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「三為」  作者: ウミタロウ


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平凡な人生?

和泉かずみ、六十二歳。

不動産会社に勤めてはや数十年、今も現役だが、近頃は体の衰えを隠せない。同年代の友人たちと集まれば、話題は決まって持病の話か、知人の訃報だ。

ふと窓に映る自分を見る。髪は真っ白で、たまに「白に染めているのか」と聞かれるほどだ。地黒の肌に彫りの深い顔立ち、大きな二重まぶたのせいで時折外国人に間違われることもある。四十代後半に見られるのが密かな自慢だが、最近はせり出してきた腹のせいで、自分でもみっともない体形になったと思う。


家には五十九歳の妻がいる。決して美人ではないが、これほど趣味の合う女はいない。二十五歳になる娘はかなりの美人で、親バカながら鼻が高い。

毎日電車に揺られて通勤し、終われば真っ直ぐ帰宅して、一本の缶ビールで晩酌をする。そんな、どこにでもある「老い」の日常が今の俺だ。


しかし、若い頃は少し違った。俳優の養成所に通っていた頃、俺にはデビュー前だというのにファンクラブがあった。誘いはいくらでもあったが、俺はそれとなく全て断ってきた。

というのも、俺には性欲というものが希薄だったのだ。女性から激しい交わりを求められるのは地獄でしかなかった。美男子と持て囃されながら、その実、女性に恐怖すら感じていた……そんな風変わりな若者だったのだ。


あれから約四十年。今の俺は、不動産会社のしがない課長だ。

趣味の合う五十九歳の妻と、自慢の美人の娘。家族には恵まれたと思う。しかし、毎日の電車通勤と、仕事終わりの三百五十ミリリットルの缶ビール。そんな繰り返しの毎日の中で、せり出してきた自分の腹をさするたび、逃れようのない加齢を感じる。

今日もまた、いつものように電車に揺られている。このまま、何事もなく定年を迎えて人生は終わるのだろうか。



ゴトン、ゴトン…


満員電車が規則的なリズムを刻みながら、ガタン、と大きく揺れる。むっとするような人いきれの匂いと、様々な生活の音が混じり合う。俺はは、つり革に片手をかけ、ぼんやりと窓の外を流れていく景色を眺めていた。高層ビル群が太陽の光を反射してきらめいている。


「次は〜、渋谷、渋谷です」


車内アナウンスが響き、ドア付近に立っていた若者たちが少し身じろぎした。その喧騒の中で、ふと、隣に立つ女性の会話が耳に入ってくる。


「ねぇ、見て見て! あの人、めっちゃかっこよくない?」

「え、どこ? あ、ほんとだ! 外人さんかな? 日本語ペラッペラだったら最高じゃない?


ひそやかな、しかし興奮を隠しきれない声。彼女たちの視線が、明らかに俺に向けられているのを肌で感じた。62にもなって、こんな風に注目されるのは、どうにも落ち着かない。自慢ではあるが、やはりむず痒いものだ。


俺は聞こえないふりをして、視線を窓の外に固定したまま微動だにしなかった。こういうのは慣れている。若い頃から数えれば、もう何千回と経験してきたことだ。ただ、あの頃と違うのは、今の俺にはそれを楽しむ余裕すらないということだった。


渋谷駅に着くと、車内の半分近くが吐き出され、つかの間の空間が生まれる。入れ替わりに乗り込んできた乗客の波に揉まれながら、俺の前の席がぽっかりと空いた。


座ろうか、どうしようか——一瞬の迷い。最近、膝の調子がどうにも悪い。階段を降りるとき、ミシッと嫌な音がする。だが、まだ座るほどの歳じゃないという妙なプライドが邪魔をする。


