難攻不落の悪役令嬢に、俺は今回も恋をする
その朝も、彼は見慣れた天井の下で目を覚ました。
薄い生成りの天蓋。
左の窓から差し込む、春にしては少し冷たい朝の光。
廊下を急ぐ靴音が三つ、そのあと少し遅れて四つ目。
遠くで鐘が鳴るまで、あと十二秒。
数えてみれば、やはり同じだった。
彼――レインは、寝台の上でしばらく瞬きを繰り返したあと、静かに身を起こした。
三十三回目の春である。
窓の外では、王都にある名門学園の寄宿舎が、いつもと同じように朝を迎えつつあった。
制服姿の生徒が回廊を行き交い、庭師が低木を整え、噴水の水が陽にきらめいている。
どれも見飽きた光景だった。
世界は、今日も寸分違わぬ顔で彼を迎える。
レインは息を吐き、鏡台の前に立った。
鏡の中の自分も、もう見慣れている。
寝癖のつきやすい黒髪。
貴族らしい華やかさとは少し縁の薄い、平凡な顔立ち。
だが、だからこそこの学園では都合がいい。
目立ちすぎず、埋もれすぎず、誰の近くにも立てる。
上着に袖を通しながら、彼は頭の中で今日の手順をなぞった。
朝、東棟二階の回廊でヒロインと遭遇。
午前の講義後、中庭で例のいさかい。
その前に、図書室へ寄って栞をひとつ。
昼食後、温室の横を通る。
夕方の選択肢では、強く庇わないこと。
今度こそ、好感度の上昇幅を閾値ぎりぎりまで制御して――
そこで彼は考えるのをやめた。
制御できていたなら、三十二回もやり直していない。
レインは鏡越しに、自分の視界の隅へ意識を向けた。
薄く、文字とも光ともつかないものが滲む。
アイテムボックス。
今、使用可能な物は五つ。
その中から、昨夜のうちに選んでおいた銀の栞を指先でなぞるように意識すると、現実の手の中へそれは滑り出てきた。
異様な現象であるはずなのに、驚きはない。
初めてこれを得たときは神の恩寵か呪いかと疑ったが、今はただ便利なものとして扱っている。
扉を開けたところで、ちょうど鐘が鳴った。
十二秒きっかりだった。
*
東棟二階の回廊には、朝の光が斜めに差し込んでいた。
白い壁、磨き込まれた床、窓辺に揺れる淡い花。
寮母が趣味で飾っているものだと、何度目かの周回で知った。
角を曲がれば、彼女が来る。
レインは歩幅を少しだけ緩めた。
そして予想どおり、軽やかな足音が廊下の向こうから近づいてくる。
「おはようございます、レイン先輩」
柔らかな声だった。
春の朝によく似合う、よく通る声。
リリア・フルールは、両手で教本を抱えながら微笑んだ。
薄い蜂蜜色の髪を肩で揺らし、白百合のような顔でこちらを見上げてくる。
どこを取っても、この学園の男たちが好むものをきれいに寄せ集めたような少女だった。
その頭上に、レインには数字が見える。
**82**
高い。
毎回、彼女の数字は早い段階でここまで伸びる。
選択を誤らなければ九十台にも届く。
けれど、それは彼にとって勝利条件ではない。
「おはよう、リリア。今日は早いな」
「聖堂へ寄っていましたの。少しだけ、お祈りを」
「真面目だな」
「そんなことはありません。ただ、落ち着くので」
答えながら、彼女の数値がわずかに揺れた。
上がるほどの受け答えではない。
現状維持、問題なし。
レインは胸中で一つ印をつけた。
ここで余計に優しくする必要はない。
彼女の好感度は十分すぎる。
むしろ上げすぎると、別の方面に影響が出る可能性がある。
リリアは少し首を傾げた。
「先輩、今日はなんだか難しい顔をしています」
「してるか?」
「しています。誰かについて考えているお顔です」
可憐な言い方だった。
彼女はいつもそうだ。
相手の考えていることを、まるで最初から知っていたみたいに口にする。
レインは曖昧に笑って肩をすくめた。
「大げさだな。ただ講義に行くだけだよ」
「では、その講義が終わったあとに。またお会いできますか?」
ほんの少し、上目遣い。
計算のない仕草に見えて、学園中の視線を集める術を彼女は自然に持っている。
「時間が合えば」
