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「三為」  作者: クロウミタロウ


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ファーストコンタクト

俺は返信メールを下書き保存して、ゆったりと立ち上がった。椅子がまたギシッと鳴く。田中が先にぱたぱたと会議室に向かっていく背中を眺めながら、廊下を歩いた。


会議室には既に八人ほどが揃っていた。パイプ椅子に座る者、壁に寄りかかる者。朝礼なんてものは大抵、店長の自己満足みたいなもの、皆それをわかっている顔をしている。


「えーっと、じゃあ始めます。まず今月の数字ね、正直キツいです。あと十日なのに目標の六割しか行ってない。他人事じゃないゾーーー!」


岡田店長がホワイトボードにマーカーで数字を殴り書きした。赤字が目立つ。


「それとね、ひとつ報告。来月から本社の経営審査部の人間が視察に来ます。まぁ平たく言うと、成績悪い支店のテコ入れってやつ。頼みますよ皆さん。」


空気がすっと冷えた。田中が隣でちらっと俺の方を見た。


「だから皆さん、今月の残り、死ぬ気でお願いします。特に和泉くん、あんたベテランなんだから引っ張ってよ。頼むよほんと。」


岡田店長の目が俺を捉えた。冗談めかしてはいるが、その奥にある焦りは隠せていなかった。さっきの十二億の案件が、脳裏でちらついた。


(まあ、俺個人としては目標達成済みなんだが。。)


「わかった?和泉くん!」


「へーーい!」


俺の軽い返事に、会議室の空気が一瞬ふっと緩んだ。田中が小さくガッツポーズをしている。岡田店長も苦笑いしながら頷いた。


「チっ。。。まあ、和泉くんがそう言ってくれると心強いよ。じゃ、以上。各自頑張って。」


パイプ椅子がガタガタと鳴り、ぞろぞろとデスクに戻っていく。俺が自席に着くと、すぐにパソコンの下書きを開いた。レイラ・ホールディングスの白石玲奈宛て。


丁寧だが簡潔に、面談の日程調整を提案する文面を打ち込んだ。入社二十年の指が、迷いなくキーボードを叩いていく。送信ボタンを押して、ふうと息を吐いた。


十時のアポまで少し時間がある。物件データベースを開き、神南エリアの一棟ビルをリストアップし始めた。条件に合うものは三件。どれも簡単には動かない物件ばかりだが、不可能ではない。

その内1件は俺が受け持ってる物件だ。


そうやって画面とにらめっこしていると、ピロン、と通知音。


返信が来ていた。もう送ってからまだ五分も経っていない。


差出人、白石玲奈。本文は短かった。


『早速のご連絡ありがとうございます。本日午後以降にお伺いすることは可能でしょうか。お忙しいところ恐れ入りますが、ご検討いただけますと幸いです。』


今日の午後か。えらい急いでいるな。俺の営業勘がまた、ビビッと鳴った。

俺の眉がぴくりと動いた。即レス、しかも今日の午後。普通の法人案件なら、こんなスピード感はありえない。急いでいるのか、それとも——。


俺は顎に手を当て、数秒考えた。そして迷わず返信を打った。


『承知いたしました。本日14時でいかがでしょうか。弊社渋谷支店にてお待ちしております。』


送信。返信は三十秒もかからなかった。


(早い!!)


『14時で問題ございません。白石玲奈と、もう一名でお伺いいたします。よろしくお願いいたします。』


もう一名。上司か、あるいは決裁権者か。本気度が高いのか、それとも素人が勢いで動いているだけなのか。会ってみればわかる。


「和泉課長、なんかニヤけてません?」


田中が自分のデスクから身を乗り出して覗き込んできた。


俺は無意識に口角が上がっていたことに気づいた。久しぶりだった。腹の奥がじわっと熱くなるこの感覚。獲物の匂いを嗅ぎつけた時の、営業マンの本能だ。膝の痛みも、朝の追いかけっこの疲れも、どこかに吹き飛んでいた。


壁の時計は九時二十八分。午後二時まで、あと四時間半。準備する時間は十分にある。


「ふ、全くの勘だが、売上に貢献出来るかもだぞー」


「えっ、マジすか? でかいやつっすか?」


田中が椅子ごとこっちに滑ってきた。俺のモニターを覗き込もうとする田中の首を、俺が軽く手で押し返した。(こらこら)


まだ詳細を話す段階じゃない。ぬか喜びほど恥ずかしいものはないのだ。二十年もやっていれば、商談が土壇場でひっくり返る場面など腐るほど見てきた。


「けちっすねー。まあいいや、俺も午前のテレアポ頑張りまーす。」


「なにがケチだ!ばーか」


田中がデスクに戻り、受話器を取り上げる。俺は神南エリアの物件資料をプリントアウトし始めた。三件分の登記情報、周辺相場、築年数、利回り、レントロール。手際よくクリアファイルにまとめていく。こういう地味な準備が、商談のほぼ九割を決める。


