第一話
空が青い。空は青いが、そこに浮かぶ薄い雲はピンクがかったオレンジ色に染まっている。西側に振り向けば、あるいは空も赤いのかもしれない。そんな時間帯だった。
一人の少年が、住宅街を割って流れる川を橋の真ん中からぼんやりと見下ろしていた。見た目の年のころは12,3歳といったところだろうか、肘まで捲り上げたパーカーから細くやせた血色のよくない腕が覗いていた。左腕は手すりに無造作に乗せられている。ただ、右手はしきりと、腰に掛けられたホルスターを気にかけ、指を這わせていた。
途端、周囲の空気にピリリと緊張が走った。いや、おそらく周囲そのものに変化はない。その川と橋を主人公とした風景を一枚の絵と捉えると、その画面の中でなにか変わったならば、それはあの少年だった。肩を強張らせている。右手は強くホルスターの少し上、グリップのあたりを強く握る。
…そこには何もない。指が白くなるほど握られているそこには。透明の銃。そんなものを握り締めているようだった。
全身の緊張感はそのまま崩さず、サイドに3本ラインの入った黒い膝丈のジャージのポケットからピルケースらしきものを取り出し、そこから3錠の白いカプセルを口へ放り込む。彼の動きに関連性は見出せない。それどころか意味さえわからない。けれど少年は、まるでとてつもない使命感を帯びたように眉間に深いしわを寄せ、眉を一直線に吊り上げていた。
少年がにわかに振り返り、走り出す。右手はやはり何もない場所を強く握り締め、しかしそれはもうホルスターを離れたのか胸の前で左手を添えられていた。
少年は川原へ駆け下りた。頭をしきりに上下左右へ動かし、視界に何かを捕らえようと必死であるようだ。右手を突き出し、まるで本物の銃を構えるようなしぐさをした。さらに、1,2発撃つような動きもする。かと思えば、なにかから身を守るようにすばやく屈んだり、何者からかの攻撃をよけるように跳躍したりした。川原にはもちろん何もない。猛獣や怪物などはもちろん、人間も一人もいない。少年はまるで何もない場所に何かが見えているかのようだった。一人ヒーローごっこにしては緊迫感が過ぎている。
少年が強張った顔を更に歪める。次の瞬間、なにもないはずの少年の右脚から血が流れ出た。
傷をかばい崩れたバランスの中で少年は更に腕をまっすぐに伸ばし、何発も撃った。ような動きをした。
そして撃った先を確認するような目つきを数秒したあと、少年はほっとしたように目を閉じ、川原の草の上にぺたりと座り込んだ。
「…夜空です……済みました」
取り出した携帯電話にむかって少年は喋った。スピーカーから返答と思われる音が流れたが、言葉として聞き取れるのは音源に耳をつけている少年だけだった。
「はい、右足に少し食らいました…。…大丈夫です。……そっちに戻らなくても、自分で…。薬はまだ十分あります。ええ。なくなるとき、取りに行きますから…。はい、じゃあ、また………」
少年は川原の柔らかな草の上に大の字に寝そべった。眉間の力をわずかに抜き、目を閉じる。
足から血が流れ出続けていること以外は、普通の子供と何の変わりもない。
その傷を黙殺し、少年は寝転び続けた。目の下には青黒い隈が浮かんでいる。唇を薄く開けてまどろむ様子は安らかそうにはまず見えず、むしろ、もしその目じりから涙が流れ落ちていたとしても違和感をおぼえそうになかった。
FICTION-LINK
字紀 彦助
「目標、消滅しました」
コンピュータと精密機器でごった返すある場所。そこには白衣を着た男が5人ほど、コンピュータに顔をうずめるようにして、画面から出る光に青白い顔を反射させていた。
「夜空は無事か」
リーダー格らしい、研究者の割りに体格がよく精悍な面差しをした30代前半ほどの男が凛とした声を張り上げた。
「いえ、右足を負傷したようです、常盤木主任」
受話器を持った研究員がリーダーへ向き直って言った。
「なに、それなら早くこちらへ戻るように言ってくれ」
