「黒沢」
「え、やばい案件すか? さっきの人たち、めちゃくちゃ綺麗な人出てきたんで、てっきりいい話かと……」
「田中は応接室から出てきた桐島の姿を見ていたらしい。まあ、あの容姿なら目に留まるのは当然だ。」
俺は使い終わったカップを片付けながら、頭の中で情報を整理していた。二十代の代表。聞いたことのない会社。十二億の予算。異常なスピード感。そして桐島彩音という女——あの天真爛漫な笑顔の裏に何があるのか。
白石玲奈のほうはわかりやすい。切れ者の参謀タイプだ。ああいう人間は計算で動く。だが桐島は読めない。「空気が好き」で十二億を動かそうとする人間は、天才か馬鹿かのどちらかだ。
俺はデスクに戻ると、すぐにパソコンを開いた。レイラ・ホールディングス。法人登記を調べる。
……設立は二年前。資本金一億円。役員は桐島彩音と白石玲奈の二名のみ。事業内容は不動産投資および経営コンサルティング。所在地は港区赤坂。
二年で十二億を動かせる会社。背後に誰がいる。
俺はスマホを取り出し、業界の古い知り合いの番号を探した。こういう時に頼れるのは、データベースじゃなく人脈だ。
物件のオーナーにも連絡を入れなければ。やることは山ほどあった。俺は缶コーヒーのプルタブを引き、一口含んだ。苦がっ。
(……さて。)
六十二歳の営業マンの目が、静かに光っていた。
(これは中国系だな。)
法人登記の情報だけでは断定できない。だが俺の長年の勘が、そう告げていた。港区赤坂、設立二年、資本金一億、二十代の代表。このパターンは何度か見たことがある。背後に中国系の投資家がいて、日本人名義のペーパーに近い法人を通して不動産を買い漁るスキームだ。
違法ではない。だが面倒なことになる可能性はある。資金の出どころ、マネーロンダリングの疑い、反社チェック——。一つでも引っかかれば、会社ごと吹っ飛ぶ。
俺はスマホのアドレス帳をスクロールし、ある名前で指を止めた。「黒沢」。元メガバンクの融資担当で、今は独立してコンサルをやっている。業界の裏事情に精通している男だ。彼とは大学からの付き合いだ。
番号をタップした。三コールで出た。
「おう、和泉か。珍しいな、お前から電話なんて。誰か死んだか?」
縁起でもないこと言うなよ。ちょっと聞きたいことがあってさ。レイラ・ホールディングスって会社、知ってるか?
電話の向こうで、一瞬の間があった。キーボードを叩く音が聞こえる。
「……レイラね。直接は知らんが、なんかちょっと引っかかるな。調べて折り返すわ。今日中にいけると思う。」
「助かる。恩に着るよ。」
「恩に着るなら赤坂で飯奢れ。じゃあな。」
ぶつりと切れた。愛想のない男だが、仕事は早い。俺はスマホをデスクに置いて、腕を組んだ。明日の内見までに、できるだけ情報を集めておきたい。
「和泉課長!、顔怖いっすよ。」
「久しぶりに熱い案件になりそうだ。気合が入ってきた!」
「おお、なんか和泉課長が本気モードだ。俺入社してから初めて見るかも。」
田中が大げさに目を見開いた。冗談めかしてはいるが、実際俺のまとう空気が変わったのは事実だった。普段は飄々として、どこか力を抜いているように見えるベテランが、今は違う。
俺は一件目の物件オーナー、杉山老人の番号を押した。八十二歳、元は渋谷で手広く商売をやっていた地主で、五年前から相続の相談をちょくちょく持ちかけてきていた。
「はいはい、杉山です。」
「杉山さん、丸正住宅の和泉です。ご無沙汰しております。お体の具合はいかがですか。」
「おお、和泉さんかい。まあぼちぼちだよ。膝がね、もうダメだわ。」
「実は神南のビルの件で、ちょっとご相談が。購入を検討されてるお客様がいらっしゃいまして、明日内見させていただきたいんですが。」
電話の向こうで杉山が「ほう」と小さく唸った。
「……買いたいって人かい。どんな方?」
「法人のお客様です。まだ初期段階ですので、まずは建物を見ていただければと。」
「まあ、見るだけならいいよ。管理会社に言っとくから、十時でいいかい?」
「ありがとうございます。助かります。」
電話を切った。第一関門クリア。俺がメモを走り書きしていると、スマホが震えた。嫁のよしこからだ。
『トイレットペーパー忘れないでね。12ロール。あとカレーはチキンにした』
十二億の案件を動かしながら、トイレットペーパーの心配。これが六十二歳のリアルだった。
(はは、これも緊張感のある指令だな。)
俺は小さく笑って、LINEに「了解」とだけ打った。十二ロール、チキンカレー。忘れたら家庭内の信用が十二億より早く吹っ飛ぶ。
定時の六時を回った頃、デスクの電話が鳴った。黒沢からだ。
「和泉、調べたぞ。」
「早いな。で、どうだった。」
レイラ・ホールディングス。表向きはクリーンだ。登記も財務も問題ない。ただな——
黒沢が一拍置いた。受話器の向こうで氷がグラスに当たる音がした。もう飲んでいるらしい。
資金の流れを辿ると、香港の投資ファンドに行き着く。名前は「華瑞キャピタル」。ここ数年、都内の一棟ものを積極的に買ってる。で、この華瑞の実質的なオーナーが誰かっていうと、まだ裏が取れてない。
俺は受話器を肩に挟みながら、メモを取った。華瑞キャピタル。聞いたことがない。
「反社の線は今のところ出てこない。ただ資金規模がでかい割に情報が少なすぎる。慎重にいけよ。うまい話ほど足元すくわれるからな。」
「わかった。ありがとう。赤坂の飯、近いうちに必ず。」
「焼肉な。安いとこはダメだぞ。」
電話が切れた。俺はメモを見つめたまま、しばらく動かなかった。やはり中国系。読み通りだ。だが反社でないなら、商売として成立する余地はある。問題は、桐島彩音がどこまで知っていて、どこまでコントロールできているか。
パソコンの電源を落とし、鞄を手に取った。帰り道、駅前のドラッグストアでトイレットペーパー十二ロールを掴んだ。片手にビニール袋をぶら下げて電車に揺られる六十二歳。今朝と同じ車両、同じつり革。だが頭の中は、まるで別の回転数で動いていた。
つづく




