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第一話「影への挑戦」


 平日の昼間にもかかわらず、YOU&I探偵社では閑古鳥が鳴いていた。

 開業して約一ヶ月、まだまともな依頼は一件もない。まともな神経をした自営業者ならばこの危機的な現状に際し、熱心な広報活動や外回り営業などしてなんとか仕事を得ようと躍起になるものだが、暢気な二人は特に気にする様子もなく、自由気ままに暇な時間を満喫している。

 優菜は仕事用のデスクにだらしなく腰をかけ、白昼堂々、葡萄酒を嗜んでいた。

 ピカピカに磨かれた曇り一つないワイングラスに、濃紫色の液体を半分ほど注ぎ、窓から差し込む陽光に透かして眺める。その蠱惑的な色あいと揺らめきで目を保養することしばし、優菜は口を開け、液体を一気に喉の奥へと流し込む。

「ぷはーっ、やっぱり昼間ッから飲む酒は最高だなー!」

 日向で観葉植物に水をやりながら愛美が振り返った。

「そのワイン、ロマネ・コンティの一九七二年物よ。お味はいかがかしら?」

「うぅ~ん、ちょっと味がしつこいかな。コンビニに売ってあるやつの方が美味しいよ」

 一本百万円以上もする超高級ワインを教養のない一言で足蹴にし、優菜はごくごくと、まるで水でも飲むかのようにボトルを一つ開けてしまった。

 インターホンの呼び鈴が鳴る。はーいと返事をして、愛美が応対した。

 優菜はその隙にもう一本の高級ワイン、シャトー・マルゴーの一九六四年物に手を伸ばそうとする。愛美が慌てて駆け寄ってきた。

「大変! ユウちゃん、お客様よ!」

「え、客? 何の?」

「探偵社の!」

 優菜は急いでデスクの上の酒とつまみを片付け、愛美が玄関までお出迎えに行く。

 現れたのは大学生風のまだ若い女性だった。何か大きなトランクケースを引きずっている。服装や化粧は控えめで、なんとなく地味で大人しそうな雰囲気だった。

 まずは形式的に自己紹介から。

「はじめまして、社長の栗原優菜です」

「副社長の白鳥愛美でーす」

「は、はい……」

 引っ込み思案なのか、少し気後れした風な依頼人を応接用のソファーに座らせ、早速、仕事の話を始める。

「えーっと、それじゃあまず、あなたのお名前を伺っても宜しいですか?」

「はい、木村まどかです……」

「木村まどかさん。年齢は?」

「二十一です」

「大学生かな?」

「はい。東都女子大に通っています」

「へぇ、名門ですね。ご住所は?」

「新宿区代々木一丁目・二‐三、アパート倉本壮です」

 優菜はマニュアルに沿って質疑を行いながら、依頼人・木村まどかに関する基本情報を記録用紙に記入していく。一通りの手順を終えたところで、ちょうどお茶を汲みに行っていた愛美が戻って来た。

「どうぞ、温かいうちに召し上がってください」

「あ……」

 愛美はニコニコと嬉しそうにしながら、依頼人・まどかの顔を覗いている。

「……」

 まどかはどことなくバツが悪そうに、差し出されたティーカップを数秒眺める。

「紅茶はお嫌いだったかしら?」

 心配そうな顔をする愛美に、まどかは少し間を置いてから「いえ、頂きます」と答えた。

「お砂糖はおいくつ?」

「あ、大丈夫です。ありがとう、ございます……」

 なんだかもじもじしながらカップを手にとって、まどかは湯気の立ったレモンティーに口を付けた。

「……美味しいです」

「そう、良かった」

 優菜は愛美が隣に就いたところで、本題に入る。

「それで、今日はどういったご用件でしょうか?」

 まどかは俯き加減に控えめな声で話し出した。

「あのぅ、実は私……最近、誰かに付け回されているんです……」

 その一言に、愛美がキラキラと目を輝かせて反応した。

「うわぁ~、本格的な事件のにおいね~」

 優菜が大げさに咳払いをして、愛美を窘める。愛美も慌てて自分の口元を押さえた。

「……どういうことですか? 具体的に言うと?」

「――はい、ちょうど二週間ほど前のことです。その日はゼミの飲み会があって、帰りは夜の十一時頃でした。夜道を一人で歩いていると、なんとなく、誰かにあとを尾行(つけ)られているような気配がして、だけど振り返ってみると誰もいない。コツコツと足音は聞こえるのに、やっぱり私が振り返ろうとすると途端に消えてしまう。私に駆け寄って行って確かめるくらいの勇気があればよかったんですけど、もう怖くて……。はじめのうちは気のせいだろうと無視していたんです。だけどそのうち、頻繁に奇妙な視線を感じるようになりました……」

「奇妙な視線?」

 まどかは厳かに頷く。

「街角や公園の植え込み、電柱の陰、そんなちょっとした暗闇の中から、影のようにじっと私を見張っているんです。そのうち何割かは、単なる妄想なのかもしれませんが……」

「警察の方には?」

「ええ、届けは出したんですけど……。確信的な被害がない限り、正式に事件として扱うわけにはいかないって……。一応、周辺のパトロールは強化してくれるって言ってはくれましたけれど……」

 まどかの証言を調書に書き込みながら、優菜は質問を続けた。

「それで、――」

「〝ホシ〟は?」

 愛美がもっともらしく眉間に皺を寄せ、ベテラン刑事風に優菜の問いを遮った。

「一度言ってみたかったのよこれ~」と無邪気に笑う愛美はさておき。

「犯人に心当たりはないんですか?」

 まどかはかぶりを振った。

「ただ一度だけ、犯人の姿を見たことがあります」

「それはどんな人物でした? 何か特徴は?」

「暗かったし、それもほんの一瞬だったもので細かいことはあまりよく覚えていないんですが……大体、三十代半ばくらいの、黒っぽい服を着た男でした」

 愛美が興奮したように口走る。

「それストーカーってヤツね! うわぁ~、現実にいるんだぁ~」

「ばか。喜ぶな」

 愛美の頭をぽんと叩いて、優菜は再びまどかへの対応に戻る。

「それで、依頼内容の話に移りますが、私たちは何をすればいいんでしょう?」

「私を付け回している犯人の正体を突きとめて欲しいんです。警察は何か起こってからしか動いてくれませんし、私このままじゃあ不安で夜も眠れません。どうかお願いします」

 まどかは改まったように一度深く頭を下げた。

 愛美がその隙に声を潜めて優菜の肩をつつく。

「ユウちゃん、ユウちゃん、ねぇねぇ」

「なんだよ?」

「こんな本格的な事件を任されるなんて、とうとう私たちも売れてきたのね~」

「売れるもなにも、まだビラ配りと猫探ししかやってないだろ私たち?」

 他愛ないやり取りのあとで、優菜はまどかに向き直った。

「わかりました。それじゃあとりあえず、ご自宅までお送りしましょうか」

「すみません、お願いします……」

 三人はペントハウスを出て、まどかのアパートまで徒歩で向かう。

 愛美は横を歩きながら、まどかの変装に目を留めた。

 まどかはペントハウスを出るときから、帽子を目深に被りサングラスを着用していた。どうやら当社を訪れたときも同様に身に着けていたものらしい。

「それもストーカー対策?」

 愛美の問いにまどかは首肯した。

「ええ。どこで見られているかわからないものですから……」

 まどかはふと話題を変えた。

「お二人は、今お幾つなんですか?」

「私が二十歳で、愛美が二十二」

「私の方が、ユウちゃんよりも二つお姉さんなのよ?」

「へぇ~、そうなんですか。少し意外ですね」

「ユウちゃんは擦れてるから、年上に見られるの」

「お前が世間知らずで子供っぽいんだよ」

 息の合った二人のやりとりに、まどかは微笑した。

「でもお二人ともすごいですね、その若さで会社を経営しているなんて」

「別にあたしらは大したことしてないよ。アイの親父が金持ちだからさ、その七光りでやってるってだけ。ほとんどすね齧って遊んでるようなものよ」

「私、お嬢様なの」

「自分で言うな自分で」

「ホォ~ホッホッホッ!」

 愛美は口元に手を当て、お決まりの高飛車ポーズで軽快に笑った。

「……これ、一度やってみたかったのよね~」

「自虐ネタかよ」

 十分ほどしてアパート『倉元壮』に着いた。

「私の部屋は二階の、そう、一番奥にあるあの部屋です」

 二階までは外付けの階段を上らなければならない。

 優菜はまどかの引いている台車付きの大きなトランクケースに目を留め、声をかけた。

「手伝おうか?」

「あ、すみません……」

 優菜と愛美はまどかを手伝ってトランクを二階へと運ぶ。

「随分と重たいね。どこか旅行にでも行ってたの?」

「いえ、部屋に一人で居るのも不安だったもので……一週間ほど、近くのビジネスホテルに宿泊していたんです」

「ふぅん、そう……」

 まどかが鍵を取り出し扉を開けたところで、優菜と愛美は並んで見送った。

「それじゃあ、私たちはこれから周辺の聞き込みをしたり、怪しい奴がいないか外で見張っているから。何かあったら遠慮なく声をかけて?」

「すみません、きちんとしたおもてなしも出来ずに……。しばらく部屋を空けていたものですから、中が少し散らかっていて……」

「いいのよ別に。こっちは仕事なんだから、気にしないで?」

「そうですか。それじゃあ、何かあったら電話してください」

まどかが部屋に入るのを見届け、二人は任務に就いた。

 まずは周辺の聞き込みから。近所の住人や通行人を捕まえ、最近この付近で不審な人物を目撃しなかったか、何か気づいたことや、変わったことはないかと手当たり次第に質問をぶつけてゆく。しかしその成果は芳しくなく、該当するような情報は得られなかった。