「それが自分で処理できるということで…接続剤がなくなればまた寄ると」
リーダーは癖なのか、親指の爪を噛んだ。噛みながら、深く考え込んだ。
「…最近夜空はますますここを避けるな。嫌われてもしようのないことを強制しているから当然だが」
「嫌われるのは承知のうえだったのでは? しかし我々を嫌うことが彼の精神衛生上、ひいては戦闘能力に余りに影響を及ぼすようであれば、改善の必要性はあるでしょうが」
リーダーの近くにいたほかの研究員が口を挟む。
「そうですね、円滑な人間関係がもたらす健康や寿命への良い影響は知られているとおりだ。そして逆もまた然り、と」
更に、ついさっきコーヒーを持って部屋に入ってきた研究員も話題に加わった。これでこの部屋にいる研究員のほぼすべてが会話に参加していることになる。
「……そんなんだから嫌われるんだろうな、俺たちは」
リーダーはあきれたように呟いた。そして白衣を脱ぎながら呼びかけた。
「なぁ、消毒液とガーゼをくれ。それと包帯も。夜空の位置はまだ捕捉できているんだろう?」
「あの、…大丈夫ですか?」
痛みも忘れて眠りに落ちかけていた少年を叩き起こしたのは、耳にするりと入るような心地よい少女の声だった。少年は条件反射で瞼を起こし、声のしたほう…つまり、後方へ視線を動かした。
「……?」
少年は、自分から見て逆さに移った目の前の少女の顔をまじまじと見つめた。二つに結んだ髪が少年のすぐ鼻先まで垂れている。目鼻の位置がよく整っていて、どこのパーツが特にすばらしいということは無かったが見る人に清潔な印象を与える少女だった。おそらく高校生なのだろう、黄色いタイを結んだ紺色のセーラー服を着ている。短すぎないスカートの丈がむしろ少女のイメージとスタイルにぴたりと似合っていた。
少年はいぶかしげな顔をした。まんざら知らない顔でもないらしい。ただ知り合いというほどでもないようだが。
「…きみは…毎日ここを通る…?」
「ええ、そう。わたし、ここが通学路なの。あなたはあそこの橋に毎日いますよね。気づいてくれてたんだ」
「だって…ボクがここにいるのはせいぜい10分かそこらなのに、きみはその時間に必ずここを通るんだもの」
「そうだったんですか、奇遇ね」
少女は小首をかしげるようにして笑った。
「それよりも、足、大丈夫ですか? すぐ手当て、しないと」
少年は起き上がると右足を上にして胡坐を組んだ。血はだいぶ止まっていたが、確かに何らかの処置は必要なように見えた。
「近くに公園があるから、一回洗いましょう?」
「……うん」
数十分後、少年の足には水色のチェックのハンカチが巻かれていた。もちろん少女のものだ。二人は公園のベンチに座って、缶ジュースを飲んでいた。薄暗くなってきた中で、ベンダーの光が目立ちだしていた。
「わたし、朝日 梢っていいます」
少年が名前を聞くと、少女はそう答えた。少女が目線で「あなたは?」と言ったので、少年も答えた。
「ボクは、二葉 夜空。…語呂、わるいだろ」
「ううん? そんなことない」
梢の笑顔にうそは感じられない。
「…そう思うんなら、別にいい」
夜空は、どこか複雑な顔をした。梢もそれを敏感に感じ取ったようだけど、だからどうこうということはしなかった。
次に歳を聞くと、梢は15歳だと答えた。早生まれだから、高校生だけれどまだ献血に行けないという。夜空も、自分も早生まれで、今15歳だと言うと、梢は驚きを隠せない顔をした。
「なんだぁ、同い年。」
梢が驚くのも無理はない。夜空はせいぜい中学1,2年といったところなのだ。声も完璧に変わっているわけでない。
「よく間違えられるよ。学生証忘れたって言えば、中学生料金で映画も見られる」
「ふふ、私も、たまにそれやるよ。あんまり大人っぽい格好しないで、メイクもしないとけっこう大丈夫なの」
同い年とわかった途端に梢は気を使わない言葉遣いになった。表情もだいぶやわらかく豊かになる。人間、誰でも素性の知れない相手には遠慮がちになるものだ。
