↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
「三為」  作者: ウミタロウ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

5/5

「案内」

 午前六時半。アラームが鳴る前に、俺の目が開いた。天井の染みが視界に入る。体が勝手に起きた。こんなのは何年ぶりだろう。普段は三度スヌーズを押してからようやく布団を這い出すのに。


 隣でよしこが寝息を立てている。俺は静かに起き上がった。膝が——やはり痛い。昨日の全力疾走のツケだ。階段を降りる時、ミシッと嫌な音がした。膝が。いや、階段の木材かもしれない。どっちにしろ老朽化だ。


 洗面台で顔を洗い、鏡を見た。白髪のオールバック、彫りの深い顔。目の下に少しクマがある。寝たのか寝てないのかわからない。だが目には光があった。


 トーストとコーヒーの朝食を手早く済ませ、スーツに袖を通す。今日はネクタイを少しいいやつにした。紺地にシルバーのストライプ。よしこが五年前の誕生日にくれたものだ。

 

 よしこ 「あら、そのネクタイ。珍しいじゃない。」


 寝ぼけ眼のよしこがキッチンに現れた。寝癖がすごいことになっている。


 「気合い入ってんのね。トイレットペーパーの時もそのくらい気合い入れてくれると助かるんだけど。」


 俺は笑って玄関を出た。朝の空気が澄んでいる。九月の風が首筋を撫でた。駅までの道を歩きながら、スマホを確認する。黒沢からの追加連絡はなし。白石からの変更連絡もなし。予定通りだ。


 電車に乗り込む。今朝は座席が空いていた。迷わず座った。昨日のプライドはどこへやら。膝が感謝している。


 渋谷で降り、会社には寄らず、そのまま神南方面へ歩いた。内見の物件まで徒歩三分。現地に着いたのは九時四十五分。十五分前。ちょうどいい。


 七階建てのRC造ビルを見上げた。築十五年。外壁のタイルは綺麗に保たれている。管理状態は悪くない。一階にはカフェが入っていて、朝のコーヒーの匂いが歩道まで漂っていた。


 九時五十八分。黒いセダンが一台、ビルの前に滑り込んできた。


 セダンのドアが開いた。最初に降りたのは白石だった。昨日と同じく隙のないスーツ姿。手には革製のバインダーを抱えている。続いて後部座席から桐島が降りてきた。


 今日はカジュアルだった。白いブラウスにデニム、足元はスニーカー。内見だから動きやすい格好にしたのだろう。髪を一つにまとめたポニーテールが、朝の風に揺れた。 


 白石 「おはようございます。お待たせしました。」


 桐島 「和泉さん、おはようございます! ネクタイ素敵ですね。」


 いきなりネクタイに気づく。この観察力は天然なのか計算なのか、相変わらず読めない女だ。


 と、その時。セダンの運転席から、もう一人降りてきた。白石も桐島も事前に言及していなかった人物だ。


 長身の男だった。百八十後半はある。細身のグレースーツに、サングラス。髪は短く刈り込まれ、顎のラインが鋭い。年齢は四十前後か。男はサングラスを外すと、切れ上がった目でビルを一瞥し、それから俺に視線を移した。


 白石 「申し遅れました。こちら、弊社のアドバイザーの陳さんです。」


 陳 「……陳です。よろしく。」


 短い挨拶だった。日本語に訛りはない。だがイントネーションのどこかに、わずかな硬さがあった。名刺は出さなかった。俺の営業勘が、四度目のびびっを鳴らした。


 俺は名刺を差し出した。陳はそれを片手で受け取り、ちらりと目を落としただけでスーツの内ポケットにしまった。名刺返しはなかった。ビジネスマナーを知らないわけではないだろう。出さないのだ、意図的に。


 俺は顔色を変えなかった。二十年の営業経験で、この手の人間には何度も会ってきた。名刺を出さない。肩書きが曖昧。だが現場には来る。つまり、こいつが実質的な決裁権者だ。


 「では、中をご案内しますね。管理会社さんに鍵を預かっておりますので。」


 俺がエントランスの自動ドアを開けた。四人がロビーに入る。白い大理石調のタイルに、天井からのダウンライトが落ちている。築十五年とは思えない清潔感だ。


 「わあ、いい雰囲気。」


 桐島が目を輝かせてロビーを見回している。白石はバインダーを開き、何かチェックリストに書き込んでいた。


 そして陳。この男だけが違う動きをしていた。壁に近づき、タイルの目地を指でなぞった。天井の配管カバーを見上げ、エレベーターの製造年を確認し、防火扉の位置をメモしている。素人の動きじゃない。


 俺はそれを視界の端で捉えながら、平静を装ってエレベーターのボタンを押した。


 「まず七階から順にご覧いただきましょうか。上から見たほうが全体像が掴みやすいので。」


 「屋上は出られるか。」


 初めて陳がまともに口を開いた。低い声だった。


 「出られますよ、まず最初に見ましょうか」


 「ああ。」


 一言だった。白石が桐島の方をちらりと見たが、桐島は気にする様子もなく、エレベーターに乗り込んだ。


 屋上に出ると、九月の風が四人の髪を攫った。桐島のポニーテールが大きく揺れる。渋谷の街並みが一望できた。遠くに代々木公園の緑が見え、その向こうに新宿の高層ビル群が霞んでいる。


