第一章 同邦者
笹名(さ さ な)市、笹名高等学校一年A組の教室。そこでは現在、五時限目の国語の授業が行われていた。
担当の教師は東 雲 立 烏。今年の春、大学を卒業したばかりの新任教師であるが、青いツーピースで包んだスラリとした長身、陳腐な表現ながら、上質の黒絹のような長い黒髪、モデル顔負けの硬質的ながらも流麗な目鼻立ち、特に名刀の鋭さと美しさに喩えられる、威圧的でありながら魅惑的な瞳、それらの融合によって、圧倒的な存在感と貫禄をもち、数年前に堂々と飲酒できるようになったばかりなのに、親子以上に歳の離れた校長よりもえらそうに見える、というのは笹名高等学校生徒、全員の共通認識事項だった。
そんな女性教師の授業だけに、無駄話はおろか、余所見をする生徒もいないだろうと思われたが、教室のど真ん中であろうことか居眠りをしている生徒がいた。
その生徒は、日本の高校生どころか、地球人類規格からしても十分に巨体と呼べる体の上半分を、アルマジロのように机の上に丸めて熟睡していた。
「お、おい、大 岳!」
隣の席にすわる生徒、真 田 樹( いつき)がシャーペンの先で巨漢の生徒、大岳夜 刀のわき腹を突き、夢の世界から意識を引き戻させようとするが、全く意味がない。
「真田、君は友達思いの生徒だな」
頭の上から偉そうな女性の声が降り注ぎ、真田はクラスメイトに右手を伸ばしたまま硬直した。
「それは賞賛に値する気質であるし、教育者としてはそのような長所は伸ばしてあげたいのだがね」
恐る恐る顔を上げる樹の目の前には、予測したとおり東雲先生が腕組みをされて、こちらをご覧になっていた。
「やはり、授業中には授業に集中すべきではないか」
立烏は授業中は長い黒髪をうなじのところ結い、素通しの眼鏡をかけて知的さを演出している。その目論みは成功しているのだが、それが彼女の持つ威圧的な雰囲気を和らげることはなかった。
「す、すいません!」
勢いよく起立し、軍人にも負けぬ直立不動の体勢で謝罪する樹。急いで立ったために脛を机の脚にぶつけても、それに関して真田を笑う者はいない。このクラスの全員が、立烏の恐ろしさを理解していた。彼女の機嫌を損なわないためなら、誰もがどんな滑稽なことでもためらわずに行うだろう。
「本来なら許せないことだが、自己の非を認め、素直に謝罪したことだし、今日は大目に見てあげよう」
寛恕の台詞に安堵する樹が、内に燃え盛る炎を閉じ込めた氷の微笑は、まだ立烏の美しい顔を占領していた。
「それに、君よりも許しがたい生徒もいるしね」
怒気どころか、殺気をも含んだ鋭い視線が、身に危険が迫っていることに気付くことなく寝ている夜刀の背中に刺さる。
「さて、どうしてくれようか?」
これから起きる惨劇を想像し、立烏の扇情的な唇の両端が上を向き、生徒たちの体感温度が三度ほど低下する。今は初夏のはずなのに、誰もが地球の自転、公転速度が速まり晩秋に季節が変わったように錯覚していた。
この一見、男子女子関わらず、生徒の人気を集める洗練された容姿の女性教師がなぜ、ここまで恐れられるのか。その答えたが今、まさに目の前で示されようとしていた。
「まあ時間がないからシンプルにいこうか」
繊手が真田にさし伸ばされる。
「真田、椅子」
言われたとおり、樹は自分の席の机を差し出した。この時、使われる用途が椅子としての本来の役割ではないことは分かっていたので、背もたれではなく脚を向けて渡す。
立烏もそのことに関しては何も言わずに、多少の汚れなど気にせずに、繊手で椅子の脚を掴み、頭上に持ち上げた。見た目麗しい女性のする格好ではないが、それだけに妙な迫力がある。
「せ~の!」
殺意と怒りを宿った椅子が、勢いよく振り下ろされた。
熟睡していた夜刀が、その一撃を察知、回避できるわけもなく、椅子の背もたれがもろに後頭部に捕らえた。
クラスメイトが聞いた音を擬音化すると、ボコッ、でも、バキッでもなかった。表現しづらいが、あえて表現すると、
ブゥワッハァァァァァァッ!
