深海のイアトニー
食いたい。何もかも。全てが俺の胃袋に入るとしたら。それほどきょだいな胃袋がほしい。
俺の名前は千とある。ほとんどは「人間」とかいうくだらない種族がつけた名だから好きにはなれないが、それでも無いよりは分かりやすくなるだろう。「クラーケン」という。
今が何時かは気にしたことも無いので知らないが、おそらく核戦争の少し前くらいだろう。なぜって、まだ下等種族は滅亡していないから。
俺の性別か?どうしてそんなことを聞く?まあいいが。雌だ。…なぜ驚く?お前だって女だろう?
今度は俺から質問だ。なぜそんな寒そうな格好をしている。まるで下着じゃないか。体操着?なんだそれは。がっこうの途中で抜け出した?よくわからない。
こんな寒い海底で、よく平気なものだ。だって死んでいるから?まあ、それもそうだな。
しかし不思議なやつだな。みたとこ日本人だろう?図星のようだな。驚かなくてもいい。何年生きてきたと思ってる。お前のような温室育ちがその若さで死ぬとは、きっとよっぽどのことがあったんだろうな。…じさつ?聞いたこと無いが、あまりいい響きじゃないな。
まあいい。死んでしまったものは仕方ないとしよう。だがなぜこんな場所にいるんだ。ここがどこかは定かじゃないが、故郷からだいぶ離れているのは確かだろう。分からない?困ったやつだな。
いいかいお嬢さん。自由に見える俺にも仕事がある。それは海で死んだ命を冥界まで導くことだ。俺の背中をみろ。大きな船があるだろう?これは幽霊船だ。万の魂がのる、ノアの箱舟さ。あんたも乗ってもらう。
ただし、乗船資格が必要だ。別に乗るとは言ってない?まあ聞きなって。資格は一つ。この次生まれ変わる権利を捨てること。そうすればこの暗く寒い海底から今すぐ出してあげる。なにも感じない楽園へ連れてってあげるよ、どうする。
…悩んでるみたいだね。みたとこ随分業を背負ってるようじゃないか。生きることに絶望しきってる表情だよ。悩む必要なんて無いさ。
まあ、ゆっくりかんがえるといい。待ってるのも退屈だから、少し聞かせてくれないか?お前が絶望し、死んだ理由を。
―
いじめ、むし、ぱしり…なんだか聞きなれない言葉ばかりだな。知らないことは何もないと思ってたけど、世界は広いもんだ。さっきのじさつってのと関係があるのか?
自分で自分を殺した…それが自殺…なんてこった。あんたでちょうど一億人目だよ。何がって?船にいる自分殺しの数さ。さっきはピンとこなかったけどそうか、あんた要するに弱虫だったんだね。
まあ気を落とすことはないよ。お仲間はたくさんいるし、これからも増え続けるだろうから。
個人的な感想としては、おもしろかったよ、お前の話は。なんせ全部あいてのせいにして、自分を省みることなんか一度もなかったんだからねぇ、笑わせてもらった。
怒ったか?別にどうってことないだろう?今まで散々踏みにじられて蔑まれてきたんだから。これくらいものの数にも入らないよ。
ああそう、ひとつ気になったんだけどさ、お前なんで一度も泣き叫ばなかったんだ?誰かが助けてくれないかと都合のいい期待をしておきながら、自分は何もしないなんて矛盾してるだろう。
ふうん、麻痺してたんだね、その状況に。後悔してるわけか。それはそれは。もう遅いけどね。
さてどっちにするか決まったか?なに乗船拒否?まだ未練がある、生まれ変わってあいつらを見返したいと。ふうん。
ほんとうにいいのか?後悔はしないのか。
そうか。
俺の負けだな。いや、すまなかった。実はお前を試していたんだ。この船の行き先は何も感じない楽園なんかじゃない、生まれ変わりの輪廻の中さ。
そう、この船に乗れば生まれ変われる。そう怒るなって。ある程度生きる意志がないと乗せられない決まりなんだ。
もし口車に乗って楽園を選んでいたら?そのときの行き先は、俺の腹の中だ。そら見えるか?蠢く巨大な影が。絶望に負けた人間共の、成れの果てだよ。
―
どちらを選ぶかはそいつ次第だ。胃袋は大量の絶望で覆われてるが、船は少しの希望で照らされてる。おかげで俺は常に満腹なわけだが。
しかし最近思う。いつの日か腹に入りきらなくなるのではないかと。永い時のなかで安易な絶望を選ぶものはどんどん増えていった。きっとこれからも増え続けるだろう。
だから俺は、何もかも受け入れられるような…そんな巨大な胃袋を欲するのだ。
end
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