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第三話「殺意の証明」

第三話「殺意の証明」


 或る夜、人気のない細い道を一人の男が歩いている。

 その背後、闇に溶け込みながら近づいて来る車が一台……。

 男はその瞬間を迎えるまで、自らの身に迫り来る危険に気づくことはなかった。

「ッ!?」

 強い衝撃とともに、視界が点滅し、天と地が反転する。男は何が起こったのか理解する間もなく、コンクリートで舗装された地面に激しく叩きつけられた。

 車が停止し、運転席から乗っていた人物が現れる。

 全身を駆け巡る激痛に意識が朦朧とする中、男は苦痛に歪んだ顔を上げ、その人物を見た。そして、忌の際にすべてを理解する。

 相手の表情には、明確な憎悪と殺意を示す、冷たい笑みが浮かんでいたのだ。

「……」

 その人物は倒れ込んだ男が動かなくなるのを黙って見届けると、今度はいきなり慌てたように走り出し、近くの公衆電話から一本の通報を達した。

「――もっ、もしもし警察ですか!? あのっ、人を撥ねてしまったんです!! 救急車、救急車をお願いします!!」


                ***


 

 スピーカーから流れ出す昼下がりの一曲は、管弦楽組曲・第3番ニ長調「アリア」

 非常にのんびりとした午後のひととき、優菜は趣味で買った大型客船のプラモデルを作っていた。かなり精巧な作りになっているらしく、ここ数日はすっかりその作業に没頭している。愛美は愛美で、最近飼い始めたペットのペルシャ猫を愛でていた。とてもキュートなその姿に一目惚れをしたらしく、一日中そばに置いて寝る時まで離そうとしない、こちらも相当な入れあげっぷりだった。

 二人とも本業のことなど忘却の彼方。もともと金に不自由しているわけではない二人にとってみれば、探偵の仕事も、プラモデルや猫と根本的には同列なのだ。

 そんな折、インターホンの呼び鈴が鳴った。

 はーいと返事をして、愛美が猫を抱えたままお出迎えに行く。

 久々の来客だった。やって来たのはOL風の若い女性。

 優菜はしぶしぶとプラモデルの組立てを中断し、応接する。

 氏名を尋ねると依頼者の女性は、真中美代子と名乗った。基本的な個人情報を確認した後、話題は本題の依頼内容へと移ろう。


「――ある男が、殺人を犯したという証拠を掴んで貰いたいんです」


「「……!」」


 愛美は思わず面食らい、優菜は目つきを鋭くした。

「どういうことか、詳しい話をお聞かせください」


 彼女は頷き、淡々とした口調で述べ始める。


「二週間前、私の婚約者だった安藤雅也さんが、自動車に撥ねられて亡くなりました。通報があって、救急車が駆けつけたときには既に手遅れだったそうです。運転手の男はその場で逮捕され、取調べを受けました。だけど、それが殺人であるという証拠が挙がらず、結局その事件は事故として処理されたんです……」


 優菜は相槌を打って、一つ質問した。

「あなたがその事件を〝殺人〟だと思った理由(わけ)は何です?」


「――撥ねた男は、雅也さんと同じ会社に勤めている社長の息子なんです。それに彼とその男は中学時代からの級友でもありました。そして、決定的な根拠がもう一つ、その男には雅也さんを殺す動機があったんですよ」


「それは一体?」

 彼女は少し言い渋るように目線を下げた。

「その男、前から私にしつこく言い寄って来ていたんです……」

「あなたに気があったのね?」と愛美が問う。

 依頼人・美代子は伏し目がちに頷いた。

「はじめはその男が何も知らない様子だったので、私は雅也さんとお付き合いしているからと断ったんです。するとそれを聞いたあの男はなんだか目の色を変えて、身を引くどころか以前にも増して強引なアプローチをかけてくるようになりました。あとから聞いた話ですけど、あの男と雅也さんの間には、何か因縁めいたものがあったようなんです」

「それは具体的に、どういった?」

 美代子は静かに頭を振った。

「はっきりとしたことは分かりません……。因縁とはいっても、ほとんどその男が一方的に彼のことを敵対視していたみたいで……。学友だった頃から、度々、陰湿な嫌がらせを仕掛けて来ていたと彼は語っていました。それでも優しい彼はその男のことを友人だといっていましたけれど……私にはとても、そんな風には思えませんでした」

 追憶に浸った彼女の表情が不快感に歪んでいく。

「あの男が雅也さんを見る目はどことなく異常でした。彼のことを見下しているくせに、酷く妬んでもいるような……。きっと私に拘った理由も、本当は雅也さんの物を奪い取ってやりたいという歪んだ気持ちだったんだと思います」

 美代子は短く息を吐いて、逸れかかった話を元に戻した。

「――それで、困った私は雅也さんにそのことを相談しました。そして彼の口からその男に言い聞かせてくれるよう頼んだんです。しかしあの男が態度を改める様子は一向にありませんでした。そしてある日、ひょんなことから二人が口論になったんです。あの男がいくら言っても私に付き纏うので、温厚な雅也さんもとうとう堪忍袋の緒が切れたといった様子でした。〝どうしてこんなことをするんだ〟と詰め寄る雅也さんに対して、上手く言い返せなくなったあの男は、咄嗟に彼の身の上を口汚く罵ったんです。〝お前の母親は薄汚い売春婦だ。父親が誰かなんて判りやしない〟って……。それを聞いた彼はついカッとなって、手を出してしまいました……」

「殴ったんですか?」

「ええ。グーで左の頬を、一発だけ……。彼が母子家庭で育ったことは私も知っていました。彼のお母さんが水商売をやっていたということも事実です。だけど、あんな関係のないところでそれを引き合いに出すなんて卑怯だと思います。雅也さんは、以前からそのことをかなり気にしていました。だからそこを突かれて、きっと我慢が出来なくなってしまったんだと思います。あの男はそれですっかり竦み上がってしまったように逃げて行きました。腕力では雅也さんの方が上でしたから……。ただあの男、去り際に言ったんです。〝こんなことをしてただで済むと思うなよ。きっと思い知らせてやるぞ〟って……」

 美代子は胸を締めつける深い悲しみに、思わず顔を伏せた。

「事情はどうあれ、先に暴力を振るったのは雅也さんです。彼もそのことについては反省していたし、もしあの男が警察に訴え出るようなら、然るべき処罰もきちんと受ける覚悟でいたんです……。だけどまさか、あの男が雅也さんを殺すつもりでいたなんて……」

 そこまで聞いた優菜は、彼女の精神状態を考慮して一旦話を打ち切った。

「わかりました。つまり、私たちはその男があなたの婚約者を事故に見せかけて殺したと、それを証明すればいいわけですね?」

 美代子は小さく頷いたあと、申し訳無さそうに一度頭を下げた。

「……すみません、無茶なお願いをしているのはわかっているんです。ただ、あなた方は以前にもこういった事件を扱われたことがあると伺ったものですから……」

「誰からそんなことを?」

 愛美が気になって尋ねると、彼女は意外な紹介者を明かした。

「――城南警察署の中野さんという方です」

「あいつが……?」

 その名を聞いた優菜は、少々面倒臭そうに顔をしかめる。

 彼女は中野との接点を二人に説いた。

「中野さんは、今度の事件の担当でした。あの男の企みをなんとか立証しようと力を尽くしてくださいましたけど、残念ながら捜査が打ち切りになると決まったとき、代わりに腕の良い探偵を知っているからと、あなた方のことを紹介してくれたんです」