 日が落ち、辺りに夜の張が下りると、二人はアパートの前に張りこんで、ストーカー男が現れるのを待つ。

 買出しに行っていた愛美が帰ってきて、優菜にアンパンと牛乳を手渡した。

「もっといいもん買って来いよ~」

「だってこれが定番でしょう?」

「テレビの見すぎなんだよお前は」

 自分の分のアンパンを頬張りながら、愛美はなんだかソワソワと落ち着かない様子。

「張り込みかぁ。なんだかドラマみたいでワクワクするわね。あ~、早く来ないかしら、ストーカー」

「おいおい……。来なきゃ来ないで、それが一番いいんだぞ?」

 それから一時間が経ち、二時間が経ち……一向に不審者が現れる気配はない。

 最初はウキウキワクワクとしていた愛美も、その頃になるとすっかり飽きてしまった様子で、退屈そうに唇を尖らせていた。

「張り込みって、意外とつまんないのね……」

「捜査は根気と忍耐だって、お前の好きなテレビで言ってなかったか?」

「だってぇ、テレビだと一時間で解決しちゃうじゃない」

「そりゃあ、テレビだからなぁ?」

 それからさらに数時間が経過。夜もすっかり更けてきた。

 愛美はその場にしゃがみ込んで、こっくりこっくりと夢の船を漕いでいる。

 その様子を見た優菜は、腕時計で時刻を確認した。時間はちょうど深夜一時をまわったところ。張り込みを開始してから六時間以上が経過していた。

「さすがに限界か……」

 近くの公衆電話から控えておいた番号に電話をかける。まどかの部屋に繋がった。

「もしもし、栗原だけど。……うん、うん。あれからずっと見張ってるんだけど、別に変わった様子はないよ。今夜はもう来ないかもな」

『そうですか。すみませんでした長々と……。もう遅いですし、お二人ともお帰りになってください』

「そう。じゃあ続きはまた明日ってことで。ああ、戸締りだけはしっかりしてね。何かあったら事務所に電話して? うん、うん……。おやすみ」

 受話器を置いた優菜は、うとうとしている愛美を揺すり起こした。

「アイ、今日はもう帰っていいってさ」

「ユウちゃん、おんぶして……」

「ばか。甘えるな。お前お姉さんだろ」

「じゃあもう子供でいい……」

 優菜はふっと溜息をついてから、仕方ないなと愛美を背負って帰った。


             ***


 翌朝、優菜は陶磁器の割れる音と、慌ただしく駆けて来る足音によって目を覚ました。

「たっ、大変よユウちゃん!」

 早起きの愛美が物凄い勢いで寝室に飛び込んで来た。

「……なんだよ。またゴキブリでも出たのか……?」

 すげなくそう言って、優菜は掛け布団を頭から被ろうとする。

 愛美は布団を剥ぎ取って、捲くし立てた。

「そんなこと言ってる場合じゃないのよ! とにかく起きて!!」

 血相を変えた愛美に手を引かれ、優菜はしぶしぶリビングへと赴く。

「なんだよ……。ゴキブリなんてどこにもいないじゃないか」

「違うったら!」

 愛美が指し示す先。つけっぱなしのテレビが、昨夜起こった事件のことを淡々と伝えていた。画面いっぱいに映し出されていたのは、火事で全焼した一軒のアパート。建物自体はすっかり焼け落ちて見る影もないが、その外観には見覚えがあった。

 白い煙を上げていまだ燻っている残骸の中に、焼け爛れ、飴細工のように変形した看板が一つ。

「――」

 優菜の顔色が一変する。

画面の向こうで燃えていたのは〝倉元壮〟だった。――



『……尚、死亡したのはこの部屋に住む大学生の木村まどかさん・二十一歳で、まどかさんは全身をバラバラに切断されており、犯人はまどかさんを殺害後、部屋に火を放って逃走したものと思われます』



                 ***


 その日の夕方、優菜と愛美は参考人として警察署に出頭した。

 優菜の取調べを担当するのは中野という男。長身で、歳は二十代半ばながら厳つい顔つきには一種の貫禄があり、その鋭い眼光は猛禽類を思わせる。

「――現場付近で複数の目撃証言が出てる。お前ともう一人、連れの女があのアパートの前で数時間たむろしていたってなァ? 一体、何をしていたんだ? 正直に答えろ」

 中野刑事の取調べは終始威圧的だった。しかし負けず嫌いの優菜も、それに対しては強気な姿勢で臨んでいる。

「その前にきちんと事件のことを説明してもらいたいね。一体、何が起こったんだよ?」

「質問しているのはこっちの方だ。お前は訊かれたことにだけ答えろ」

「あたしらは任意で出頭した参考人のはずだぜ? もっと親切に扱ったらどうだよ」

「下手に口答えすれば、キサマらの容疑が深まるだけだぞ?」

「ふん、まるで犯人扱いだな……。参考人ってのは名目だけで、その実あたしらは有力な容疑者ってわけかい」

「違うのか? だったらその訳を話してみろ。どうした? 話せんのか? 何か後ろ暗いわけでもあるんじゃないのか? ん……? お前が木村まどかを殺したんじゃないのか?」

「チィッ、ふざけんなこの野郎!!」

 痺れを切らした優菜は、思わず立ち上がって机を引っ叩いた。

「……」

 中野は微動だにせず、ただ黙ったままじっと観察するように、取り乱した優菜の姿を見据えている。それに気づいた優菜は冷静に考えて、大人しく椅子に座りなおした。このまま刑事を挑発したところで意味はない。そもそもここに来た理由は、自身に掛かった嫌疑を晴らすことと、警察が掴んでいる事件の情報を得るためだ。優菜は不服そうにそっぽを向きながらも、その場はしぶしぶと譲歩した。

「別に黙秘なんかする気はない……。ただ少しアンタの態度が気に入らなかっただけだ。そっちが事件の詳細を教えてくれたら、あたしも知ってることは全部話すよ……」

 中野も優菜が態度を改めると、それに応じて手元の資料をめくり始めた。

「どこから話せばいい?」

「……最初から。なるべく詳しく」

 

 ――本日早朝・午前三時頃、アパート『倉元壮』が燃えていると近くの住人から通報があり、消防隊、救急隊、警察隊が出動した。消防隊が駆けつけたとき、既に火の手は建物全体に広がっており、懸命な消火活動を行ったが、建物は全焼。発見が遅れた理由としては、そもそもが深夜三時という時間帯であり付近の人通りは少なく、またこのアパートに住む住人は水商売系の女性がほとんどのため、その時間帯はちょうど部屋を空けていたこと等が挙げられる。鎮火後、二階の五号室から女性の変死体が発見される。死体は全身をバラバラに切断されており、黒焦げの状態で発見された。該者は当アパート五号室に住む大学生・木村まどか(21歳)と断定。司法解剖の結果、死因は顔面を鋭い刃物で複数回刺されたことによる前頭部の頭蓋骨損壊、及び脳神経の断裂と推定。遺体の損傷が著しく、正確な死亡推定時刻の割り出しは難しい。のちに焼け落ちた現場から犯行に使われたと思われる出刃包丁と鋸が発見されるも、状態が悪く指紋は検出されなかった。犯人は木村まどかを殺害後、証拠の隠滅を目的として部屋に火を放ったものと思われる。――


「顔面を滅茶苦茶に切り刻んだ挙句、その死体をバラバラにして、放火までしてるんだ。こいつァ尋常のやり口じゃない。俺たちは怨恨の線で、精神異常者の犯行を疑ってる」

 大方話し終えた中野は腕を組み、顎をしゃくるように優菜を見た。

「さぁ、今度はお前さんの番だぜ……?」

 優菜は少し考え、昨日の出来事を一つずつ順番に思い出しながら語り出した。

「昨日の昼過ぎ、私たちの経営する『YOU&I探偵社』に木村まどかが依頼人として訪れたのは、確か午後二時頃……。彼女は二週間ほど前からストーカー被害に遭っていたみたいで、依頼内容はその調査だった。私と愛美が彼女を自宅まで送り届けたのが大体、午後三時頃で、それから私と愛美は二時間くらい周辺の聞き込みにまわったんだけれど、結局彼女を付け回している不審な人物に関する目撃情報は得られなかった。そのあと私達は午後五時頃から深夜一時過ぎまでアパートの前に張り込んで、その男が現れるのを待った。結局、男が現れる気配がなかったものだから、彼女に電話をかけて、一時半頃には家に帰ったんだ」