十時のアポをそつなくこなし、昼になった。コンビニで買った鮭おにぎりとお茶で簡単に済ませ、歯を磨き、ネクタイを締め直した。洗面台の鏡に映る自分の顔。白髪をオールバックに撫でつけ、目元のシワを確認する。(増えたなあ)


(ふっ——まあ、まだいけるだろ。)


十三時五十分。会議室の机を拭き、資料を並べ、お茶の準備を終えた。


十三時五十八分。受付の内線が鳴った。


「和泉課長、二時のお客様がお見えです。白石様と、もう一方。」


「どうぞ、応接室までご案内よろしくっす!」


受付の女の子が応接室のドアを開けた。俺は立ち上がり、ジャケットのボタンをひとつ留めて姿勢を正した。

最初に入ってきたのは、三十代半ばくらいの女性だった。黒いタイトスカートにグレーのジャケット、髪はきっちりとまとめたシニヨン風。切れ長の目に薄い唇。隙のない雰囲気だ。名刺を差し出す所作も無駄がない。


「株式会社レイラ・ホールディングス、企画部の白石玲奈と申します。本日はお時間いただきありがとうございます。」


そしてその後ろから、もう一人が姿を現した。


俺は一瞬、まばたきを忘れた。


長い黒髪がゆるく巻かれ、肩にかかっている。ベージュのワンピースに、華奢なゴールドのネックレス。年齢は二十代後半か。整った顔立ちだが、それだけじゃない。醸し出してる空気が全然違う。柔らかいのに、どこか芯がある。大きな瞳が俺を真っ直ぐに見上げた。


「こちらが弊社代表の桐島です。」


「桐島彩音です。今日はよろしくお願いします。」


にこっと笑った。屈託のない、だが確かに場を支配する笑顔だった。二十代で代表。十二億の案件。俺の営業勘が、三度目のびびっと鳴った。


(…これは匂うなあ。)


もちろん口には出さない。俺は名刺を両手で受け取った。


「丸正住宅の和泉です。本日はわざわざお越しいただきありがとうございます。どうぞ、おかけください。」


椅子を引き、二人を上座に促す。お茶を出し、自分も向かいに腰を下ろした。白石は背筋を伸ばしたまま資料を鞄から取り出している。一方の桐島彩音は、応接室をきょろきょろと見回していた。まるで初めてこういう場所に来たかのような仕草だ。


「早速ですが、メールでお伝えした通り、渋谷区神南エリアで一棟ビルを探しております。予算は十二億前後、駅徒歩五分以内が条件です。」


白石の説明は簡潔で要領を得ていた。用途はテナントビルとしての運用、利回りは五パーセント以上を想定。ここまでは教科書通りだ。


俺はちらりと桐島を見た。代表であるはずの彼女は、出されたお茶を両手で包むように持ち、黙って白石の話を聞いている。口を挟む気配がない。


(——決裁権は本当にこの子にあるのか。)


それとも、白石が実質的な仕切り役で、桐島は看板なのか。あるいはもっと別の構図か。俺は用意した三件の資料をテーブルに広げながら、静かに観察を続けた。


「あれ?……あの。」


ふいに桐島が口を開いた。白石がぴくりと動きを止める。


「和泉さんって、もしかして昔、お芝居やってました?間違ってたらごめんなさい。」


「はぁ。。確かにやってましたが、デビュー前に辞めてますし、それももう40年以上前の話ですよ?」

「なぜご存じなんですか?」


俺は警戒モードに入った。(誰だ?お前)


白石の眉がかすかに寄った。商談の流れを逸らされたことへの苛立ちか、あるいは桐島の唐突な発言への警戒か。


桐島は目を輝かせて、身を乗り出した。お茶がカップの縁で揺れる。


「やっぱり! 母が持ってたんです、当時のファンクラブの会報。和泉かずみさんでしょう? 母から写真見た事があって。母、大ファンだったんですよ。」

「先日、引っ越し時にたまたまその話題になって!」


空気が変わった。白石が桐島の横顔をじっと見ている。明らかに初耳だという表情だ。


「全然変わってないですねー。白髪になっただけで、お顔のつくりそのまんま。母に言ったら絶叫すると思いますよ!。」


俺は面食らっていた。デビューすらしていない、四十年近く前の養成所時代のファンクラブ。そんなものを覚えている人間がまだ存在していたのか。しかもその娘が、十二億の案件を持って目の前に座っている。


偶然にしては出来すぎている。(偶然すぎるだろう。なんか怪しい)