となる。
その音にふさわしく、背もたれの木の部分が木っ端微塵に粉砕、それを止めていた金属パイプもくの字に曲がっていた。どちらと言えば細身の立烏のどこにそんな力があるかは不明だが、今、問題とすべきは夜刀が目覚めか、いや、生きているかどうかであった。
固唾をのんで夜刀をみる生徒たち。しかし、夜刀は身動き人せず、さっきの一撃の衝撃で机の上からこぼれた左手が、だらりとぶら下がった。
「まさか……」
その場にいた誰もが、最悪の結果を予測していた。そしてその予測は現実となった。
「くー……」
あれだけの一撃を後頭部に受けたのにも関わらず、夜刀の意思はいまだに精神世界から出てこず、惰眠を貪っていた。
「相変わらず人間外の頑丈さだな」
生徒の一人が呟く。それは感想ではなく、現実を指摘していた。
「全く、しょうがないな」
額に血管を浮かべながら、ヒールを履いた長い右脚が、高々と振り上げられた。そして、周囲の生徒たちの期待、もとい、悪い予感を裏切らず、右脚の踵が夜刀の後頭部に向けて急降下した。
先ほどのさらに数倍に値する爆音とともに、夜刀が体を預けていた机だったものかけらが教室中に飛びちる。周りの生徒たちは前もって壁際や机の下に避難していたので、難を逃れることができた。
爆発が終わり、舞い上がった埃が床に落ちて、悲惨な光景があらわになる。
床に頭からめり込んでいる夜刀の巨体。殺人現場といわれても違和感は無い。
「先生、いくらなんでも生徒を起こすのに、ここまでするのは、やり過ぎです」
教室の惨状にたまらず、一人の少女が立烏のやり方を批判した。
二年A組クラス委員、立花 晶。眼鏡をかけ、背中まで伸びえている髪を左右に分け、別々にまとめている以外に、特筆することのない女生徒で、クラス委員にも自発的にではなく、他になり手がなくて仕方なくなったのだが、その真面目さと責任感の強さは本物であり、同僚の教師たちでさえ逆らうのを恐れる立烏に、必要さえあれば意見、反論することができる学校内でも希少な存在である。
「こうでもしなければこいつは起きない。君は、私に教師としての責任を回避しろと言うのか?」
もっとも、どれだけ反論しても当人に聞く気がなければ何の意味もなく、立烏に反省の色は見られないし、確かに彼女が主張するように、この派手で傍迷惑な方法以外に夜刀を起こす方法はないように思えた。
「でも、これじゃ、大岳君が目覚める前に……」
「別の世界に旅立つ……か?」
立烏は視線で、晶をある方向を見るように促す。促されるままにそちらを向く晶の目の前に、いつの間にか夜刀の巨体が起き上がっていた。
「大岳君……、だ、大丈夫?」
心配そうに、特に頭を見上げる。そんな晶を夜刀は寝惚けた目で見下ろしていた。
「何かあったか?」
あの一撃を持ってしても夜刀を起こすのが精一杯のようで、頭を掻く夜刀にダメージを受けた様子はない。
「え~と、いろいろあったんだけど……」
「そうか、大変だったな」
一番大変な目にあっている夜刀に気遣われては苦笑するしかなく、晶はぎこちない笑みを浮かべる。
彼女の不自然な笑みに大した疑問もたず、寝惚け眼で教室内に見渡す。クラスメイトたちはなぜか教室の隅で固まっており、怯えた視線がこちらを見ている。表現に正確さを求めるなら、彼等の視線は夜刀の隣を見ていた。
その視線につられて横を見ると、仁王立ちする立烏だった。
「おはよう、や……、大岳君」
口調こそ穏やかだが、胸の中で燃え上がる炎―もちろん、恋のではなく、怒りの―が誰にも視認することが出来た。
「たて……東雲先生、なにか?」
ただ一人を除いては。
「なに、居眠りをしていた不届きな生徒がいてね、今から天誅を加えるところなんだ」
なるべく穏やかに話そうとする主人の努力を無視して、その声は怒りに震えている。
「それは……」
ここで非を認めて謝罪すれば、事態は最悪を極めないだろう。クラスメイトたちは夜刀が健全な、常識的な判断をするように祈り、また心の中で彼に訴えかけた。
「不届きな奴がいたものだな」
思いっきり他人事の言い様に、クラスメイトたちは一瞬に極寒地獄に落とされたように凍りついた。
「同感だ……!」
立烏の口が開く。それはあたかも、食らうべき獲物を見つけた牝獅子のごとくであった。
「ただ、その不届きな奴はお前だがな!」
『ひいぃぃぃぃ!』
生徒たちは立烏の怒号とこれから起きる最悪の事態に悲鳴を上げ、頭を抱えて姿勢を低くした。
夜刀だけがいまだに事態を飲み込めないようで、無表情のまま立ち尽くしている。
二年A組の教室の残っていた窓ガラスが窓枠ごと粉砕、外に飛び散ったのはその後のことだった。
