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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。

辺境のおっさん魔術教師、ついに見つかる 〜隠匿生活を送りたかったのですが、教え子たちの師匠愛が止まりません

作者: コレゼン
掲載日:2026/05/03

 陽の光が降り注ぐ中、乾いた風が、広場の砂を巻き上げる。

 遠くの観客席から、ざわめきが潮騒のように寄せては引いていた。


「なんでこんな目に……」


 辺境の魔術教師レンツは、寝癖の残る頭を掻きながら、誰にともなく呟いた。

 齢はもう少しで四十。このまましがない魔術師として、ひっそりと一生を終える。そう思っていた。

 それがどうして、こんな場違いな舞台に引きずり出される羽目になったのか。


 場所は町外れの広場。石を粗く積んだだけの簡素な決闘場は、今日に限って、町中の人間が押し寄せる見世物の舞台と化していた。


「学無しのおっさんが、大学出に楯突こうってかー!」

「身の程知らずのおっさん、杖より鍬のほうが似合うぞ!!」


 敵方の生徒たちから、心無い嘲笑混じりの罵声が浴びせられる。


 ことの発端は、生徒の一人が地方魔術師選抜大会に出場した折、名門魔術学院の関係者からレンツの魔術教室を侮辱されたことである。

 そこから当事者のレンツの与り知らぬところで話はどんどん膨らみ、最終的には代表者同士の魔術勝負という運びになっていた。


 正直、こんな面子の張り合いのような勝負はくだらないと、レンツは思う。本来ならすぐに断るところだ。

 だが今回は、自分だけでなく生徒のハンナまで、ひどい侮辱を受けていた。


 ――そうなると、話は違ってくる。


「先生、頑張ってー!!」


 弾んだ声が飛んできた。

 ハンナが、観客席から身を乗り出すようにして両手を振っている。

 彼女は地方魔術師選抜大会で優秀な成績を収め、国内屈指の魔術大学への推薦まで勝ち取った、レンツの魔術教室の誇りだった。

 レンツは苦笑いを浮かべながら、小さく手を挙げて応える。

 気は乗らないが、こうなったからにはもうやるしかない。


 目の前には、紺青のローブを纏った若い魔術師。

 敵方の代表者は、高名な魔術学院の主任教師のユリウス。

 まだ二十代と見える若さで、名門魔術大学の出。若くしてエリート街道をひた走る、いかにも魔術エリートといった風貌の男だった。


 ひと財産ありそうな装いの名士、他学院の高位の教師に、ギルドの高位者。

 試合前から、ユリウスの待機席には、彼らが列をなして挨拶に詣でていた。

 普段なら頭を下げられる側の人間たちが、今日ばかりは揉み手をし、深々と腰を折って、高価そうな贈り物を手渡している。


「王都大学への推薦状、ぜひご一考を」

「我が子をぜひ我が学院へ……」


 ユリウスはその一つひとつを受け流すでもなく、鷹揚に手を挙げ、わずかに頷いてみせるだけ。

 それだけで、挨拶を許された側は感激し、恭しく下がっていく。


 一方、レンツの側はと言えば。

 待機席の周りには、誰一人として近寄る者はいない。

 それどころか、目が合った名士は気まずげに視線を逸らし、そそくさとユリウスの列の最後尾へと回っていく始末だった。

 レンツは所在なげに頭を掻いた。


 やがて挨拶の列が捌けた頃合いを見計らい、仲裁官を務める魔術師ギルドの男が、二人の前へと進み出る。


「やれやれ。じゃあ、あんまり恥をかかないようにだけ、頑張るかな」


 のんびりとした口調のまま、緩やかに戦闘態勢へと移る。


 レンツは独学で魔術を積み重ねてきた。

 途中、師匠に師事していた時期こそあるが、大学などの正規教育は受けていない。

 平民上がりで野良魔術師と言ってもいいだろう。

 一方で、相手は魔術エリートである。

 故に、いい感じで肩の力が抜けていた。


「それでは、はじめ!!」


 仲裁官の男が、短く合図を切った。

 観客から、一斉に大きな歓声が上がる。


 レンツは目を細め、相手と正面から向き合う。

 先ほどまでの気の抜けた佇まいは、もうどこにも残っていない。


 一方のユリウスは、不愉快を表情に隠そうともしない。

 名門学院の主任教師ともあろう自分が、なぜこんな辺境の田舎教師の相手をさせられねばならんのか。

 彼の顔にはそう書いてあった。


 ふっ、と、ユリウスの口の端が、嘲るように吊り上がる。


「こんな勝負、さっさと終わらしてやる!!」


 ユリウスが、魔力を一気に爆発させた。