だが桐島の目には、作り物ではない純粋な興奮があった。


「……桐島さん、本題に戻ってもよろしいでしょうか。」


白石の声は丁寧だったが、語尾に鋭いものがあった。桐島がぺろっと舌を出して椅子に座り直す。二十代の代表と三十代の参謀。この二人の力関係が、少しだけ見えた気がした。


俺は一拍置いて、ふっと笑った。営業マンの笑顔ではなく、どこか照れくさそうな、年相応の柔らかい笑みだった。


「お母様によろしくお伝えください。さて——」


切り替えは一瞬だった。俺はテーブルに広げた三件の資料に指を置き、目の色を変えた。


「現在、神南エリアで条件に合う物件が三件ございます。こちら順にご説明させていただきますね。」


一件目、築十五年のRC造七階建て。駅徒歩三分。テナント稼働率は八割。利回りは条件ギリギリだが立地は抜群。二件目、築二十二年だが大規模改修済み。価格は十億を切るが、やや駅から遠い。


三件目——


「こちらの一件目、現オーナーの売却意思はどの程度固いですか。」


白石が資料を一読しただけで核心を突いてきた。切れる女だ。俺は内心で舌を巻きながら、正直に答えた。


「正直に申し上げると、まだ探りの段階です。ただ、オーナーは高齢でして、相続対策の相談を以前からいただいております。条件次第では動く可能性は十分あります。」


「……ねえ白石さん、一件目がいい。場所の空気が好き。」


「空気で十二億は出せません。」


「でも大事でしょ、そういうの。」


桐島がまっすぐに俺を見た。


「和泉さんはどう思います? 不動産って、数字だけじゃないですよね。」


「不動産は総合判断なんですよ。100%の物件は存在しない。だから総合判断で物件を決めると良いですよ。その中には雰囲気や感覚等も含まれます。あと、勘も。」


桐島が「ほらね」と言わんばかりに白石を見た。白石は無表情のまま、小さくため息をついた。


「……総合判断、ですか。では和泉さんの総合判断として、この三件の中でどれを推されますか。」


来たな、試されている。俺にはわかった。白石の目は値踏みそのものだ。ここで無難に「お客様のご希望次第です」と逃げれば、この女は二度と本気の球を投げてこないだろう。


「一件目です。」


間を置かずに言い切った。


「根拠は?」


「はい。利回りはギリギリですが、神南で駅徒歩三分のRC造は今後まず出てきません。テナント稼働率八割は一見低く見えますが、逆に言えば賃料の見直しで伸びしろがある。改修次第でテナントの質も変えられます。十年後に手放すときも値崩れしにくい。」


俺は資料のページをめくり、周辺の再開発計画の地図を指で示した。


「それとここ。来年から区の再開発事業が入ります。周辺の地価はまず上がる。この情報はまだ表に出てません。」


白石のペンが止まった。桐島はきょとんとした顔で俺と白石を交互に見ている。


白石が初めて、わずかに目を細めた。それは警戒ではなく、獲物を見つけた側の目だった。


「……その情報のソースは。」


「二十年この街でやってますから。この街のどぶ板の数まで知っていますよ。」


にやりとも、へらへらともつかない笑みが俺の顔に浮かんだ。ベテランだけが持つ、情報網という武器。それが俺の最大の切り札だった。


「す、すごい。やっぱりこの人にお願いしたい。ね、白石さん。」


「……一件目の内見は、いつ可能ですか。」


ペンをノートに走らせながら、白石が言った。その声色から、先ほどまでの値踏みの色が消えていた。


「明日で如何ですか?」


「明日。急ですね。」


白石がスマホを取り出し、スケジュールを確認する。指先が画面を素早くスクロールしていく。


「明日行きたい! 空けて、白石さん。」


「……午前中なら可能です。十時でお願いできますか。」


「承知しました。では十時に現地集合で。住所はこちらの資料に記載がございます。オーナー側には今日中に連絡を入れておきます。」


白石が名刺の裏に何かメモを走り書きし、資料をきっちり揃えて鞄にしまった。できる人間の所作だ。対照的に桐島は、残っていたお茶をごくりと飲み干して、ふぅと満足そうに息をついている。


「和泉さん、ほんとにありがとうございます。あ、母の話の続きなんですけど——」


「桐島さん、そろそろ。次の予定がありますので。」


「えー。……わかった。」


桐島が名残惜しそうに立ち上がった。俺に向かって深々とお辞儀をする。白石も立ち上がり、形式的だが丁寧な礼をした。


「明日、楽しみにしてます。」


ドアの前で桐島がくるっと振り返った。


「あと、母の連絡先渡してもいいですか? 絶対喜ぶので。」


「桐島さん!」


「はーい。」


ぱたぱたと廊下に消えていく足音。白石が最後に俺に一礼し、静かにドアを閉めた。


「……和泉課長、どうだったすか?」


廊下で待ち構えていたらしい田中が、顔を覗かせた。


「うん、なかなか厄介かもな。気を引き締めないととんでもないことが起きるかもな。」


つづく


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