノックの音がした。
「はい」
深夜。部屋で一人酒を煽っていた南郷恭介は、グラスを置いて呼応する。
「栗原です。少しお話が」
扉を開くと、優菜と愛美が愛想良く微笑みながら会釈した。
「どうも夜分遅くにすみません」
「構いませんよ。私もなんだか昨日からあまり眠れなくて……」
「あんなことがあったあとですから、無理もないと思います」
愛美が言うと南郷は苦笑し、廊下のところに立ったままの二人を室内に誘う。
「入りませんか?」
「いえ、今日はちょっと被害者の部屋まで、一緒にご足労願いたいんです」
「はぁ、そうですか……わかりました」
二人に連れられ、南郷は部屋を出る。
「何かわかったんですか?」
エレベーターを待つ間、南郷は優菜にそう尋ねた。
「ええ、実は犯人が……」
「犯人?」
不思議そうに首を傾げる南郷。
「だって、あれは自殺だったんじゃ?」
優菜はゆっくりとかぶりを振り、そしてはっきりと断言した。
「柏原さんは殺されたんですよ。これは立派な殺人事件です」
エレベーターが到着し、扉が開く。
そのタイミングで、優菜は切り出した。
「――ところで南郷さん。あなた、私たちに嘘を吐きましたね?」
南郷は突然のことに驚いて、咄嗟に優菜の方を振り向く。
愛美はその隙に乗り込み、ボタンを操作した。
「どういう意味ですか?」
「……」
優菜は答えず、屈託のある笑顔でじっと南郷の目を見つめたまま、とりあえずはエレベーターに乗るよう促した。二人が睨み合ったまま搭乗すると、籠は上昇を始める。
優菜は続きを話し出した。
「あなたと柏原さんは、付き合ってらっしゃったそうじゃないですか」
「まったく、誰がそんなことを……」
「あなたの会社の人たちです。向こうの警察に知り合いがいるので、あなたたちのことを色々と聞き込んでもらったんですよ。――それによると、あなたと柏原さんは逢引をするような間柄だったそうで?」
南郷は少し戸惑いながらも失笑を浮かべてみせる。
「そんなものは単なる噂ですよ。いるんですよねー、男女がちょっと一緒にいるというだけのことで、下世話なことを邪推する連中は」
「果たして本当にそうでしょうか? 男社長と女秘書が、プライベートに二人っきりで海外旅行だなんて、そういった噂が立たない方がもしろ不思議だと思うんですけど」
南郷は殊更不愉快そうに顔をしかめた。
「心外です。少なくともあなた方には、その理由をお話したはずですよ」
途端、優菜は『ハイ、それ』と言わんばかりに人差し指をピンと立てる。
「柏原さんが退職されるなんて話は、誰も知らなかったみたいですが?」
「……この旅行から帰ったら、皆に話そうと思っていたんです」
「ちなみに南郷さん。あなたには今、縁組の話が持ち上がっているそうですね? お相手は大手広告代理店のご令嬢だそうで、かなり条件のいいお話だと聞きました」
「そんなことは今、関係ないでしょう」
そう言う南郷の表情は明らかな動揺を映している。
優菜は大げさに肩を竦め、首を横に振った。
「いいえ? 関係大ありですよ。――私は今、あなたに柏原さんを殺害する動機があったというお話をしているんですから」
とうとうクリティカルを突いてきた優菜に、南郷は感情を押し殺した目を向ける。
「私を疑っているんですか?」
「はい。というか、はっきり言ってもう断定しています。――逆玉の好機を得たあなたにとって柏原さんの存在は邪魔になった、だから殺したんです彼女を。違いますか?」
「……根拠は何です?」
エレベーターが停止し、扉が開いた。
「着きましたよ」
愛美が声をかけると、優菜はとりなすように言った。
「続きは被害者の部屋に行ってからということで。――さぁ、行きましょう?」
「……」
三人がエレベーターを降りて廊下を行くと、扉の前にグレゴリー警部が立っていた。
「どうも警部」
