「家族」
(やっぱりな。香港系か。でも逆に考えると、それなら12億って少なくないか?)
電車のつり革に揺られながら、俺の思考は止まらなかった。香港の投資ファンドが日本の不動産を買う。珍しい話じゃない。だが華瑞キャピタルほどの規模なら、普通は五十億、百億単位で動く。わざわざ設立二年のペーパーに近い法人を通して十二億の一棟ビル一件。割に合わない。
考えられるパターンはいくつかある。
一つ目、テスト購入。まず小さい案件で日本側のルートを確認して、本命はもっとでかい買い物。二つ目、何らかの理由で目立ちたくない資金の受け皿。三つ目——単純に桐島彩音が独自に動いていて、ファンドの本体とは距離がある。
どれだとしても、明日の内見で桐島と白石の反応を見ればヒントは掴めるはずだ。
電車が最寄り駅に着いた。トイレットペーパーの袋を持ち替え、改札を抜ける。夜風が首筋に心地いい。九月とはいえ、日が落ちれば少し涼しくなってきた。
家の玄関を開けると、チキンカレーのスパイシーな匂いが鼻を突いた。
よしこ:「おかえり。トイレットペーパーは?」
「ふっ、もちろん買ってきたよ!」
靴を脱ぐより先にそれを聞いてくる妻。俺がビニール袋を掲げると、よしこは満足そうに頷いて台所に戻っていった。
「あら偉い。先週は卵忘れたくせに。」
よしこが振り返りもせずに言った。俺は何も言い返せなかった。確かに忘れた。あの時は帰りの電車で居眠りして、改札出た瞬間に思い出したが面倒くさくてそのまま帰ったのだ。バレていたらしい。
リビングのテーブルにはすでにカレーが盛り付けられていた。チキンの手羽元がごろっと入った、よしこの得意料理だ。隣に福神漬けとらっきょう。そして冷蔵庫から出したばかりの缶ビール三五〇ミリが一本。いつもの光景だ。
俺は着替えを済ませて食卓についた。プルタブを引き、一口。喉を通る冷たい苦味に、今日一日の緊張がほどけていく感じがした。
「今日なんかあった? 顔つき違うわよ。」
三十年連れ添った女の観察眼は侮れない。俺がカレーをスプーンですくいながら少し考えた。
「浮気でもした?」
よしこがテーブルの向かいに座り、自分の皿にルーを注ぎながら、さらりと言った。目は笑っているが、スプーンの先が俺を指している。
「浮気?そんなこと気にならないくせに良くいうよ。」
「第一、俺が女性をどー思ってるか知ってるくせに。」
「そりゃそうよ。あなたに浮気する甲斐性があったら逆に感心するわ。」
俺はカレーを口に運びながら苦笑した。まあ事実だ。若い頃から性欲が薄く、よしこと結婚したのも容姿やら情熱やらではなく、一緒にいて楽だったからだ。映画の趣味が合い、猫が好きで、互いに干渉しすぎない。それが三十年続いている。
「で、何があったの。」
俺は缶ビールをもう一口飲んで、簡単に話した。大型案件が飛び込んできたこと。明日内見があること。ただし詳細は省いた。香港のファンドだの華瑞キャピタルだのは、食卓の話題にはふさわしくない。
「ふうん。大きい案件なの?」
「まあ、うまくいけばね。」
あなたが気合い入ってるの久しぶりに見たわ。なんか目がギラギラしてる。若い頃みたい。
よしこがカレーを頬張りながら、ぼそっと言った。褒めているのか、からかっているのか。たぶん両方だ。
「無理しないでよ。あなたもう六十二なんだから。朝も走ったんでしょ。」
俺の箸が、いやスプーンが止まった。なぜ知っている。
「美咲(娘)から聞いた。渋谷駅で女子高生追いかけてるお父さんそっくりな人がいたって、友達から写真送られてきたって。」
よしこがスマホをテーブルに置いた。画面には、渋谷駅の構内で生徒手帳を手に小走りする俺の後ろ姿が映っていた。白髪が目立つ。腹が出ているのも、はっきりわかった。
「だぁーー!なんだこれ?」
「美咲が大笑いしてたわよ。『お父さんじゃない?これ』って。」
俺はスマホの画面を凝視した。見事に後ろ姿を捉えられている。走っている姿が妙に必死で、しかも手に生徒手帳を持っているのが余計に怪しく見える。これだけ見たら完全に不審者だ。
「拡散はされてないみたいだけどね。娘の友達が偶然撮っただけで。」
よしこがスプーンでカレーをすくいながら、くっくっと肩を揺らしていた。
俺は額に手を当てた。善意で拾って届けただけなのに、なぜこうなる。しかも娘の友達のネットワークに引っかかるとは、渋谷は狭い。なんか、偶然が多いな。あの女子高生追っかけてから、違う人生に行ってるみたいだ。
