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家族に筆名を消された代筆屋ですが、偽りの求婚状は書けません——無口な騎士が私を生涯指名するまで

作者: 冬野 しほ
掲載日:2026/08/24

鋏が、私の筆名のすぐ上で鳴った。


「そこを切るなら、せめて定規を使って。商品まで斜めになります」


「客が買うのは店の名だ。おまえの名前じゃない」


 兄さん——シプリアンは、仕上げた申請書の下端から「代筆・セヴリーヌ」の一行を切り落とした。切れ端は屑籠へ、申請書は店頭へ。報酬は商会の金庫へ、私は奥の作業場へ。


 毎度、無駄のない流れである。私が整えたからではないのが腹立たしい。


「次が来てる。手を止めるな」


「筆名を切る作業で止めたのは兄さんです」


 言い返しながら、私は切れ端を拾った。棚には日付順の下書き束。依頼人の署名、紙代、納期、受領額。書いた文章を覚えておくのは職人の習慣であって、兄を信用していないからではない。


 両方だ。


 表の扉が開き、紙商のロレンツォが昨日納めた紙百枚分の納品票を私へ渡し、長身の男を招き入れた。


「紙を百枚売るより、この方を一人連れてくるほうが難儀でした」


「余計なことを言うな」


「三月も紹介を断った人が言いますか」


 男は三十二歳だという。騎士の礼装を着ていたが、右手には手袋をしていなかった。指の付け根から手首へ走る傷と、押さえきれない細かな震え。私の視線に気づくと、その手で折り畳んだ依頼書を机へ置いた。


 店主のいる表ではなく、私へ向けて。


「負傷騎兵十二名の補償申請を頼みたい」


「お名前を」


「コンスタン」


「負傷日、所属、治療費、現在の就労状況。十二名分、順にお願いします」


 彼は一人目から話し始めた。声は低く、言葉は少ない。少なすぎて、三人目で日付が欠け、五人目で治療院名が抜け、七人目で私は筆を置いた。


「コンスタン様。事実は察してくれません。欄を空けると、役所は喜んで差し戻します」


「喜ぶのか」


「仕事が増えるのを好む部署もございます」


「では埋める」


 素直だ。騎士はもっと剣で机を割るものだと思っていた。偏見だったらしい。机代が助かった。


 私は十二名分の証明を一枚の申請文へまとめた。傷病名を大げさにせず、働けない期間を曖昧にせず、治療費と所属部隊を照合する。書き終えるころには、コンスタン様の右手は膝の上で強く握られていた。