優菜が何やら含みを持たせた笑顔で小さく頭を下げる。
「Hi」
警部は気さくに手を上げて、三人を案内するように扉を開いた。
南郷は何かあると察知した表情で、彼女らの誘導に従う。
「――さてと、まずは何からお話しましょうか」
部屋に入ると優菜は仕切りなおしたようにそう言って、室内をぐるりと見回した。
「そうだ、ちょっとこちらへ……」
優菜が南郷を招いた先はトイレだった。
「何です?」
意外そうな顔をして尋ねる南郷に、優菜は便器の方を指差しながら伝える。
「私が引っ掛かったのは、アレなんですよ」
南郷は示された先を見る。
「……別に、何もありませんけど」
「そんなはずはありません。ほら、アレですよ、アレ。おかしいでしょう?」
優菜は煽るように回りくどい指摘を続けるが、要領を得ない南郷は困惑するばかりだった。
「栗原さん、あなたもしかして私をからかっているんですか?」
「とんでもない。私はただ事実を言っているだけです」
「何もおかしなところなんてありませんよ」
「まだお気づきになりませんか?」
「だから何が」
痺れを切らした様子で語気を強める南郷。
優菜はおもむろに近寄って行って、此処とわかりやすく便器の一部を指差した。
「ほら? ここ、便座が上がってます」
言われてみれば、確かにトイレの便座は上がっていた。
しかし南郷はだから何だとでも言いたげな表情をする。
予想通りと上唇を舐め、優菜は攻撃的な笑みを浮かべて言った。
「――これをおかしいと思うかどうかは、恐らく男女の違いでしょう。事件のあった夜も便座は上がっていたんです。私と愛美はこれを見てすぐに変だと気がつきましたよ? 普通、女性はこんなもの上げませんからね。仮に何かの理由で上げることになっても大抵の場合はまた下げておきます。次に使うときのことを考えて……。便座を上げたままにしておく習慣があるのは男性です。ということは、誰か男の人が彼女の部屋のトイレを使ったということになります。ここはホテルですから、知らない男の人がトイレを貸してくれと駆け込んで来る可能性もありません。となれば、彼女の部屋のトイレを使うことが出来たのは、必然的にあなたしかいないわけです」
優菜は正面から突き刺すように南郷を見据える。愛美が補足した。
「問題はあなたが何時、彼女の部屋のトイレを使ったのかということなんですが?」
「それは、酔った彼女を部屋に――」
南郷は咄嗟に言いかけた台詞を噛み殺した。
「……!」
ハッとした表情。
恐る恐る目を向けると、優菜がニヤリと悪魔的に哂った。
「――酔った柏原さんを部屋まで運んだときは、使っていないとあなた自身が証言してくださいましたよ? それじゃああなたは、いつあの部屋のトイレを使ったのでしょうか?」
南郷の額からじわじわと脂汗が滲み出す。表情から察して必死に言い訳を考えていることがわかる。
「……そういえば、ホテルに着いたあと一度用を思い出して彼女の部屋に行ったんです。たぶん、そのときだな……」
「秘書が社長の部屋に出向くことはあっても、社長が部下である秘書の部屋にわざわざ足を運ぶというのは少し妙な気もしますが?」
「私はそういったことにはあまり拘らない主義なんです」
「そうですか。まぁ、それは良しとしましょう。しかし、あなたは何の目的で柏原さんの部屋に行かれたんです?」
「だから、用事を思い出して……」
「何か言伝があったのなら内線電話を使えばいいと思います。わざわざ彼女の部屋に出向くほどの用事とは一体何でしょう?」
「それは……」
咄嗟の思い付きでは優菜の追及から逃れることは出来ない。いよいよと返答に詰まった南郷はきつく唇を噛み締めた。
「あなたたちだって、本当はもう気づいているのでしょう? 私と柏原の間には、確かにそういった関係がありました。認めます。つまりは、……そういうことですよ……」