2
学校が終わった後、夜刀は絆創膏と包帯で四分の二を包んだ体で、標 樹村を見下ろすようにそびえる降 亀 山の麓に建つ、古く大きな屋敷の門をくぐった。
「よう、遅かったな」
家人よって奥の間に通された夜刀の目の前に、寝巻きの裾がめくれて色っぽい太ももがあらわになるのも気にせずに、片足を立てて座す立烏がいた。
「教室の掃除をやっていた」
遅くなった理由はそれだけではない。立烏、夜刀が住む、この標樹村は笹名市からは峠や山を隔てて、三十キロも離れている山奥にある小さな山村で、小学校はあるが、中学校、高校は無く、夜刀たちは笹名市内の中学、高校に通うしかない。さすがに路線バスが通っているが、夕方は六時二十五分笹名駅前発が最後の便で、夜刀は前述プラスさまざまな理由で最終便に間に合わず、自力での帰宅を余儀なくされていたのだ。ちなみに真田樹と立花晶もこの村の人間である。
無愛想な表情で言うと、その場で膝を組み、和服に身を包んだ女性が、その前に夕餉の膳を置く。その女性に対して夜刀は軽く頭を下げた。
「その件に関してはお前が悪い。他の時間ならまだしも、よりよって私の授業で居眠りするなど許しがたい。あの程度で済んだことをむしろ感謝すべきだな」
「非は認める……」
昨晩、徹夜で虚獣と戦っていたとはいえ、授業中に居眠りをするのはよくない。まして、立烏の授業である。どのような結果になるか、十分に予測できたはずだ。
「まあいい、今晩、お前を呼んだのは教師としてではなく、標樹の里の里長としてだ」
「また虚獣か?」
「なら、電話で済んだのだがな……」
立烏の表情は苦々しい。幸福とは縁遠いことが起きたのは確かなようだ。
「何があった?」
「正確にはこれからだ。これから出来れば会いたくない外からの客が来る。その客と会うのに、お前には同席してほしい」
「外からの客……?」
壁にかかる骨董品というよりも、単に古いだけの振り子時計を見ると八時を三分ほど回っている。村の外からの客が来る時間には遅いような気がする。
「この時間にか?」
「本当は七時ごろに来て、夕食を一緒にとる予定だったのだが、道に迷ったのか、まだ来ない」
「で、そんな格好でいるのか」
流麗な美女が薄手の浴衣を着て、片膝を立てて座る姿はなかなか様になっているのだが、客を迎える格好ではない。
「肩がこるような着物を着て待ってたのに、何の連絡もなく一時間も待った。奴らに対する礼儀はすでに果たした」
立烏が怒る理由はよく分かる。おそらくは先方から一方的に来訪を告げられ、いやいやながら歓待の準備をしていたのに、招かれざる客は未だに来ず、それに関して何の連絡もよこさないのだから、立烏ほど憤激しないまでも不快に思うのは当たり前である。
「その客とは何者だ?」
夜刀の経験上、この立烏という女性はわがままであり、会いたくない人間とは仮病を使ってでも会わない。そんな立烏が合わなければならない客とは一体、どのような人物なのだろうか、質量ともに人並み以下の彼の好奇心さえも刺激させる。
「かなり大まかに言うと、同邦者だ」
「同邦者?」
かつてこの標樹町にいた人間、という意味なのだろうか、夜刀は聞こうした時、夜刀に膳を運んできてくれた女性が再び室内に入ってくると、立烏の耳元で何かを伝えた。
「ようやく来たか」
やや残念そうな表情で呟くと、女性に、おそらくは遅参した招かれざる客をこの部屋に通すように命じた。
「夜刀」
女性が、夜刀がまだ手をつけていない膳を持って出て行くと、今度は夜刀を手招きする。拒絶する必要も意味もないので、呼ばれるままに近寄ると、立烏は視線で自分の後ろを指し示した。
「……?」
それが何を意味しているのか分からず、戸惑う夜刀の額を、立烏の白い人差し指が弾いた。
「私の後ろに控えていろ、と言う意味だ」
「口で言え」
不満を漏らし、少し赤くなった額をさすりながら、夜刀は立烏の右斜め後ろに腰を落とした。
「来たのか?」
「ああ、来なくてもいい客が来た」
常の彼女らしからぬ淡々とした口調。本気で不機嫌なときの口調なので、夜刀はそれ以上は何も言わず、客を待つことにした。
襖が外から静かに開いたのはそれから二分後のことだった。
3
客の数は三人。灰色の着物を着込んだ壮年の男性に、Tシャツにハーフパンツの活動的な格好をしたポニーテールの小柄な少女と、淡い黄色のワンピースを着て、髪を三つ編みにした華奢な少女。二人とも美少女と言ってよく、夜刀と同じ歳くらいであった。
「……?」
