家族に筆名を消された代筆屋ですが、偽りの求婚状は書けません——無口な騎士が私を生涯指名するまで
鋏が、私の筆名のすぐ上で鳴った。
「そこを切るなら、せめて定規を使って。商品まで斜めになります」
「客が買うのは店の名だ。おまえの名前じゃない」
兄さん——シプリアンは、仕上げた申請書の下端から「代筆・セヴリーヌ」の一行を切り落とした。切れ端は屑籠へ、申請書は店頭へ。報酬は商会の金庫へ、私は奥の作業場へ。
毎度、無駄のない流れである。私が整えたからではないのが腹立たしい。
「次が来てる。手を止めるな」
「筆名を切る作業で止めたのは兄さんです」
言い返しながら、私は切れ端を拾った。棚には日付順の下書き束。依頼人の署名、紙代、納期、受領額。書いた文章を覚えておくのは職人の習慣であって、兄を信用していないからではない。
両方だ。
表の扉が開き、紙商のロレンツォが昨日納めた紙百枚分の納品票を私へ渡し、長身の男を招き入れた。
「紙を百枚売るより、この方を一人連れてくるほうが難儀でした」
「余計なことを言うな」
「三月も紹介を断った人が言いますか」
男は三十二歳だという。騎士の礼装を着ていたが、右手には手袋をしていなかった。指の付け根から手首へ走る傷と、押さえきれない細かな震え。私の視線に気づくと、その手で折り畳んだ依頼書を机へ置いた。
店主のいる表ではなく、私へ向けて。
「負傷騎兵十二名の補償申請を頼みたい」
「お名前を」
「コンスタン」
「負傷日、所属、治療費、現在の就労状況。十二名分、順にお願いします」
彼は一人目から話し始めた。声は低く、言葉は少ない。少なすぎて、三人目で日付が欠け、五人目で治療院名が抜け、七人目で私は筆を置いた。
「コンスタン様。事実は察してくれません。欄を空けると、役所は喜んで差し戻します」
「喜ぶのか」
「仕事が増えるのを好む部署もございます」
「では埋める」
素直だ。騎士はもっと剣で机を割るものだと思っていた。偏見だったらしい。机代が助かった。
私は十二名分の証明を一枚の申請文へまとめた。傷病名を大げさにせず、働けない期間を曖昧にせず、治療費と所属部隊を照合する。書き終えるころには、コンスタン様の右手は膝の上で強く握られていた。
「受理後の照会にも返答を頼む」
「契約外です」
「追加で払う」
「でしたら別件として承ります」
境界線には値段がある。無料で踏ませると、道になるのだ。
申請書は一度も差し戻されず、十二名分の補償金が支給された。
その報告を聞いた日、私は棚の下書き束へ受理日を書き足した。切り落とされた筆名の代わりに、せめて事実だけはまっすぐ残しておきたかった。
* * *
二通目は、雪の朝に持ち込まれた。
「北の橋が通れない。薬と食料を今日中に出したい」
コンスタン様の原文は勇ましかった。
命令に従え。遅滞は許さない。責務を果たせ。
「荷車は何台です?」
「八台」
「迂回路は?」
「西の林道」
「到着期限は?」
「明日の鐘三つ」
「最初からそれを書いてください。責務では荷車は走りません」
私は羽根ペンを指の間で回しながら注文を頭へ入れた。八台、西の林道、薬箱二十、乾燥食五十袋、明日の鐘三つ。余分な威圧を削り、必要な数字を前へ出す。
「短くなりすぎた」
コンスタン様が紙を覗き込む。
「長ければ雪が解けますか」
「解けない」
「では短いほうが速いです」
彼は修正文を最初から読み直した。
「短い。だが、欠けていない」
「代筆屋への賛辞として、額に入れたいくらいです」
「額も頼めるか」
「紙商へどうぞ」
「額は扱いませんよ」
ロレンツォが即座に逃げた。紙商は紙以外の責任を負わない。見習いたい姿勢である。
通達はその日のうちに配られ、八台の荷車は橋を避けて出発した。薬も食料も期限前に届いた。
三日後、コンスタン様は報告書を持ってきた。シプリアンが店主らしい笑顔で受け取ろうとしたが、彼はその横を通り過ぎ、私の机へ置いた。
「セヴリーヌ。あなたの文面どおりに届いた」