 優菜の証言の中からいくつか出て来た新しい情報。その中で特に重要と思われるものを中野は順番に拾い上げて整理した。

「電話をかけたとき、彼女の様子はどうだった?」

「別に変わったところはなかったように思うけど……」

「最後に彼女と話したときの、時間は覚えているか?」

「ちょうど深夜一時をまわったところだったな。電話をかける前に腕時計で時刻を確認していたから、正確なはずだぜ?」

 優菜の証言と火災の通報があった時刻を差し引きすると、木村まどかの死亡推定時刻は、午前一時過ぎから三時までの間ということになる。

「被害者を付け回していた不審な人物について、何か情報はないのか?」

「まどかの供述だと、黒っぽい服を着た三十代半ばくらいの男だったそうだ。それ以上のことは何もわからない」

 質問を小休止し、中野は眉間にしわを寄せた表情で嘆息するように言った。

「狙われているとわかっていながら、何故、警察に届け出なかったんだ……」

「届けは出してたみたいだぜ? アンタら警察はさ、何かが起こってからしか動こうとしないだろ。警察が頼りにならないから、私らのところに来たんだよ彼女は」

 優菜の責め立てるような言葉はクリティカルを突いたらしく、中野はそれに対して何も言わなかった。


 ――その頃、別室では愛美の取調べも平行して行われていた。

 愛美の取り調べには、何故か三人も刑事が就いていた。実際に質疑をするのは五十嵐というまだ新米の若い男。他に刑事課長と係長が付き添っている。

 愛美の取調室は、優菜の取調室とはまた別の緊張感に包まれていた。

「……あのぅ、何かご存知のことを話していただけませんか?」

 上司二人に促され、五十嵐刑事は妙に腰の低い態度で、おずおずと申し出た。課長と係長は額の汗をしきりにハンカチで拭いながら、終始愛美の機嫌を窺っている。愛美が大手広告代理店の社長令嬢であるため、気後れしているのだ。実際に応対しているのが新米の五十嵐であるという点も、何か失礼があった際、責任を取らせるのに好都合だからである。

「うぅ~ん……」

 愛美は何か不服そうに頬を膨らませていた。

「ねぇ、そんなことより出前はまだかしら?」

「はい?」

「カツ丼よ、カツ丼。取調べと言ったら定番でしょう?」

 刑事課長は揉み手をせんばかりに追従した。

「あっ、これは気づきませんで、どうも失礼をいたしましたお嬢様! おい、早急に注文して来なさい! 大至急だ!」

「はっ、はいぃ!」

 怒気を孕んだ口調で課長が係長をせっつく。

「あ、それ僕が行きましょうか!?」

 五十嵐は出前の注文を口実にその場から逃げ出そうとする。係長が慌てて引きとめた。

「いいんだよキミは! 私が取って来るから! キミはお嬢様のお相手をして!」

 係長は五十嵐が居なくなれば、次に愛美の相手をするのは自分だと悟ったのだ。転がるように部屋を飛び出して行った。

「どうかもうしばらくお待ちくださいお嬢様! すぐにお持ちいたしますので!」

 三人の気苦労など露知らず、愛美は暢気に「そう」とだけ答えると、今度は室内をぐるぐると見回しはじめた。

「ふぅ~ん? これが本物の取調室かぁ。意外と狭いのねー」

「申し訳ございません、こんな小汚いところに及び立てして」

「ううん、いいのよ別に。私、一度来てみたかったし」

「恐縮です」

 引き攣った笑顔を取り繕い、なんとか間を持たせながら、刑事課長は五十嵐に無言のプレッシャーをかける。早く要点を聞き出せとそう含んでいた。

 五十嵐は困ったように頭を掻きながら、恐る恐る口を開いた。

「あ、あのぅ……」

 愛美が無邪気にそれを遮る。

「――ねぇねぇ、警察手帳って持ってるの?」

 五十嵐はすぐさま懐から現物を取り出して見せた。

「うわぁ~、テレビで見るのとは少し違うのね。〝ワッパ〟は?」

 手錠を見せてもらうと、愛美は手を叩いて喜んだ。

「すご~い! テレビで見るのとおんなじね! ねぇねぇ、〝ハジキ〟は持ってないの?」

「拳銃を身に着けるのは携帯命令が出たときだけでして、通常は備品倉庫に保管されているんですよ」

「へぇ~、そうなんだ。じゃあ、あとでそこを見学させてもらってもいい?」

「ええ、それはもう、こちらの五十嵐が責任を持って署内をご案内いたしますので!」

「ええっ、どうしてそれも僕なんですかぁ!?」

「五十嵐ッ! 貴様ァ、口を慎まんか! これは命令だぞ!」

 頭を抱えてうんうんと唸る五十嵐。愛美は気にせず、上機嫌に笑った。

「うふふ。それじゃあ、よろしくお願いしますね?」

「はい、お任せください。あっはっはっ!」

 こちらは完全に愛美のペースだった。――……



 取調べを終え、二人はひとまず帰宅を許された。

「アイ、そっちはどうだった?」

 優菜の問いかけに、愛美はうきうきとしながら答える。

「楽しかったわよ。色々見せてもらっちゃったし、カツ丼も美味しかったわ」

「お前、何しに行ったんだよ……」

「だけど一つ残念だったのは、刑事さんたちが私のイメージと違っていたこと。なんだかサラリーマンの接待みたいで、いつも犯人に対してあんな調子なのかしら? 私はもっと強面で、それこそ会った瞬間から脅しをかけてくるような、そういう凄味のある刑事さんが見たかったのになぁ~」

「あたしのところに来たデカは、丁度そういう奴だったよ」

「え、そうなの? いいなぁ~、ユウちゃん。私も怖い人みたかった~」

 優菜は愛美の能天気さに呆れて頭を抱えた。

「あのなぁ、アイ……。それどころじゃねーだろぉ? 依頼人が殺されたんだぜ?」

「ごめんなさい、そうだったわね」

 二人はしばしば真剣な顔つきになって相談を始めた。

 まずは優菜が、取り調べの中で仕入れた情報を提示する。愛美は黙ってそれを聞いていた。

「それじゃあやっぱり、犯人は例のストーカーなのかしら」

「しかし単なる変質者とも思えないぜ? これはデカも言ってたことだけどな、殺し方が異常なんだ。かといって単純な快楽殺人とも違う気がする。あたしは何か、怨念じみたものを感じるんだよ」

「ウ~ム」と愛美はもっともらしく腕を組み、深く考え込むような表情をする。

「……それで、とりあえずこれからどうするの?」

「そうだな、明日からは二手に分かれて情報を集めよう。アイは引き続き、アパートの近辺で不審者の聞き込み。あたしは依頼人の木村まどかを洗ってみる。今度の事件が怨恨だとすれば、きっと彼女の関係者から怪しい奴が浮かんで来るはずだ」

 優菜がそう言うと、愛美はにやにやと笑って楽しそうに言った。

「なんだかドラマみたいね~。かっこいい~」

 無邪気なお嬢様に、優菜は毒気を抜かれて苦笑するのだった。

 

               ***


 翌朝、身支度を整えた優菜と愛美は、揃ってペントハウスを出た。

 途中まで一緒に歩きながら、優菜は鼻歌交じりにスキップしている愛美の服装に目を留め、水を差すように言った。

「こんなのいつの間に買ったんだよ?」

 愛美は茶色地にチェックの柄の上着を羽織り、ハンチングキャップを被っている。さながら某推理派・名探偵のような格好だった。

「ふふぅ~ん、内緒♪」

 ポケットから虫眼鏡と煙管パイプまで取り出してみせる愛美。彼女は思う存分、今の生活を楽しんでいるようだ。

「ユウちゃんもなかなか似合ってるわよ~?」

「……勘弁してよもう」

 優菜は恥ずかしそうに肩を窄め、猫背になって歩く。優菜は黒のツーピースに身を包み、丸形フレームのレトロチックなサングラスを掛けさせられていた。愛美曰く、優菜のコンセプトはアクション型のハードボイルドな探偵らしい。

「これから聞き込みだってのに、こんな格好してたんじゃあ逆に怪しまれちまうよ」

「ダメダメ。こういうのはまず形から入るものなの!」

 愛美は妙なところで押しが強く、頑固だった。

「――それじゃあ、しっかりやれよ?」

「ユウちゃんもね?」

 凸凹コンビの二人は途中で別れ、それぞれ決められた役割に就く。

 アパート付近で不審者に関する情報収集を担当することになった愛美は、尋ねた民家でお年寄りを相手に長々と世間話に耽ったり、途中でばったりと遭遇した中野・五十嵐、両刑事の聞き込みに無理やり同伴して、彼らの情報を盗み聞きしたりと、相変わらずの能天気さではあるものの、それなりに上手く諜報活動を行っている様子。