 中野刑事の知られざる一面を覗いた気になって、優菜と愛美は少々複雑な顔を見合わせた。


                ***


 夕方、優菜と愛美はとある喫茶店で待ち合わせをしていた。

「……おう」

予定よりも十五分ほど遅れて、待ち人の中野刑事がやって来る。

「遅い」

 開口一番、優菜はふてぶてしい態度で小言を吐いた。

「仕方ないだろ。こっちにだって仕事があるんだ」

 中野は悪びれる様子もなくテーブルに着くと、通り掛ったウエイトレスを呼び止めてコーヒーを注文した。

「相変わらずお忙しいようで何よりですわ?」

「お前らの方は、相変わらず暇そうだな?」

 清楚な笑顔で、どことなく皮肉めいたことを言う愛美に対し、中野も負けじと白々しい態度で押し返す。

「おかげさまでね、しばらくは趣味に費やす時間がなくなっちまったよ」

 優菜は形の良い眉をヒクつかせながら腕を組んだ。中野は小さく失笑した後、冗談はさておきと断りを入れる。

「――彼女から、どこまで聞いた?」

「一応、おおまかな概要と経緯だけ……。詳しいことは担当刑事のアンタから聞いた方が早いと思ったんでね?」

 中野はファイルを取り出して、テーブルの上に差し出した。

「該当する事件の資料だ。本来こういったものは機密情報なんだが、今回だけは特別だ」

 優菜は愛美にも見えるように受け取ったファイルを広げ、顎で説明を催促した。

 注文していたコーヒーが届き、中野は少し口の中を湿らせてから話し出す。

「――事件が起こったのは六月三日の午後十一時二十分頃、車で人を撥ねたと男の声で通報があり、警察と救急に出動要請が入った。加害者は影村和樹、年齢二十六歳。父親は山王物産の代表取締役であり、加害者はそこの現役員、次期社長候補らしい。被害者は加害者と同じ会社の営業部に努めていた安藤雅也、年齢二十六歳。通報から数分後に救急隊が駆けつけるも、死亡が確認された。死因は車に撥ねられた際、頭を強く打ったことによる脳挫傷。影山はその場で現行犯逮捕され、過失と殺人、両方の線で取調べを受けた……。供述によると走行途中、前方を歩いていた被害者が自分の車に気づかず、いきなり道の真ん中に飛び出して来たんだそうだ。影村はあくまでも相手のミスを主張してる」

「目撃者は?」

 中野は芳しくない意を込めて首を振った。

「現場はもとより人通りの少ない道だった。それに、ちょうど現場付近は区画整理のために、周囲の民家がほとんど立ち退き済みだったせいもある」

 愛美が人差し指をピンと立て、ふと思い立った事を述べた。

「だけど実際に人を一人轢き殺したぐらいだから、車の方も相当スピードが出ていたんじゃないかしら?」

「鑑識からの報告によると、アスファルトに残っていたタイヤのブレーキ跡から判断して、車の速度は八十キロ近く出ていたらしい。ただ、奴は慌ててブレーキとアクセルを踏み間違えたと弁解してる。よくある言い訳だが、それが嘘であるとも断定できない……。検死及び現場検証の結果も同じだ。奴の供述通り、被害者は道の真ん中で後ろから撥ねられてる」

「……ちょっと待って」

 優菜が何か引っ掛かった様子で口を挟む。

「被害者は〝道の真ん中で、後ろから跳ねられた〟……つまり、背中から進行方向に向かって撥ねられたんだな?」

「ああ。地面に付着していた血痕と遺体の損傷具合から、そういう結果が出ているが……」

「だけど、それはちょっと妙じゃないか? その結果が事実だとすれば、被害者は撥ねられたその瞬間まで、車の接近には気づいていなかったことになる。普通、車のエンジン音や近づいてくる気配で気づくだろ。たとえ避けられなかったとしても、やっぱり後ろを振り返るぐらいの余裕はあったはずだ」

 中野は優菜の言い分を否定するように再び首を振った。

「それが気づいていなかったんだよ……」

「どうしてそう言い切れる?」

「該者は耳が塞がっていたんだ」

 愛美は物分りのいい顔で、うんうんと頷く。

「ツンボだったのね」

「いや、そういう意味じゃない。携帯音楽機だよ、今流行りの」

「あ~、ウォークマンね! 私も持ってるわよ!」

 屈託のない愛美を無視して、中野は優菜の方を向いた。

「被害者は歩きながら、イヤホンで音楽を聴いていたらしい。だから車が近づいて来るのに気づかなかったんだ」

 優菜はまだ何か不審げに顔を顰めていたが、ひとまずは首肯し、もう一つ質問した。

「二人はそれぞれ、どこに行こうとしてたんだ?」

「被害者は帰宅する途中だったらしい。影山の方は、知り合いの女に会いに行くところだったと供述してる」

「知り合いの女……?」

「行き着けのバーで知り合ったホステスだそうだ。その女の住むマンションが、被害者の自宅と同じ方向にある。もちろん裏は取った。あの晩は、女の方から影山に誘いの電話を掛けていたらしい」

 愛美が炯々と目を眇める。

「怪しいわねー」

 それには中野も同意した。

「恐らくは影山に頼まれて口裏を合わせたんだろう。しかしあれは相当に金を積まれたらしいな、参考人として引っ張っても頑として白状しなかった」

「けど、その女の証言さえひっくり返せば、殺人容疑で送検できたんじゃない?」

 愛美の意見に、中野は苦い顔して答えた。

「ああ、そんなことはわかってたさ……」

「わかっていたなら、どうしてもう少し粘らなかったのよ?」

 優菜が仲介し、嫌味ったらしく愛美を諭す。

「アイちゃん、警察っていうのはね? と~っても忙しいの? 一つの事件にそこまで拘ってはいられないんだよ、きっと……」

「ああ、そっかー」と愛美も見事な棒読みで調子を合わせる。

 中野は一瞬カチンと来たように顔色を険しくしたが、「その通りだ」と言って、何故か反論して来なかった。

「殺人、強盗、傷害、事件は次から次へと起こる。俺たちに立ち止まっている暇はない。だが今度の事件にはもう一つ裏があった……」

 真に迫った中野の表情を見て、優菜と愛美の顔からもどこかふざけた調子が消える。

「――上層部から、捜査を打ち切るようにと命令があったんだ……。確たる証拠もなく、見通しの立たない捜査にこれ以上の時間と人員を割くのは国権の浪費だというのが名目上の見解だったが、加害者の父親・影山昭吾は政財界とも繋がりがある。恐らくはそっちから手を回して、上に圧力をかけたんだろう。実際、捜査が難航していたことは事実だ。それに加害者側と被害者の遺族との間には、既に示談も成立していた……」

「示談が? 加害者には殺人の疑いがあったんだぞ。遺族はどうして応じたんだ?」

「被害者の母親は数年前から難病を患っていた。唯一の稼ぎ手だった息子を失い、働くことの出来ない母親が一人で生きていくためには多額の金が要る。加害者側から支払われる慰謝料は数千万円にのぼるそうだからな。仕方のないことかもしれん……」