一音も省かず、正しく呼ばれた。
紙の端が、指の下でかすかに鳴った。
「それは何よりです。報告だけなら無料にしておきます」
「次からも頼む」
「料金表をご覧ください」
声が少し上ずったのは、暖炉が熱すぎたせいである。冬の暖炉は油断ならない。
* * *
「コンスタン殿の名で、これを書け」
シプリアンが差し出した紙には、私を妻に望むという求婚の文面が箇条書きされていた。
本人の署名はない。依頼日もない。あるのは、兄さんの計算だけ。
「どなたの依頼です?」
「俺のだ。うちが騎士の縁戚になれば、取引先も金を出す。文面はおまえが整えろ」
「コンスタン様は承知していますか」
「あとで承知させればいい」
偽りの求婚状。しかも宛先は私。
人生で初めて届く求婚状を、自分で捏造しろというのである。これほど筆の進まない依頼も珍しい。
「契約外です」
「いつもの代筆だ」
「依頼人の意志を届く形にするのが代筆です。存在しない意志を生やすのは園芸でしょう」
兄さんの声が低くなった。
「書かなければ、看板からおまえの名を消す」
「最初からありません」
「過去の文書も、おまえが勝手に偽造したと触れ回るぞ。店の奥で署名を真似ていた妹を、俺が庇っていたとな」
客前では、苦労する妹を養う親切な店主。扉一枚隔てれば、私の仕事は店のもの、報酬も店のもの、罪だけ私のもの。
ずいぶん都合のいい商売だ。仕入れ不要、在庫不要、妹一人で罪まで揃う。
「セヴリーヌ」
背後からコンスタン様の声がした。
いつ入ってきたのだろう。右手に新しい依頼書を持ち、顔から表情が落ちている。兄さんは即座に笑顔を作った。
「これはこれは。ちょうどあなたとの縁談について、妹と相談を」
「相談ではありません」
私は立ち上がった。
コンスタン様が何か言うより先に、壁へ手を伸ばす。作業場の入口に掛けられた小さな板には、「文書作成承ります」とだけある。私の筆名はない。それでも、この机の前に置かれた看板だった。
紐を外し、抱えた。
「何をしている」
「私の仕事を、こちらから引き揚げます」
「おまえに客がついているとでも?」
「十二名の補償申請と、八台の輸送通達にはつきました」
「あれは店の実績だ!」
「では、どなたが聞き取りを?」
兄さんの口が止まった。格上がいると、声はずいぶん痩せるらしい。
私は鍵束から作業場の鍵だけを外し、机へ置いた。
「今日までの未払い報酬は、記録に従って請求します。今後、私の筆名を使った受注は認めません」
「家族に請求する気か」
「店として報酬を受け取ったのでしょう? 急に家族へ戻らないでください」
私は看板を抱えたまま、棚から下書き束を出した。全部ではない。守秘義務は、兄と縁を切ったからといって溶けない。
依頼人本人の署名がある表紙。納期。使用した紙の種類。支払記録。完成文そのものを見せずとも、誰がいつ、何枚を書いたかを確定できるものだけを選ぶ。
コンスタン様が無言で箱を持った。
「自分で運べます」
「知っている」
「重いです」
「見れば分かる」
「では、なぜ」
「私が持ちたい」
字義どおりすぎて、反論の置き場がない。
ロレンツォの店の奥を借り、私たちは証拠を封筒へ分けた。補償申請、輸送通達、その他の依頼。私は一つ目の封筒へ封蝋を落とす。
コンスタン様が印章を押した。
さらに二滴目の蝋を垂らそうとした。
「一つで十分です」
「開けられるかもしれない」
「三つ押したら封筒ではなく防具です」
「では二つ」
「契約外です」
彼の手が止まった。
「追加で払う」
「封筒一通につき銅貨一枚です」
「封蝋を増やしても?」
「倍です」
「高い」
「防具をご希望なので」
コンスタン様が、蝋の匙を置いた。
私は封筒の端を指で揃えた。
「人の言葉なら整えられます。私宛ての言葉だけ、ずっと白紙でした」
「封筒代は、三通で銅貨三枚か」
「防具にするなら六枚です」
「一つでいい」