「お察しします」と愛美が哀れみの表情を向ける。
「――……しかしですねぇ」
優菜が取り出したのは被害者の鞄にあった生理用品だった。
「ここのところを見てください。外袋の封が切ってあります。使用した形跡があるんです」
「使いかけの物を彼女が持って来ていただけかもしれないじゃないですか」
「いいえ、彼女が亡くなった時これを使用していることは確かです。それは警部の方から鑑識に言って確かめて貰いました。ちなみにこんな銘柄の物は日本では販売されていませんから、必然的に彼女がこれを買ったのはこっちに着いてからということになります」
「ちょっと待ってください。別に部屋に行ったからといって、そういう行為に及んだわけじゃ……!」
「いやいや、私が言いたいのはそういうことじゃなんですよ? あなたが被害者と何をなさっていたのかは、この際どうでもいいことです。肝心なのはですね、彼女が一体いつ、どこでこれを使用したのかということなんですよ。彼女の部屋にあったゴミ箱は空でした。ということは、702号室以外のどこかということになります」
「レストランのトイレは?」
「考えにくいです」
「何故?」
「だって食事の席ですよ? しかも彼女にとってあなたは上司であり、そして恋人でもあった。普通は控えます。というかわざわざレストランまで持って行くくらいなら、部屋で予め準備しておくでしょう?」
「だったらそれを買ったとき、ついでに店のトイレを借りたという可能性は?」
「ウーン、考えられます」
南郷は安心したように表情を緩めた。
「だったらその店を探すことが先決ですね?」
「ええ……。しかし、出来ればその前に、あなたの部屋のトイレを確認させて貰いたいんです」
「……!」
「恐らくですね、彼女がこれを使用したのはあなたの部屋のトイレなんです。随分と前置きが長くなってしまいましたけれど、つまり、このことから何が判るのかというと……」
優菜は南郷の目を見据えながら、尋ねた。
「――本当は逆だったんじゃないですか? 当初は、あなたが702号室、そして柏原さんが203号室を使っていたんです。違いますか?」
南郷は堪らず視線を逸らし、沈黙した。優菜は饒舌に話を続ける。
「あなたは酔い潰れた柏原さんを自分の部屋へと連れて行き、彼女をベッドに寝かしつけた後、自分の荷物を203号室に、そして柏原さんの荷物を702号室に移し替えた。そうしてあたかも彼女が初めから702号室に宿泊していたよう見せかけたんです。二部屋とも名義はあなたになっていますから、たとえ部屋が入れ替わっていたとしてもそれを指摘できる人はまずいません。どうでしょう? 何か反論は?」
「そんなの、単なる憶測に過ぎないじゃないですか……」
「彼女の部屋のトイレにはあなたの使用した形跡があり、何故か彼女の使用した形跡がない。――この矛盾については、どうご説明されるおつもりですか? 私の憶測が事実だとすれば、すべて辻褄が合います。それを覆すお答えが、あなたにあるんですか?」
「たとえそれが事実だとしても、私が柏原くんを殺したという証拠にはならないはずです! 私にはアリバイがあります! 証人は他でもない、あなたたちじゃないですか!? 私は彼女が転落したとき、あなたたちの隣の部屋にいたんです! 彼女を殺すことは不可能だ!」
優菜は首を横に振る。そしてフフフ、と不気味に笑いながら唐突に話題を変えた。
「南郷さん? お手数ですが一度部屋を出て、扉の表札を確認してみてください。きっと面白い発見がありますよ?」
南郷は言われた通り、一度部屋を出て、扉に貼り付けられたプレートを見る。
そして思わず表情を失った。
――602号室。
不意に声がかけられる。
「実はここ、被害者の宿泊していた部屋じゃないんです」
ぎょっとして振り返るとそこには優菜が立っていた。