 桐島 「すごい……! この景色、最高じゃないですか。」


 桐島がフェンスに駆け寄り、スマホで写真を撮り始めた。白石が一歩後ろで控えている。


 陳は景色には目もくれなかった。防水シートの状態を靴底で確かめ、室外機の型番を確認し、排水溝を覗き込んでいる。そして屋上の広さを歩幅で測り始めた。


 俺は腕を組んで、その一連の動きを黙って観察していた。この男、不動産の人間だ。それもかなり場数を踏んでいる。投資ファンドのアドバイザーという肩書きは、あながち嘘ではないかもしれない。だが、ただのアドバイザーにしては目つきが鋭すぎる。


 陳 「防水は何年前にやった。」


 和泉「三年前です。施工は渡辺工業。十年保証がついてます。」


 陳の目がわずかに動いた。即答した俺を値踏みするような視線だった。二秒ほどの沈黙の後、陳は小さく頷いた。


 陳 「……下を見よう。」


 和泉「承知しました」


 レベーターで七階に降りた。現在空室のフロアだ。俺が鍵を開けると、がらんとしたオフィススペースが広がっていた。窓から差し込む朝の光が、むき出しのOAフロアを照らしている。


 桐島がスニーカーの足音を響かせながら窓際まで歩いていった。白石はフロアの面積をバインダーのメモと照合している。


 陳は壁際に立ち、分電盤のカバーを開けた。無断で。俺は口を挟まなかった。止めても意味がない。この男は自分の目で確かめないと気が済まないタイプだ。


 陳 「電気容量は。」


 和泉「フロアあたり六十アンペア。ただし幹線に余裕がありますので、増設は可能です。」


 陳 「空調は個別か。」


 和泉「個別です。各フロア独立制御で、ビルマルチ方式。室外機は三年前の防水工事と同時期に更新済みです。」


 陳の質問は矢継ぎ早だった。エレベーターの保守契約、受水槽の容量、耐震等級、アスベストの有無。一つ一つが急所を突いている。俺は一問も詰まらずに答え続けた。昨日のうちに資料を読み込んでおいた成果だ。


 六階、五階と降りていく。テナントが入っているフロアは外からの確認のみ。四階のIT企業のガラス越しに、若い社員たちがモニターに向かっているのが見えた。


 三階に来た時、陳が初めて足を止めた。



 陳 「このフロア、前のテナントはいつ出た。」


 和泉「半年前です。ウェブ制作会社でしたが、リモートワークに移行して解約しました。」



 陳 「半年空いてるのに募集かけてないのか。」


 鋭い。俺は内心で舌を巻いた。普通の買い手なら気づかないポイントだ。三階だけ募集が出ていない。それには理由がある。


 和泉「オーナーの杉山さんが、売却を視野に入れて意図的に止めてます。空室のほうが売りやすいケースもありますので。」


 半分は本当で、半分は俺の読みだった。杉山老人が募集を止めた本当の理由は、管理が面倒になってきたからだ。だがそれを正直に言う必要はない。


 陳が俺をじっと見た。三秒。五秒。それから初めて、口の端がわずかに持ち上がった。笑みとは言えない。だが敵意は消えていた。


 陳 「一階をみせろ。」


 一階に降りた。カフェのテナント部分は営業中のため、共用部とバックヤード側からの確認になる。エントランス脇の管理室を俺が開けると、配電盤や給排水の集中管理パネルが並んでいた。


 陳が真っ先に入った。パネルの計器を一つ一つ確認していく。白石が後ろから写真を撮っている。桐島は管理室の入口に立ったまま、少し退屈そうにスマホをいじっていた。


 桐島「ねえ和泉さん。」


 和泉「はい。」


 桐島「このビル、好き。」


 唐突だった。「好き」。十二億の買い物を前にして出る言葉がそれだ。白石が振り返ったが、何も言わなかった。もう慣れているのかもしれない。


 陳が管理室から出てきた。腕を組み、エントランスのロビーを見渡した。それから入口の自動ドアの向こう、神南の通りに目をやった。人通りは平日の午前にしては悪くない。カフェの客入りも上々だ。


 陳 「外に出る。」


 四人がビルの前に立った。陳は歩道に出て、ビルの外壁を見上げた。それから左右の隣接建物との距離を確認し、前面道路の幅員を目測した。最後にビルの裏手に回り、搬入口と駐車スペースを見て戻ってきた。


 全行程およそ四十五分。陳はサングラスをかけ直すと、白石に向かって短く何かを呟いた。中国語だった。俺には聞き取れなかったが、白石が小さく頷いたのは見えた。


 白石「和泉さん、本日はありがとうございました。非常に参考になりました。」


 桐島「うん、すっごく良かった!」


 白石「社内で検討の上、改めてご連絡させていただきます。早ければ今週中には。」


 定型文のようだが、白石の目は真剣だった。「検討」ではなく「手続き」のフェーズに入る目だ。陳が首を縦に振ったのだろう。


 セダンに三人が乗り込む直前、桐島が窓を下ろして俺に手を振った。


 桐島「和泉さん、また連絡しますね! 母にも伝えておきます!」


 セダンが発進し、神南の通りに消えていった。俺は一人、ビルの前に立っていた。九月の日差しが首筋を焼く。額にうっすら汗が滲んでいた。


 スマホが震えた。黒沢からだ。


『華瑞キャピタル、追加情報あり。電話くれ。ちょっとキナ臭い』


つづく

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。