我慢なんてしていませんわ。だって、面倒でしょう?
誤字報告ありがとうございます。
「クロエに子供ができた。準備が整い次第、離れで暮らすことになるからそのつもりでいてくれ」
普段、ほとんど屋敷にいない夫が久しぶりに顔を見せたかと思えば、前触れもなくそう告げてきた。
「——どういうことでしょうか」
「そのままの意味だ。クロエが俺の子を妊娠した。だから、ここの離れに住まわせる」
「何故?」
「……君はそんなに理解力のない女性だったか? 俺の子だ。ここに住む権利があるだろう?」
——何を言っているのだろうか、この人は。
結婚した当初から平民の愛人がいることは知っていた。いつか子供ができることは想定内だったけれど、伯爵家に住まわせると言い始めるなんて……。
「何も本邸に連れて来ると言っているんじゃないんだ。問題ないだろう? そういうわけだから、頼んだよ」
用件だけを伝え、夫は執務室を後にした。
私が仕事しているところに突然やって来て、労いの言葉もかけることなく理不尽な要求だけを言い残して去っていくなんて……いつまでも不躾な方だわ。
「グレン。聞いていたわね?」
「はい、奥様」
「書類を用意してちょうだい」
「かしこまりました」
準備のためにグレンが出て行った執務室で一人、思わず笑みがこぼれる。
「まぁ、いいタイミングではあったかも」
ちょうど、三年。“契約”の期間ももう終わる。
「子供には、正式な父親がいた方がいいものね」
早く準備を終わらせなければ。生まれてくる、無垢な赤子のためにも。
*
「レティシア、これはどういうことだ?」
「そのままの意味ですわ。既に王宮の許可は得ているので、サインなどは必要ありません。ご確認だけお願いいたしますね」
あれから五日が経ち、「準備は進んでいるか?」と顔を出した元夫に、用意しておいた書類を渡した。
王宮の承認印が押された離縁届と婚約時に交わした契約書の写しを手に、元夫——ヴィンセント様は、理解ができないとばかりに震えている。
「まず、離縁届は受理されているため、私とヴィンセント様は『赤の他人』となっております」
「なっ……!」
「なので、私の名前を呼び捨てることはもうおやめください。……本当でしたら私も名前を呼ぶべきではないのですが、ヴィンセント様にはもう、お呼びできる家名がありませんので……」
モンフォール侯爵家の三男だったヴィンセント様は、我がアルベール伯爵家へ婿入りする際に、モンフォール家の籍から外れていた。だから私との離縁によって、名乗れる家名を失ってしまったのよね。
「何で突然離縁だなんて……、俺たちは上手くやっていたじゃないか!」
「上手く? それは、私が伯爵家を管理している間にあなたが他所で違う家庭を作っていた、今までの状態のことでしょうか?」
「ぐっ、そ、そうだ。今まで、君は何も言わなかっただろう?」
「そうですわね。婚約段階で私との縁談への不満を隠そうともせず、初夜には他の女性のもとへ帰る——そんな方に、何を言っても無駄だと思いまして。クロエさんへの援助もご自分の持参金でされていましたしね」
元々、ヴィンセント様に与えられる爵位がなかったことを不憫に思ったお父様が、私の婿として迎え入れると進言したのだと聞かされた。婿を取る必要性はわかっていたので私も軽く了承してしまったのだけれど……それはもう、第一印象から最悪だった。
貴族として、感情を見せないように教育を受けているはずなのに、その顔には大きく「不満」の文字が書かれていたのだから。あまりにも明け透けすぎて怒りすらも感じなかったわね、あの時は。——いえ。あの時からずっと、かしら。
「ですが、子供ができたとのことでしたので。やはり父親の存在は必要でしょう? これで心置きなく、クロエさんと一緒になれますわね」
「ちがっ、クロエはここの離れで暮らすと、」
「ですから、何故です?」
「俺の子、だから……」
「ここは『アルベール伯爵家』ですのよ? クロエさんもその子供も、何の所縁もありませんもの」
「俺の子供だぞ……?」
「ヴィンセント様の血は、この家に必要ありませんわ」
あら、何かしらその顔は。……え、本当にわかっていなかったの?