「エレベーター、一つ下の階で降りたんですよ。警察とホテル側の全面協力です」
『警部、どうもありがとうございました』
愛美が優菜の代わりに礼を述べると、グレゴリー警部は『いいや、構わないよ』というように軽く手を振って応えた。
優菜は室内に戻り、改めて南郷と向き合う。
「あのときも、これと同じことが起こったんですよ」
「……何を、言っているんですか」
「あなたは今、私たちが行ったことと全く同じ原理を応用して柏原さんを殺したんです」
南郷は表情を歪め、今一度無実を主張した。
「私は殺してなんかいない! 私には不可能です!」
「確かにあなたは直接手を下したわけではありません! しかし、同じことです。あなたは巧みな演出で彼女を意のままに操り、ベランダの向こう側へと誘導した!」
優菜の表情が一転して真剣なものになる。核心が近いことを南郷は察した。
「――話はまた少し遡ります。酔った柏原さんを702号室に運び込み、荷物を移し換えたあと、あなたはバスルームの扉を開いたまま熱湯のシャワーを出し、クーラーの温度を最低に設定しました。熱湯のシャワーは部屋の中に湯気を立てるため、エアコンで空調を下げたのは大気中の飽和水蒸気量を減少させ、湯気をよりくっきりと見せるための演出ですね? そしてあなたは702号室と203号室、二つの部屋の鍵を持って203号室に潜り込む。さて、これで彼女を葬り去るための準備は完了しました。あとは頃合を見計らって彼女の寝ている702号室に内線電話をかけ、あなたはそこで、彼女にこう言ったんです。――」
優菜は一拍小休止を置いてから、声を研ぎ澄ました。
「〝火事が起きた〟と……」
南郷の目の色が変わる。
「――起き抜けにあなたからいきなりそんなことを伝えられた柏原さんは、バスルームからモクモクと立ち込める湯気を見て、てっきりそれを火災の煙だと勘違いしてしまったんですよ。冷静に考えれば流水音や臭いなどで違うと気づくはずですが、突然の災害に見舞われたとき只でさえ人間は混乱するものです。それに加えて柏原さんは寝起きであり、しかもアルコールまでまわっていました。そんな状態でまともな判断がつくとは思えません。彼女はパニックに陥りました。そして、人間は思いがけず生命の危機に瀕すると本能的に回避行動を取ります……それこそがあなたの狙いだった」
そろそろ解答を申し上げましょう、と優菜は切り出した。
「――柏原さんは死のうと思って飛び降りたんじゃないんです。助かろうと思って飛び降りたんですよ。――彼女は咄嗟にベランダから外へ逃げ出そうとしました。てっきり自分が、二階の部屋にいるものとばかり思い込んでいたんです。しかし、そこは二階ではなく七階だった。恐らく彼女は最後の瞬間まで、自分の身に何が起こったのかすらロクにわからないまま……」
――バン、と近くにあった机を勢い良く叩き、優菜は彼女の死を暗示させる。
「あなたはその後すぐに私たちの部屋のドアを叩きます。そして言いましたね? 『連れの様子がおかしい。フロントから鍵を貰って来て欲しい』と――。しかし今にして思えば、あのときのあなたの行動はいかにも不自然です。そもそも私たちの手など借りなくとも、あなたがご自分でフロントに行けば良かったんです。だってそうでしょう? どのみち、鍵がなければ部屋に入ることは出来ないんですから。あなただけ先に部屋へ行っても、扉の前で立ち往生するだけじゃありませんか。何の意味もありません」
優菜は額に血管を浮き上がらせながら激しく捲くし立てる。