 中野は難しい表情をして、優菜と愛美、二人の目を真摯に見つめた。

「警察がこの件に関して自主的に動くことはもうないだろう。だが、新事実が浮かんで来れば別だ。今度の事件の命運は、お前たちに懸かってる」

 緊迫した空気を茶化すように、優菜は手を頭の後ろで組んで背もたれに寄りかかる。

「そんなの無責任だよ……」

「俺たちが不甲斐ないことについては弁解の余地もない。だが、だからこそお前らみたいな商売があると思えば、そこまで悪い気はせんだろう?」

 優菜は鼻で笑う。

「詭弁だな。こんな厄介ごと押し付けやがって……」

「ヒントになるかは分からんが、一つだけ引っ掛かっていることがある」

 中野は返事を誤魔化すように切り出した。

「――被害者の額。ちょうど眉間の辺りに傷があったんだ」

「そりゃあ傷ぐらいあるでしょ? 車に轢かれたんだから」

 ところが、と中野は身を乗り出すように不審な点を論った。

「検死の結果、眉間の傷は殴られた痕じゃないかという線が浮上したんだ。もっとも致命傷に至るようなものじゃなかったらしく、それに撥ねられて転倒した際に出来た傷だという線も否定は出来ない。しかし握りこぶし大のコンクリート片が見つかってる。死んだ被害者が固く握り締めていた物だ。傷口に付着していた粒子と照合して、そのコンクリート片が被害者の額を傷つけたものだと判明した。残念ながら指紋は被害者のもの以外検出されなかったが……どうだ、名探偵? 何か閃かないか?」

「ンなこと言われたってわかんねーよ。こんな時だけ煽てんな」

 あまり乗り気でない様子の優菜に代わって、愛美が中野と話した。

「初公判はいつなんです?」

「来月の十日だ。影山は既に保釈されてる。はっきりとした身元引受人があり、再犯・逃亡の恐れもないと判断されてな? このままじゃあ裁判になっても、せいぜい執行猶予がつく程度で、事実上の無罪は確定的だろう。それまでになんとか証拠を掴んで欲しい」

 愛美は燦々と目を輝かせて気風良く胸を張った。

「わかりました、任せてください!」

「おい……」

 優菜が水を差しかけると、中野はそれを遮るように伝票を持って席を立った。

「俺も個人的に出来る限りの協力はする。頼んだぞ?」

 中野はまだ仕事があるからと言い残し、早々に去って行った。

 優菜が辟易した視線をジトーと隣に向ける。

 愛美はいつになく精悍な顔つきになって、両方の拳をニギニギしていた。

「今度の事件は、やりがいがあるわねー」

「まったく、乗せられやすいんだから……」

 達観したような優菜の態度に、愛美は唇を尖らせた。

「なによ、自分だけクールぶっちゃって。本当はやる気だったくせに」

「やる気はないけど、あいつには借りがあるからな。まぁ、仕方ないだろ」

 優菜はとぼけた顔でそっぽを向いた。何か察したようにフフ~ンと含み笑う愛美。

「まったく、素直じゃないんだから」


                 ***


 喫茶店を出たあと、二人はその足で事故のあった現場へと赴いた。

 現場は既に警察の手によって処理された後であり、そこで死亡事故が起きたこと示すような痕跡はほとんど残っていない。ただ、道の端に萎れた花の入った牛乳瓶が一本置かれていた。

 愛美は萎れた花を抜き取ると、途中で買っておいた新しい花を替わりに挿し、ささやかな黙祷を捧げる。死者への供養を終えると、二人は現場検証に入った。

 優菜は改めて現場付近を見渡してみる。

「……」

 道路には歩道がなく、車が二台分、辛うじて通れる程度の道幅しかない。周囲を見渡すと、中野から予め伝えられていた通り、民家には軒並み空き家、又は売却済みの札が目立った。さらに注意してみると、その一角には街灯が設置されていないことに気づく。もともと無かったのか、それとも、これも区画整理の影響で一旦撤去されたものなのか……。

「――ユウちゃん、ちょっと来て!」

 不意に背後からお声が掛かる。愛美が何かを発見したらしい。

「どうした?」

優菜が寄って行くと、愛美は民家のブロック塀を指差した。

「これ、ここを見て」

 老朽化のためか塀の一部にヒビが入り、崩れている箇所があった。ふと足元を見ると崩れ落ちたコンクリートの破片が、いくつか転がっている。

「被害者が握り締めていたコンクリート片っていうのは、これのことじゃない?」

 愛美は手頃な大きさの破片を拾い上げて、優菜に見せた。

「ウーン……」

 優菜は腕を組み、なんともいえない表情をする。そもそも事件にあまり関係のないコンクリート片の出所が判ったところで、それが何か確証に繋がるかどうかはかなり微妙だった。

「まぁ一応、採取しておいてくれ。あとで中野に頼んで、同じ物か調べて貰おう」

「わかったわ」

 愛美は言われた通り、コンクリート片をハンカチに包んでハンドバッグに収める。

 二人はそれからもう暫く探索を続けたが、目立った成果は上がらなかった。

「手掛かりになりそうな物は無いわね……」

「まぁ、あらかた警察が調べたあとだからな。あまり期待はしていなかったさ」

 優菜は腕時計で時刻を確認する。日没までには、まだあと一時間ほどあった。

「一旦帰って、事件が起きたのと同じ時間にもう一度ここへ来よう。当時の状況を再現することで、何か見えてくるかもしれない」


                ***


 午後十一時過ぎ、優菜と愛美はレッドカラーの高級車に乗って再び現場を訪れた。

 愛美が先日、車ぐらいないと不便だからと父親にねだって買って貰った新車のフェラーリ328。今度はこれを使って実験を行なうらしい。

「うわぁ、真っ暗だ……」

 現場に着くや否や、愛美が真っ先にそう感想を漏らした。

 周囲に街灯も、人の居る民家もない問題の道路は、思った通り深い闇の底に沈んでいた。

 数時間前、まだ明るいうちに訪れた際とはその印象も大分違う。見通しの利かない細い夜道には、奈落の底にでも通じていそうな得体の知れない不気味さがあった。

「道幅も狭いし、これだけ暗いとかなり危険ね」

 一旦バックで現場から数十メートル手前まで引き返す。

 優菜はそこで車を停め、被害者役の愛美を促した。

「アイ、頼んだぞ」

「……ホントに轢かないでよね?」

 ちょっぴり心配そうな愛美に、優菜は苦笑する。

「とにかく、これからお前は被害者の視点になって考えるんだ。どんな小さなことでもいい、何か気づいたことがあったら遠慮なく教えてくれ」

「うん、了解」

 愛美は携帯音楽機に繋いだイヤホンを耳につけ、助手席から降りる。

 音楽を再生すると、そのまま衝突が起きた地点まで歩き出した。

「……」

 優菜は愛美の後姿が徐々に遠ざかって行く様を見届けながら、頃合を見計らってエンジンを掛け、アクセルを踏んだ。スピードを五十キロ近くまで上げて背後から迫る。


 ――しかし、ここぞとブレーキを踏み込んだ時、愛美は既にこちらを振り向き、体を道路脇に避けたあとだった。


「やっぱりそうか……」


 優菜は何か確信を持ったように一人ごちて、運転席の窓を開けた。

 愛美が近づいて来る。その顔色から察して、彼女もそれに気づいたらしい。

「――車のヘッドライトだな?」

 優菜が尋ねると、愛美は頷いた。

「イヤホンで耳が塞がっていても、後ろから光を照らされれば絶対に気づくはずよ」

「これだけ周りが暗いと、光は余計に目立つ」

 しかし、愛美はふとそこで疑問を口にした。

「でもそれじゃあ、被害者は車に気づいていたのかしら?」

「いや、それだと辻褄が合わない。警察の調べにミスがあったという可能性を除けば、被害者が道の真ん中で、背後から撥ねられたということは事実なんだ。とすれば、やっぱり被害者は車の接近に気づいていなかったと仮定するのが自然だろう?」