この三人を見て、夜刀は首をかしげた。壮年の男性と、ポニーテールの少女とは間違いなく初対面だが、三つ編みの少女はどこかで見たことあるような気がしたのだ。
「道に迷いまして、このような時刻の訪問となりました。申し訳ございません」
男性が頭を下げ、謝罪する。礼儀には沿ってはいるが、その口調に誠意を感じることができないのは、夜刀の偏見の所為だけではないはずである。
「それはご苦労だったな。しかし、道に迷ったのなら無理をせずに、引き返せばよかったものを。こちらにはそちらと会いたい理由も義務もないのだから」
男性が少なくとも形式上の礼儀を遵守しているのにたいして、立烏のほうは不快感を隠そうともしていない。それでも自制心の賜物か、道に迷い続けて飢え死にしても構わない、などとはさすがに言わなかった。
「相変わらず手厳しいですな」
年長の余裕からか、男性は笑って立烏の毒舌を受けながす。もっとも、笑い声は砂漠の空気のごとく乾きっており、口角が引きつっている。
「夜刀、お前は初対面だろうから紹介しておこう。この男は西 河 和 道( わどう)。第二次世界大戦後、数家を引き連れて里から出て行った西河家の現当主だ」
「戦後、新時代の標樹の里のあり方でもめたのが原因、と死んだ祖父さんから聞いたことがある」
「西河家は如意珠の存在を明らかにして、積極的に外界と交流すべきと訴え、当時の里長、わたしの曽祖父さんはこれまで通り、外界とは必要最低限の交流だけして、如意珠の存在は秘匿しておくべきだと主張した」
「保守派と開明派の争いか。それで開明派が敗れて里を去っていた、か」
よくある話ではあるが、どうやら事実はそれとは少し違うようで、立烏の表情はやや複雑であった。
「正確には争いにはならなかったらしい。当時は今ほど民主的ではなかったから、里長の決定が里の方針なるのが当たり前で、しかも保守派の民のほうが圧倒的に多かった。というよりも、開明派のほうが例外中の例外っていうほど少数で、村八分にされてな」
元々が閉鎖的で排他的な里なのだから、いきなり開明的にはなれないだろう。
「さすがにちょっと同情した曽祖父さんが、里のことを口外しないことを条件に、里の外への移住と如意珠の持ち出しを許可した、だったな?」
「はい、当時の里長の寛大なご裁断のおかげで、祖父たちは外の世界にでることができました」
西河の笑顔も単色ではない。穏やかな笑みと嘲笑の中間のような笑みである。如意珠の持ち出しを許可してくれた点では立烏の曽祖父は、確かに西河家にとっては恩人なのだが、開明派の意見を押さえ込んだことに関しては敵である。どちらの感情を優先させるにしても、単色にはならないのはむりもない。
「で、その里を出て行った人間が、何の用があって戻ってきたんだ」
単に望郷の念を覚えて帰ってきた、というのであるなら、立烏がここまで拒絶するはずがない。帰郷の許しがほしいと言うのであってもそうだ。
「話を戻しますが、立烏様、以前、我々が提示させていただいたあの提案のご返答を頂きたい」
「返事をする期限を、定めていた覚えはないが?」
「そうやってご返答を先延ばしにされるので、本日、こうやって参上いたしたのです」
「それはご苦労だった」
頭を掻きながらなら応じる立烏の口調は、どんな鈍感な人間でも皮肉と分かるものだった。
「立烏、その提案とは何だ」
この部屋にいる五人の中で、おそらくただ一人、西河の言う提案を知らないのは夜刀だけだろう。
「大して興味深いものでもないんだが……」
「那 由 他様の御身、我々がお守りしたい」
那由他、と言う名に、立烏は目を細め、夜刀の瞳には殺気が宿った。
「那由他とは誰だ?ととぼけても無駄なのだろうな」
「的確な推測、恐れ入ります」
「だが、那由他はお前たちには渡さない」
立烏の声にはわずかな迷いや逡巡もなく、氷壁のように西河の提案を拒絶した。
「何故です?私たちならば、那由他様をお守りできると自負しております。もちろん、那由他様がご安心なされるよう、立烏様にもご同行願いますが」
「那由他の身は我々だけで十分に守れる。お前たちの力は必要ない」
「そうかな?」
少年のような口調で、ポニーテールの少女が疑問の声を上げる。
「今、この里で如意珠を扱えるのは、那由他を除けばあんただけなんだろう?たった一人でどうやって守るんだよ。後ろにいるウドの大木は、何の役にも立たないぜ」
少女の鋭い視線が夜刀を見据える。夜刀もひるむことなく巨山の威圧感を持つ目で迎え撃つ。
「どこかの馬鹿が、那由他の存在と力を口外しなければ少数の護衛で十分。度の過ぎる警戒は、かえって注目を集めるだけだ」