「あなたがわざわざ私たちのところに来たのはアリバイを作るためです。被害者が転落したとき自分は隣の部屋にいましたよ、だから彼女を殺すことは物理的に不可能ですよと、これから証人になってくれるであろう私たちに訴えかけていたんです。そして愛美がフロントに行って係員を連れてくるまでの間、あなたは隠し持っていた702号室の鍵を使って部屋の中に入り、出しっぱなしのシャワーやエアコンを止め、室内に充満していた湯気を逃がすために換気扇をまわした。つまり事後処理を行っていたんです。あとは鍵をなるべく室内でも目に留まりやすい場所に置いて部屋を出る。扉はオートロックですから、簡単に密室を演出できます。如何でしょうか? 何かご感想は?」
「確かに面白い話ではありますが、すべてあなた方の勝手な想像でしょう? 仮に事実だったとしても、それを証明することは不可能なはずです」
優菜は「いいえ」と否定した。南郷はにべもなく失笑する。
「それじゃあ私と柏原くんが電話で話した内容を、誰か実際に聞いた人間でもいると仰るんですか?」
「はい。実は……」
「フン、馬鹿な。そんなことはありえない」
「それがありえるんですよ」
優菜の態度は単にハッタリを利かせているだけとは思えないほど自信に満ちていた。
「確かにあなたの計画は実に巧妙でした。何よりも素晴らしいのは、直接手を下すことなく彼女を死に導いたという点です。これによって今回の事件には凶器が存在せず、物証と呼べるものが全くといっていい程にありません。あなたが彼女を殺害したと証明するためには、先ほどあなたが仰ったように、電話の内容を明らかにするしかないんです。そして、普通に考えればそれも不可能ということになります。……しかし、その点、あなたは非常に運が悪かった。私たちが証拠を掴んだのは全くの偶然です」
「どういうことですか……」
余裕を保っていた南郷の表情が俄かに曇り始める。
「アイ」
優菜が促すと愛美はにこやかにテープレコーダーを取り出してみせた。
ピンと立てた人差し指を唇にあて、優菜はご清聴を願う。
愛美は合図を受けてからスイッチを入れた。
テープが再生される。
スピーカーから、何やら息急きたった男の声が聞こえて来た。
「――こ、これは!?」
南郷は驚愕した。
『……大変だ、火事が起こった! 廊下は火の手がまわってる! 今すぐベランダから外に逃げるんだ! 早くッ!!』
テープを停止させ、優菜は確認する。
「これ、あなたの声ですよね?」
茫然自失の南郷は青くなった唇を震わせ、独り言のように呟いた。
「ど、どうして、こんなものが……」
優菜は苦笑まじりにあの怪しげなガラクタを取り出し、ワケを話す。
「――これは盗聴レシーバーと云うそうです。あの晩、愛美がこれを使って悪戯をしていました。今のテープはそのとき偶々録音されたものなんです。私はメカに弱いのでよくわかりませんけど、この機械は電話機の回線に繋げて通話を傍受する仕組みだそうで、愛美は部屋の内線電話に繋げていたようですから、必然的に今の会話がなされたのは、この建物の内部ということになります。ちなみに、昨晩このホテルに宿泊していた日本人観光客は私と愛美、そしてあなたと柏原さんの四人だけです。テープの声は男性ですから、あなたしかいません」
「……日本語が話せる外国人がいたという可能性は?」
「ウーン、まぁ考えられないことはありませんけど、どのみちこのテープを声紋検査にまわせばハッキリすると思いますよ?」
南郷は短く溜息を吐いて、力なく笑った。
「冗談です」
「自供していただけますね?」
南郷は両手を挙げて、小さく頷いた。
嘆息したように息を吐いてから、恨めしそうな顔を愛美に向ける。
「しかし盗聴とは悪趣味ですね……」
「ごめんなさい?」
愛美はちっとも悪く思っていない顔で頭を下げた。
「愛美にはあとで、警部からきつくお灸を据えてもらいます」
優菜の台詞に、「えっ、そうなの?」と驚き慌てる愛美。
多少なりとも重くなりがちな空気が和らいだところで、優菜は南郷に尋ねた。
「動機はやはり?」
「ええ、あなたの仰った通りですよ……。別れ話を持ち出したら、あの女は自分達の関係を先方に公表すると言って私を脅したんです。だから……」