 愛美は首を傾げる。優菜は言葉を繕う前に提案した。

「もう一度、今と同じ事をやってみよう」

 車に乗り込んだ二人は、再び最初のスタート位置まで戻る。

 そこから、さっきと同じようにイヤホンで耳を塞いだ愛美が歩き出し、優菜は頃合を見計らってアクセルを踏み込んだ。車は闇に溶け込みながら鋭く愛美の背後に迫る。――そして、ブレーキを踏んだ時、愛美はまだ前を向いたまま、道路の真ん中を歩いていた。

 実験の終了を伝えるために、優菜はハンドル脇のスイッチを入れた。

「……!」

 強烈な照明が、一瞬のうちに暗闇を切り裂く。

 いきなり間近から照らし出され、愛美が驚いた顔をして振り返る。

 優菜は運転席から降りて、今の実験で確認できたことを伝えた。

「――ライトは、点けられていなかったんだよ」


                ***


 帰宅した二人は広々としたバスルームで入浴を共にする。

「あくまでも事故に見せかけて殺すためには、被害者が道路の真ん中を歩いているところを撥ねなければならなかった。接近する段階で相手に気づかれていたんじゃあ、それは不可能だ」

 優菜は頭からシャワーを浴びながら、加害者が故意に無灯火運転を行ったとする仮定に、説明をつけていた。

「ライトの件は証拠にはならないのかしら? 何の理由もなく、夜道で車のライトを点け忘れていたなんてことは普通ありえないもの」

 愛美の声が、湯気の充満した浴室内に反響する。

 難しいだろうな、と濡れた前髪を掻き分けながら優菜は答える。

「現代の刑事訴訟には、『疑わしきは罰せず』という原則がある。――被告人及び弁護人が無罪を主張する際、容疑についての完全無実を証明できなくても、犯罪行為を行ったことについて〝合理的な疑い〟を示すことが出来れば、被告人に対して有利に事実認定されるって決まりだ」

「合理的な疑いって?」

「そうだな、簡単に言えば〝上手い言い訳〟ってことだよ。たとえ少々怪しいところがあっても、言い訳の持つ可能性を完全に否定できない限り、有罪には出来ないってわけだ。たとえば今挙げたライトの件で、『ライトは点けていたが、被害者がそれに気づかなかった』と加害者の男に弁解された場合、私たちはその可能性を否定できないだろう。裁判でそれを証明するためには、車のライトが点いていなかったところをハッキリ見たって奴の証言が要る。まぁ、たとえそれが出来たとしても『うっかり点け忘れていました』と供述されればそれまでだけど」

「結局のところ、事件が過失致死じゃなく、殺人だったっていう証拠にはならないのね」

「現状は加害者に有利な状況だ。決定的なのは、加害者が撥ねた直後に自分から警察に通報したこと。これによって恐らく裁判官の心象も、殺意はなかったという方に大きく傾く」


 愛美は湯船の中で伸びをしながら嘆息した。


 優菜も頭を悩ませる。


 犯人が誰で、どんなトリックを使ったのか、それを証明すること自体はそんなに難しいことではない。事象である限り客観性を有するからだ。

 しかし、今度の事件で二人が証明しなければならないのは、人間の心に秘めたる感情だった。加害者が被害者に対して殺意を抱いていたかどうか、極論すれば、それを知っているのは本人だけなのだ。

 ――状況を省みた愛美が一つ提案する。

「ねぇ、だったら京香さんの時みたいに、罠を仕掛けて自白させるのが一番早いんじゃない?」

 ウーン、と深く考え込むような仕草をする優菜。

「あたしもそれは考えてたよ……。だけど問題は、どんな罠を仕掛けるかだな」

 しばらく熟考した後、優菜は脱力したように肩を落とす。

「ダメだ……。何にも思いつかない」

 愛美はやれやれと偉そうに肩を竦めてみせた。

「一か八か、とりあえずやってみるっていうなら、手がないこともないわよ?」


               ***


 翌日、加害者の影山和樹が最近ディスコに通いつめているという情報を聞き込んだ優菜と愛美は、早速該当する店に潜入した。

 大音響のダンスナンバーががんがんと鳴り響き、その激しい振動が足元からも伝わって来る。

 踊り狂う若人たちを尻目に、二人はカウンターで影山のことを聞いた。

「――ああ、影山さんならもうじき来ると思いますよ」

 そう言った店員は、直後に入り口の方を指差した。

「ほら、来ました。あの人ですよ」

 二人が振り返ると、一人の男がちょうど店に入って来たところだった。

 濃紺のスリーピースに赤のネクタイを締め、髪は整髪料できっちりセットされている。小柄で短足で、童顔のようだが、どことなくその性根の悪さが風貌からも滲み出ていた。

 顔見知りなのか素行の悪そうな男女数人が寄って来て、彼に会釈した。連れ立って近くのテーブル席に座り、しばし談笑する。

「いかにもドラ息子って感じの風体ねー」

 影山の容姿や、年下の男女を相手に明確な力関係を示すような態度を取るその様子を見て、愛美がふとそんな感想を漏らした。優菜も頷き、冷ややかな目をして頬杖をつく。

「人一人殺しておいて、まったくいい気なもんだ……」

 影山は懐からひけらかすように紙幣の束を取り出すと、粋な振舞いで取り巻きの連中にそれを掴ませた。それによって周囲の影山をちやほやするムードが一気に高まったと見える。

 愛美はほとほと呆れ果てたようにかぶりを振った。

「どうせ自分の力で稼いだお金でもないくせに……。私、ああいうの嫌い。お金に物を言わせて人から好かれようだなんて、最低よ」

 優菜は白けきったような無表情で言葉を返す。

「他人のこと言えんのかよ、お嬢様?」

「ホ~ホッホッ!! 跪きなさいこの雌犬ッ!!」

 愛美は高飛車お嬢様のポーズで軽快に笑い飛ばしたあと、頬赤く染めて細く滑らかな金色の髪の毛をちょこっと掻く。

「……えへへ~。これ、一度やってみたかったのよねー……」

「照れるぐらいだったらやるなよな」

 影山は一緒にいた女たちに誘われ、ダンスホールに下りる。

「アイ、行くぞ?」

「色仕掛けなんて、ちょっとわくわくしちゃうかも」

「癖にならないように気をつけろよ?」

 二人は羽織っていた上着を脱いで、カウンターのボーイに預ける。

 上は大胆に開いた胸元とセクシーなおへそを強調した薄い生地一枚。下は長く美しい脚をそのまま活かすためのミニスカート。可愛らしさと大人の色気を兼ね揃え、颯爽とホールに下り立った二人は、瞬く間に周囲の視線を釘付けにした。