「受理後の照会にも返答を頼む」


「契約外です」


「追加で払う」


「でしたら別件として承ります」


 境界線には値段がある。無料で踏ませると、道になるのだ。


 申請書は一度も差し戻されず、十二名分の補償金が支給された。


 その報告を聞いた日、私は棚の下書き束へ受理日を書き足した。切り落とされた筆名の代わりに、せめて事実だけはまっすぐ残しておきたかった。


    *    *    *


 二通目は、雪の朝に持ち込まれた。


「北の橋が通れない。薬と食料を今日中に出したい」


 コンスタン様の原文は勇ましかった。


 命令に従え。遅滞は許さない。責務を果たせ。


「荷車は何台です?」


「八台」


「迂回路は?」


「西の林道」


「到着期限は?」


「明日の鐘三つ」


「最初からそれを書いてください。責務では荷車は走りません」


 私は羽根ペンを指の間で回しながら注文を頭へ入れた。八台、西の林道、薬箱二十、乾燥食五十袋、明日の鐘三つ。余分な威圧を削り、必要な数字を前へ出す。


「短くなりすぎた」


 コンスタン様が紙を覗き込む。


「長ければ雪が解けますか」


「解けない」


「では短いほうが速いです」


 彼は修正文を最初から読み直した。


「短い。だが、欠けていない」


「代筆屋への賛辞として、額に入れたいくらいです」


「額も頼めるか」


「紙商へどうぞ」


「額は扱いませんよ」


 ロレンツォが即座に逃げた。紙商は紙以外の責任を負わない。見習いたい姿勢である。


 通達はその日のうちに配られ、八台の荷車は橋を避けて出発した。薬も食料も期限前に届いた。


 三日後、コンスタン様は報告書を持ってきた。シプリアンが店主らしい笑顔で受け取ろうとしたが、彼はその横を通り過ぎ、私の机へ置いた。


「セヴリーヌ。あなたの文面どおりに届いた」


 一音も省かず、正しく呼ばれた。


 紙の端が、指の下でかすかに鳴った。


「それは何よりです。報告だけなら無料にしておきます」


「次からも頼む」


「料金表をご覧ください」


 声が少し上ずったのは、暖炉が熱すぎたせいである。冬の暖炉は油断ならない。


    *    *    *


「コンスタン殿の名で、これを書け」


 シプリアンが差し出した紙には、私を妻に望むという求婚の文面が箇条書きされていた。


 本人の署名はない。依頼日もない。あるのは、兄さんの計算だけ。


「どなたの依頼です?」


「俺のだ。うちが騎士の縁戚になれば、取引先も金を出す。文面はおまえが整えろ」


「コンスタン様は承知していますか」


「あとで承知させればいい」


 偽りの求婚状。しかも宛先は私。


 人生で初めて届く求婚状を、自分で捏造しろというのである。これほど筆の進まない依頼も珍しい。


「契約外です」


「いつもの代筆だ」


「依頼人の意志を届く形にするのが代筆です。存在しない意志を生やすのは園芸でしょう」


 兄さんの声が低くなった。


「書かなければ、看板からおまえの名を消す」


「最初からありません」


「過去の文書も、おまえが勝手に偽造したと触れ回るぞ。店の奥で署名を真似ていた妹を、俺が庇っていたとな」


 客前では、苦労する妹を養う親切な店主。扉一枚隔てれば、私の仕事は店のもの、報酬も店のもの、罪だけ私のもの。


 ずいぶん都合のいい商売だ。仕入れ不要、在庫不要、妹一人で罪まで揃う。


「セヴリーヌ」


 背後からコンスタン様の声がした。


 いつ入ってきたのだろう。右手に新しい依頼書を持ち、顔から表情が落ちている。兄さんは即座に笑顔を作った。


「これはこれは。ちょうどあなたとの縁談について、妹と相談を」


「相談ではありません」


 私は立ち上がった。


 コンスタン様が何か言うより先に、壁へ手を伸ばす。作業場の入口に掛けられた小さな板には、「文書作成承ります」とだけある。私の筆名はない。それでも、この机の前に置かれた看板だった。


 紐を外し、抱えた。


「何をしている」


「私の仕事を、こちらから引き揚げます」


「おまえに客がついているとでも?」


「十二名の補償申請と、八台の輸送通達にはつきました」


「あれは店の実績だ!」


「では、どなたが聞き取りを?」


 兄さんの口が止まった。格上がいると、声はずいぶん痩せるらしい。


 私は鍵束から作業場の鍵だけを外し、机へ置いた。


「今日までの未払い報酬は、記録に従って請求します。今後、私の筆名を使った受注は認めません」


「家族に請求する気か」


「店として報酬を受け取ったのでしょう? 急に家族へ戻らないでください」


 私は看板を抱えたまま、棚から下書き束を出した。全部ではない。守秘義務は、兄と縁を切ったからといって溶けない。


 依頼人本人の署名がある表紙。納期。使用した紙の種類。支払記録。完成文そのものを見せずとも、誰がいつ、何枚を書いたかを確定できるものだけを選ぶ。


 コンスタン様が無言で箱を持った。


「自分で運べます」


「知っている」


「重いです」


「見れば分かる」


「では、なぜ」


「私が持ちたい」


 字義どおりすぎて、反論の置き場がない。


 ロレンツォの店の奥を借り、私たちは証拠を封筒へ分けた。補償申請、輸送通達、その他の依頼。私は一つ目の封筒へ封蝋を落とす。


 コンスタン様が印章を押した。


 さらに二滴目の蝋を垂らそうとした。


「一つで十分です」


「開けられるかもしれない」


「三つ押したら封筒ではなく防具です」


「では二つ」


「契約外です」


 彼の手が止まった。


「追加で払う」


「封筒一通につき銅貨一枚です」


「封蝋を増やしても?」


「倍です」


「高い」


「防具をご希望なので」


 コンスタン様が、蝋の匙を置いた。


 私は封筒の端を指で揃えた。


「人の言葉なら整えられます。私宛ての言葉だけ、ずっと白紙でした」


「封筒代は、三通で銅貨三枚か」


「防具にするなら六枚です」


「一つでいい」


 翌朝、商会の表には依頼人と、文書業者の営業認可と預託金を管理する組合の係が集まった。ロレンツォも納品票の控えを抱えている。補償を受けた元騎兵たちは、十二人全員ではないが、杖や義足を使う者を含めて五人来てくれた。