「ふふ。はい」
それで彼女は嬉しそうに頷いた。
数字が、ほんの少しだけ上がる。
**83**
想定内である。
彼女と別れたあと、レインは振り返らなかった。
振り返れば、たいてい彼女はまだこちらを見ている。
それを知っていて、見ない。
*
午前の講義が終わるころ、中庭はいつも少しだけ騒がしくなる。
日当たりがよく、噴水があり、ベンチが多い。
人が集まりやすい場所には、物語もまた集まりやすい。
レインが石畳へ足を踏み入れたときには、すでに小さな輪ができていた。
中央にいるのはリリア。
困ったように眉を寄せ、周囲から何やら慰めの言葉を受けている。
そして、その対面に立つのは――
「……その程度の所作で、人前に出る勇気だけは感心いたしますわ」
氷のようによく通る声が、春の空気を切り裂いた。
公爵令嬢、セシリア・ローゼンフェルト。
この国でも五指に入る名門の娘。
学園でもっとも美しく、もっとも近寄りがたく、そしてもっとも嫌われている女である。
白銀にも見える淡い金髪。
作りものじみた端正な輪郭。
群青の瞳。
立っているだけで周囲の空気に秩序が生まれるような、完成された佇まい。
その頭上に浮かぶ数字を、レインは一瞬だけ見た。
**61**
まだ巻き返せる。
セシリアは手にしていた扇を閉じ、リリアをまっすぐ見た。
「わたくしはあなたの無邪気さが嫌いではありませんの。ええ、本当に。自分が何を踏みにじっているのか気づかずに笑っていられる方を見るのは、ある種の才能だと思っておりますもの」
周囲が息を呑んだ。
リリアは唇をきゅっと結ぶ。
それだけで、誰もが彼女を庇いたくなる顔になる。
「わ、わたし……何か失礼をしてしまいましたか……?」
「してしまいましたか、ではありません。したのです」
容赦がない。
セシリアは本当に、悪役令嬢として申し分のない振る舞いをする。
今朝、リリアは聖堂へ寄ったと言っていた。
そして今日の午前、上級貴族が管理する慈善基金の寄付名簿に、平民出の奨学生の名前が不自然な形で追加された。
本人に悪気はないが、それは面倒事を呼び寄せる。
ただ “みんな仲良くしましょう” という善意で、越えてはならない線を越えていく。
その結果、後始末をするのはいつも別の誰かだ。
セシリアはそれを、見逃さない。
「あなたが善人ぶるのは勝手ですわ。けれど、あなたの善意の始末を誰がしているのか、一度くらい考えてから微笑みなさい」
リリアの目に、たちまち涙が滲んだ。
周囲の視線がセシリアへ刺さる。
冷たい、厳しい、ひどい。
そんな感情が一斉に集まっていく。
それもまた、見慣れた光景だった。
レインは人垣を抜け、二人の間へ自然な足取りで近づいた。
ここで真正面からセシリアを非難すると、数字は下がる。
強く庇いすぎても駄目だ。
必要なのは秩序を守るふりをしながら、彼女の感情の向きをこちらへずらすこと。
彼はセシリアの進路に少しだけ回り込み、手から銀の栞を落とした。
小さな音がした。
セシリアの視線が、わずかにそちらへ流れる。
一瞬で十分だった。
「失礼」
レインは屈んでそれを拾い上げ、セシリアにではなく地面へ軽く会釈するような形で頭を下げた。
「公爵令嬢の仰ることにも理はある。ただ、人前で詰めるには、相手が少し可哀想だ」
その言い方なら、真正面から対立しない。
責めすぎず、庇いすぎず、けれど彼女のやり方には異を唱える。
何度もの失敗の末に掴んだ、もっとも変動幅の大きい角度である。
セシリアの瞳が細まった。
「……あなた、今のわたくしに口を挟みますの」
「挟むほどのことでもない。少しだけ場を収めたいだけだよ」
「綺麗に言い換えましたわね」
だが、数字は上がった。
**64**
レインは内心で息をつく。
まだ行ける。
リリアが不安げにレインを見た。
その頭上の数字もまた揺れていたが、そちらは確認しなかった。
セシリアは一度だけリリアを見下ろし、それから扇を軽く鳴らした。