立烏は冷めた声で二人の視戦を中断させると、さらに冷たい目で目の前のどこかの馬鹿を見る。
「それに、お前たちの目的は、那由他の保護ではなく、那由他の力を利用することと、里にある如意珠を持ち出すことなのだろう?そんな連中の提案など受け入れるわけないだろう」
彼女の鋭く冷たい視線と、その推論が西河の舌を凍てつかせた。
「……し、心外ですな。私たちは真に那由他様とこの里のことを思って……」
どうにか口に出来たのは、自分でも呆れるぐらいの陳腐な台詞であった。もちろん、それで立烏を誤魔化せることなどできるはずもないが、立烏もそれ以上、西河を問い詰めるようなことはなしなかった。
「そうか……、いや、外界の人間の口から那由他の名前が出てきたものだから、こちらも少々、神経質になり過ぎていたな。非礼は詫びよう」
「い、いえ、こちらも少々は性急に過ぎました。那由他様がこの里にとって、どれほど大切な方なのか、それを失念しておりました。お許しください」
「殊勝なことだ。だが、先ほどの提案を撤回させるつもりはないのだろう?」
「それとこれとは話は別ですので」
「やれやれだな……」
困ったように立烏は頭を掻いた。先ほどは謝ったが、あの推論が的を得ているのは確かであろう。
那由他、それは如意珠の力をほぼ完全に引き出すことが出来る者に与えられる名。かつては亜神としてあがめられた存在。それが那由他である。
那由他をこの里の者たちが守るのは、もちろん外界の好奇の目にさらさせないためでもあるが、那由他の力という刃を封じるための鞘でもあるのだ。
(こいつらは理解していないな)
何故、那由他の力を封じなければならなったのかを、この者たちは理解していない。そんなカタツムリ並みに想像力や洞察力が退化している連中に那由他を任せるわけには行かない。
「西河、当たり前のことを聞くようだ、お前の手の者の中に、如意珠を使えるものがいるな?」
「もちろんです。この後ろの二人を筆頭に、如意珠の使い手が十数名、さらに使い手候補が数十名ほど。いずれも一騎当千のつわものぞろいで……」
西河は長々と身内の自慢話をしようとしたが、望んでいた答えを得た立烏にそれに付き合うつもりは全くなかった。
「わかった。では、標樹の里の里長の権限により、そこの小娘二人に、珠神祭・本祭への参加を許可する」
その決定に、夜刀の大きな体がわずかに揺れた。
4
「珠神祭?」
「本祭?」
二人の少女が聞きなれない単語に、そろって小首をかしげた。そんな二人の目の前に座る西河和道が驚愕のあまり、顔を引きつらせていた。
「そ、その言葉、真でございますか?」
「無論だ」
「仮にこの白 堂 悠 花か、媛 森 沙 久 夜のどちらかが勝ち残れば、彼女たちが里長になるのですよ?構わないのですか?」
「本祭への参加資格は如意珠を使用できる者だけ。そして使い手同士が戦い、最終的に勝ち残ったものが里長になる。それが掟だ。最も今じゃ、この里でも民主化が進んだから、戦後ほどの絶対的な存在ではないがな」
「ですが、里長とは、単に里の最高権力者というだけではなく、那由他様の筆頭護長でもあり、里の使用者のいない如意珠の管理責任者でもあるはず、それを……」
慌てふためく西河の様子をみて、立烏は内心で苦笑とため息を同時にしていた。本人は策略家、参謀役になりたがっているようだが、それらの素質が明らかに欠落している。こちらから現段階では最上とも言える提案をしてきたのだから、素直に受け入れればいいものを、予定外の状況の展開に混乱している。頭は悪くないようだが、気質は単純なのだろう。
「本祭が行われるのは、明後日の金曜日から三日間行われる珠神祭・儀祭の深夜だ。場所は明日にでも案内させよう。西河、構わないな?」
「か、かしこまりました」
田舎の夜中なので、たいして暑くもないのに汗だくの顔を押し隠すように頭を下げる。後ろの少女二人もそれに習うが、こちらはそれほど緊張している様子はない。
「では、今日のところはお引き上げ願おうかな……、と思ったが、この里には宿と言うものはなかったな。なら、祭りが終わるまでここに滞在しろ」
「よ、よろしいのですか?」
「古いが広い屋敷だ。お前たちが泊まるぐらいの部屋はある」
立烏が二度ほど、手を打った。すぐに襖が開き、先ほどの女性が三度、現れた。
「伽 耶、彼らを東南の部屋に案内してやれ、それと夕食と、寝具の用意もな」
「かしこまりました。では、皆様こちらへ」