 私が呼んだのだ。


 兄の弁護を待つつもりも、騎士の庇護へ隠れるつもりもない。私の仕事の話は、私がする。


「この女は、店の紙を盗みました!」


 シプリアンは係へ訴えた。私に向けた昨夜の声より大きい。反撃されないと思える相手には元気になる。健康で何よりだ。


「盗んだのは、守秘文書の下書きです。勝手に署名まで——」


「署名を真似た偽造なら、処分対象ですね」


 私が言うと、彼は畳みかけた。


「そうです! こいつは偽造を——」


「ですから、昨夜あなたが私へ命じた文面を確認しましょう」


 私は、昨夜の紙を出した。


 シプリアンが奪った。


 速かった。紙を丸め、暖炉へ投げ込もうとする。


 私はその手首を両手で下から突き上げた。丸めた紙が天井へ飛び、コンスタン様が左手で受ける。兄がそちらへ動く前に、私は机の脇へ回り込み、棚を背にした。


 守るべきものは、兄の良心ではない。もう期待していない。


 シプリアンが紙へ手を伸ばす。


「返せ! 店の紙だ!」


「紙は私の商品ですけどね」


 ロレンツォが間へ入った。


 コンスタン様は紙を私へ返そうとした。


 私は首を振り、白紙を一枚取った。羽根ペンを指の間で一度回す。


 昨夜、覚えた順に書いた。


 コンスタン殿の名で、これを書け。うちが騎士の縁戚になれば、取引先も金を出す。文面はおまえが整えろ。あとで承知させればいい。書かなければ、看板からおまえの名を消す。過去の文書も、おまえが勝手に偽造したと触れ回るぞ。