 優菜は木村まどかの関係者を尋ねて、彼女の通っていた東都女子大学を訪れた。

 まずは事務員や教師を言葉巧みに言い包め、彼女の専行していた講座名や主な交友関係など大まかなことを聞き出した。そして今度はそれを基に、より細かく、手当たり次第に生徒たちをあたっていく……。

「――木村まどか?」

 既に聞き込みを始めて十数人目となる、まどかと同じ講座を取っていた女子生徒は、彼女のことを尋ねると怪訝な顔つきになった。

「あまり好い噂は聞いたことないわね。はっきり言って彼女、鼻つまみ者なのよ。とにかく高慢というか態度が大きくてね? 彼女が誰かと親しくしている姿ところなんて見たことがないわ。そもそも、授業にすらほとんど出てこなかったもの」

 まどかに対する悪態を吐いた女子生徒は、不意に声を潜め、優菜に耳打ちして来た。

「……それにねぇ、大きな声じゃいえないけど、裏じゃヤバイことやってたなんて噂もあるのよ」

 優菜は目を眇めて、訊き返した。

「……ヤバイこと?」

 女生徒は厳かに頷き、重たいトーンで囁くように言った。

「――売春よ」

 出て来た単語に、さすがの優菜も驚いて目を丸くする。

「それも単なる売春じゃなくて、所謂、美人局ってやつらしいのよ。妻子持ちのおじさんなんかを上手く引っ掛けて、関係を持ったあと、今度はそれをネタにして強請ってたんだって……。そのせいで身を持ち崩しちゃって自殺した人もいるとか……。まぁ、私も噂に聞いただけだから、本当かどうかはわかんないけど、火のないところになんとやらって言うじゃない……?」


               ***


 夜、帰宅した優菜と愛美は夕食後のティータイムがてら、今日一日の成果を互いに報告し合った。

「――ストーカーについてだけどね、結果から言えば、やっぱり何の情報も出て来なかったわ。半日歩き回って、あの辺りの民家はほとんど虱潰しにあたったんだけど、不審者の情報は全然なし……。ただ途中で刑事さんたちと会ってね、そこでちょっと妙なことを聞いたのよ」

「妙なことって?」

「まどかさんは私たちのところに来る前、一応警察にも被害届けを出して、付近のパトロールを強化してもらうことになったって言っていたでしょう? ――だけどね、刑事さんたちが調べ直したところ、彼女がストーカー被害の届出を出したなんていう記録はどこにも無かったらしいのよ」

 愛美は眉根を寄せ、不可解そうに小首を傾げた。

「どういうことなんだろう? 警察が自分たちの面子を気にして記録を隠蔽したのかしら?」

 優菜は少し考え込みながら口を開いた。

「いや、妙なのはこっちもなんだ……。まどかが不審な男に気づいたのは二週間前、ゼミの飲み会帰りって話だったはずなんだけど、その日はどこのゼミでも飲み会なんて開かれてなかった。そもそも、まどかはゼミ自体に所属していないんだよ」

「それじゃあ、彼女が嘘を吐いていたってこと? でも、そんな嘘を吐いて、いったい何の意味があるの?」

「あたしにもわかんないよ。まぁ依頼人が嘘を吐くこと自体はそう珍しくもないんだけど……う~ん、何かが引っ掛かるんだよなぁー」

 優菜は頭の後ろで手を組んで、ソファーの背もたれに大きく身を預けた。

「学校での木村まどかの評判は、はっきり最低だったよ」

「え?」

 愛美は酷く意外そうな反応をする。だがそれは実のところ優菜も同じだった。

「――性格が悪くて、化粧が濃くて、友達なんか一人もいないし、授業にも出てこない。おまけに売春や美人局の真似事やってるなんて悪い噂まで流れてる。……仮にすべて事実だとしたら、相当なアバヅレだぞあれは」

そんなぁ、と愛美は異議申し立てるように言った。

「何かの間違いじゃない? とてもそんな風には見えなかったけど」

「……ああ、私もそう思ったんだよ。だけど、他の連中が皆で口裏を合わせてるなんてことは考えられないだろ……」

 優菜と愛美の知っている彼女は、素朴で控えめで、とても大人しそうな娘だった。今挙げた評判にはまるで当てはまらない。むしろ、まるっきり正反対だとも言える。

 背筋のあたりをゾクゾクと這い上がる冷たい感覚。

 優菜は何か、得体の知れない不気味さを感じていた。

「あっ、そうだ忘れてた!」

 そんな折、愛美は思い出したようにテレビのリモコンを手に取った。九時から見たいテレビドラマがあったそうだ。チャンネルをまわすと、ちょうど夜のニュースで今度の事件のことを扱っていた。何気なく目を留める二人。別に真新しい情報は何もない。画面が切り替わって、被害者・木村まどかの顔写真が映し出される。

「「――!?」」


 優菜と愛美は驚愕した。


「ねぇ、これは、一体どういうことなの……?」

「……さぁ?」

 二人は茫然と、木村まどかの名で映し出されている、見知らぬ女の顔写真を眺めた。


              ***

 

 不審に思った優菜は、すぐさま城南警察署の刑事課へと電話を掛けた。中野刑事を呼び出し、ライン越しに確認を求める。数分ほど話して受話器を置くと、優菜は愛美に事の真相を説明した……。

「――整形?」

 あっけらかんとオウム返しで聞き返してくる愛美に、優菜は気の抜けた表情で頷く。

「木村まどかは高校を卒業したあと、美容整形で外科手術を受けていたらしい」

「それじゃあ、さっきテレビに出てたのは……」

「ああ、手術を受ける以前の彼女だそうだ。写真はどうやら、高校時代の卒業アルバムから使用されたらしいな。彼女の同窓生が、放送局に提供したんじゃないか?」

「なぁ~んだ。もうビックリしちゃったわよ~。それにしても彼女、整形美人さんだったのね。またまた意外だわ~」

 愛美はそれで納得したように安堵の笑みを浮かべているが、優菜はむしろ逆だった。

 それまで感じていた奇妙な違和感が、余計に増して来たような感覚さえある。

「でもテレビ局も酷いことするわね。どうせだったら、最近の写真を使ってあげればいいのに」

「……それはたぶん、使える写真がなかったんじゃないかな? 彼女が整形したのは田舎の高校を出て、こっちに来てからだし、彼女には特に親しい友人関係もなかった。もともと整形後の写真は少なかったんだと思う。まぁ、本人なら自分の写真くらいいくらか持っていたかもしれないけど、それはアパートの火災で全部焼けてしまっているしな?」

「ふぅーん、そっかぁー」

 一段落ついたところで、愛美は今後の予定を質した。

「明日はどうするの?」

「そうだな。……確か噂の中には、まどかの美人局に引っ掛かって自殺した男がいたって話だ。もしかすると今度の事件に何か関係があるかもしれない。アイは明日、城南署に行って、自殺者リストの中から条件に該当する人物の名前と住所をチェックして来てくれ。条件は過去三年の間に、新宿界隈で自殺した妻子持ちの男――」

「わかったわ。それで、ユウちゃんはどうするの?」

「私は一度まどかの郷里に行って、過去の友人関係をあたってみるよ。確か千葉の片田舎で、ここから電車で二時間ほど行ったところだったはずだ」

「車があればよかったわね?」

「そうだな。じゃあ今度、お前のパパにお願いしておいてくれ」

「うん、そうする」


               ***


 次の日。ニコニコしながら警察署を訪れた愛美は、生来の素質である自覚無しの図々しさを如何なく発揮し、本来一般人には非公開のはずの自殺者名簿を、特別な許可を得て見せてもらっていた。半日資料室に篭もって、克明にリストをチェックする。

「チッ、何で俺までこんなことをしなきゃならんのだ」

「まぁまぁ先輩、課長からの命令ですから……」

 不幸にもその場に居合わせてしまった中野・五十嵐の両刑事は、またも愛美の面倒に巻き込まれ、リストアップの手伝いをさせられていた。

「お二人とも真面目にやってくださいね? 条件は過去三年の間に、新宿界隈で自殺した妻子持ちの男性ですよ?」

「何様のつもりだお前らは! 昨日といい今日といい、俺たちの邪魔ばっかりしやがって! 大体なぁ!? 俺たちは素人の探偵ごっこに付き合ってる暇はねぇんだよ!」

「せ、先輩! 抑えてくださいよ! あとで怒られるのは僕なんですから!」

 中野が怒り出すと、愛美は何故かパチパチと手を叩いて喜んだ。

「うわぁ~、本物の暴力刑事だわ~♪ すご~い!」

 愛美の天真爛漫さに敵うはずもなく、中野と五十嵐は情けなく顔を見合わせて、すっかり牙を抜かれたようになってしまった。


 優菜は朝から電車を乗り継いで、彼女の実家がある千葉県にやって来た。

 控えておいた住所をもとに、まずはまどかの実家を尋ねる。

 彼女の父親に会って、事件の捜査をしていると伝えると、話を聞かせてくれた。

「――うちは女房を早くに失くしたものですから、娘には辛い思いをさせていたのかもしれません。幼い頃から、私は仕事で家を空けることがしょっちゅうでしたし、年頃になると、男親には言い辛いこともたくさんあったのでしょう……。東京の大学に受かって、向こうへ行ってからは、一度も帰って来たことはありませんでした。電話をかけても『今忙しいから』と、まるで取り合ってくれず……。お恥ずかしい話だが、私はあの子のことを何も知らないんですよ……」