西河たち三人は伽耶に案内されるままに部屋から出て行った。そのとき、また三つ編みの少女、悠花が夜刀に視線を向けてきた。夜刀も見送りのつもりで西河たちを見ていたので、二人の目が合う。悠花の目は相変わらず友好的であったが、西河たちの目的が那由他の身柄であることが分かった以上、彼女たちは敵である。自然と、悠花を見る目も険しくなる。すると、悠花の表情がわずかに曇ると、また微笑を浮かべた。それは今までのような友好を示すような笑みではなく、泣きたいのを我慢するような、そんな悲しそうな微笑であった。
「ん……?」
そんな彼女の表情を見ていた夜刀の胸が、何故かざわついた。不快なざわつき。罪悪感とでも言うものかもしれないが、とにかくそれが夜刀の胸の中を埋め尽くしていた。
(こいつは彼女では、白 樺 由 宇( ゆう)じゃない。ないはずなのに……)
自分自身の精神のざわめきに納得できないでいる夜刀を尻目に、西河たち三人は部屋から出て行き、夜刀の目の前にはいつの間にか先ほど、手もつけないまま片付けられた夕食の膳が再び置かれていた。
「夜刀、お前は特に何もしていないが、とにかくご苦労だったな」
「ん……、確かに何もしてないな」
指摘されるまでもなく、この対談で夜刀は何もしてない。荒事になれば出番もあったのだろうが、相手は少なくても現時点で強引な解決は望んでいないようだった。夜刀がしたことといえば、沙久夜という少女とにらみ合っただけであった。
「その名誉挽回と言うわけではないがな夜刀、お前にも珠神祭点・本祭、出てもらうぞ」
「そうなるとは思ったが、一人であの二人の相手は無理か?」
「あの二人は強い、一対一でもきついかもしれない。だからだ」
「しょうがないか」
できれば人間相手に本気の戦いはしたくはなかったが、この状況ではそうも言ってはいられない。西河の目的がどのようなものであれ、那由他の力を外界で使用させてはいけない。
「それとな、夜刀。さっきの話の内容、那由他に伝えておけ」
いやな役を押しつるな、とは口でも表情でも表さなかったが、瞳の光までは沈黙させることは出来なかったようで、立烏は人の悪そうな笑みを浮かべた。
「あいつ自身のことだ、知る権利はあるし、那由他はお前に一番なついているからな」
効果的な殺し文句ではない。しかし、その言葉に偽りはない。どうせ知らせなければならないのなら、親しい人間が伝えるのが一番いい。
「……分かった」
立烏の思惑に乗るのは不本意ではあるが、仕方ない。
さまざまな要因によって単純ならざる心境の夜刀を表すように、目の前に置かれた冷め切った夕食は、しみじみとまずかった。
5
西河とは別の部屋に通され、夕食と入浴を済ませた悠花と沙久夜は、長時間の移動の疲れのため、十時には早々と布団にもぐりこんだ。
女の子らしい数分のおしゃべりの後、沙久夜は眠りに付いたが、悠花はなかなか寝付くことが出来ず、古い天井をじっと見ていた。
「寝られない……」
いつもは寝つきがいい方なので、このような場合にどのようにして眠りに付けばいいのかわからず、ただひたすら天井を見るしかなかった。
ふと、視線を横に動かし、猫の顔の形をした壁掛け時計を見ると、すでに十一時半を過ぎていた。となると、布団に入ってから一時間半にもなるのに、まだ寝ることが出来ないことになる。
「はぁ……」
ため息をついて悠花は上体を起こした。隣の沙久夜を見ると、実に気持ちよさそうに熟睡している。そんな沙久夜の幸せそうな姿にわずかな怒りを覚えつつ、乱れた布団を直すと、彼女を起こさないように気を配りつつ部屋から出た。
東雲家の屋敷全体もすでに眠りについているようで、悠花が見渡す場所に人工の光はなく、夜空に浮かぶ完全に満ちていない月の光が彼女の視界から完全には程遠いものの、闇を払ってくれていた。
「とても静か……」
それは無音ではなく、静寂といわれるものであった。耳を澄ませばわずかな空気の流れの音さえも聞こえ、虫のささやかな求愛歌が鼓膜と心を心地よく刺激する。
外の景色を眺めが目ながら、やたらと長い縁側を歩いていた立烏は、縁側の下に放置されていたサンダルを見つけた。無断借用は悪いと思いつつも、外を散歩したい欲求を抑えることが出来ず、彼女の足には大きすぎるサンダルを履くと、都会では一部の金持ちしかもてないような広い庭に下りる。
都会とは違い、田舎では夏でも夜になれば気温は二十度を下回る。そよ風が吹けば涼しくなる。
緩やかな風に三つ編みをといた髪をなびかせながら、彼女は広い庭を散策した。庭の片隅に小さな林を作る木々、錦鯉の代わりにさまざまな川魚が泳いでいる池。それは手入れはされているが、あえて手を抜いているような整頓と乱雑が微妙に共存した庭だった。
