第五話
『どうだ〜? 夜空。苦しいとこ、ないか』
『パパ!』
――やさしく頭を撫でる、ひんやりして大きい手。世界で一番大好きな手。自分は将来、こんな手の男になれるだろうか?
『最近あんまり来れなくって、ごめんな?』
『ううん。さみしくないよ。パパが持ってきてくれた本読んでるから』
『でも、家にあるの適当に持ってきただけだから写真集ばっかだぞ? つまんないだろ』
『楽しいよ! ボク、写真大好き』
『そうか。夜空はパパと趣味が合うな』
『えへへ〜』
――何度も見て、どこにどんな写真があるのかも憶えてしまった写真集。風景、人物、動物、植物。どれも生き生きとして色があふれている。外の世界はどれだけ美しいことだろう?
『今な、夜空でも走り回ったり冒険したりできるゲームを作ってるんだよ』
『本当に? コントローラーで動かすテレビの奴じゃなくて? ボクも走っていいの?』
『そう。ヘルメットみたいなのを被って、頭の中で冒険するんだよ。本当に体を動かすんじゃないから、大丈夫だ』
『すごーい! すごい、すごい! 早くやらせてね、パパ』
『もちろんだ。もうちょっと待っててくれな、すぐできるから』
『でも無理しないでね』
『はは、ありがとうな。でも大丈夫。今回はすごい仲間がついてるんだ。完成したら、真っ先にパパと遊んでくれよ、夜空』
幸せな記憶。もう戻らない過去。
今は、本当の足で走り回ることができる。
しかし彼と冒険することは、二度と出来ない。
夜空は目を擦った。自分が泣いていると分かると、不思議なことにますますそれは溢れ出した。やがて嗚咽に変わる。まだ肋骨が痛んだ。
どうしてこんな夢を見たのか? 多分、ここがそこだから。夜空がたった2ヶ月前までの人生を過ごしてきたところ。また来ることになるとは思ってもみなかった。
あの後、夜空はその足で病院に連れて行かれた。
病院に行くのだということは容易に想像のつくところだったが、つい最近までの人生で病院から出たことがほとんどなかったので、いざ視界に入ってくるまでまさにこの病院に向かっているのだということに気づかなかった。
常盤木は必要な手続きなどの一切を行った後、なにやら携帯で話していたが、いつの間にかいなくなっていた。
白い部屋。何もかもが白い部屋。そして一人きりの部屋。全てがあの時のままで、夜空は相変わらずしゃくりあげながら、何だか笑いたくなった。
健康になれば全部うまくいくと思っていた、近い近い過去。世界は美しいものが無限にあると思っていた。今は分からない。白い壁よりはいろんなものがある。それは確かかもしれない。けれど、かつては、いつか父とキャッチボールをするためにあった体が、今や得体の知れない怪物を倒すためだけの体になってしまったことは間違いない。
右腕の包帯をまじまじと見た。何針縫ったのか、よく思い出せない。こんなに深い傷を負ったのは初めてだった。最初のころは、もっと小さくて無抵抗な怪物だった。夜空の存在に気づいてもあまり攻撃もしてこなかったし、もともと襲ってくるようなものではなかった気がする。他に何か目的がありそうな動きをしていた。それがだんだん、明らかに夜空を狙うようになり、姿かたちもいかにも強そうな、凶暴なものになっていった。特に昨夕の熊のお化け。おかげで、初めて治療と検査のために入院することになったわけだ。
(ボクは、いつまで戦えばいいんだろう)
それは、最悪の回答を予測すると、考えることすら怖くなってくるような問いだった。
「検温の時間です」
前までは見たことがなかった若い看護士が入ってきた。けれどやはり、ナースキャップも制服も見慣れすぎて夜空には怖いくらいだった。
体温計を脇に挟みながら、左腕の銃の存在を思い出す。
熊の化け物と戦ったときからまた少し形が変わっていた。
見た瞬間、何かがよぎる。
間違いない、化け物がいる。
「接続剤は…」