 まどかの父親は事件のショックからか酷くやつれ、虚ろな目をしていた。

 彼女の実家をあとにした優菜は、次に木村まどかの母校を尋ねた。

 そこで高校時代のクラス名簿を拝借し、彼女の級友に片端から電話をかけてゆく。田舎町のため、進学や就職で遠くへ行っている者も多かったが、何人かはまだ近くに住んでいることがわかった。

 優菜は彼らの現住所を一軒一軒尋ね、話を聞いてまわることにした。


              ***


 その日、優菜が帰宅したのは深夜十二時近かった。

 先に風呂を貰って一日歩き回った疲れを癒すと、愛美が労うように温かい紅茶を差し出して来た。

「夕飯は?」

「いい。途中で食べて来た」

「遅かったわねぇ。疲れたでしょう?」

「まぁね。でもどっちかって言うと、気疲れの方かも……」

 愛美は少し表情を曇らせて尋ねた。

「また悪い噂……?」

 優菜は軽い溜息を一つ、首肯する。

「そうだな。あんまり気持ちのいい話じゃないことは確かだよ」

 上質な香りの立つ紅茶で口の中を軽く湿らせてから、優菜は話し出した。

「――高校時代の木村まどかは、とりわけ地味で目立たない存在だったらしい。彼女はその、……容姿のことで、男子からも女子からも酷い嫌がらせを受けていたみたいだよ」

「彼女、いじめられっ子だったの?」

「ああ……。まどかの同級生で、小学校が一緒だったって奴からも話を聞いたんだが、どうやらその当時から不遇な扱いを受けていたみたいだぜ」

 優菜はまどかの父親から許可を得て借りてきた、高校時代のクラス写真を取り出して見せた。まどかは端の方に一人でぽつんと立ち、暗い顔をして写っている。

「可哀想に……。そこまで酷い容姿とも思えないのに」

「お前が言うとただの嫌味に聞えるよ」

「失礼しちゃうわ。ユウちゃんだって可愛いお顔してるじゃない?」

 優菜は誤魔化すように咳払いを一つして、逸れかけた話を元に戻す。

「長年虐げられ続けたまどかは、自分の容姿に相当なコンプレックスを持っていたんだと思う。東京の大学をわざわざ進学先に選んだのも、きっと、それまでの自分とは決別を表すような意味合いがあったんじゃないかな?」

 大学での彼女の評判と照らし合わせて、愛美が何やら感慨深げに頷く。

「整形手術を受けてからは、それまで鬱積していたものを吐き出したのね」

「だが問題はそこじゃないんだ。まどかの父親に会って話を聞いたが、彼女は上京してからの三年余り、ただの一度も帰郷していなかったらしい。ろくっすっぽ連絡も取らなかったみたいで、彼女の父親はまどかが整形していたという事実すらも知らなかった。これがどういうことだか分かるか?」

 愛美は眉間にしわを寄せた表情で首を傾げ、「親不孝?」と見当違いなことを言った。

 優菜は気にせず、話を続ける。

「手術の費用だよ。一体どれくらい掛かるものか、あまり詳しいことは知らないけどさ、親からの援助もなく、高校出たての学生がぽんと出せるような金額じゃないことだけは確かだろう。恐らくまどかはどこかで借金をしていたはずだ。それも、田舎から出て来たばかりの彼女が、親の許可なくまとまった金を借りられるところといえば、十中八九、まともな金融会社じゃないと思う」

「闇金ってやつね?」

「たぶんな。……そうなると、今度は美人局の噂が真実味を帯びてくるわけだ。整形して容姿を見違えたまどかは、見返りに、それを資本として借金を返すことになった。金融会社から無理矢理強要されたのか、それともまどか自身が、最初からそうするつもりだったのかはわからない。まぁ、彼女が利用した金融会社の特定は、警察に任せるしかないだろうな」

「どうして?」

「闇金業者だとすれば、暴力団やそれに近いような荒っぽい連中が絡んでくる。いくらなんでも私たちの手には負えないだろ」

 愛美は腕組をして、うーんと唸った。

「まどかさんの毒牙に掛かった男の人が、彼女を怨んで犯行に及んだのかしら」

「そう考えれば辻褄は合うけど、犯人の特定は難しいだろうね。なにしろ、まどかの美人局疑惑そのものが今のところ憶測の域を出ていないんだ。美人局を立証するためには、被害者の証言が必要不可欠になる。問題はそこなんだよなぁ……」

 愛美も今度は優菜の言いたいことをちゃんと察した。

「きっと被害者の男性たちにも、どこか後ろ暗いところがあるのね?」

「……そう。彼らにはそれぞれ、家庭や、社会的な立場・信用ってものがあるんだろう。たとえ痛い目に遭っても、それが公に晒される事を考えれば、堅く口を噤んで泣き寝入りするしかない。美人局を仕掛ける側からすれば、そういった人間こそ格好の獲物なんだ。――被害者が名乗り出られない……。美人局や、その他の性犯罪にも共通する問題だ」

「何か、解決に繋がる近道みたいなものはないのかしらねー」

「そんなものがあれば苦労はしないがね……。――そういえば、そっちはどうだった?」

 優菜のふとした問い掛けに、愛美は快活な調子で答えた。

「過去三年の間に、この新宿界隈で自殺した妻子持ちの男性だったわね? 条件に該当する人物の名前と住所をリストアップして来たわ」

 愛美は得意げに半日掛かって調べ上げたリストを広げてみせる。

「結構、多いなぁ……」

 優菜の漏らした感想に、愛美もしみじみと同意する。

「これでも大分、絞り込んだ方なんだけどねぇ……。刑事さんから聞いた話だと、日本では一年間に約二万人も自殺するんですって。みんな色々と病んでるのねぇ……」

「みんながお前みたいな性格だったらいいのにな?」

「失礼しちゃうわ。それじゃあ私が何の悩みもないお気楽な人みたいじゃない?」

『いや、そうだろうよ』とはあえて言わずに、優菜は冷静に分析した。

「……これだけの数を一軒一軒虱潰しあたるのは、さすがに骨が折れるぜ」

「ご遺族の方も、あまりそういったことは話したがらないでしょうし、こっちもちょっと難しいかもしれないわねぇ……」

 優菜は盛大に溜息を吐いて、ソファーに寝そべった。

「結局、手詰まりか……」

「やっぱりあとは、警察に任せるしかないのかしら……」

 愛美も人差し指を口元に当てて、ちょっぴり物憂げな表情をする。

 少し考える間を置こうと、紅茶の入ったティーカップに手を伸ばす優菜。そこで些細なことに気がついた。

「……あれ? なぁ、このカップ、来客用じゃないか?」

 愛美は少し困ったように笑いながら答える。

「ああ、それね、ごめんなさい? ユウちゃんのカップ、このあいだ割っちゃったのよ」

「この間って、いつ?」

「おとといの朝。――ほら、ニュースで最初にまどかさんの事件を知ったとき、ビックリしちゃって、つい手を滑らせちゃったの。ありがちでしょ?」

 優菜は薄ぼんやりと思い出す。そういえばあの日、朝目が覚めたときに何か陶磁器のような物が派手に割れる音を聞いた気がする。どうりでどこか悪夢的な響きを持っていたはずだ。なにせ三十万円のティーカップが損壊した音だったのだから。

「あっ、そうだわ!」

 愛美が何か思い立ったように、ぽんと手を打ち、快活な調子で切り出した。

「ねぇねぇユウちゃん、明日は二人でお出かけしない? この二日ばかり、忙しくてちゃんとした物も食べていないでしょう? ユウちゃんの新しいカップも買わないといけないし、捜査の方も根を詰めすぎるよりは、この辺で一旦気分転換でもした方が、何か良い考えがパーッと浮かぶかも!」

「ん~、そうだな。どうせ他に目処も立っていないし、そうするか」

 優菜は大して考える間もなく、愛美の案に乗った。

 

                ***

 

 翌日、二人は昼頃からのんびりと起床して、大勢の人で賑わう街に繰り出した。

 高級イタリアレストランで昼食を取り、その後はアンティークショップやブティックなどを転々とする。愛美がいる手前、もちろんどの店も御高名で、本来ならば超がつくほど敷居の高い店であることは言うまでもない。

 あっという間に夜になって、夕食は銀座の鮨屋に入った。なお支払いはすべて愛美の所有している、噂によれば戦車でも買えるというあの黒いカードである。今日一日で一体いくら使ったのか、考えるだけでも気が遠くなりそうだが、付き合いの長い優菜はすっかり慣れてしまった様子で平然としていた。