「美咲が『お父さんに腹筋させよう』って言ってたわ。後ろ姿がおじいちゃんだって。」
美咲。俺の一人娘だ。かなりの美人で、親としては自慢の種なのだが、父親に対しては遠慮というものを知らない。四十後半に見られることがささやかな誇りだった俺にとって、この後ろ姿の写真は致命的だった。前から見れば若く見えても、後ろ姿は正直だ。丸まった背中、突き出た腹、もたつく足運び。
「まあいいじゃない。生徒手帳届けてあげたんでしょ。偉いわよ。」
よしこが投げやりなフォローをした。全然慰めになっていなかった。俺ミは残りのカレーを無言でかき込み、缶ビールを飲み干した。
(ぷう、これが幸せ)
「おかわりは?」
「もち!」
よしこが立ち上がり、俺の皿にカレーをたっぷりよそった。手羽元を一本多めに乗せてくれたのは、たぶん無意識の優しさだろう。缶ビールのおかわりはない。三五〇ミリ一本が晩酌のルールだ。よしこが決めたルールだが、俺も特に異論はなかった。
カレーを頬張りながら、ふとスマホに目をやった。美咲からLINEが来ている。
『お父さん渋谷で何してたのwwwwww』
草が四つも生えている。そしてその下に例の写真が貼られていた。ご丁寧に赤い丸で囲まれている。
『明日帰るから腹筋教えてあげる』
あ、そうそう。美咲、明日の夜こっち来るって。なんか連休取れたらしいわ。
美咲は都内で一人暮らしをしている。IT企業に勤めていて、忙しいらしく、月に一度帰ってくるかどうかだ。俺はスマホを伏せて、二杯目のカレーに集中した。
明日は朝十時に内見。夜は娘が帰ってくる。十二億の案件と腹筋指導。六十二歳の一日としては、なかなかのハードスケジュールだった。
食器を片付け、風呂に入り、リビングのソファに沈んだ。テレビでは野球中継をやっていた。よしこが隣に座り、猫の形のクッションを抱えている。
「……あなた。」
「ん?」
「大きい案件って、危ない橋じゃないでしょうね。」
「いや、もうすでに嫌な勘が働いてる。」
よしこのスプーンを持つ手が——いや、もう食事は終わっている。よしこがクッションを抱く腕に、わずかに力がこもった。
「……あなたの勘、当たるからね。」
三十年の付き合いだ。よしこは俺の勘の精度を知っている。転職の時も、マンションを買った時も、俺の「なんか引っかかる」は大抵正しかった。逆に言えば、その勘が警告を出しているのに突っ込んでいくのも、この男の性分だ。
「無理しないで降りるのも仕事のうちよ。」
俺は天井を見上げた。ソファのクッションが背中に沈む。テレビではピッチャーが三振を取って、球場が沸いていた。ちなみに俺は阪神タイガースファンだ。
降りる。確かにそれが一番安全だ。得体の知れないファンドの金で、わざわざリスクを負う必要はない。普通の案件をコツコツやって、定年まで逃げ切ればいい。缶ビール一本の晩酌と、チキンカレーの夕飯。それで十分じゃないか。
(——でも。)
桐島彩音のあの目を思い出した。まっすぐに俺を見て、「この人にお願いしたい」と言ったあの目。そして白石の、値踏みから認めへと変わった一瞬の表情。
あの二人が何者であれ、営業マンとしての血が騒いでいる。このまま何事もなく人生が終わるのかと、今朝電車で思ったばかりだ。
「……まあ、見極めはつけるよ。ヤバかったら降りる。」
「約束ね。」
よしこはそれだけ言って、テレビに視線を戻した。追及しない。問い詰めない。この距離感が、三十年続いた理由だった。ちなみによしこは読売ジャイアンツファンだ。
「もう寝なさいよ。明日大事なんでしょ。」
俺はのっそりとソファから身を起こした。風呂上がりのTシャツの下で、出っ張った腹が主張している。美咲に腹筋を指導されるのは明日の夜だ。一日で引っ込むわけもないが。。
歯を磨き、寝室に入った。布団に潜り込むと、スマホを枕元に置いた。アラームは六時半。目を閉じる。
暗闇の中で、頭が勝手に動く。華瑞キャピタル。桐島彩音。白石玲奈。十二億。再開発情報。杉山老人。全部がぐるぐると回っている。
(——このまま何事もなく人生終わるのだろうか。)
今朝のその問いに、今夜は少しだけ違う答えが返ってきそうな予感がした。俺はそのまま、泥のように眠りに落ちた。
つづく




