第四話
ラ、ファ、ソ、ド。ド、ソ、ラ、ファ。
梢はチャイムの音を唇でなぞった。左肘で軽く頬杖をついて、窓の外に視線を泳がせる。今日も天気がいい。日増しに夏らしくなっていくが、まだ不快なほどの気温も湿度も無い。これから梅雨も来る。今はまだ、きらきらと晴れていた。
第一志望で受かった高校は、最初に見学に来たときどおり、とても梢と雰囲気が合っていた。女子高だが粘っこいところがなく、生徒も教師も穏やかで明るい、勉強のしやすい環境だ。多少校則は厳しいが、それは並みの女子高によくある位で、今のところ彼女は気になっていない。おなじ中学から上がってきた友人は一人もいなかったけれど、とりたてて外交的でない彼女でも徐々にクラスに慣れつつあった。
「梢、何か良いことあったの?」
うん? と梢は視線を窓から目の前の友人に移した。一学期の初めからお弁当を一緒に食べている、バスケ部で割りとさっぱりした性格の子だ。梢はにこ、と笑った。
「香菜ちゃん。昨日の帰り道に、ちょっといい事」
「あぁ、あの橋のところの男の子、って話?」
ショートカットがさわやかな彼女…香菜は梢の向かいにしゃがみ、机の上で腕を組んだ。
梢は返事の変わりにこくりと頷いた。
けれど、あのときの彼の状態を思い出すと、自然と微笑が消えた。
「で、何者だったの? 何があったか教えなさいよ」
「足を、怪我して倒れてた」
「え!? 何、それぇ」
地でアイラインを引いたようなくっきりした目を、大きくして驚く。紅いくちびる、屋内競技特有の白く美しい肌。とりたてて遠目にも目立つ特徴がなく、肌も白とは言いがたく平均的に健康そうな色味の梢とは正反対で、それが梢にはひどく魅力的に感じられていた。
「わかんない…けど、すごく疲れてるみたいだった。すごく簡単に手当てして、少し話もしたけど…」
「話したの!?」
「うん。歳は15歳で」
「タメ? だって前中学生くらいだって」
「でも、そうだったんだって。背は、私と同じくらいだったと思う」
「ちいさくね?」
「まぁ…そうなるのかなぁ」
確かに、梢一人の目で見ていたときは冷静な批判をしなかったが、客観的な目としてその言い分は正しい。そうか、あの子は小さかったのか…そんな今更なことを、梢は思った。
「で、じゃ、どこ高? 聞いた?」
「行ってないんだって。病気してて入れなかった、って」
ふうん、と香菜は相槌を打った。くしゃくしゃっと頭を掻く。
「何かさぁ、こう言うのもあれだけど、あんまり関わらないほうがいいんじゃない? アブなそうじゃん」
香菜の言うことももっともなのかもしれない、と梢は思う。彼女にしても意地悪のつもりで言ったのではないということは分かっていたから。素直すぎて少々無防備なところのある子ではあるが、それ故に純粋な優しさを持っている。言いにくいことでも友人のためを思うことであればあえて告げるというのは、梢が本人の口からいつか聞いた、彼女自身の思想でもあるし実践していることであった。
…けれど。
長い前髪の内側から、はにかんだように笑ったとき、はらりと覗いた瞳。
瞳が。
こちらまで切なくなるくらい、澄み渡っていた。
「ふたば、よぞら」
梢は小さく口の内で呟いた。