 主に男性陣から向けられる熱烈な眼差し。影山もその例外ではないことをさり気なく確認すると、挙って誘いを掛けて来る男たちを次々にかわしながら近づいて行く。

「君たち、二人だけかい?」

 狙い通り相手の方から声を掛けてきた。

「よかったら、これから少し付き合わないか?」

 内心の薄笑いを押し込め、二人は屈託のない女性らしさというものを取り繕う。

「うーん、どうしよっかなぁー」

 艶やかな唇にちょこんと指を当て、愛美はイタズラに少し考える素振り。

「でも、お連れの方がいらっしゃるんでしょう?」

 優菜は蠱惑的な笑みを作って、影山の側で露骨に冷めたい目をしている女たちを示した。

「いや、気にしなくていい」

 取り巻きの女どもをあっさりと切り捨て、影山は危険な二人に言い寄った。

「近くに雰囲気のいいバーがあるんだ。どうだろう、三人だけで飲みなおさないか?」

 もとより誘いを断るつもりなどなかった二人は承諾し、場所を移した。

 影山が二人を案内したのは、小洒落た雰囲気で、いかにも高級そうな店だった。

 カウンターの真ん中に席を取って、影山は優菜と愛美を自分の両隣に座らせる。

 影山はこの店でも常連なのだろう、中年のマスターが気さくに声を掛けて来た。

「今日はまた、とびきり美人なお連れさんですね?」

「フン、羨ましいだろう? 両手に花とは、まさにこのことだからな?」

 何を言っているんだこの男は、内心ひどく呆れていると影山が馴れ馴れしく肩に手を回してきた。不愉快な表情を滲ませる愛美に、優菜は抑制を促す意味で静かに首を振る。

 影山の勧めでカクテルを注文し、まずは軽い自己紹介から入った。二人は予め打ち合わせしていた設定通り、東都女子大に通う三年生だと身分を騙り、他愛のない世間話に移る。

 影山をいい調子で持ち上げながら、時間を掛けて、なるべく自然に誘導を始めた。

「――だけど世の中、嫌な人っていますよねー。私の知り合いにも一人、どうしても許せない人がいて……木村まどかっていう子なんですけど、実はその子が最近……」

 優菜は即興で作り上げた嘘の体験談を理路整然と論う。やはりその辺りはさすがというべきか、言葉巧みに影山の関心を惹きつけながら話し、なんとなく最近起こったことの愚痴をそれぞれが溢す場であるかのような雰囲気を作り出した。

「影山さんは皆から慕われていそうだし、そういうことはないのでしょう?」

「いいや、そんなことはない。気に入らない人種なら、僕にだって心当たりはあるさ」

「会社の人ですか?」

「ん、まぁな……」

 愛美が影山の目を盗んで、そっと上着のポケットに手を忍ばせる。

「そいつとは高校時代からの同窓生でね、全くの腐れ縁ってやつさ。貧乏人で、汚らわしい育ちのくせにいつも生意気で……。本当にどこまでも癇に障る奴だったな……」

 影山は清々したような顔つきになってしばし陶酔する。 

「その人、お亡くなりになったんですか?」

 優菜の問い掛けに、影山はふと猜疑心を露にして尋ね返す。

「どうしてそう思うんだ」

「いえ、別に大したことじゃないんですけどね、ただ〝癇に障る奴だったな〟と、あなたがまるで過去のことのように仰るものですから……」

 影山は一瞬何か言いかけたが、少し考えて思いとどまる。そして次に口を開いたとき、上機嫌に弛んでいた影山の声は、至極冷静なものへと変わってしまっていた。

「……単なる言葉の綾だ、気にしないでくれ」

 グラスに入ったウイスキーを一息に呷ると、急用を思い出したように席を立つ。

「そろそろ僕は失礼させてもらうよ。キミたちはゆっくりして行くといい」

 三人分の勘定を払い、去って行く影山の様子からは、二人に対する明らかな警戒心が見て取れた。優菜は少々困った顔をして首を傾げる。

「あれっ、感づかれたかな」

「さっきのはちょっと露骨すぎたんじゃない?」

 愛美がやれやれと上着のポケットから録音中のテープレコーダーを取り出す。

 影山に喋らせるだけ喋らせて、後からじっくり粗を探そうというのが今回の狙いだったのだが、何も喋ってくれないのでは元も子もない。

「あのむっつりスケベのバカ息子、ガキのくせに悪知恵と妙な勘だけは働くらしいな。もちろん私たちの正体や目的にまで気づいたとは思わないけど」

 何か怪しいと感じた時点ですぐさま立ち去るという影山の判断は、この場合の対処法としてはまさしく適切だった。

 二人の正体に気づいて感情的になったり、二人のことを逆に追及するようなことをしていたら、むしろボロを引き出す側からしたら好都合だったのだ。

「まぁ、どのみちある程度、無駄骨に終わる覚悟はしていたけど」

「私の立てた作戦は、最初からあんまり信用してなかったのね……」

「ああ、いやぁ、そういうことじゃないよ? ただ今回の作戦は、いわば濡れ手に粟を期待していたようなもんだからさ」

 作戦失敗の苦さを忘れるため、甘いカクテルで唇を濡らし、二人はほろ酔い加減で店を出る。

 帰り道、歩きながら優菜の肩に頭をもたれ、愛美が恍惚な表情をして訪ねた。

「――これからどうしよう?」

 あれだけ時間をかけて慎重に臨んだにも拘らず駄目だったのだ、今後、影山本人から証拠となるような何かしらの供述を引き出すことは困難といえる。 

優菜は苦い顔で鼻の頭を掻いた。


               ***


 翌日、優菜は改めて事件の資料に目を通していた。

 もう一度事件の全容を紐解いた上で、そこから何か解決へと繋がる手掛かりがないか、事細かに読み返す。ふと、添付されていた遺留品の写真に目を留めた。優菜が着目したのは、壊れた携帯音楽機とカセットテープ。被害者が車に撥ねられた際、使用していたものだ。

「……」

 ――午後になって、依頼人の真中美代子がやって来た。

「すいません、お忙しいところをお呼び立てして」

 電話で彼女を呼び出した優菜が丁寧に頭を下げると、美代子は恐縮したように手を振った。

「いいんですよ、どうせ暇ですから」

 愛美が紅茶を差し出しながら近況を尋ねる。

「再就職の方は決まりそうですか?」

「いくつか面接は受けたんですけど。ウーン、どうだろう……」

 美代子は苦笑を交えて首を捻った。彼女ももともと被害者・加害者と同じ山王物産に勤めていたが先週、辞表を出したそうで、現在新しい職場を探している最中なのだ。

「二三、お尋ねしたいことがありましてね」

「はい、私に答えられることなら何でも」

「まずは被害者の安藤さんがどういった人物だったのか、それをお聞きしたいんです。彼の性格や、周囲の人間が彼のことをどう思っていたのか、出来れば学生時代にどんな生徒だったのかまで教えていただけると助かるんですが……」

「私が彼と出会ったのは会社に入ってからなので、学生時代のことまではちょっと分かりませんけど、温厚で面倒見のいい性格でした。悪くいえば、ちょっとお人よしというか。とにかく人当たりがよかったものですから、私の知る限り、上司や同僚からも慕われていましたよ。そういえば高校の頃は学級委員をやっていたと、何かの拍子に聞いた覚えがありますし、たぶん昔からそういう性分だったんじゃないかと思います」

 優菜は承知したように頷き、質問を続けた。

「加害者、影山和樹の会社での評判はどうでした?」

「薄々お察しのことと思いますけど、評判は最悪ですよ。私自身、あの男に関する陰口はしょっちゅう耳にしていました。はっきり言って、あの男に好意的な目を向ける人なんてほとんどいなかったんじゃないかと思います。まだ若いのに、社長の息子というだけでいきなり重役扱いですし、真面目に働いている他の社員たちよりも、何倍も多くの給料を貰っているんです。皆が不満を抱くのは当然ですよ」

「学生時代のことで、彼から何か聞いたことはありませんか?」

「そういえばあの男、学生時代は意外にもいじめられっ子だったと雅也さんから聞いたことがあります。倣岸不遜なところは今と何も変わっていないそうですが、子供の間では親が社長だとか、実家がお金持ちだとか、そういう社会的地位はほとんど通用しませんからね。体力や腕力という単純な判断基準だとあの男はからっきしだったそうです。そのくせ、あの男は自尊心が強くて、なんというか陰湿ですから……。いじめっ子たちからも生意気だと目をつけられやすかったのかもしれません」