翌朝、商会の表には依頼人と、文書業者の営業認可と預託金を管理する組合の係が集まった。ロレンツォも納品票の控えを抱えている。補償を受けた元騎兵たちは、十二人全員ではないが、杖や義足を使う者を含めて五人来てくれた。
私が呼んだのだ。
兄の弁護を待つつもりも、騎士の庇護へ隠れるつもりもない。私の仕事の話は、私がする。
「この女は、店の紙を盗みました!」
シプリアンは係へ訴えた。私に向けた昨夜の声より大きい。反撃されないと思える相手には元気になる。健康で何よりだ。
「盗んだのは、守秘文書の下書きです。勝手に署名まで——」
「署名を真似た偽造なら、処分対象ですね」
私が言うと、彼は畳みかけた。
「そうです! こいつは偽造を——」
「ですから、昨夜あなたが私へ命じた文面を確認しましょう」
私は、昨夜の紙を出した。
シプリアンが奪った。
速かった。紙を丸め、暖炉へ投げ込もうとする。
私はその手首を両手で下から突き上げた。丸めた紙が天井へ飛び、コンスタン様が左手で受ける。兄がそちらへ動く前に、私は机の脇へ回り込み、棚を背にした。
守るべきものは、兄の良心ではない。もう期待していない。
シプリアンが紙へ手を伸ばす。
「返せ! 店の紙だ!」
「紙は私の商品ですけどね」
ロレンツォが間へ入った。
コンスタン様は紙を私へ返そうとした。
私は首を振り、白紙を一枚取った。羽根ペンを指の間で一度回す。
昨夜、覚えた順に書いた。
コンスタン殿の名で、これを書け。うちが騎士の縁戚になれば、取引先も金を出す。文面はおまえが整えろ。あとで承知させればいい。書かなければ、看板からおまえの名を消す。過去の文書も、おまえが勝手に偽造したと触れ回るぞ。
一語も落とさず、最後まで。
書き終えて顔を上げると、シプリアンの唇から血の気が引いていた。
「違う。妹が勝手に——」
「紙は黙っていますが、納品票は日付まで喋ります」
ロレンツォが控えを広げた。
「この紙は私がセヴリーヌさんへ納めたものです。種類、枚数、納品日。こちらの下書き束と全部合う。完成品が店頭へ出るより先に、彼女の手元に同じ紙の下書きがある」
係が束を繰った。依頼人の署名、納期、受領の記録。支払欄だけが店名義になっている。
「下書きは後から作ったのだ!」
「では、この癖も後からか?」
コンスタン様が補償申請の控えを指した。
私が聞き取りの途中で加えた、十二名それぞれの治療費と所属番号。その脇に本人確認の印がある。
元騎兵の一人が杖をついて前へ出た。
「俺たちは店主に会ってない。話を聞いたのはセヴリーヌさんだ」
「申請が通って、治療費を払えた」
「俺は義足を買えた」
「名前を切ったって、書いた人まで消えるもんか」
私の名が、一人ずつの口から返ってきた。
セヴリーヌ。
切れ端ではない。奥の部屋へ押し込む呼び声でもない。補償金を届かせた文章を書いた者の名として、店の表で響いた。
輸送隊の責任者も、通達の控えを係へ渡した。
「橋が使えない理由より、台数と道と期限が先に書いてあった。誰も迷わなかった。薬は鐘一つ早く届いた」
係は記録簿を閉じた。
「筆名の無断削除、報酬の不払い、虚偽名義での文書作成強要。該当する依頼の実作者をセヴリーヌと訂正します。未払い分は店の預託金から差し引き、本人へ返還します」
「待て! この店は俺の——」
係はシプリアンの店主印を取り上げ、預かり証へ受領印を押した。
乾いた音だった。
兄が初めて、客の前で店主ではなくなった。
「営業審査が終わるまで、この印は使用できません」
「セヴリーヌ、説明しろ。おまえのせいで店が潰れる!」
私は彼を見た。
「私のせいにする文章は、ご自分でどうぞ」
元騎兵の誰かが、短く吹き出した。
胸の奥に詰まっていた紙屑が、一気に燃えた気がした。よし。採点するなら満点だ。私はもう、この人の罪を整った文章にしてやらない。
「セヴリーヌ」
コンスタン様が呼んだ。
ざわめきが止まった。
彼は店の筆を借りず、自分の上着から短い筆と一枚の紙を出した。右手で筆を持つ。傷の周りの筋が強張り、穂先が紙へ触れる前から震えていた。
「代筆いたしますか」