 夕食のあとは、愛美お嬢様起ってのご希望であるディスコへと向かった。

 薄暗い店の中、色とりどりのライトが目まぐるしく交差し、地鳴りのような音楽とともに奇声を上げて踊り狂う若い男女。酒と煙草と人間の熱気で酷く濁った空気。いかがわしい臭いがぷんぷんと漂っている。優菜はともかく、外見的にも内面的にも育ちの良い愛美にはまるで似つかわしくない。しかし愛美はむしろそういう事柄にこそ興味を抱く傾向にあり、特にディスコやライブハウスなど、騒がしく柄の悪い場所が昔から大好きだった。

 散々はしゃぎ疲れた二人がディスコを出ると、既に時刻は夜の十一時を過ぎたところ。

 そろそろ帰ろうかと、表でタクシーを待つ。

「ふぅ~、今日はいっぱい遊んだね~」

「そうだな」

 愛美は満足げに笑いながら言った。優菜もにこやかに答える。

 そのとき、けたたましくサイレンの音を響かせながら消防車が立て続けに三台、目の前の車道を突っ走って行く。どこかで火事があったらしい。

 愛美が声を弾ませた。

「ユウちゃんユウちゃん、見に行こうよ!」

 愛美は江戸っ子よろしく、火事や喧嘩などを見物するのも大好きだった。つまるところミーハーなのだ。通り掛ったタクシーを捕まえ、消防車を追って火災の現場まで赴く。

 タクシーを近くの道で待たせたまま、二人が集まっていた人だかりの中から顔を覗かせると、燃えていたのはどうやら潰れた工場のようだった。消防隊員が懸命な消火活動にあたる中、間近で燃え盛る炎を見た愛美は物珍しい見世物を前にした子供のように、屈託のない笑顔を浮かべる。

「うわぁ~、綺麗ね~!」

「こら。不謹慎だぞ?」

 優菜が軽く言って咎めるも、炎に夢中の愛美には聞えていない様子。苦笑交じりの溜息を一つ、優菜は何の気なしに辺りを見回した。そこでふと野次馬の一人に目が留まる。

「……」

 帽子を目深に被ったその人物は、しばらく現場を静観した後、素気無く立ち去った。優菜はその人物に奇妙な既視感を抱いた。

「――アイ、お前は先に帰ってろ」

「え? なに? ちょっと、ユウちゃん!」

 なんとなく気になった優菜は、その人物のあとを追って歩き出した。一定の距離を保ったまま、相手から気づかれないように尾行する。

 閑静な夜の住宅街を通り、その人物は平凡な一戸建ての住まいに帰宅した。

 優菜は郵便受けに貼りつけられた表札を見る。

「南条……」


                ***


 ペントハウスに帰宅した優菜は、何か思い立ったようにデスクの引き出しから一冊のファイルを引っ張り出し、箇条書きにされた文字の羅列を、上から下に素早く目で追った。


〝私の推理が正しければ、――〟


「……!」

 優菜は頭を鈍器で殴られたような衝撃を覚えた。

 ――南条清二。

 名簿の中からその名前を発見した優菜は、もう一度、事件のことを最初から一つずつ整理するように思い返した。脳が急速に収縮してゆくような感覚。

 栗原優菜は、どこか放心したような口ぶりで独り言のように言った。


「なぁアイ、私達は一つ、大きな思い違いをしていたのかもしれない……」


 愛美はぽかんとした表情で、優菜の顔色を窺うように尋ねた。

「一体どうしたの、ユウちゃん……?」

「――わかったんだよ、今度の事件の犯人が」

 確かな感触を胸に、優菜は自らの推理した事件の内幕を話し始めた。


                ***


 翌日の夜。帰宅した優菜に、一足早く戻っていた愛美は本日の成果を報告した。

「やっぱり、思った通りだったわ」

「こっちもだ」

 欠けていたパズルのピースを持ち寄って、二人は話し合う。

 答えが出揃うと、愛美は清々しい表情をして言った。

「これで、すべてが繋がったわね」

「ああ、だがあとは証拠だ。……これだけじゃ、まだ決め手に欠ける」

 優菜がそうぼやくと、愛美は待ってましたとばかりに得意げな顔をして申し出た。

「そのことなんだけどね? 実は私に良い考えがあるの」

 愛美が取り出したのは、小型のテープレコーダーだった。

「燃えないゴミの回収日は、明日よ?」

「……フフ、なるほどねぇ」

 優菜は何事かを察したようだ。

 二人は密かに、姦計を孕んだ笑みを交し合う。


                 ***


 黄昏時、東高円寺にある寂れたアパートの一室から、その人物は姿を現した。夕食の買い出しにでも行くのだろう。越してきたばかりで、私物の入ったダンボールが所狭しと運び込まれた部屋をあとにする。

「……探しましたよ」

 不意に背後から声を浴びせられ、その人物は驚いて振り返る。

 そこには見知った二人組が立っていた。

「すべてあなたの仕業だったんですね、――」

 優菜は不敵に微笑んだ。


「――木村まどかさん?」


「……」


 〝木村まどか〟


 そう呼ばれた彼女は一瞬何か言いかけたが、すぐに言葉を飲み込んだ。

「一体、何のお話でしょうか?」

 軽く肩をすくめ、白々しくかぶりを振る

「私は木村まどかなんて名前じゃありませんし、あなた方のことも存じ上げません。人違いじゃありませんか?」

 愛美が追従するように提言した。

「それじゃあ、こうお呼びした方がいいかしら? ――南条京香さん」


 南条京香は、毅然とした態度で二人を見据える。


「そうだな、まずは何からお話しましょうか……?」

 優菜は大げさな間を作って話し出した。

「――最初に彼女の身辺を調査したとき、奇妙な違和感を覚えました。私たちが抱いていた彼女の印象と、周囲の人たちから語られる木村まどかの人物像とが、あまりにもかけ離れていたからです。……答えは随分あとになってから分かりました」

 優菜は一枚の写真を取り出してみせる。そこには見たことも無い女の顔が映っていた。

「これ、誰だかわかりますか?」

 京香は答えない。

「この写真に写っている人物こそが、本物の木村まどかさんです。〝整形後〟のね?」

 優菜は写真の人物と目の前の京香を比べるように見て、皮肉に笑った。

「あなたとは似ても似つかない。故人には失礼かもしれないが、あなたの方が美形です」

 南条京香は、余裕を持った態度で素気なく答えた。

「似ていないのは当たり前でしょう? 全くの別人なんですから」

「そう、その通り。しかし実は、他の皆がここに写っている彼女の顔を思い浮かべていたとき、私たち二人だけが全く別人の顔を思い浮かべていたんです。こう言い換えた方がわかりやすいでしょうか?」


 優菜はピンと立てた人差し指を、南条京香の前に突きつけた。


「――私たちは、あなたのことを整形後の木村まどかだと思い込んでいたんですよ。いいえ、正確にはそう思い込まされていたんです。他ならぬ、あなたの差し金でね?」


 優菜は畳み掛けるように捲くし立てた。


「あなたが木村まどかを装って私たちの前に現れたのは、私たちを利用して、間接的に警察の捜査を撹乱するためだった。木村まどかがストーカー被害に遭っていたという話ですが、犯人は確か、黒っぽい服を着た三十代半ばくらいの男でしたっけ……? どこをどう調べたって、そんな人物は影すらも浮かんできませんでした。そんな人物は、最初からこの世に存在していなかったんですよ。あれは容疑者を男に絞り込ませるためのミスリードだった。そして警察は今もその線で捜査を進めています。私たちの証言は、彼らの捜査を大いに混乱させてしまったことでしょう。あなたの思惑通り、私達はまんまとあなたの偽装工作に一役買ってしまったというわけです」


 愛美が優菜と交代して話し出す。


「犯行時刻は深夜二時頃、殺害現場はアパートの一室とされていましたね。しかし、あなたが木村まどかさんを殺したのはもっと前、しかも別の場所です。――恐らくは前日の夜、あなたは人気のない場所に木村まどかさんを一人で呼び出した。おおかた、美人局の証拠を掴んだなどと脅して、上手く誘い出したんでしょう。そして、彼女を殺害した。……さて、ここからが重要なところです」


 再び優菜が口を開く。


「殺害方法についてですがね、これも私は引っ掛かっていたんですよ。――致命傷を与えたのち、死体をバラバラにして火をつける。一見、猟奇的で凄惨な犯行に思えますが、その実、見事に計算されています。死体をバラバラにしたのは持ち運んで犯行現場を誤魔化すため、火をつけたのは死亡推定時刻を誤魔化すためですね。まぁバラバラにした方が、燃やした時に中まで火が通りやすいという理由もあったのかもしれません」


 優菜はそこで一旦話を切り、ふと腰に手を当てて嘆息した。


「しかしあなたも大胆な人だ。――まさか私たちに、死体を運ぶ手伝いをさせるなんて。気づいたときは、思わずゾッとしましたよ……」


 愛美が言葉を継いだ。


「――あなたが私たちのもとを訪れた際に、持参していた台車付きのトランクケース。その由来を尋ねたとき、あなたはストーカーを恐れて近くのホテルに宿泊していたと弁解されましたね。しかし、今になって考えるとあのトランクは重すぎたんです……。本当はあの中に木村まどかさんの死体が入っていたんでしょう? 昨日、都内のビジネスホテルに片っ端から問い合わせた結果、木村まどか名義で宿泊の記録があったのは、あなたが私たちのところを訪れた前日の晩だけでした。まどかさんを殺害した後、死体をトランクに詰めたあなたはホテルに一泊し、チェックアウトしたその足で私たちのところを訪れた」