「今日はその顔を立てて差し上げますわ。感謝なさい、リリア・フルール。あなたではなく、その方に」
言い残して踵を返す。
去っていく背中は、最後まで完璧に美しかった。
だがレインは知っている。
あの背中の芯には、苛立ちだけではない疲労も混じっている。
*
「また余計なことをしたな」
昼食のあと、友人のカイルは呆れたように言った。
芝生の縁に腰掛け、焼き立てのパンを片手でちぎりながら、彼は面白そうにレインの顔を覗き込む。
「余計じゃない。必要なことだ」
「そうやって公爵令嬢の前に出るの、これで何度目だ」
「数えてるわけがない」
「数えてそうな顔をしてるぞ、お前」
実際には数えている。
初回からの総計なら、もう三桁は越える。
カイルは肩をすくめた。
「あの人、怖いだろう。顔はとんでもなく綺麗だけど、近くにいると息が詰まる。なのにお前は毎回わざわざ首を突っ込む」
「カイル、わかってないな」
「は?」
「扱いが難しいってことは、それだけやりがいがある。」
カイルはしばらく黙ったあと、盛大に顔をしかめた。
「お前、恋愛を戦略ゲームみたいに扱うよな」
「違うのか」
「違うだろ普通」
違うのかもしれない。
だが、レインには最初からそういう見え方しかしていなかった。
この世界では、人の頭上に数字が見える。
選ぶ言葉によって増減し、贈る品によって上下し、時には一定値を越えると別の出来事が発生する。
会話にも順番があり、場所にも意味があり、何をどのタイミングで差し出すかで結果が変わる。
ならばそこに手順があり、法則があり、勝ち筋があるはずだった。
ただ、ひとりだけ違う。
セシリアだけが、何度手を伸ばしても最後の一線で攻略を許さない。
正しく言えば、彼女に近づいた瞬間に、世界のどこかから死が飛んでくる。
最初の周回では毒だった。
二度目は落下事故。
五度目は夜道の襲撃。
十二度目は馬車の横転。
二十七度目は階段からの転落。
原因は毎回違う。
だが、共通していることがひとつだけある。
セシリアの好感度が、ある値を越えたとき。
その直後、レインは死ぬ。
理由は未だにわからない。
隠し条件、ペナルティ、あるいは攻略対象としての制限。
何かしらの仕組みがあるのだろうと彼は考えていた。
カイルがパンを飲み込んでから、面白半分に訊く。
「で? どこまで行けそうなんだ」
「図書室を通して、中庭で三上げた。次に温室で一か二。夕方の夜会前で会話分岐に入れれば、七十台には乗る」
「何を言ってるのか全然わからん」
「わからなくていい」
「なんだお前」
レインは答えず、水を飲んだ。
温室へ行く時間だった。
*
学園図書室は、午後になると光の色が変わる。
高窓から差し込む陽が棚の上でほどけ、古い紙と革の匂いの中に、静かな眠気を落としていく。
セシリアは窓際の席にいた。
誰かと同席することを許さない席だ。
実際、彼女の周囲だけ空気の温度が一段違うようで、誰も近づかない。
レインは迷いなくその領域へ足を踏み入れた。
「読書の邪魔をする気なら、帰りなさい」
顔も上げずにセシリアが言う。
ページをめくる指先まで綺麗だった。
「邪魔はしない。これを渡しに来ただけだ」
彼は一冊の本を机へ置いた。
先日、彼女が探していた絶版本である。
前々の周回で書庫の奥にあると確認済みだった。
セシリアがようやく目を上げる。
群青の瞳が、本の背表紙を認めた瞬間だけ揺れた。
「……どこで」
「書庫の奥。禁帯出の札が誤って差し替えられてた」
「司書でも気づいていなかったのに」
「たまたまだよ」
「あなたの “たまたま” は、妙に都合がよろしいのね」
言いながらも、彼女は本へ手を伸ばす。
そのページの間に、例の銀の栞を入れておいた。
セシリアはそれを見つけて、ほんの一瞬だけ黙った。
花を模した細工の小さな栞。
以前、彼女が購買部で足を止めて見ていた品だ。
けれど公爵令嬢がそんな安いものを買うはずがない。
そういう場面だった。
「ついでだ。栞がなかっただろ」
「……頼んだ覚えはありませんわ」