 愛美はうんうんと深く共感するように頷いて見せた。

「確かにそんな感じがしたわねー」

「本人に会ったんですか?」

「ええ、上手く自白を引き出せないかとやってみたんですけどね、まぁ物の見事にふられましたよ」

 美代子は苦笑する。

「あの男は、猜疑心が強そうですから……」

 優菜も同意を示すように頷き、それから一枚の写真を取り出した。

「安藤さんが車に撥ねられた際、所持していた物です。見覚えはありませんか?」

 そこには壊れた携帯音楽機が写っていた。美代子はふと首をかしげる。

「いいえ……。あの人、いつの間にウォークマンなんて買ったんだろう……」

 不思議そうな顔をする美代子に、優菜はもう一枚の写真も取り出して見せる。

「こっちは中に入っていたカセットです」

 内容は最近若者の間で流行しているアーティストの新曲だった。

「安藤さんがこの歌手のファンだったようなことは?」

 美代子はきっぱりと首を振った。

「雅也さんはどちらかといえばおっとりとしたタイプで、そもそも音楽自体あまり聴くような人じゃありませんでしたし……」

 少々難しい顔をする優菜に、美代子は申し訳無さそうな様子で頭を下げた。

「すみません、あまりお役に立てなくて」

「いえ、そんなことは」

 閑話休題、美代子は何か思い立ったように話題を変えた。

「そうだ、私の方からも一つ質問していいですか?」

「ええ。なんでしょう?」

「お二人が以前にどんな事件を扱われたのか、ちょっと興味があって」

 悪戯っぽい笑みを浮かべた美代子に、優菜は困った顔で苦笑する

「別にそんな大したことはやってないですよ」

「中野さんから聞きましたよ? 何か難しい事件を解決なされたんでしょう?」

「いやぁ、まぁ、殺人事件は一度だけ……。あとは爆弾事件ぐらいですかねぇ」

 と、優菜は冷静さを装いつつ、まんざらでもない様子。

「爆弾?」

 目立ちたがり屋の愛美が目を輝かせて割り込んで来た。

「ほらあの、ディスティニーランドの観覧車に爆弾が仕掛けられた事件」

「あー、確か二ヶ月ぐらい前、ニュースで話題になりましたよね」

「実はあのとき、爆弾を止めたのは私なんですよ?」

「えっ、そうなんですか」

 愛美は得意げに頷き、ちょっぴり照れたように頭を掻く。

 美代子の好奇な眼差しが愛美にだけ注がれるのを癪に思ったのか、優菜も空かさず横槍を入れた。

「まぁ、その犯人を自白させて、解除方法を聞きだしたのは私ですけどね?」

 二人はお互いに少しムッとした表情で睨み合う。

「へぇ~、すごいですね~」

 知ってか知らずか、美代子は暢気に感嘆の声を漏らした。


                  ***


 二人は夕方近く、安藤雅也の実家を訪ねた。

 渋る母親から半ば強引に承諾を得て、被害者の自室に上り込む。

「なんだか殺風景な部屋ねー」

 簡素な室内をぐるりと見渡し、愛美はそんな感想を述べた。

「男の部屋なんて、大体こんなもんじゃないのか」

 優菜は適当な返事をしながら、早速、机の引き出しや棚の中を調べ始める。

「ねぇユウちゃん、何を探してるの?」

 優菜は美代子の話から何か手掛かりを掴んだらしいのだが、いつものことながらハッキリとは教えてくれない。愛美はどうにも手持ち無沙汰だった。

「ずるいわよー、自分ばっかりー」

 つーんと頬を膨らませて不服そうな愛美に、優菜は手元を休ませることなく答えた。

「語りえないことについては沈黙しなければならないって言葉があるだろ? 真偽がわかるまでは、余計なこと言わない主義なの」

「またそんな変なこと言って、もう知らないからね」

 愛美は戸棚から高校時代の卒業アルバムを引っ張り出して来て、勝手に眺め始める。

「おいおい、あんまり他人の物弄くるなよ?」

「ユウちゃんに言われたくありませんーだ!」

 愛美はアルバムの中から安藤雅也の写真を見つけて「なかなかの好男子ね」と評価し、影山を見つけると「嫌な感じ」と一蹴する。一体何をしに来たのか。

 優菜は押入れの中にあった真新しいダンボール箱に目を留め、中を検めた。

 収められていた企画書のファイルや文房具類から察するに、箱の中身は被害者が会社に置いていた私物らしい。それらを一つ一つ取り出して調べる。


 そして……。


「――これだ」

 優菜は目的の物を発見した。愛美が卒業アルバムを放り出し、「なになに?」と寄って来る。

 優菜がハンカチに包みながら持っていたのは、何やら折り畳まれた包装紙のようだった。

「なぁにこれ? ただの紙切れじゃない」

 愛美はつまらなそうな顔をして、手を伸ばす。

「触るな!」

 優菜の強い口調にびっくりして、愛美は手を引っ込めた。

「これからこいつと、このあいだ採取したコンクリート片を中野刑事に渡そう。鑑識の方で詳しく調べて貰うんだ」


                  ***


 その夜、優菜はプラモデルを組み立てながら、事件のことを考えていた。

 愛美は優菜が真剣に黙考している間、猫と戯れたり、テレビを見たりと気ままに過ごしている。時間帯も深くなり、程好い眠気に誘われた愛美は優菜に声を掛けた。

「ユウちゃん、私はもう寝るけど」

「そうか、先に休んでいいぞ……」

「あんまり根を詰めすぎないようにね?」

「うん、わかってるよ」

「それじゃあ、おやすみ」

 愛美が寝室に引っ込むと、リビングは明かりが消えたように静まり返った。

 優菜は静謐の中で一人、指先を動かしながら考えを巡らせる……。




 ――翌朝、愛美が朝食の用意をする為リビングに入ると、優菜が机に突っ伏したまま寝息を立てていた。昨日は結局、徹夜したらしい。

「まったくもう……」

 愛美は小言を漏らしつつ、肩からタオルケットをかけてやる。

「こんなところで寝て、また風邪をひいても知らないんだからね?」

 優菜の寝顔を覗き込んでニヤニヤする愛美。

 調子に乗って抱きついてみたり、頬擦りをしたりなんかやっていると、机の上にあったプラモデルにうっかり肘を当ててしまった。

「あっ」

 がしゃーんと音を立てて、床に落ちた衝撃で部品がいくつか取れてしまう。

 愛美は青ざめた顔で、あっちょんぶりけをした。

「う、う~ん……」

 騒音を聞きつけ、優菜が目を覚ましかける。愛美は咄嗟の機転で足元にじゃれついていた猫を抱き上げ、机の上に座らせた。自分は素早く一歩後ろへと飛び退る。

 そのタイミングで優菜は目を覚ました。

「あーっ!」

 壊れてしまったプラモデルを拾い上げ、優菜は叱責の目を愛美に向けた。

「何てことするんだよー、やっと完成したところだったのにー!」

 愛美はぶんぶんと首を振って、机の上で大人しくしている猫を指差す。

「私じゃないわ! あの子がやったのよ!」

 しかし優菜を相手にそのような欺瞞が通用するはずもなく、「嘘つけ、下手な小細工しやがって」とあっさり見破られてしまう。

「私じゃないもん!」

「バレバレなんだよ」

「違うったらー」

 あくまでも自分の犯行ではないと言い張る愛美に、優菜は呆れた表情で溜息を吐く。


 そのとき、ふと脳髄に電流が流れるような感覚が訪れた。


〝――!!〟


 優菜はハッとした顔つきになって、瞳に一条の閃きを宿す。


「……ユウちゃん?」

 愛美は優菜の顔色が変わったのを見て、いよいよ本格的に怒られると思ったのか態度を改めた。しゅんと肩をすぼめて、伺いを立てるようにおずおずと口を開く。

「ごめんなさい。でも、わざとじゃなかったの、本当よ? お願いだから、そんなに怒らないで? 私も修理は手伝うから、機嫌直してよ」