その隙に、隣にいた若いサラリーマンがするりと滑り込んだ。


……まぁ、いいか。


電車が再び動き出す。次の駅まであと三つ。スマホを取り出すと、嫁の「よしこ」からLINEが来ていた。


『今日の晩ごはん、カレーでいい? あと帰りにトイレットペーパー買ってきて。12ロールのやつ』


実に現実的なメッセージだった。ロマンの欠片もない。だが、これが三十年以上連れ添った夫婦というものだろう。俺は小さく息を吐いた。


俺がLINEに「へいー」と打ち込んで送信した直後、既読がついた。よしこからの返信はなかった。了解の意味だろう。三十年の阿吽の呼吸とはこういうものだ。


渋谷駅のホームに降り立つと、朝の人波が改札に向かって一斉に流れ始める。俺もその濁流に身を任せながら歩いていると、三メートルほど前を歩く小柄な背中が目に入った。紺色のブレザーにチェックのスカート。どこかの学校の制服だ。


ぽとり、と。その子のカバンのポケットから何かが滑り落ちた。


俺は反射的にそれを拾い上げた。開いてみると——生徒手帳。名前も住所も学校名も丸見えだ。こりゃまずい。


足を速めた。六十二の膝が抗議の声を上げたが、構っていられない。距離を詰めて声をかけた。


——「お嬢さーん」


その瞬間、少女の肩がビクッと跳ね上がった。振り返りもせず、むしろ歩幅が倍になった。ほとんど小走りだ。イヤホンをしている様子もない。完全に、聞こえた上で逃げている。


……あ。


俺は自分の状況を客観的に理解した。白髪の、体格のいい、彫りの深い六十二歳の男が、女子生徒を追いかけて「お嬢さーん」と叫んでいる。


周囲の視線が突き刺さるのを感じた。近くを歩いていたスーツ姿の女性が、露骨にスマホを構えようとしている。


これは——まずい。非常にまずい。


そして俺は大声で


「お嬢さーーん!!生徒手帳落としましたよーーー!!」


俺の腹の底から絞り出した大声が、渋谷駅の構内にびりびりと響き渡った。通勤ラッシュの人混みが一瞬、波が引くようにざわついた。


少女の足がぴたりと止まった。


おそるおそる振り返ったその顔は、まだ幼さの残る丸い頬に、怯えと困惑が入り混じった表情を浮かべていた。俺の手に握られた見覚えのある紺色のカバーが目に入った途端、その目がまん丸になる。


「え——あっ、それ、わたしの……!」


駆け戻ってきた少女は、俺の手から生徒手帳を受け取ると、ぺこぺこと何度も頭を下げた。


「すみません、すみません! イヤホンしてなかったのに逃げちゃって……その、おじさんが怖い人かと思って……ごめんなさい!」


おじさん、という単語が俺の胸にグサリと刺さった。四十後半に見られるのが自慢だったが、女子中高生からすれば四十後半も六十二も等しく「おじさん」なのだ。残酷な現実である。


さっきスマホを構えかけていたスーツの女性が、ばつが悪そうにそっとスマホをバッグにしまうのが視界の端に映った。周囲の空気が「なんだ、いい人か」という弛緩したものに変わっていく。


「あの、ほんとにありがとうございます! これないと学校入れないんです!」


少女はもう一度深々と頭を下げると、改札の向こうへぱたぱたと走っていった。


少女が改札の向こうに消えていくのを見届けて、俺は膝に手をついた。はあはあと荒い息が喉の奥から漏れる。たかが数十メートルの小走りで、この有様だ。心臓がドクドクと耳の奥で主張している。


……情けない。


昔は俳優養成所の体力トレーニングで十キロ走っても平気だったのに。俺は額の汗をハンカチで拭いながら、ゆっくりと歩き出した。膝が、じわりと鈍い痛みを訴えている。明日は確実に筋肉痛だろう。