「あなたがわざわざ私たちを連れてあのアパートまで死体を移しに行ったのは、私たちに木村まどかが、あの時間帯にはまだ生きていたという証言をさせるためです。もともと死体には火をつけて燃やしてしまう予定だったのでしょうが、死亡推定時刻がそれによって都合よく隠蔽されるかどうかは、あなた自身、蓋を開けてみないことには判らなかった。だからあなたは予防策として、私たちを偽の証人に仕立て上げたんです。私たちはてっきりあなたのことを、木村まどか本人だと思い込んでいたわけですからね……。――如何でしょうか? これがあなたの企てた、木村まどか殺害計画の全貌です」


 優菜はひとまず話を締めくくって、南条京香の反応を窺った。


「……フフ、何を仰っているのか、私にはさっぱりわかりません」

 京香は余裕の表情を崩さないまま、先ほどの言葉をはっきりと反芻した。

「もう一度言いますが、私は木村まどかさんなんて人は知りませんし、あなた方にも会ったことはありません。人違いじゃないんですか?」

 優菜は腕組みをして、言葉を返した。

「そう来るだろうとは思っていましたよ……」


 愛美があとに続く。


「あなたの犯行の中で最も巧妙なところは、たとえ私たちが真相に気づいたとしても、それを裏付ける確かな証拠が何も残っていないという点なんです。――凶器や死体を運ぶのに使ったトランクは、アパートと一緒に焼けてしまっているし、それからあなたがストーカー対策だと言って身につけていた帽子とサングラス。あれも本当は、ビルの監視カメラや通行人の目をやり過ごすための対策だったんでしょう? ついでに言うと、本当の犯行現場は恐らく一昨日の火事で焼けてしまった廃工場です。放火したのは勿論あなたでしょうけど、残念ながらそれを証明する物もありません」


「……結局、あなたの犯行を証明できるのは、私と愛美の証言だけなんですよねー。これではたとえ逮捕されても不起訴になるか、裁判に持ち込まれたとしても証拠不十分で無罪になるのがオチでしょう。あなたはその間、ただ知らぬ存ぜぬで白を切り通せば済む。――しかし、完全犯罪なんてものは有り得ません。いくら計画が完璧な出来でも、それを実行するのは欠陥のある人間ですから、必ずどこかに落ちこぼれがあります。そして、どうやらあなたもその例外ではなかったようです……」


 優菜はそう言って、懐から何かを取り出した。


「これが何だか、お分かりになりますか?」


 透明な袋に入れられたそれは、何かの破片のようだった。

 京香の表情が、俄かに曇り出す。


「ティーカップですよ。あなたが私たちの事務所を訪れて、紅茶を飲んだときに使った」


「まさか……」

 焦りを隠せない京香の言葉を遮って、愛美がなんだか恥ずかしそうにしながら申し出る。

「実を言いますと、落ちこぼれがったのは私の方なんです……。使用済みの食器をシンクまで運ぼうとしたとき、途中でうっかり、手を滑らせてしまいまして……」

 優菜が空かさず京香を問い詰める。

「どういうことか、もうお分かりでしょう?」

 京香の額にはじんわりと汗が滲んでいた。

「用心深いあなたのことだ。きっとあのときから後々のことを考えて、部屋の中の物には一切素手で触らないよう、細心の注意を払っていたはずです。しかし紅茶が差し出されたときあなたは一瞬考えた。食器なら、使用したあとは必ず洗浄されるから指紋は残らないと……。しかし考えが甘かったですね? 割れてしまったティーカップは、その後一度も洗浄されることなく安置されていました。この破片には今もあなたの指紋がべったりと付着しているはずです。あとはこれを警察に届ければ、めでたく事件は解決というわけです」


 優菜は決然とした態度で、京香の眼前にそれを突きつけた。


 一瞬諦めかけた京香だが、目の前に差し出されたそれを見て、ふとあることに気づく。


「……ねぇ、ちょっと待って」

「はい?」

 京香は袋に入ったティーカップの破片をまじまじと見つめて呟いた。


「――違う。これじゃないわ……!」


 その途端、優菜と愛美は急に大人しくなって顔を背ける。

 二人の反応からそこに隠された意図を悟って京香は断じた。


「カマをかけていたのね?」


 一度は暗く濁った瞳が、再び一筋の光明を灯す。


「「……」」


 二人の沈黙を降参と受け取った京香は、額の汗を拭い、大いに胸を撫で下ろした。

「ふぅー、危なかったわ。もう少しで騙されるところでしたよ?」

 すっかり安心しきって、勝ち誇ったようにせせら笑う。

「まぁ作戦は良かったんですけど、私、記憶力がいいんです。あてが外れましたね? フフ、わざわざそんな物まで、用意しちゃって……。でも残念でした。私は無関係です。さぁ、どうぞお帰りください?」

 京香は自らの勝利を確信したまま、二人を追い返そうとする。

 そのとき。

 沈黙を続けていた優菜が、ふと口を開いて言った。


「アイ、今の聞いた?」

「うん、聞いたわ」


 何故か嬉しそうな二人のやりとりを聞いて、京香の顔色が変わる。

「な、なに……?」

 訳がわからず困惑した様子の京香に、優菜は詰め寄った。

 サディステックな笑みを浮かべて、袋に入った破片を指し示す。

「あなた今、これを見て何と仰いました? 『違う、これじゃない……』はっきりそう指摘されましたよね? どうしてそう思ったんです?」

「どうしてって……絵柄が」

 警戒するように言い淀む京香。

 優菜は小馬鹿にしたような態度でわざとらしく耳を傾けた。

「はぁ? 何ですか? 聞えませんけど?」

 京香は頭にきた様子で、つい口調を荒げる。

「だって、柄が違うじゃない!」

 それを聞いた優菜は、はいはいとあしらうように手を叩いた。

「もう結構です」

「くッ、……だから何だって言うのよっ!?」

 喧嘩腰になって声を張る京香に、優菜は平然とした口調で告げた。

「あなた、犯行を認めてます。証拠はやっぱり――」

 ――これ、と優菜はしつこく袋に入ったティーカップの破片を京香に見せつける。

「だからさぁ……」

 京香は思わず失笑して、苛立ったように頭を掻いた。

「それはあなたたちが勝手に用意した偽物でしょう!? そこまで言い張るんだったら指紋でもなんでも好きに鑑定してもらえばいいじゃない! どうせ私の指紋なんて、出て来るわけがないんだから!」

「あなた、まだ分からないようですね!? 仰る通り、これは真っ赤な偽物です! 指紋なんか出てきません! 問題はそこじゃないんですよ!?」


 呆れたように肩を竦めた優菜は、手に持った袋を突き出し、一言一句はっきりとした口調でそれが意味するところを語った。



「――確かにこれはあの日〝木村まどか〟が使用したティーカップではありません! しかし何故あなたが、そのことを知っているんですか!?」



「――っ!?」

 ハッとした表情を見せる京香。

 彼女が自らの犯した失態に気づいたことを察して、優菜は大げさに首肯してみせた。

「そうなんですよ! あなたが本当に事件と無関係であったのならば、今の事実を指摘することは絶対に不可能なはずなんです! だって、あなたは――〝南条京香〟さんじゃないですか! 私たちのことも、木村まどかのことも一切ご存知じゃなかったんでしょう!? それなのにどうして、このカップが偽物だと判るんです!? どうして絵柄が違うなんてことが言えるんです!? 説明してもらいましょうか!?」

「それは……」

 京香は答えることが出来ず、たじろいだ。

 しかしさすがというべきか、すぐさま狼狽を押し隠し、慌てて余裕の表情を取り繕う。

「わ、私そんなこと言いましたっけ……? あなた方の聞き間違いじゃありません?」

 とぼけだす京香に、愛美が苦笑を交えて首を左右に振った。

「残念ですけど、その手はもう通用しませんよ?」

 隠し持っていたテープレコーダーを取り出して、京香に見せる。

「申し訳ありませんが、あなたとのやりとりは最初からすべてこのテープに録音させてもらっています。南条京香さん、あなたもう言い逃れは出来ませんよ」

 京香の表情がいよいよと青ざめる。優菜は決め手を指した。

「ティーカップのことは、あの時あの場にいた私と愛美、そして〝木村まどか〟以外は知り得ない事実です。フフ、あなた少々頭に血が上りすぎましたねぇ? 残念でした」

 優菜はしてやったりの笑みを浮かべ、すっかり役目を終えたカップの破片を、脇に設置されていた『燃えないゴミ』の回収箱へと放り込んだ。

「……まだよ。まだ終わってないわ」

 京香は必死に釈明した。

「たとえ私が木村まどかの振りをしていたとしても、それが彼女を殺したという証拠にはならないはずよ!」

「いくらなんでも、それはちょっと無理があると思います。犯人はあなたです。あなた以外には有り得ません」

「違う、私じゃない!!」

「だったら何故あなたは木村まどかを装って私たちに嘘の依頼をしたんですか!? 彼女の持っていた鍵を使って、彼女の部屋に潜り込み、あなたはそこで何をなさっていたんです!? あの日アパートで火災が起きて、木村まどかの死体があの部屋から発見された前後でのあなたの行動は!? あなたにはそもそもアリバイがないはずですよ!?」