「知ってる」
「では、余計なお世話です」
そう言いながら、彼女は栞を本から抜き取らなかった。
数字が上がる。
**68**
レインの胸の奥で、乾いた計算が一つ先へ進む。
セシリアは数秒遅れて、本を閉じた。
「あなた、無駄に気が利きますのね」
「褒め言葉として受け取っておく」
「好きになさい」
吐き捨てるような物言いだったが、声色は少しだけ柔らかかった。
彼女はそういう女だ。
表では一分の隙もなく強く、冷たく、美しい。
だがごく稀に、その完成度の継ぎ目から人間らしさが覗く。
レインはそれを見るたび、少しだけ呼吸を忘れる。
攻略の手順として正しいから。
きっと、それだけだ。
*
その日の午後、温室のそばで小さな騒ぎが起きた。
令息のひとりが、貴重な観賞用の鉢を倒したのだ。
割れた音に侍女たちが息を呑み、責任の所在が曖昧なまま空気だけが尖る。
そして、こういうときもまた、セシリアはセシリアらしかった。
「お退きなさい」
一言で場を支配する。
彼女は床に散った土と陶片を見下ろし、状況を一瞬で見極めた。
「先に怪我人の確認を。次に、温度が下がる前に残った根を移しなさい。泣くのは全部済んでからで結構です」
侍女たちが、はっとしたように動き出す。
倒した本人の令息だけが面食らって立ち尽くしていた。
「セシリア嬢、それは僕の――」
「あなたの不注意であることは見ればわかります。言い訳は不要」
ばっさりである。
だが、誰よりも処理が早い。
ただの高慢な令嬢なら、人はここまで従わない。
レインはその横顔を、少し離れたところから見ていた。
きりりと張った口元。
冷ややかな視線。
隙のない物腰。
そのくせ、人知れぬところで自分が全部背負い込む。
やがて片づけが終わったあと、彼女は誰もいなくなった温室の陰で、ほんの少しだけ肩の力を抜いた。
熱い空気を嫌うくせに、それを周囲には見せない。
額にかかった髪を鬱陶しそうに払う仕草だけが、年相応だった。
レインはそこへ、水の入った小瓶を差し出した。
「喉、乾いてるだろ」
「……盗み見とは趣味が悪いですわね」
「見えたんだ」
「見せた覚えはありません」
それでも彼女は小瓶を受け取った。
一口だけ飲み、すぐに蓋を閉める。
「ぬるいですわ」
「冷たいと腹を壊すだろ」
「そこまで考えて差し出したと?」
「たぶん」
セシリアはレインを見た。
その視線は鋭いくせに、時折どうしようもなく寂しい。
「……あなたは、見ていないようでよく見ていますのね」
「観察は得意なんだ」
「そういう殿方は、嫌われるか重宝されるかのどちらかですわ」
「で、俺は?」
「さて。今のところは、後者にしておいて差し上げます」
数字がまた上がる。
**72**
閾値に近づいていた。
レインは内心で、少しだけ笑う。
今回は進みがいい。
今までより滑らかだ。
まだ死の匂いはしない。
いけるかもしれない。
そのとき、温室のガラス越しに誰かの影が揺れた。
振り返ると、リリアが立っている。
彼女はすぐに、いつもの柔らかな笑みに戻った。
「ごめんなさい。お話中でしたか?」
「いや」
「先輩、探していましたの。これ、午前の講義で落とされていたので」
差し出されたのは、レインの万年筆だった。
確かに失くしていた品だ。
前回までは紛失したまま終わったはずのもの。
「助かった。ありがとう」
「どういたしまして」
リリアはにっこり笑う。
その頭上の数字は、見なくてもわかった。
高い。
安定している。
「先輩って、お優しいですね」
「普通だよ」
「なかなかできないことです」
柔らかな声音のまま、彼女はそう言った。
レインは返さない。
リリアの好感度はこれ以上あげる必要はなかった。
彼女は笑っていた。
「では、また夕方に」
去っていく。
その背を見送りながら、レインは次の行動を見直す。
攻略手順に支障が無いかを頭の中で何度か確認していた。
*
その日の夕刻、学園では小規模な夜会が開かれた。