駅を出ると、九月の朝の日差しがアスファルトを焼いていた。会社まではここから徒歩七分。不動産会社「丸正住宅」の渋谷支店。俺が二十年以上通い続けた職場だ。


ビルのエレベーターに乗り込み、五階のボタンを押す。扉が開くと、すでに何人かの社員がデスクに座っていた。


若手社員:「あ、和泉課長、おはようございまーす! ……なんか息切れてません? 大丈夫っすか?」


入社三年目の田中が、エナジードリンクを片手にこちらを見上げた。二十七歳、チャラいが営業成績は悪くない。俺のことを妙に慕っている若手だ。


「なんかさー女生徒が手帳目の前で落として届けようとしたら、追っかけっこになって、死ぬかと思ったよー!」


「マジっすか! 和泉課長が女子高生追いかけてる図、やばくないっすか? 通報されなかったんすか?」


田中はエナジードリンクを吹き出しそうになりながら、ケラケラと笑った。



周囲のデスクからも、くすくすと笑いが漏れた。経理の山本さんが眼鏡の奥から呆れたような視線を投げてくる。


「和泉課長、あなたその見た目で女の子追いかけたら、そりゃ逃げますよ。外国人マフィアだと思われたんじゃないですか。」


「あー、わかる。和泉課長、黙って立ってるだけで威圧感すごいっすもんね。つーか心臓大丈夫すか? 顔赤いっすよ。」


田中が自分のデスクの引き出しからスポーツドリンクのペットボトルを取り出して、ひょいと俺に投げた。


「はい、これ飲んでください。つーか和泉課長、最近健康診断行きました? 俺のオヤジ、同じくらいの歳で走って心筋梗塞なりかけたんで、まじで気をつけたほうがいいっすよ。」


軽い口調だったが、田中の目は割と本気で心配していた。


(心筋梗塞ね。最近よく聞くワードだ)


俺の席のパソコンは既に起動しており、画面には未読メールの通知が十二件点滅している。


そして今日も、俺の日常が始まる。


俺はペットボトルのキャップを捻り、ぐびぐびと半分ほど一気に流し込んだ。冷たい液体が喉を通り抜けていく感覚に、ようやく心拍が落ち着いてくる。


デスクに腰を下ろすと、革張りの椅子がギシッと悲鳴を上げた。……去年まではこんな音しなかったはずだ。出てきた腹が原因であることは明白だったが、考えないことにした。


未読メール十二件。ざっと目を通すと、大半はいつもの物件問い合わせと社内連絡だったが、一件だけ目を引くものがあった。


件名——「渋谷区神南・大型物件のご相談」。差出人は聞いたことのない会社名だった。株式会社レイラ・ホールディングス。本文を開くと、駅徒歩三分程度の一棟ビルを探しているという内容で、予算の桁が普段の案件と一つ違う。


田中:「和泉課長、今日の十時のアポ、先方から三十分遅れるって連絡きてます。あと、店長が朝礼やるんで、九時に会議室集合っすー。」


壁の時計は八時四十二分を指していた。朝礼まであと十八分。俺はもう一口スポーツドリンクを含みながら、その大型案件のメールを読み返した。もし成約すれば、今期の数字が一気に跳ね上がる。六十二の心臓にはさっきの追いかけっこより、こっちのほうがよっぽど心拍数が上がる話だった。


俺は画面に顔を近づけ、メールの文面をもう一度舐めるように読んだ。予算十二億。渋谷区神南で駅徒歩三分、一棟ビル。こんな案件が飛び込みで来ることは、年に一度あるかないかだ。


担当者の名前は「白石 玲奈」。聞いたことがない。レイラ・ホールディングス自体も、カズミの長い業界経験の中で一度も耳にしたことがなかった。新興のファンドか、あるいは—。


田中:「和泉課長さーん、なんかいい案件すか? 顔つき変わってますよ。」


俺の営業マンとしての勘が、ピリッと反応していた。うまい話には裏がある。だが、裏があろうがなかろうが、まずは会ってみなければ始まらない。二十年やってきて身についた鉄則だ。


俺がメールの返信を打ち始めようとした、ちょうどその時だった。


「はいはーい、朝礼やるから会議室集合ー。和泉くんも早くー。」


入口から顔を覗かせたのは店長の岡田。五十五歳、俺より七つ下だが頭はすっかり薄くなり、恰幅のいい体を安物のスーツに押し込んでいる。俺を「くん」付けで呼ぶのは、この会社で岡田だけだった。


つづく







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