「伯爵家に必要なのは私の血ですわ。ですが、ヴィンセント様とは白い結婚でしたからね。そろそろ養子のことも考えなければ、と思っておりましたの」
「っ! じゃあ、俺の子供でもいいじゃないか! 生まれてくる子供を養子に迎えて、クロエを乳母として屋敷に置けば……っ」
「いい考えだろう?」と言わんばかりに目を輝かせている顔が、どこまで本気で言っているのかわからなくて少し気味が悪いわ。
「遠縁からの養子に決まっていますでしょう? 必要なのはアルベール伯爵家の血ですから」
「あ……」
「あとは、そうですわね。モンフォール侯爵家と結んだ契約期間も無事終わりましたので、その点も問題ありません」
「そんなものがあったのか……?」
「ええ。“三年間、白い結婚だった場合及び伯爵家への著しい損害を与えた場合、当主の権限で離縁を認める”と、契約書に」
「あなたは読んでいないでしょうけれど」と、言外に伝えるように微笑んで見せると、ヴィンセント様が焦燥を浮かべながら不自然に口元を歪めた。
「そ、そうか。わかったぞ、レティシア」
「ですから、名前を呼ぶのは………まぁいいです。何がわかったのですか?」
「俺は今まで君に随分と我慢をさせてしまっていたんだね。君の気持ちに気づけず、すまなかった。これからは君のことも大事にすると誓おう。もちろん、跡継ぎの件も任せてくれ」
その言葉と、歪んだ笑顔に悪寒が走った。
何をどう捉えたらそんな考えになるのか……理解ができなくて、先ほど感じた気味の悪さが更に増した気分だわ。
私はひとつ息を吐き、真っ直ぐにヴィンセント様と向き合う。
「——ヴィンセント様」
「何だい、レティシア」
「私は、『我慢』なんてしていませんわ」
「……え?」
「あなたの不誠実さも、この結婚の無意味さも、すべて受け流していただけです」
「それは、俺を慕っていたから、だろう?」
「いいえ。そうではありません」
「じゃあ、何で……」
戸惑いながら問うてきたヴィンセント様に、私はあえて"完璧"と称される笑みで応えた。
「だって、面倒でしょう?」
「面倒……?」
「ええ。だって、ヴィンセント様は私の人生に必要のない方ですもの。そんな方に『我慢』だなんて……感情を砕く理由がありまして?」
その言葉に、ヴィンセント様が息を呑むのがわかった。
「もうよろしいでしょうか? ——では、お引き取りを」
*
ヴィンセント様と離縁して数ヶ月。私の生活は変わりなく過ぎていた。
手紙が届くまで数日かかる領地にいる両親への報告は、結果的に事後報告になってしまったけれど、特に文句を言われることもなく、労いの言葉と一言の謝罪が届いただけだった。
「『すまなかった』ですって」
「先代様らしいですね」
お父様の代から仕えていたグレンは、その性格もよくわかっている。
豪快でお人好しで、人を信じやすいお父様は、この婚姻を自分が進んで決めたことに対しての申し訳なさを感じているようだ。
「前侯爵様からも謝罪の文が届いていたわ。もう、ご当主様から正式な謝罪を受けているのにね」
「前侯爵様も情に厚い方でしたから」
先代当主たちが共同事業などで切磋琢磨してきたことで、モンフォール侯爵家とアルベール伯爵家の縁は深い。優しくて元気な前侯爵様は、幼い私にとって大好きなおじ様だったわ。
届いた手紙によると、あの後ヴィンセント様はクロエさんを伴い侯爵家に援助を求めに行ったらしい。だけど、お父様からの厚意を踏みにじり、前侯爵様の顔に泥を塗る形になってしまったヴィンセント様を、現当主である長兄が許すことはなかった。
次兄が継ぐことになっている伯爵家にも、門前払いされたとか。
「でも……クロエさんもなかなか強かだったみたいねぇ」
侯爵家監視の元で無事出産したクロエさんだが、生まれたのはヴィンセント様の子供ではなかった。
シルバーブロンドのヴィンセント様とピンクブロンドのクロエさんの子供のはずなのに、その子の髪色はくすんだグレー。瞳の色も二人に似ておらず、訝しんだ侯爵家が徹底的にクロエさんの身辺を調べたのだ。
「まさか、ふふふ。やだ、笑うのはいけないわね」
——まさか、ヴィンセント様に子種がないなんて。
三年もの間、愛人として日陰の生活を送っていたクロエさんは、ヴィンセント様の子供を作ることで自分の立場を確立させようとしていた。それなのになかなか子供ができないことに焦ってしまい、ヴィンセント様に似た色合いを持つ男と関係を持ったそうだ。
「悪いことはできないものよねぇ」
当然、二人の関係はそこで終わった。
ヴィンセント様は、侯爵家の領地で無期限の奉仕活動を。クロエさんは、貴族を欺いた罪に問われ奴隷へと身を落とした。貴族の婚姻を潰したという理由で処刑にすることもできると言われたが、丁重にお断りしておいた。……そんなことで寝覚めが悪くなるなんて嫌だもの。
誠意ある謝罪と共に、相応の慰謝料も貰ったので私としてはもう充分だった。
ただ、生まれた子供は孤児院に預けられたとのことなので、罪のない子供がこれ以上の不幸に見舞われないようにと、願わずにはいられなかった。
「奥様——失礼いたしました。レティシア様」
「なぁに? グレン」
「お疲れさまでございました」
「ふふ、あなたもね」
結婚相手には恵まれなかったが、私は一人ではなかった。だからこそ、“不要なもの”を気にせずにいられたのだ。
「でもそうね、いくら受け流していたと言っても……こうしていなくなってくれると清々するわね」
「ええ、本当に」
私の人生にとって、必要のない存在に振り回されることはないけれど、やはり多少は心に障っていたのだろうと思う。だって今、こんなにも晴れやかな気持ちなのだから。
「これからも頼むわね、グレン」
「はい。レティシア様の、仰せのままに」
もう少しだけこの穏やかな時間を過ごしたら、伯爵家の今後についても考えなければならない。養子をとるか——今度こそ、誰かと共に在る未来を望むのか。
その時は、長年心の奥でくすぶっている感情の始末と共に。
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