「あの頃とここは変わらない、変ったのは私なの……?」
それは自分でもない特定の誰かに向けられた質問だった。もちろん、そこには彼女しかいないので、答えが返ってくることはなかった。
さらに庭の散策を続ける悠花は、垣根と小さな木戸を見つけた。それも悠花の記憶の鮮明に残っていた。あの時と変わりないのなら、この先には彼がいるはずである。少し緊張しながら木戸を押してみる。ここの手入れは怠っていないのか、蝶番は音を立てることなく滑らかな動きで木戸が開く。奥へ進むとそこには小さな離れが建っており、母屋の庭に比べ殺風景な庭に、梅の木が一本、ぽつんと立っていた。そして、そのすぐ傍に十二、三ぐらいの少年が月を見上げて立っていた。
髪は絹のように白く、肌も透き通るように白い。さらに着ている寝巻きまで白いので、闇の中ではとてもよく目立つ少年。そんな少年を悠花は知っていた。
「那由他ちゃん……?」
思わず昔の呼び方で少年の名を呼んでしまい、慌てて手で口押さえる。呼ばれた少年はこんな時間帯のこんな場所に人が来るとは思っていなかったようで、少し驚いたように悠花のほうを向いた。
「あなたは……?」
何かを思い出すように、小首を傾げる那由他。それに対して余計な疑念をあえてはならぬと、悠花は慌てて自己紹介を始めた
「あ、あの、私は白堂悠花と申します。かつて、この里から外界に出た一族の末裔で、本日は東雲立烏様に会いに標樹の里に戻ってまいりました。今宵は偶然とはいえ、那由他様に初めて会えたこと、光栄に思います」
かなりの早口で言い終えて頭を下げた後、悠花の胸にわずかな痛みがはしった。那由他と会ったのはこれが初めてではない。いや、あの頃はほぼ毎日のように会っていた。あの人と一緒に。だが、あの人がそうであったように、那由他も覚えていないだろう。三年前に里から出て行った少女のことなど。
不意に那由他は笑った。微笑でも嘲笑でもなく、単に悠花の言動がおかしいから笑っているようだった。
「久しぶりに会ったからって、他人行儀な挨拶をしなくてもいいよ」
「え……?」
那由他の反応は悠花の予測していないものだった。
「どうして……?」
「どうしって、由宇姉さんでしょ?昔、夜刀兄さんと一緒によく遊んだ」
那由他はごく当たり前のように言う。それが風化させてはいけない記憶であることを、ごく自然に認識してるようだった。
「そうだけど」
那由他は今、自分に対して純粋な好意を向けてくれている。しかし、それは子供の頃に一緒に遊んだ白樺由宇という少女に対してであって、外界からの無礼な干渉者である白堂悠花に対してではない。
「今の私は白樺由宇じゃなくて、白堂悠花だから」
それは悠花の事情を知る人物ならその台詞に込められた自己嫌悪感を聞き取ることが出来ただろうが、そこまでの事情を知らない那由他には、意味不明の台詞でしかなく小首をかしげた。
「つまり、由宇姉さんじゃなくて悠花姉さんってこと?」
那由他にとっては単に呼び名が変わった、それだけことでしかないようだった。
そんな那由他に悠花は思わず微笑んだ。この子は過去の自分だけではなく、今の自分をも受け入れてくれたのだ。たとえ、詳しい事情を知らないとはいえ。
「那由他ちゃん、ありがとう」
「そうそう、やっぱり悠花姉さんにはそう呼んでもらわないとね。あ、でもぼくももう十二だから、ちゃん、じゃなくて、くん、のほうがいいのかな?」
「だったら今度からは、那由他くんって呼ぼうかしら?」
確かにそちらのほうが今の年齢にはふさわしい敬称であるが、那由他は少し考えると屈託のない笑顔を見せた。
「もうしばらくは「ちゃん」でいいよ。どうせ夜刀兄さんのこともそうやって呼ぶんでしょ?」
何気なく那由他の口から出た夜刀の名は、小さな針となって悠花の胸に刺さる。夜刀はまだ悠花が、かつて標樹の里にいた由宇と同一人物とは気付いていない。その真実に気付いた後、彼は悠花にどのような態度で接してくるのか。昔のように那由他と悠花に振り回されながらも、大事な友人として接してくれるのか、それとも外敵として認識されるのか。いや、偽名を使っていたことがばれれば、悠花自身は別としても、悠花の両親が何かしらよからぬことをたくらんでこの里に来たのは明らかである。だとすれば夜刀の取るべき態度は当然……。
「ここで何をしている?」
重い詰問の声が、悠花の四肢を縛る。
「夜刀兄さん、来てたの?」
詰問の対象ではなかった那由他が、二人目の闖入者の名を呼んだ。
小さな木戸を狭そうに通り抜けて現れたのは、大岳夜刀だった。
6