「すべて状況証拠に過ぎないわ!」

「すべての不審点について納得のいく説明が出来ますか!?」

「だけどッ!!」

 京香の言葉を遮って、優菜は一気に畳み掛けた。

「あなたが犯人であるということを示す証拠はこれで揃いました! それでもあなたが無実を主張するのであれば、今度はあなたの方が無実であるという証拠を揃えて私たちを論破してみせてください! いいですか? もう一度言います! 木村まどかさんを殺害した犯人は、南条京香さん、あなたしかいないんですよ!」

 京香はそれでも何か言おうと口を開閉させたが、優菜の気迫に圧倒されたのか、結局、返す言葉は出てこなかった。がっくりと肩を落とし、深く項垂れる。

 成り行きを見守っていた愛美は、頃合を見計らって声をかけた。


「どうかこの辺りで、自供していただけませんか?」


 しばしの沈黙のあと、京香は盛大に溜息を吐いて、遠く空を見上げた。


「――今度こそ、私の負けね……」


 優菜と愛美はそれを聞いて、安心したように肩の力を抜く。

「完全犯罪って難しいですね……。こんなことなら別の探偵社に依頼をすればよかった」

「同感です」と優菜がユーモアを交えて答える。

 京香はふと皮肉な笑みを浮かべて、愛美の方を見た。

「カップの罠を考えたのは、あなたね?」

「はい」

 愛美の声は穏やかだった。

「聡明なあなたなら、きっと気づいてくれると思っていました」

「嫌な予感はしてたのよ……」

 京香は苦い顔をして額に手を当てる。優菜が横から口を挟んで、一つ尋ねた。

「突き出しの紅茶を断ること自体は簡単だったはずです。別に何も言わずとも、ただ無視をしていればそれで済んだ。それなのにあなた、どうしてわざわざあのカップに手をつけたんです?」

「私だって、最初は断ろうと思いましたよ……だけど、彼女がなんだか早く飲んでくれと言わんばかりに、私の顔色をじっと窺っていたんですもの」

 京香は愛美を示しながら、しぶしぶと釈明した。

「すみません。でも別に他意があったわけじゃないんですよ? 私はただ温かいうちに召し上がって欲しかっただけで」

 申し訳無さそうな愛美に、「大丈夫です、ちゃんとわかってますから」と京香は伝えた。

「ただ後ろ暗いところのある私からすれば、あの視線は堪えました……。それにあの紅茶かなり高そうだったし……。計画の都合上、あそこであなたたちの心象を悪くするのもマズイかなとも思ったんですよ。ちょっと頭が回りすぎましたかね」

 京香の失態を誘ったのが、愛美の持つ無自覚な図々しさであることを知って、優菜は苦笑した。京香の方からも、優菜に一つ質問が出る。

「いつ気づいたんですか?」

「ええ。実を言えば、あなたが生きているということを知ったのは全くの偶然でした。一昨日の夜、あなた、野次馬に混じって火事の現場にいらっしゃいましたね?」

「……まさか、あなたたちもあそこに居たんですか?」

 優菜は意地の悪い笑みを浮かべ、ゆっくりと首肯する。京香は頭を痛めた。

「気づかなかったわ……」

「フフ、人込みは避けるべきでしたね。まぁ、あなたは最後の物証であった本当の犯行現場を抹消できて、すっかり油断してらしたんでしょう? もしもあのとき、愛美が火事の見物に誘わなかったら、私は最後まで事件の真相には気づかなかったかもしれない。結局、今回の手柄はみんな愛美のモノだったんです」

 愛美はなんだか照れたようにちょこんと頭を下げた。


「――動機はやはり、報復ですか?」


 優菜はいささか真剣な表情を作って、厳かにそう尋ねた。京香は黙って頷く。

 南条京香は二年前、木村まどかの毒牙に掛かって自殺した、南条清二の娘だったのだ。

「……でも、勘違いはしないでくださいね? 私は別にあんな男の仇が取りたかったわけじゃないんです。むしろ、あの男は同罪でした」

 実の父親を『あの男』と呼称する京香の表情は、さきほどまでとは打って変わって恐ろしく冷徹だった。

「いい歳をして見ず知らずの女子大生に入れ込んだ挙句、それをネタに今度は脅されて、会社の金にまで手をつけて……勝手に自殺した男のことなんて私にはどうでもよかったんです。ただ可哀想なのは母だった……。母はあの男が死んでからというもの、すっかり心が病んでしまった。それまで明るく口数の多かった母は、一言も口を利かず、一日を穴倉のように暗い部屋の中だけで過ごし、みるみるうちに痩せ細っていきました。そうして苦しみ抜いた末に、とうとう死んでしまったんですよ……」

 酷く疲れたような声色で、京香は淡々と語った。

「私は母が死んでから、あの女のことを調べ始めました。別に最初から殺人を企てていたわけでもないんです。ただ、私たち一家の平穏を脅かしたのがどんな人物だったか、それが知りたくて……」

 京香はふとそこで、思い出したように付け加えた。どこか自嘲的な言い方だった。

「木村まどかがストーカー被害に遭っていたって話ですけどね、本当はまるっきり出鱈目ってわけでもないんですよ? 実際、私が彼女を付け回していたんですもの。……まぁ、鈍感なあの女は最後まで私の存在には気づいていなかったみたいだし、私の方も気づかれるようなヘマはやりませんでしたけどね……」

 優菜と愛美は黙って聞いている。

「興信所の調査で彼女が美容整形を受けていると知ったとき、何故だか無性に殺意が湧きました。そんな欺瞞のために、私たちの一家が崩壊に追いやられたのだと思うと、あまりにも馬鹿らしくなっちゃって……」


 京香は何か得体の知れない感情に口元を歪め、囁くように低い声で宵闇に浮かべた。



「――だから私がこの手で、整形手術をやり直してあげたんですよ……? フフ、今度は二目と見られないような顔に、ねぇ……?」



               ***


 京香の身柄と証拠のテープを警察に引き渡し、優菜と愛美は帰途に着いた。

「はぁ……」

 優菜は深く重たい溜息を吐く。攻撃的に見えてその実、繊細な彼女は、南条京香の赤黒い本性を垣間見てすっかり気分をあてられていたのだ。

 隣に並んだ愛美の様子を、どこか心細そうにちらちらと窺いながら歩く。

「なぁアイ? お前今度のことで、もう探偵を辞めたくなったんじゃないか?」

「んー? どうして?」

 あっけらかんと訊き返す愛美に、優菜は少々肩透かしを食らったような顔で言った。

「そりゃあ、初っ端からこんなハードな事件に遭遇しちまったんだし……なんか気が重いじゃん……」

 優菜の言葉は、まるで自らの心情を語っているふうにも聞えた。

 同意を求めるように投げ掛ける。

「そう思わないか?」

 それに対する愛美の答えは、非常に明快であった。

「ぜ~んぜん! 探偵って楽しいね~!」

 あっさりと笑って、優菜の感傷を完全に否定する愛美。その筋金入りの能天気さには、もはや呆れを通り越して感服した。優菜もそれで救われたように破顔する。

「あ~あ。早くまた何か起こってくれないかなぁ~?」

「……おいおい」





                     第一話「影への挑戦」おわり



(あとがき)というか、製作裏話。


 普段、男くさくて暑苦しい話ばかり書いているので、たまには可愛い女の子を活躍させたいと思ったんです。

 巷で人気のキラキラ、ふわふわした女の子たちを私も書いてみたいと。

 そこで、Wヒロインで華やかに行こうと思ったのです。

 当初の構想では、大人版プリキュア的なスパイアクションにする予定でした。二人とも峰不二子みたいな色気のあるキャラにして、ちょっとエロチックな感じにしたいなぁと。

 まぁ、よくよく考えてみればその時点でキラキラ・ふわふわした女の子を書きたいという趣旨からは若干逸れてしまっていたと思うのですが、結局スパイアクションとしての話がまったく膨らまず、気づけばいつの間にか、こんな地味で、コテコテのミステリー作品になっておりました。

 やっぱり人間、向き不向きはあるものです。

 ちなみにこの作品は第二十回電撃大賞に投稿したもので、結果は二次選考落選でした。まぁ、妥当な結果だと思います。

 編集部からは、「話はまとまっているが、この設定の意味はあるの?」という講評を頂きました。当初の構想がすべて飛んで、設定だけが残った結果、こういう感じになってしまったのです。

 しかし、私はこの作品、存外気に入っております。

 出来の悪い子供ほど可愛いものなんです。

 

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