 足元に、巨大な魔法陣が円環状に展開する。幾何学紋様が、青白い光となって石畳を走り抜けた。


紅蓮旋風フレアサイクロン!!」


 大気が、軋む音を立てた。


 ユリウスの周囲に、渦巻くような突風が生まれる。次の瞬間、魔法陣から、凄まじい勢いで炎が噴き上がった。

 赤と黄が撚り合わさった上級魔法の業火の渦が、高熱の唸りを上げてレンツへと殺到する。


 足元の石畳が、炎の通り道に沿って朱く焼け、表面がぐずりと溶けて形を失っていく。

 仲裁官の魔術師が顔色を変え、慌てて観客席との間に結界を一枚、また一枚と張り直す。

 それでも熱気は抑えきれず、最前列の人間は悲鳴を上げて半歩、二歩と後じさった。

 業火の渦がレンツまで後、一歩というところまで迫りくる。


 ――もう、駄目だ。


 観客の何人かは、思わず瞳を閉じた。


 そんな数秒にも満たない僅かな時間。

 レンツの視線は、ユリウスの足元で回り続ける魔法陣を、静かに追っていた。


 外周に並ぶ、十二の符号。

 内側に向かって魔力を送り込む、六本の導線。

 中心で渦を巻く、起動核。

 基本に忠実な、炎属性の基幹術式だ。


 ただ。


 外周の、北東に位置する一つの結節点。

 そこに流れ込む魔力の光だけが、ほんの僅かに揺らいでいた。

 それは息継ぎをし損ねた、とでもいうような、ごく僅かな淀み。

 並の魔術師の目なら、決して気づけない淀み。


 レンツの指先が、かすかに動いた。

 虚空に、針先ほどの魔力が結ばれて、消える。


 次の瞬間。


 回っていたはずの魔法陣が、音もなく解けた。

 迫っていた業火が、糸が切れたように形を失い、熱だけを残して静寂の中に霧散していく。


 誰もが瞬きすら忘れて、消えた炎の跡を見つめていた。

 やがて、ぽつり、ぽつりと、戸惑いのざわめきが観客席に広がっていく。


「え……なんで?」

「さっきまでの炎は……どこに……?」


 業火の余燼が消えたその向こうで、レンツがただ静かに立っていた。

 彼のローブの裾も、髪の一房も、焦げ一つない。


 一方のユリウスは、驚きを禁じえなかった。


「は……? 一体、何が……?」


 田舎教師風情が、防げるはずのない上級魔法である。

 彼は、口を半開きにしたまま呆然と立ち尽くす。


 ――そして、次の瞬間。


 レンツが動いた。


 指先に魔力が凝る。

 足元に、一瞬で簡素な魔法陣が刻まれた。

 大仰な詠唱も、大きな身振りもない。

 ただ、澱みのない魔力の流れが、音もなく美しく構成された術式を走っていく。


 眩い光が立ち上った――ように見えた、次の瞬間。

 光はふわりと収束し、淡い燐光となって、ユリウスの胸元へ静かに触れた。


 ことり。


 まるで眠りに落ちた子供を寝床に置くような、そんな音だった。


 ユリウスの膝が、かくんと折れる。

 誰一人として、その身を支える間もなかった。

 名門学院の主任教師は、両腕を投げ出したまま、無様に大の字となって石畳の上に伸びていた。


「……」


 闘技場は、水を打ったような静寂に包まれている。


 そんな中、真っ先に、生徒の一人であるハンナがレンツに駆け寄る。


「流石です、先生!!」


 ハンナは胸の前で小さく拳を握り、頬を紅潮させていた。


 観客からは、驚きと称賛の声が、堰を切ったように溢れ出す。


「うちの町に、あんなすげえ魔術師がいたのかよ!?」

「先生、最高でしたー!」

「田舎教師呼ばわりしてた奴、今どんな顔してんだー!!」


 歓声が遠くに聞こえる。


「あれ……これ、勝っちゃった、のか……?」


 レンツは恐る恐る、倒れたユリウスの顔を覗き込んだ。

 白目をむき、口を半開きにしたまま昏倒した姿に、演技の気配は微塵もない。


 すうっと、血の気が引いていく。


「しまった……集中して約束忘れてた」


 レンツはそう言って天を仰ぐ。


 昨晩のこと。

 粗末な木戸を叩く音に出てみれば、外套のフードを目深に被ったユリウスが、所在なげに立っていた。


「お久しぶりです、先生」


 昔と変わらぬ、生真面目な声だった。

 卓を挟んで向かい合うなり、ユリウスは深々と頭を下げた。


「不躾を承知でお願いに参りました。明日の勝負、どうか――俺に、勝たせてはいただけませんか」


 赴任して間もない学院で、後ろ盾もない自分が早々に泥を被るわけにはいかない。

 話を聞き終えたレンツは、しばらく天井を眺めてから、ふっと息を吐いた。


「いいよ。お前ももう、俺なんかとうに超えてるんだろ。ちゃんと見せ場を作ってから負けてやるから、安心しな」