春の始まりごとに行われる、在校生と来賓のための気軽な社交会。
といっても、そこに集まる面々の “気軽” は、庶民のそれとはだいぶ意味が違う。
燭台の灯が磨かれた床へ映り、弦楽器の音が高天井の下を漂う。
色とりどりのドレス、燕尾服、香水の匂い。
笑い声、扇の陰の噂話。
こういう場所では、セシリアの存在感はいっそう際立つ。
今夜の彼女は深い紺のドレスをまとっていた。
青というより夜そのものに近い色で、金髪と肌の白さを際立たせている。
完璧で、手が届かず、誰もが見惚れるのに、近づくことは躊躇う。
そんな女だった。
一方のリリアは、淡いクリーム色のドレスで人々の輪の中心にいた。
笑みを向け、声をかけられ、自然に守られる位置へ収まる。
本来の物語なら、彼女こそが正しいヒロインに見える。
実際、この世界はいつもそういう顔をしていた。
夜会の半ば、予定どおり小さな衝突が起きた。
年配の貴婦人が、リリアの無邪気な一言に顔を曇らせる。
場が凍りかけ、誰も間に入れず、そしてセシリアだけが歩み出る。
「その言い方では、先方の家格と役目を軽んじたことになりますわ」
リリアが怯えたように身をすくませる。
周囲はまたしても、セシリアを冷たい目で見る。
「わたし、そんなつもりじゃ……」
「つもりの有無で済む場ではありません」
その一刀両断ぶりは見事だった。
厳しすぎる。
けれど正しい。
レインはそこで介入するべきか、一瞬だけ測る。
ここで彼女を否定すれば数字は落ちる。
かばわなければ悪役性が強まり、周囲の圧も増す。
だが今夜は終盤だ。
必要なのは好感度の最後の押し上げ。
場の是非ではない。
彼は一歩前へ出た。
「セシリア嬢。ここは俺が預かろう」
「預かる?」
「彼女には後で伝える。今は人の目が多すぎる」
セシリアの眉がわずかに動く。
彼女は賢い。
レインが言外に、“これ以上あなたが悪者になる必要はない” と含めたことを理解した。
「……勝手を言いますのね」
「今に始まったことじゃない」
「本当に不愉快」
吐き捨てるように言って、彼女はくるりと踵を返した。
だが数字は上がる。
**77**
近い。
もう少しだ。
レインはその場をうまく収め、数分後、人気のない回廊へセシリアを追った。
夜会場から離れるほど音楽は遠くなり、代わりに夜気と月の光が濃くなる。
中庭へ面した回廊は静かで、白い柱の影が床へ長く落ちていた。
セシリアはそこで立ち止まっていた。
扇を閉じたまま、庭を見ている。
「追ってくると思っていましたわ」
「……見透かされてるな」
「それはこちらのセリフですわ」
彼女はふっと鼻で笑った。
「あなた、どうしていつもそうやって当然のように踏み込んで来られるの」
「必要だと思うから」
「傲慢ですわね」
「そっくりそのまま返すよ」
セシリアはしばらく黙り、それから本当に小さく笑った。
その笑いは人前で作るものではない。
鋭さを少しだけ失って、疲れた女がこぼす、人間的な笑いだった。
「……わたくし、あなたのそういうところが嫌いですの」
「知ってる」
「嫌いだと言っているのに」
「それでも今、追い返さない」
セシリアの瞳が揺れる。
月光の下で、その青は深い湖みたいに見えた。
「あなたは、いつも肝心なところで怖いもの知らずですわ」
「それは違うな」
「意味がわかりません」
「怖いからこそだな」
レインは正直に言った。
それが最適解だと、経験が教えている。
「簡単な相手じゃないからこそ、惹かれるものがある」
セシリアは息を止めたように見えた。
彼女の頭上の数字が、静かに上がる。
**79**
あと一歩。
この先に、未解明の領域がある。
セシリアは視線を逸らし、庭の闇へ目を向けた。
「あなたは、どうして何度でもわたくしのところへ来るの」
胸の奥で、何かが小さく鳴った。
今までにも似た問いはあった。
だが今夜のそれは、明らかに重さが違う。
レインは一瞬だけ考える。
ここで理屈を重ねるのは駄目だ。
否定しても駄目。
軽口で流すのも浅い。