 優菜は真顔になったかと思えば、今度は何故だかくすくすと笑い始める。

「ありがとう、アイちゃん」

「……え?」

 さっぱり状況が飲み込めていない様子の愛美に、優菜は言った。

「お手柄だよ。おかげで謎が解けた」


                ***


 二人は陽のあるうちに手管を揃え、頃合を見計らってディスコを訪れる。敵はまた性懲りもなく若い男女を子分のように侍らせて、かりそめの大物気分を味わっていた。

 優菜と愛美は獲物を見定めた狩人のように、迷いのない足取りで近づいて行く。

 目の前に現れた二人を見ると、影山は調子のいい笑みを表情から消し去り、あからさまに警戒の眼差しを向けた。

「君たちは……」

「この間はどうも失礼しました」

 優菜は軽く会釈をして、改めて自己紹介する。

「私たちはこういう者です」

 名刺を受け取り、『探偵』の二文字を目にした影山の表情が一気に引き締まる。

「実はある方から依頼を受けまして、あなたの起こした事件について調査をしていたんです」

 微笑を持った愛美が軽さの中に刺々しさを隠した声で言った。

「少しお話があるんですが、ご同行願えますか?」

 影山は沈着な体を装い、一緒にいた男女のことを示す。

「悪いがこの通り先約があるんだ。またにしてもらえるかな」

 優菜と愛美は目を据わらせたまま動かない。

 二人に引き下がるつもりがないことを察すると、影山は一緒の席にいた男に目配せをする。

 なんとも素行の悪そうなニーチャンが、のっそりと立ち上がった。

 二人を脅かして追い払おうという魂胆らしい。

 すると二人の背後から中野刑事が現れて、黙ったまま警察手帳を見せ付けた。怯んだニーチャンは大人しく元の席に座りなおす。

「アンタ……」

 影山は中野の姿を見ると、一層引き攣った表情になった。

 それを覆い隠すように、今度は怒り出す。

「一体何の権限があってこんな真似をするんだい? 職権乱用じゃないのかこれは!」

 中野は低くやや強い口調で影山の言い分を一蹴した。

「――能書きはいいから、とにかく付き合え。ドライブでもしようじゃねぇか?」


                ***


 中野の運転する覆面車で、三人は事件現場へと赴いた。

「こんなところに連れて来て、どういうつもりだ?」

 喚く影山を黙らせるように、優菜は早々と本題を切り出した。


「安藤雅也さんを殺したのは、あなたです」


 それまで威勢の良かった影山は急に大人しくなって、俄かに首を振る。

「違う、あれは事故だった……」

「いいえ、あなたは故意に安藤さんを轢き殺したんです。今度の事件は、実に巧妙に仕組まれた計画殺人でした」

「違う!」


 影山の弁解には耳を貸さず、優菜は淡々と説明を始める。


「下手な小細工をして完全無罪を主張するよりも、大人しく捕まったあとで事実上の無罪を取りに行くというあなたの作戦は、全く賢明という他ありません。すべてを嘘で塗り固めようとすれば必ずどこかで矛盾が生じるものです。だからあなたは、自分にとって都合の良いような事実を現実の出来事として作り出すことを計画した。――つまり、標的であった安藤雅也さんを事故に見せかけて殺すことの出来る状況へと、暗に誘導したんですよ」


 優菜はビニールで保護された包装紙を取り出してみせる。


「彼の自宅で見つけました。もともとは安藤さんのデスクにあったものだそうです。見覚えはありませんか?」


 知らないな、と影山は目を逸らしたまま素気無く答える。

 おかしいですねー、と愛美はとぼけたようにわざとらしく首を傾げる。


「包装紙からはあなたの指紋がばっちりと検出されています。安藤さんが車に撥ねられた際に使用していたウォークマン、本当はあなたがプレゼントした物じゃないんですか?」


 憮然として黙りこくる影山に優菜が追い討ちを掛けた。


「仲直りのしるしとでも言って、恐らくは事件のあったその日の内に予め贈っておいたんでしょう。テープと一緒に渡しておけば、帰り道に彼が早速それを使用するだろうとあなたは踏んでいた。しかしあなたの誤算は彼の趣味を把握していなかったことと、もう一つ、人の心というものを理解できていなかったことです」


 愛美は柔らかな声で呼びかけた。


「ねぇ、影山さん? 世の中には心の篭もったプレゼントを貰うと、包装紙まできちんと取っておく人がいるんですよ? もっとも、あなたにとって安藤さんは単なる獲物に過ぎなかったのかもしれませんが、彼の方はあなたが本当に改心してくれたんだと大変感激されたんじゃないでしょうか?」

 だったら何だ、と影山は言った。

「それを僕が贈った物だとして、いったい何の証拠になるんだ? むしろ僕が仲直りのしるしに贈った物だとすれば、彼を殺す動機はなかったということになるんじゃないのかい?」

「はい。ですがあなた、さっき嘘を吐きましたよね。どうして隠そうとしたんですか?」

「別に……ただ照れくさかっただけだよ」

 影山の答えは実に言い訳臭かったが、「まぁいいでしょう」と優菜はそれを許容した。

「――根本的に引っ掛かるのは、車を凶器に使ったという点です。――トラックやダンプカーのような大型車ならまだしも、あなたが犯行に使ったのは普通乗用車だ。たとえ相手を撥ねたとしても打ち所が悪くなければ打撲や骨折程度で済んでいたかもしれない。むしろ、本来の確率からいえば、死なない可能性の方がずっと高かったんじゃないかと思います。その点、今回の被害者は運が悪かったって話になるんですけど……とにもかくにも、あなたの犯行は事故として処理されるように仕向けるという点を最重要視しています。それは何故か? 被害者が生きているということも想定して考えられたシナリオだからです」

「つまりは何が言いたいんだ?」

 回りくどい説明に厭きて、影山は結論を急かした。

「あなたは、安藤雅也さんを車で轢くつもりはあった。だけど殺すつもりまではなかったんじゃないかってことです。たぶん死んでも死ななくても、どちらでも良かったんでしょう? 仮に殺すつもりだったとすれば、もっと確実なやり方はいくらでもあったと思うんです。要するに、あなたの目的は自分のことを強大な存在だと、被害者に思い知らせることだった。殺してやりたいとは思っていても、確実に殺せる方法は足が着く可能性も高いから気が引ける。だから足が着く可能性の方を先に潰しておいて、あとは結果任せ。死ねばラッキー、死ななくても最低限の目的は達成できる……」


「臆病なくせにプライドばかり高い〝小物〟がよくやる妥協案みたいなものですよ。法律用語でいうところの〝未必の故意〟ってやつです」

 愛美は挑発的な口調でそう言った。優菜が誤解を避けるために付け加える。

「まぁ、この場合、被害者は死亡しているわけですから、轢くつもりがあったということは即ち殺意があったことと見做されます。あなたにはちゃんと殺人罪が適用されますので、ご心配なく」

 いたずらに愚弄された気になった影山は痺れを切らせたように声を荒げた。

「いい加減にしろ!」


 二人は沈黙し、ややあって静かに話し出した。


「あなたの犯行はほぼ完璧といって差し支えないレベルだと思います。車のライトを消して視界を暗ませ、イヤホンで耳を塞ぎ、最終的には彼の口まで永久に封じてしまった……。事件の性格上物証は少なく、目撃者もいない。しかし、人間のやることに完璧なんてことはありえません。今度の事件においても不審な点はいくつかありました。あなたが故意に安藤さんを轢き殺したのだとすれば、ほとんどの謎は解けます。ただ一つだけ、これが事故だとしても、あなたによる殺人だとしても説明のつかないことがあります。……実はそこに、あなたの裏を掻いた人物がいたんですよ」