 ユリウスは深く、深く頭を下げて去っていった。


 ――それなのに。


 いざ向き合ってみれば、目の前のユリウスの術式には、添削したくなる隙がいくつも残っていて。

 昔の癖で、つい指が動いてしまった。


「後で謝ろう……」


 レンツは一人呟き、伸びたユリウスのそばに腰を屈める。

 投げ出されたままの腕を、そっと胸の上に組ませ直してやる。指先に触れた頬は、思いのほか、冷たかった。

 乾いた風が砂を一つ巻いて、止まぬ歓声の向こうへと、ふっと吹き抜けていった。




 *




「なんでこんなことに……」


 魔術教室の前でレンツは立っていた。

 いや、立たされていた。


 そもそも発端は数日前のことである。


「一体、何をやらかした!?」


 青い顔をした町長が、前触れもなくレンツの自宅に飛び込んできた。


「え、何をって?」


 戸惑うレンツに、王国からの訪問状が突き出される。

 そこに記されていたのは、レンツにとって懐かしい名だった。


 エミリア王女。


 急遽王女の町への訪問が通告されたのである。

 辺境の田舎町だ。王族の訪問など数十年に一度レベルの珍事であった。

 町はひっくり返したような騒ぎになり、その用意にレンツも駆り出された。

 しかも王女の訪問先は、レンツの魔術教室だったのだ。


 今日がその当日。

 レンツは直立不動の姿勢で彼の小さな魔術教室の前で立たされていた。


 やがて、表通りから馬蹄の音が近づいてくる。

 馬車の音が近づくにつれて、レンツは自分の心臓が、妙に速くなっているのに気づいた。

 再会して、何を話せばいいのか。

 五年も音信を絶った男に、あの子はどんな目を向けるのか。

 考える暇もなく、白い馬車が家の前に停まった。


 扉が開き、白銀の髪の娘が、ゆっくりと地に降り立った。


 陽を受けてほのかに光を纏う、絹のように細い白銀の髪。深い湖を思わせる、濃い青の瞳。

 背筋はまっすぐに伸び、銀糸の刺繍が裾と袖口に走る純白の魔術師ローブが、ほっそりとした肩と腰の線を上品に縁取っている。

 所作の一つひとつに、幼さの名残はもうどこにも見えない。

 負けん気ばかり強くて、それでいてすぐに瞳を潤ませていた、あの小さな少女と――同じ人物とは、到底思えなかった。


 ただ、こちらを見つけた瞬間に花開く、その目元だけは――

 昔のままだった。


「――先生」


 五年分の声が、そこにあった。


 エミリアは、にこりと笑みを浮かべた――と思いきや、その笑みがふと、止まる。

 彼女の視線は、レンツの胸元に注がれていた。


 つかつかと歩み寄ると、彼女はごく自然な手つきで、掛け違えられたレンツのシャツのボタンを、一つずつ外しては、正しい穴に掛け直していった。


「……もう、先生ったら。こういうところ、本当に変わってないんだから……」


 指先を動かしながら、ぽつりと漏れた声は、王女のそれではなかった。

 昔、すぐそばで口を尖らせていた、小さな少女のままの調子だった。


「ああ、そう? そうかな……」


 レンツは困惑したように頭を掻く。

 そういえば、宮廷にいた頃も――この子はよく、そうしてくれた。


 町長と護衛は、王女の行動に目を丸くして固まっている。

 そんな周りの反応に気づいたエミリアは、ふっと背筋を伸ばし直す。


「先生、突然の訪問、恐れ入ります。ですが、どうしても先生に、早くお会いしたかったものですから」


 王女エミリアは、改めて頭を下げながら、レンツに言った。


「いやいや、それは全然いいよ」


 レンツはまた昔と同じように、軽く応じる。


「レンツ、王女様に失礼であろうが!!」


 そこで慌てた町長が、横から唾を飛ばす。

 王女の護衛の男も、レンツに明らかな怒気を向けていた。


「ああ、いいのです。先生は、先生ですから」


 エミリアはニコニコと機嫌良さそうに、理由になっていないことを述べた。

 町長と護衛は納得がいっていない様子だったが、王女がそう言う以上、従う他なかった。


「それにしても、よく俺の居場所が分かったね」

「最近先生、魔術勝負をされましたよね。その知らせが、王都にも届いていまして」

「ああ、そうか。辺境の田舎だからと、油断してたな……いや、申し訳ない。五年前はみんなに何も告げずに、失踪してしまって」


 レンツはエミリアに、深々と頭を下げる。


「そんな、先生、頭を上げてください! 当時の先生が抱えられていた心労は、よく理解しています。こうしてまた先生にお会いできたことが、エミリアは――涙が出るほど、嬉しいのですよ」