 一語も落とさず、最後まで。


 書き終えて顔を上げると、シプリアンの唇から血の気が引いていた。


「違う。妹が勝手に——」


「紙は黙っていますが、納品票は日付まで喋ります」


 ロレンツォが控えを広げた。


「この紙は私がセヴリーヌさんへ納めたものです。種類、枚数、納品日。こちらの下書き束と全部合う。完成品が店頭へ出るより先に、彼女の手元に同じ紙の下書きがある」


 係が束を繰った。依頼人の署名、納期、受領の記録。支払欄だけが店名義になっている。


「下書きは後から作ったのだ!」


「では、この癖も後からか?」


 コンスタン様が補償申請の控えを指した。


 私が聞き取りの途中で加えた、十二名それぞれの治療費と所属番号。その脇に本人確認の印がある。


 元騎兵の一人が杖をついて前へ出た。


「俺たちは店主に会ってない。話を聞いたのはセヴリーヌさんだ」


「申請が通って、治療費を払えた」


「俺は義足を買えた」


「名前を切ったって、書いた人まで消えるもんか」


 私の名が、一人ずつの口から返ってきた。


 セヴリーヌ。


 切れ端ではない。奥の部屋へ押し込む呼び声でもない。補償金を届かせた文章を書いた者の名として、店の表で響いた。


 輸送隊の責任者も、通達の控えを係へ渡した。


「橋が使えない理由より、台数と道と期限が先に書いてあった。誰も迷わなかった。薬は鐘一つ早く届いた」


 係は記録簿を閉じた。


「筆名の無断削除、報酬の不払い、虚偽名義での文書作成強要。該当する依頼の実作者をセヴリーヌと訂正します。未払い分は店の預託金から差し引き、本人へ返還します」


「待て! この店は俺の——」


 係はシプリアンの店主印を取り上げ、預かり証へ受領印を押した。


 乾いた音だった。


 兄が初めて、客の前で店主ではなくなった。


「営業審査が終わるまで、この印は使用できません」


「セヴリーヌ、説明しろ。おまえのせいで店が潰れる!」


 私は彼を見た。


「私のせいにする文章は、ご自分でどうぞ」


 元騎兵の誰かが、短く吹き出した。


 胸の奥に詰まっていた紙屑が、一気に燃えた気がした。よし。採点するなら満点だ。私はもう、この人の罪を整った文章にしてやらない。


「セヴリーヌ」


 コンスタン様が呼んだ。


 ざわめきが止まった。


 彼は店の筆を借りず、自分の上着から短い筆と一枚の紙を出した。右手で筆を持つ。傷の周りの筋が強張り、穂先が紙へ触れる前から震えていた。


「代筆いたしますか」


「これは、私が書く」


 一文字目に時間がかかった。


 紙が鳴るほど筆圧が強い。二文字目で墨が揺れ、三文字目で彼の息が止まる。私は手を出さなかった。出せなかった。


 彼は一行だけを書き切った。


 セヴリーヌ、私の妻になってほしい。


 コンスタン様は紙を両手で持とうとして、右手の震えに耐えきれず、左手を添えた。それでも隠さなかった。人前から逃げず、私を見た。


「セヴリーヌ」


 私の名前が、今度は求婚状の最初にあった。


「あなたの文章で、十二人が治療を続けられた。雪の中でも薬と食料が届いた。あなたは他人の言葉しか持たないのではない。人の意志を、届く形にできる職人だ」


 声が一度、掠れた。


 彼は息を入れ直した。


「私は長く書けない。大勢の前では、言うべきことも言えなかった。あなたはそれを勝手に補わず、足りないものを尋ね、私の意志のまま届けてくれた」


 傷のある右手が、紙の端を押さえている。


「だから仕事を頼み続けたいのではない」


 彼は一歩、私へ近づいた。


「能力も、怒りも、傷も、あなたが守ってきた名前も、すべて含めてあなたを望む。私の妻にしたい。私の家へ連れていくためではない。あなたがこれから作る暮らしへ、私を入れてほしい」


 目の前の文字が滲んだ。


 せっかく本人が書いた一行を、最後まで見ていたかった。


 手の甲で拭おうとすると、コンスタン様の左手が止めた。触れた指は熱く、右手とは違う震え方をしていた。


「返事を、聞いても?」


 頬を伝った雫が、切り落とされたことのない私の名前の横へ落ちた。


 私はその紙を両手で受け取った。


「はい」


 声が震えて、一度では足りなかった。


「私も、あなたを選びます。コンスタン」


 彼の肩から、息が落ちた。


 次の瞬間、抱きしめられた。傷のある右腕はためらいがちで、左腕は逃がす気がない。礼装の留め具が頬へ当たって痛い。痛いのに離れたくなくて、私は彼の背へ腕を回した。


 元騎兵たちが私の名を呼んだ。ロレンツォが「祝い用の上等紙は有料ですよ」と言い、誰かが笑った。


 コンスタンは何も答えず、私の名をもう一度、耳元で呼んだ。


 その一声だけは、誰にも整えさせなかった。


    *    *    *


 シプリアンには未払い報酬の返還と、依頼人への返金が命じられた。営業処分が決まったという通知も来たが、私は一度読んで箱へしまった。


 返事は書かなかった。


 回収した報酬で、一階が店、二階が住居になった小さな物件を借りた。新しい看板には、私が自分で書いた。


 代筆・文書作成 セヴリーヌ。


 今度は切り取られないよう、中央に大きく。


 開店前日、コンスタンが書類箱を一つ、旅行鞄を二つ運び込んできた。


「依頼書は机へどうぞ」


「これは私物だ」


「なぜ私物が二階へ?」


「住むからだ」


「聞いていません」


「求婚の際に言った。あなたの暮らしへ入れてほしいと」


「入居日と荷物の個数は聞いていません」


「今伝えた」


 短い。だが、欠けている。大いに。


 彼は店の客用椅子を窓際へ置き、もう一脚を私の机の隣へ運んだ。


「そちらは待合用です」


「買い足す」


「勝手に店を畳ませない点は評価します」


「あなたの仕事だ。奪わない」


 それから二人で看板を掲げた。私が位置を指示し、コンスタンが金具を留める。右手では難しい場所だけ、私が下から支えた。


「少し左です」


「このくらいか」


「あと指一本」


「厳密だな」


「名前ですから」


 彼は金具を留め終えると、看板ではなく私を見た。


「曲がっていない」


「看板が?」


「あなたの名前が」


 二階の寝台脇には、あの一行の求婚状が置かれた。


 コンスタンは毎朝それを読み返す。本人が書き、本人が読み、私まで呼んで聞かせる。依頼人による完成品の過剰利用である。


「毎朝読むなら、追加料金を検討します」


「夫にも料金がかかるのか」


「料金表に夫の欄はありません」


「では作ってくれ」


「内容は?」


「生涯指名。支払いは毎日」


「何で払うおつもりです?」


 コンスタンは私の名を呼び、頬へ口づけた。


 料金として認めるかどうかは、まだ検討中である。

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