夜空は呟いた。
「どうかしましたか?」
若い女の看護士は、よく聞き取れなかったし、言葉の意味が分からなかった。
「ボクの持ち物はどこにありますか」
今度は、決然とした口調。左腕に絡みつく銃が、その言葉に呼応するように、はげしくうねりはじめた。銃口が小さくなっていき、銃身が細長くなっていく。徐々にそれは光り始め、銀色になった。
「あぁ、そこの引き出しですよ。着てきた服も一緒に」
「ありがとうございます」
言うが早いが、夜空はベッドを降りて引き出しを開けた。
「あら、ちょっと…!」
あわてる看護士をよそに、夜空は手早くジャージを取り出し、ポケットからピルケースを引っ張り出した。
すばやく蓋を開けて2粒口に放り入れた。
そして病室を飛び出す。
「夜空君っ!?」
看護士はとっさに夜空の腕を引っつかもうとして、だめだった。夜空はぐいぐい走っていく。
看護士がナースコールに向かって何かを言っているのが遠くに聞こえたような気がしたが、夜空はぜんぜん気にならなかった。
視界に、だんだんと白い鳩のようなものの群れが院内を猛スピードで飛び交っているのが浮かび上がってくる。20…30。羽音はヘリコプターが至近で離着陸しているかのようだ。それが白い塊となって狭い廊下の角を曲がりまくる。夜空は追った。ゼロゼロと喉が鳴ったが不思議と疲れを覚えなかった。走りながら左腕を構える。それはまるで、剣の様に銀色に輝いていた。先端から、タタタタッと音を立てて銃弾が飛び出す。何羽かが乳白色のような液体を撒き散らしながら群れから離脱し落ちた。落ちて尚もがき、飛び立とうとするそれを夜空は銃の先で振り薙いだ。それは真っ二つに切れた。そして動かなくなった。断面は陶器のように白かった。
夜空は群れを追い続け、撃ち続けた。3階、4階、5階。群れはどんどん階を上がっていく。それに伴って1羽、2羽と撃ち落され、やがて最後の1匹になった。狙いが限られるのでなかなか中らない。手こずる内、ダンボールなどが置かれて暗い階段に差し掛かる。夜空が昇ったことのない階段だった。
夜空は追った。狙いを定め、定め……そして………
!!
目の前が白くなる。いや、目の前に切り取られた長方形の中が。暗い階段に浮かぶ、放たれた屋上のドア。陽の光。一面のシーツ。
鳩はどこだ。はためくシーツにまぎれてしまったのか。
夜空は屋上に降り立った。あたりを窺う。
床に、揺れる小さな影。見上げる。鳩だ。青い空に浮かぶ鳩。
鳩はひらりひらりと紙くずのように舞い飛んでいく。夜空はその幻想的な光景にとらわれ、ぼうっとそれを目で追った。
自然、屋上の奥のほうへ目が行く。誰かがいた。男。こちらに背を向けて、長いスプリングコートを着ている。
鳩は視野の中で消しゴムほどの大きさになり、ひらりとその男の肩に止まった。
男は鳩を手にあやし、左の人差し指へ移し止らせ、右手でその喉を撫でくすぐった。
鳩もそれをおとなしく受けている。
そして、男は鳩の首の辺りを掴むと……
「鳥よ。疲れただろう」
―――握りつぶした。
鳥は、乳白色の液体になって散り消えた。
「……!!」
夜空は、接続剤が効いている内はあまり論理的に働かない頭で、それでも目の前の状況に戦慄に近い衝撃を受けた。
男の残酷さにでは、ない。同じことは夜空も何十倍だってしている。
何故
何故、彼は化け物に触れるんだ??
男は振り向いた。夜空にはまるで望遠鏡を覗いているように男の細部まで見えた。
白髪の混じった、やや短い頭髪。口回りには皺が刻まれている。若くはない。ただ、老いてもいない。痩せて少し姿勢の悪い、研究者然とした男。
「誰だ……ッ」
夜空は何とか搾り出した。
「フフ、声がひっくり返っているぞ、夜空君」
タバコの臭いがするような声だった。
「君に化け物をけしかけているのは、私だ」
唇が、スローモーションのように動いた。