那由他が寝起きする離れに来るまで、夜刀の機嫌はそう悪いものではなかったが、ここにきてそれが一変した。
標樹の里の最秘宝の那由他と、それを奪いに来た悠花とか名乗る盗賊の一味が一緒にいるのだ。しかも、何故か親しげに話をしている。これで上機嫌を保つことは、夜刀だけでなくこの里の民にはゴキブリに可憐さを感じるのと同程度に難題であった。
「なんでお前がここにいる?」
近寄ってきた那由他の腕を引っ張り、自分の背後に隠すと、硬直している悠花と対峙する。
「夜、人の目を盗んで……か?なににしろ、感心しないな」
これは夜刀の勘違いなので弁明してもよかったのだろうが、悠花は何も言わずにただ黙っていた。
「この状況を説明する義務が、あんたにあると思うんだが?」
断罪するよう激しい口調ではなく、淡々とした口調ではあったが、それだけにごまかしを許さない威圧感があった。
「……寝れなかったら、少し散歩していたら……」
「ここにたどり着いたか?」
夜刀の態度は容疑者に対する検察官の態度と異なることはなく、結果があって過程を洗い出すような質問だった。
返答につまる悠花を助けたのは、他ならぬ那由他だった。
「夜刀兄さん、この人は由宇姉さんだよ」
余計なものを省いた簡潔に過ぎる説明文であったが、悠花に奇妙な既視感と自分でも説明できない、不安定な精神状態にあった夜刀には、それで十分だった。
「そういうことか……」
悠花を見る夜刀の目を支配していた光が、単色から多色に変化する。
「久しぶり、夜刀ちゃん」
おどおどと、しかし、少しうれしそうな悠花。一方の夜刀はどのような態度を取っていいのか判断しきれずに、やや困った顔をして頭を掻いていた。
「白樺由宇は、偽名だったのか?」
近寄ろうとした悠花の足を止めたのは、その夜刀の一言だった。
「うん」
肯定するしかない。本名を名乗ったのだから、以前に名乗っていた名前が偽名になるのは当たり前のことで、否定することに何の意味もない。
「何のためにお前は……、いや、おじさんやおばさんは偽名を使ったんだ?」
その声を成分分析すれば、主成分はやはり敵意であろう。後は憶測や迷いがあり、最後に最も少量の成分として願いが検出されたはずである。
「たぶん、自分たちが昔、里から出て行った一族の末裔であることを隠すために」
六歳のとき、両親に連れられて標樹の里に引っ越してきたときには何故、違う名前を使わなければならないのか分からなかった。その理由が分かったのはつい最近である。それが結果として夜刀たちを騙していたことも。
「そうか……、それなら」
夜刀の右拳が強く握られる。それは怒りゆえであるが、その怒りがどの方向に向いているのか夜刀自身にも分からなかった。分かっている、あるいは分かっていると錯覚しているのはただひとつのことだった。
「それなら、お前はおれの敵だ」
悠花の体が硬直するのが視覚で確認できた。後ろで那由他が同じように硬直させるのが気配で察知できた。
自分が今、二人に対して非情な宣言をしたことは承知していた。
「夜刀ちゃん……」
その声は迷子の子犬のように力なく、今にも涙が溢れそうは瞳が夜刀に向けられている。
「おれをそう呼んでいいのは……、白樺由宇だけだ。お前は白樺由宇ではないのだろう」
それは完全な拒絶の意思の表れだった。それを口にした以上、もうかつての関係には戻れない。言った方も言われた方もそれは分かっていた。
闇より深く冷たい数秒の沈黙の後、聞こえてきたのは悠花のか細い声だった。
「そう……だよね、私たちはこの里の大事な人を奪いに来て、あなたはそれを守る人。だから敵、何だよね?」
悠花が歩き出す。近寄るための歩みではなく、去るための歩み。だから夜刀もそれを止めようとはしなかった。
「ごめんなさい、大岳くん」
すれ違いざまに悠花が囁く。
「……!」
咄嗟に夜刀は左腕で自分の右腕を掴んだ。そうしなければ、悠花を引き止めてしまいそうだった。
「どうしてなの、夜刀兄さん?」
悠花が去った後、那由他は責めるような視線で夜刀を見上げていた。
「あの人は由宇姉さんだよ。名前は違うけど由宇姉さんだよ!夜刀兄さんも分かってるでしょ?」
那由他とって、悠花は今でも敬愛すべき姉であった。そして、その思いは夜刀にも分かった。
「これもお前のためだ」
などという陳腐な台詞はいえない。この状況でそれは、責任を那由他に押し付けるための責任転嫁の台詞でしかない。
「夜刀兄さん!」
さらに責めようとする那由他の頭に、夜刀の大きな手が置かれた。
「どうやらおれは、悪い意味で大人になったらしい」
そう語る夜刀に、那由他はそれ以上、責めることは出来なかった。