 彼女はその瞳を細くしながらそう言った。


「ありがとう。そう言ってもらえると、俺も嬉しいよ」


 理由はあるにせよ、恨まれたり嫌われたりする覚悟の上での失踪だった。

 魔術の腕はあっても、権謀術数渦巻く宮廷や魔術学会の駆け引きに勝つ術などレンツにはなかった。

 自分を疎ましく思う者たちの矛先が、教え子たちにまで向き始めたとき――――残された選択肢は、ただ姿を消すことだけだったのだ。


 レンツはエミリアの言葉を受けて、心の奥に刺さっていた小さな棘が一つ、そっと抜け落ちたような気がした。


「……ああ、こんなところで立ち話もなんだな。汚いところだけど、よかったら中へ」


 レンツが促すと、エミリアは嬉しそうに頷き、護衛と町長を従えて教室の戸をくぐった。

 簡素な木の卓に、磨かれてはいるが古びた椅子。壁には書き込みだらけの黒板と、教本の並ぶ本棚。お世辞にも王族を迎える設えとは言いがたい。

 それでもエミリアは物珍しげに室内を見回し、勧められた椅子に、ごく自然な所作で腰を下ろした。


 レンツは奥の小さな台所に立つ。

 使い込んだ薬缶に湯を沸かし、茶葉の缶を開ける。香ばしい匂いが、ゆっくりと部屋に立ち昇った。


「すまないね、辺境の田舎で碌なもてなしもできなくて」

「いいえ。先生のお淹れになったものでしたら、何より嬉しゅうございます」


 間髪を容れぬ即答に、レンツは思わず苦笑する。


「お世辞が上手くなったなあ」

「王女ですので」

「そこは『教え子ですので』じゃない?」

「教え子はお世辞を申しません。思ったことを申します」


 澄ました顔で言い返してくる様子は、昔と少しも変わらない。


「……それ、本気で美味いってことでいいの?」

「先生、お飲みになる前から評価を求められましても」


 言われてみれば、まだカップを差し出してすらいない。

 レンツが慌ててカップを置くと、エミリアは一口含み、ゆっくり味わってから頷いた。


「美味しゅうございます」

「よかった」


 湯気越しに、二人の間にしばし穏やかな時間が流れる。

 やがてエミリアは、室内をぐるりと見回し、本棚の背表紙へと視線を留めた。


「魔術教師をされていると伺っているのですが、まだ魔術研究もされているのですか?」

「うん。素人の趣味程度だけどね」

「そんな! 先生のご研究は一級──」


 思わず声が大きくなって、エミリアは、はっと口元を押さえた。

 小さく咳払いを一つ。


「……失礼いたしました。ですが、ご謙遜はいけません。本当に」


 むっと微かに頬を膨らませる仕草は、五年前と何ひとつ変わらない。

 レンツは照れながら頭をかく。胸の奥が、ほんの少しだけ温かくなった。


「少し、研究内容を拝見させていただいてもいいですか?」

「ああ、いいよ。奥の本棚の、ノートにまとめてあるから」

「こちらですね」


 エミリアは無言で、研究ノートに目を通していく。

 最初こそゆっくりめくっていたその手が、途中からぴたりと止まった。何度もページを行き来して、しばらく、ノートから目を上げない。


 町長と他愛もない雑談を交わしながら、レンツは横目でその様子を見ていた。


「先生……」


 研究ノートに一通り目を通し終えた彼女が、ノートを閉じると、俯いたままレンツに尋ねる。


「何?」

「こちらのノート、しばらくお借りできないでしょうか? 久方ぶりに魔術の深い研究に触れて、学問熱が蘇って参りましたもので」

「うん、まあ……返してもらえるなら、それは別にいいけど……」

「ありがとうございます! それでは……一か月ほどで、こちらのノート、返却させていただきますね!!」


 エミリアは花咲くような笑顔を見せて、そう告げる。


「返却は、別に急がなくていいから。そうやって誰かの役に立つなら、研究したかいがあるからね」