必要なのは、これだ。
「もう、わかっているだろ?」
セシリアがこちらを見た。
完璧な悪役令嬢ではない、ただの女の顔で。
「……変な人」
「よく言われる」
数字が、とうとう境を越えた。
**80**
レインの呼吸が浅くなる。
ここだ。
今度こそ、ここを越えれば――
「レイン先輩」
背後から、柔らかな声がした。
振り向くより早く、彼は妙な寒気を覚えた。
夜会場の灯りが遠い。
回廊は静かすぎる。
足音がひとつ、近すぎた。
リリアが立っていた。
月の下で、白い花みたいに可憐に笑っている。
「探しました」
「リリア?」
「ひどいです。ずっと見ていたのに」
見ていた。
その言葉が、耳の奥で鈍く響く。
セシリアが眉をひそめる。
「こんな場所まで追ってくるなんて、礼儀を習わなかったのかしら」
いつもの棘のある声音。
だが今のレインには、そちらへ意識を向ける余裕がなかった。
リリアは一歩、近づく。
その笑みは変わらない。
変わらないのに、何かだけが決定的に違っていた。
「先輩」
彼女の手が、胸元へ伸びた。
触れられたのか、突き立てられたのか、その区別さえ曖昧なほど一瞬だった。
熱ではなく、冷たさが走る。
レインは息を呑み、数歩よろめいた。
視界が揺れる。
回廊の白い柱が傾き、セシリアの顔が遠ざかる。
「……な、に……」
喉の奥から漏れた声は、声にならなかった。
血だ、と理解したのは、床に赤が落ちてからだった。
自分のものだと理解するのには、さらに一拍かかった。
セシリアが何か叫んだ。
それさえも、ひどく遠い。
リリアが、泣きそうな顔で笑っていた。
その顔だけが、妙にはっきり見える。
「だめでしょう」
囁くような、甘い声。
「先輩は、わたしだけを見ていればよかったのに」
レインは目を開いたまま、彼女を見た。
意味がわからない。
理解が追いつかない。
どうして。
どの条件を踏んだ。
どのフラグが折れた。
何を見落とした。
リリアはさらに、小さく言った。
「また失敗ですね」
その瞬間、世界が暗転した。
*
硬いものが床に叩きつけられる音がした。
狭い部屋だった。
カーテンの閉め切られた窓。
散らかった机。
飲みかけのペットボトル。
深夜の青白い光を吐くモニター。
その前で、レイン――いや、鈴木 輝彦は肩で息をしていた。
「……っ、嘘だろ!」
吐き出した声は、さっきまでの貴族めいたものではなく、年相応の荒れた声音だった。
足元には、投げ捨てられたコントローラが転がっている。
「えええ」
画面には、見慣れたゲームオーバーの表示。
セーブデータ一覧の横に、小さく並ぶ周回数。
死亡回数:33
彼は髪をかきむしり、モニターを睨みつけた。
「まじかよ……リリアがメンヘラだったなんて……」
リリアのルートは簡単だった。
サブキャラも、友人枠も、教師枠も、隠しキャラですら落とした。
だがセシリアだけが駄目だった。
好感度は上がる。
会話も噛み合う。
イベントも起こる。
明らかに脈があるところまで行く。
なのに、必ず最後で主人公が死ぬ。
原因不明のバッドエンド。
攻略サイトにもまだ載っていない。
考察掲示板でも結論が出ていない。
理不尽な難攻不落。
「――好感度 80 越えは、リリアが闇落ちするフラグだったのか……」
モニターの中では、エンディングにも至れなかったセシリアが、いつものように冷たく美しく立っていた。
夜の回廊の背景、月明かり、群青のドレス。
人形みたいに整った顔で、それでもどこかひどく人間くさい目をしている。
彼は唇を噛み、椅子にもたれた。
「……だる」
怒っているのか、悔しいのか、自分でもよくわからなかった。
ただひとつ確かなのは、明日になればまた電源を入れるだろうということだ。
タイトル画面の隅で、ゲームのロゴが静かに光っている。
青年はしばらくそれを見つめてから、力の抜けた声で笑った。
「あそこまで進めるの大変なんだよなぁ」
そして彼は、床に落ちたコントローラを拾おうとはしなかった。