「二葉くんは、どこの高校に行ってるの?」
何故か梢は夜空の怪我の理由について触れない。自分から話すまで聞かないつもりなのかもしれない。
「ボク、高校行ってないから」
夜空は気まずそうに言った。
「あ、そうなんだ。じゃあ、働いてるの?」
梢は不必要にあわてたり気の毒がったりすることはせず、あくまでさらりと聞き返した。
「うん…、ボクずっと病気してて、さいきんやっと治ったんだ。入学式には間に合わなかったけどさ。だから、半年か一年遅れても…高校行きたいと思ってる」
気のせいか、その言葉はどこか空虚に聞こえた。
「へぇ…病気、治ってよかったね。早く高校行けるといいね」
梢がさっきから余りにやさしいものだから、夜空はかえって申し訳なさそうに体を縮めた。
「ごめん、重い話ばっかりして」
「そんなことないよ」
本心から気にしていないことを示しているような、曇りの無い笑顔だった。しかしふいにはっとした顔になって、携帯電話を取り出して時間を確認した。薄いピンク色の折りたたみ式だった。
「あ、ごめんなさい、わたしこの後習い事があるの」
夜空ははっとして、少しだけ、見た目にはわからないくらい少しだけ、肩をすくませた。
「そっか。ひきとめてごめん、…ありがとう」
「ううん、いいのよ。だって二葉君のこと、最近はほとんど毎日見かけてて、何だか勝手に知り合いのような気になってたの。ふふ、ごめんね。けど今日こうして話せて良かった。だってもし今日がなかったら私、話しかけたりなんてとてもできなかったもの」
しとやか、とか、品がいい、という言葉の良く似合う顔で梢はにこ、と笑った。夜空もそれにつられるように、隅のひどい目を細めた。薄い唇をほころばせると、丸みの残る頬にごく浅いえくぼができた。
「じゃあ、ね。お大事に」
「ああ、ほんと、ありがとうな。気をつけて」
梢はベンチから立ち上がると改めてちょっと夜空を見、それからふわりと振り返って歩いていった。その後姿を、夜空は梢が角を曲がって見えなくなるまで見つめていた。
「よう」
夜空はびくりと体をすくませた。かばうように右足をベンチの中へしまい込む。
「常盤木さん・・・」
この男が、彼にとって招かれざる、しかし予期していなかったわけではない客であることは見るに明らかだ。
「ガールフレンドか? 意外とやるじゃないか」
「…そんなんじゃ、ないです」
声もかすかに震えている。
常盤木と呼ばれた、白衣を脱ぐとただのスポーツマンにしか見えない短髪の男は、何の遠慮も無く夜空の隣…さっきまで梢の座っていたところへどかりと座り込んだ。
「足に怪我したんだって? 大丈夫か」
「もう平気です…」
夜空は微妙に手すりのほうへ身を倒した。長い前髪で顔をかくすように俯き、両手でさっきまで飲んでいたサイダーの缶を弄り回していた。
「なんで来たんですか」
「そりゃあ、大事な夜空が怪我したといやぁ心配じゃないか」
「たしかに、ボクがいなくなったら次を探すのが大変ですからね」
小さな沈黙が流れて、
「………それで、今日のはどんなやつだった? 強かった?」
男はそれを聞かなかったことにしたようだ。
「…トカゲのお化けみたいなので…すばしこくて、なかなか中らなくて手こずりました」
「大きさは?」
「これくらい」
夜空はサイダーの缶を右に持ったまま手をめいっぱい広げて、すぐにぱたりと落とした。
「中型か」
男はつぶやくように言った。
「ところで少し研究所に戻らないか。先の怪物のスケッチも欲しいし」
「………わかり、ました」
夜空はいかにも逆らえないといった様子で、力にねじ伏せられるように返事を搾り出した。
読んでくださってありがとうございます!気が向けば続きも読んでくださると嬉しいです。
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