 レンツは無邪気に返した。

 エミリアは研究ノートを大切そうに抱え直し、深く一礼すると、護衛と町長を従えて教室を後にした。




 *




「ありがとうございましたー」

「はい、気をつけてー」


 最後の生徒を見送ったレンツは、ふと、教室のすぐ隣の畑に目をやった。

 朝に水をやったトマトが、午後の陽を受けて、赤みを増している。豆の蔓も、一日で随分と伸びたようだ。


 魔術の研鑽以外に、もう一つだけ、彼が欠かさず続けている日課がある。

 自家菜園の世話だった。


 誰に見せるでもない畑で土に触れている時間が、レンツは好きだった。

 レンツは畑にしゃがみ込み、よく実ったトマトの一つに、そっと指を添える。


「お、キャサリン。今日はまた一段と色っぽくなったなあ」


 誰にともなく、しみじみと呟く。

 視線をすぐ隣の畝に移せば、青々と伸びた蔓に、ふくよかな莢がいくつも連なって揺れていた。


「スカーレットも、よく実ったなあ。次の風が来たら、そろそろ収穫だぞ」


 さらに奥、葉陰でどっしりと腰を据えるようにして転がる、橙色のカボチャ。

 レンツはその前で、ふっと目尻を緩める。


「マリリン……お前はもう、立派な貴婦人だな」


 うんうんと一人で頷きながら、葉裏に潜む虫を指先でつまんでは、土の外へ放っていく。


 すっかり手元に没入していたレンツは――すぐ背後で、足音が止まっていることにも、気づかなかった。


「……先生?」


 ぴしり、と。

 レンツの背筋が、文字通り凍りついた。

 恐る恐る首だけを後ろに回せば、忘れ物でも取りに戻ったのか、ハンナが鞄を抱えたまま、目を丸くして立ち尽くしている。


「あ、あの……えっと、その、キャサリンって……」


 頬を朱に染めながら、ハンナはおずおずと、レンツの足元のトマトを指差した。


 レンツは、ゆっくりと立ち上がる。立ち上がったが、もう、振り返ることができない。

 耳の先までが、夕陽に焼かれたように、じわじわと熱を帯びていく。


「……いや、その、これはだな……」

「マ、マリリンさんは、どちらの……」

「……忘れてくれ、頼むから、忘れてくれ」


 膝に手を置いたまま、レンツは天を仰いだ。

 ハンナは口元を押さえながら、堪えきれない笑い声を漏らしている。


「ふふっ……先生、明日からも、ちゃんとお名前でお呼びしてあげてくださいね」

「……俺はもう、二度と畑には出ない」

「そんな。スカーレットちゃんが寂しがります」


 ハンナはもう一度、こらえきれないように小さく吹き出すと、軽やかに頭を下げて駆けていった。

 遠ざかる足音が、夕暮れの道に溶けて消える。

 ようやく一人になったレンツは、深い、深いため息を吐いた。


 何かに没頭すると、周りの音も気配もごっそり耳から抜け落ちてしまう。

 宮廷にいた頃から、教え子たちに散々呆れられてきた悪癖が、今日もまた、こんな形で顔を出した格好だった。


「……明日から、どんな顔して授業すればいいんだ」


 土のついた指を軽く払い、郵便受けを覗く。

 そこには、町の広報誌が差し込まれていた。


 教室に戻り、コーヒーを淹れてから、ページをめくり始める。

 いつものように、平和な記事が並んでいる。


 ――そのなかで、ふと一つの見出しが、妙に目を引いた。


『異端宗派「絶滅思想を伝える者たち」、王国北方にて活動再び』


 見出しの下には、黒ずくめの信徒たちが祭壇を囲んで描かれた粗い挿絵。記事の文面は短く、要旨だけを拾ったような書きぶりだった。

 曰く――「命あるものはことごとく、等しく消え去るべし」を教義として掲げ、終末を予言し、近年、辺境の各地で密かに信徒を増やしつつある、云々。


 挿絵の祭壇――その正面に粗く彫り込まれた紋様の一画で、レンツの視線が止まった。

 ページに伸びた指先も、その紋様の手前で止まる。