噛み締めるように言葉尻を濁して、南郷はふと話題を変えた。
「――ねぇ栗原さん、私からも質問いいですか?」
優菜はどうぞと言うように手のひらを差し出す。
「いつから私に目を?」
「フフフ、正直に言えば、初対面のときからです」
「すごい勘の持ち主ですね……」
優菜はいえいえと首を横に振る。
「自慢じゃないですけど、私は勘で人を疑ったことなんて一度もありません」
「というと?」
優菜は愛美を通じてグレゴリー警部から一枚の証拠写真を借り受けた。
「そもそもですね、私は今度の事件を、最初から自殺だとは思っていませんでした。最初に引っ掛かったのは、柏原さんの遺体を見たときなんです」
南郷にもよく見えるように写真を傾け、優菜は現場に横たわった被害者の虚像を示す。
「ほら、ここのところ。遺体の髪の毛がなんだか変な具合に跳ねてます」
「ええ、確かに……」
優菜が指摘した箇所に注目すると、遺体の後頭部辺りからぴょこんと髪の毛が逆立っていた。
「――寝癖ですよ。私は自殺を考えたことなんてありませんが、世の中には死に衣装や死に化粧なんて言葉もあることですし、普通、髪の毛くらいは整えると思うんです。それに寝癖がついていたってことは、部屋に帰ってから飛び降りるまでの間、被害者は一度寝ていたことになります。これから永遠の眠りに就こうという人間が仮眠など取るでしょうか? この時点で、私の中から自殺の線はほぼ消えていたんです。そこへ、あなたが現れた……。被害者から自殺を仄めかすような発言を聞いたというあなたの証言は矛盾してます」
「なるほど……」
南郷はすっかり脱力して、目蓋を下ろした。
「いいアイディアだと思ったんですがねぇ……」
「ええ。ただ、細かい部分は少々詰めが甘すぎました。そしてなによりも、――」
優菜はニカッと笑う。
「あなたの最大のミスは、よりにもよって私たちの部屋を叩いたことです。あのときあなたが他の部屋を訪ねていれば、結末は違うものになっていたかもしれません」
南郷は額に手をやり、「参りました」と自嘲の笑みを浮かべた。
***
めでたく事件を解決した二人は残りの滞在期間をみっちり観光にあて、旅行を満喫した。
「――なんだか名残惜しい気分ねー」
最終日、空港でスロットマシーンに興じながら愛美は隣の席にいる優菜にそう言った。
「こっちの警察にも伝が出来たことだし、いっそ事務所ごと移転するか?」
優菜は冗談のつもりで言ったのだが、対する愛美はなるほどその手があったのかと、何やら真剣に考え始める。
「海外進出かぁ……。うわぁ~、素敵っ! 私たちも売れてきたのね~!」
足をばたばたさせて喜ぶ愛美。優菜は適当に苦笑してはぐらかした。
「それはそうとアイ、向こうに帰ったらギャンブルは控えるんだぞ? 日本のカジノは全部違法だからな? 探偵が犯罪者になっちまったんじゃあ、洒落になんねーぜ」
「大丈夫。私、分別のある大人だから」
「どの口が言うんだお前」
「ユウちゃんこそ気をつけなさいよね。変に凝り性なんだから」
「ばかたれ。私こそ分別のある大人だ。大体なぁ、賭け事なんてロクなもんじゃ……」
言いかけたとき、優菜のマシーンがぴたりと7の柄を揃える。大当たり。
「キャーッ! アイ、見ろ! 運が向いてきたぞ!」
「徹底的にやりましょう!」
搭乗時刻を知らせるアナウンスにも気づかず、優菜と愛美は大はしゃぎ。
――分別のない二人は結局、帰りの便を逃してしまった。
第四話「生還への出口」おわり
《次回予告》――
第5話「危険なふたり」
優菜と愛美が拠点を置く高層マンションの一室で、そこに住む中年女性が何者かによって撲殺された。
第一発見者は被害者の中年女性と同居していた小学生の兄妹。
優菜と愛美はこの兄弟が何か知っていると考え、情報を聞き出そうと二人の世話をするのだが……――。