 そう言った優菜は眉間を指差す。


「安藤さんの額にあった傷です。やはりこれが今回の事件最大の謎でした」

「そんなの、車に撥ねられた時にたまたま出来たものじゃないのか?」

 優菜は首を横に振る。そして懐からビニールに入ったコンクリート片を取り出して見せた。

「亡くなった安藤さんが握り締めていたものです。一応現場に落ちていた他のコンクリート片もあらかた回収して、すべて鑑識の方で調べてもらいましたが、安藤さんの皮膚の一部が検出されたのは、これ一つだけでした。よって、偶然出来た傷であるという線は消えます。誰かが意図的に彼の額を傷つけたんですよ。さて、それじゃあ誰が、一体何の為に安藤さんを殴ったのか。考えられる可能性は次の三つです」


 優菜は言ってから人差し指を立てる。


「一つは、あなたが殴ったという可能性……」


「僕は殴ってなんかいない」

 影山はにべもなくそれを否定した。優菜は苦笑を交えて頷く。

「ええ、そんなに心配しなくても分かっていますよ? 私も最初はあなたがトドメを刺すつもりで殴ったんじゃないかと疑いましたけど、あくまでも事故に見せかけたかったのなら、殴ったりなんかするはずがありません。それに額の傷はいかんせん浅すぎました。仮にトドメを刺すつもりで殴るのなら、もっと力を込めて殴ったと思います。よって、あなたが殴ったという線は却下です」

「おめでとうございます」と愛美が茶化すように手を叩いた。


 影山はムッとした表情で彼女を睨む。優菜は構わず、説明を続けた。


「二つ目は、まだこの事件に登場すらもしていない第三者が殴ったという可能性です……。しかしこれを考えた場合、あなたが安藤さんを車で轢いたあと、それを見ていた人物がのこのことやって来て、倒れている彼を殴り、そのまま立ち去ったということになります。はっきり言ってありえません。そんなことをする意味がわかりませんからね、当然これも却下です。――そして残った三つ目は、……安藤さん自身という可能性です」


 影山は驚いた顔をする。優菜は核心に迫った。


「恐らくですね、安藤さんは車に撥ねられてから亡くなるまでの間、あなたの殺意に気づいたんだと思います。あなた、虫の息の安藤さんに何か言ったんじゃないですか? たとえば、ざまあみろとか。まぁ口に出していなくても、表情に出ていたってことがあります」


 影山は何か心当たりのあるような表情をしていた。優菜は話を先に進める。


「被害者である安藤さんだけが、あなたの殺意を証明することが出来た。そして、あなたが通報の連絡をするために一度現場を離れるのを見て、事故に見せかけるつもりだと、あなたの計画すらも彼は見破ったんです。既に瀕死の状態だった彼は、何かメッセージを残そうと考えました。しかし今回の場合、犯人の名前を記すだけでは不十分です。あなたの計画を覆すためには何か具体的な根拠を挙げ、あなたが殺意を持って自分を轢いたのだと、そう書き残さなければいけなかった。さすがの安藤さんもそこまでする余裕はなかったのでしょう。それに文字で書き残しても、あなたが戻ってきて先にそれを発見してしまったのでは、抹消されてしまうかもしれません。だから安藤さん、咄嗟に知恵を振り絞りました。近くに落ちていたコンクリートの欠片を一つ掴み、そして、――」


 優菜は握りこぶしを作って、自分の額をぽんと叩くジェスチャーをする。


「自分で自分を殴ったんですよ……。事故で死んだはずの遺体に殴られた痕があれば、必ず誰かが怪しんでくれるだろうと、彼はそう考えたんです。額の傷は所謂〝ダイイング・メッセージ〟だったんですよ。安藤さんはきっと我々にこう伝えたかったんだと思います。――これはただの事故じゃない、仕組まれた殺人だと……」


 影山は拍子抜けしたように笑い出した。


「君たちの話は単なる想像に過ぎない。証拠にはならないよ」

「果たしてそうでしょうか?」

 優菜はとぼけたように首を捻る。

「そんな与太話で僕を逮捕できると思っていたのか?」

「少なくとも、そう思った方が一人はいらっしゃいましたよ?」と意味深なことを言う愛美。

 そこへタイミングよく、一台のパトカーがやって来た。

 運転席から五十嵐が現れる。

「お待たせしました!」

 五十嵐は笑顔で中野に何やら手渡した。

 遅かったな、と中野は受け取ったそれを確認し、ゆっくりとした動作で影山の前に立つ。

 ばっと一枚の紙面を広げ、堂々と見せつけた。


 ――〝逮捕状〟


 影山は途端に顔色を変え、小さく震え出す。


「……どういうことだ?」


 あえてだんまりを決め込んでいた優菜が、意地の悪い笑みを浮かべて口を開いた。


「あなたが事件当時、車で会いに行く途中だったというクラブホステスの女性。実は今日の昼間、彼女にも今と同じことをお話しさせていただきました。あなたがもうじき殺人容疑で再逮捕されると伝え、そうなった場合、殺人幇助になる可能性があるから、今のうちに本当のことを話しておいた方がいいと助言して差し上げたんです。彼女はあっさり偽証を認めてくれましたよ。あなたからお金を積まれて、口裏を合わせるように頼まれたんだそうです。彼女の処遇については警察の判断に任せることになりますが、どうなんですか中野さん?」

「まぁ、大した罪には問われんだろう」

「だそうです」と優菜は憎たらしい笑顔で影山に告げる。

「くそッ、あのバカ女め……! あれだけ金を積んでやったのに!」

 醜く表情を歪め悔しがる影山に、愛美が言った。

「あなたの敗因は人の心までお金で買えると過信していたことです。簡単に従う人間ほど簡単に裏切るものだと、この機会に覚えておいた方がいいと思いますよ。被害者の安藤さんにあって、あなたになかったもの、それは人からの信用です」


 愛美の言葉を優菜が引き継ぐ。


「まぁ、これから時間はたっぷりあると思いますから、じっくりその辺りのことを考えて出直されるのがいいかと思います。それでは、私たちからは以上です。お疲れ様でした」


 そう締めくくり、中野に目配せをする。


 小さく首肯した中野は、毅然とした態度で言い放った。


「――影山和樹、殺人容疑で逮捕する」


 影山の両手に手錠がかけられた。


 五十嵐は二人に愛想良く会釈をしたあと、影山をパトカーに乗せ去って去って行く。


 優菜と愛美は得意げな表情で中野の方を向き直った。何か自分達に言うことはないのかと言外に謝礼を催促する。

 中野はなんだか決まりが悪そうにぐずぐずと言葉を選んだ結果、咳払いを一つ、無愛想に短く言った。

「……自宅まで送ろう」

 優菜と愛美は顔を見合わせ、ぷっと吹き出して笑うのだった。


                             

                     第三話「殺意の証明」おわり


《次回予告》――


第4話「生還への出口」

夏休みを取ってラスベガスにやって来た二人。

カジノで豪遊したその夜、宿泊先のホテルで一人の女が転落死した。

部屋はオートロック付きの密室。外部から何者かが侵入した形跡はなく、女は七階のベランダから自らの意思によって飛び降りたものと判断される。自殺の線が強まる中、優菜は同じホテルの二階に宿泊していたある男に目をつける……。

――男には女を殺す動機があった。

そして、巧みに状況を利用したその男は、電話一本で女を死へと導いたのだ――。



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