 どこで見た。

 問いだけが宙に浮いて、答えは出てこない。


「……なんだよ、絶滅思想って」


 レンツは、思わず独りごちた。

 手にしたカップを傾ければ、コーヒーはいつの間にか、ぬるくなっていた。

 窓の外で、夕闇が一段、濃くなっている。

 いつの時代にも、物騒なことを考える連中はいるものだ。冷めた一口を含んで、レンツはページを先へと進める。


 しかし、最後のページにさしかかった、その瞬間――

 一つのタイトルが、レンツの目に飛び込んできた。


 彼は驚きのあまり、口に含んだコーヒーを、盛大に噴き出した。


「はあ!?」


 記事タイトルには、こう書かれていた。


『辺境の魔術教師レンツ、重要未解決魔術問題を三つも解決!!』


 記事のタイトルは、まったく身に覚えがないものだった。

 魔術研究は進めていたが、公表はしていない。

 記事の内容を追っていくと、そこには確かに――彼が研究した内容が載っていた。


「ええ……あれって、未解決問題に繋がる研究だったのぉ」


 レンツは、弱々しく呟く。


 彼も研究者の端くれだ。

 最新の研究内容が気にならなかったわけではない。

 しかし、自ら研究の第一線から退いた身からすると、そういった情報はある種の痛みを伴うものだった。

 その為、彼はあえて最新の研究情報には触れずに自分が興味を持ったものを、気の赴くままに掘り下げていたのである。

 それがたまたま、何十年も解かれずにいた難題の答えに繋がっていた――ということらしい。


 一体誰がこんなことを?

 彼の脳裏にエミリアの姿が浮かぶ。


「これは……まさかエミリアの仕業か?」


 レンツは研究内容を公表していないのだから、そうとしか考えられない。

 しかし、そんなことをして、一体彼女に何の得が?

 いくつかの仮説がレンツの頭に浮かぶが、しっくり来るものは一つもなかった。


 その後、町長をはじめ、町の人間たちの訪問に慌ただしく対応するうちに――王都の学会から、召喚状が届いた。




 *




 数日後。

 レンツは小さな旅鞄を、玄関の脇にそっと置いた。


 辺境の町から王都までは、馬車を乗り継いでも一週間はかかる旅程である。

 学会から授けられるというのは、件の研究に対する、それなりの格の賞らしい。

 正直なところ、今更、名誉になど心は動かない。

 だが、にべもなく断れば、要らぬ角が立つ。

 ハンナなど王都の大学へ進学を控えている生徒もいる。


『辺境の魔術教師、栄誉ある魔術賞を断る!!』


 なんて報道されて余計な敵を作るのは、どうにも具合が悪いだろう。

 結局、レンツは大人しく賞を承ることに決めた。


 滞在は短くて数日、移動も含めて長引けば三週間。

 その間の魔術教室は、隣町の若い魔術師にひと月ほど任せる手筈になっている。

 残るは畑の世話だが――こちらは。


「キャサリンとスカーレット、それからマリリンさんは、私が責任をもってお世話しますね」


 ハンナはそう言って、どこか含み笑いを浮かべながら、しっかりと胸を叩いてくれた。


「……忘れてくれって、頼んだはずなんだがなあ」


 レンツは天を仰ぎ、独りごちる。


 戸口で、もう一度だけ振り返る。

 午後の風に色づいたトマトの葉が、ささやくように揺れていた。


 レンツは静かに戸を閉め、王都へと続く一本道を踏み出す。


 道の先は、もう夕闇に溶けはじめている。

 ただ、足元から伸びる影だけがいつもより少しだけ長く、その夕闇の中へと続いていた。


こちら連載候補の短編です。


続きが読みたい!気になる!

と思ってもらえましたら、ブクマや評価などしてもらえるとうれしいです。

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