「これは、私が書く」
一文字目に時間がかかった。
紙が鳴るほど筆圧が強い。二文字目で墨が揺れ、三文字目で彼の息が止まる。私は手を出さなかった。出せなかった。
彼は一行だけを書き切った。
セヴリーヌ、私の妻になってほしい。
コンスタン様は紙を両手で持とうとして、右手の震えに耐えきれず、左手を添えた。それでも隠さなかった。人前から逃げず、私を見た。
「セヴリーヌ」
私の名前が、今度は求婚状の最初にあった。
「あなたの文章で、十二人が治療を続けられた。雪の中でも薬と食料が届いた。あなたは他人の言葉しか持たないのではない。人の意志を、届く形にできる職人だ」
声が一度、掠れた。
彼は息を入れ直した。
「私は長く書けない。大勢の前では、言うべきことも言えなかった。あなたはそれを勝手に補わず、足りないものを尋ね、私の意志のまま届けてくれた」
傷のある右手が、紙の端を押さえている。
「だから仕事を頼み続けたいのではない」
彼は一歩、私へ近づいた。
「能力も、怒りも、傷も、あなたが守ってきた名前も、すべて含めてあなたを望む。私の妻にしたい。私の家へ連れていくためではない。あなたがこれから作る暮らしへ、私を入れてほしい」
目の前の文字が滲んだ。
せっかく本人が書いた一行を、最後まで見ていたかった。
手の甲で拭おうとすると、コンスタン様の左手が止めた。触れた指は熱く、右手とは違う震え方をしていた。
「返事を、聞いても?」
頬を伝った雫が、切り落とされたことのない私の名前の横へ落ちた。
私はその紙を両手で受け取った。
「はい」
声が震えて、一度では足りなかった。
「私も、あなたを選びます。コンスタン」
彼の肩から、息が落ちた。
次の瞬間、抱きしめられた。傷のある右腕はためらいがちで、左腕は逃がす気がない。礼装の留め具が頬へ当たって痛い。痛いのに離れたくなくて、私は彼の背へ腕を回した。
元騎兵たちが私の名を呼んだ。ロレンツォが「祝い用の上等紙は有料ですよ」と言い、誰かが笑った。
コンスタンは何も答えず、私の名をもう一度、耳元で呼んだ。
その一声だけは、誰にも整えさせなかった。
* * *
シプリアンには未払い報酬の返還と、依頼人への返金が命じられた。営業処分が決まったという通知も来たが、私は一度読んで箱へしまった。
返事は書かなかった。
回収した報酬で、一階が店、二階が住居になった小さな物件を借りた。新しい看板には、私が自分で書いた。
代筆・文書作成 セヴリーヌ。
今度は切り取られないよう、中央に大きく。
開店前日、コンスタンが書類箱を一つ、旅行鞄を二つ運び込んできた。
「依頼書は机へどうぞ」
「これは私物だ」
「なぜ私物が二階へ?」
「住むからだ」
「聞いていません」
「求婚の際に言った。あなたの暮らしへ入れてほしいと」
「入居日と荷物の個数は聞いていません」
「今伝えた」
短い。だが、欠けている。大いに。
彼は店の客用椅子を窓際へ置き、もう一脚を私の机の隣へ運んだ。
「そちらは待合用です」
「買い足す」
「勝手に店を畳ませない点は評価します」
「あなたの仕事だ。奪わない」
それから二人で看板を掲げた。私が位置を指示し、コンスタンが金具を留める。右手では難しい場所だけ、私が下から支えた。
「少し左です」
「このくらいか」
「あと指一本」
「厳密だな」
「名前ですから」
彼は金具を留め終えると、看板ではなく私を見た。
「曲がっていない」
「看板が?」
「あなたの名前が」
二階の寝台脇には、あの一行の求婚状が置かれた。
コンスタンは毎朝それを読み返す。本人が書き、本人が読み、私まで呼んで聞かせる。依頼人による完成品の過剰利用である。
「毎朝読むなら、追加料金を検討します」
「夫にも料金がかかるのか」
「料金表に夫の欄はありません」
「では作ってくれ」
「内容は?」
「生涯指名。支払いは毎日」
「何で払うおつもりです?」
コンスタンは私の名を呼び、頬へ口づけた。
料金として認めるかどうかは、まだ検討中である。




