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第五話:『絶望へのテコ入れ』

あの事件を起こしてから俺たちの新たな日常は、、、


何も変わらなかった。


俺は調子に乗って銅貨をすべてを酒に使い切り、リリスもギャンブルで取り分をすべてすった。それどころか、あの事件後からリリスが定期的に俺の稼いだ金をピンハネするようになった。俺の生活はむしろ悪化していた。


その日も、ヘドロと汚水にまみれた一日を終え、俺は稼ぎである銅貨三枚を握りしめて、カビ臭い作業部屋へと戻った。


◇◇◇


「旦那様、おかえりなさい…」


隅っこで膝を抱えていたイグニが、力なく出迎える。


「おう…ただいま。今日のメシは…黒パン一個だ。悪いな」


銅貨一枚で買える、固くてパサパサのパンを渡すと、イグニはそれでも少しだけ嬉しそうに、ちびちびとかじり始めた。


そこに、ガチャリと扉が開く。安宿から戻ってきたリリスだ。

彼女は、俺の汚れた姿を一瞥すると、顔をしかめ、さも当然のように手を差し出した。


「…小僧、今日の稼ぎだ。さっさと寄越せ」


「あ?てめえ、どの口が言ってやがる。てめえの宿代のために、毎日銅貨一枚ピンハネしやがって」


「当然だ。元女王である私が、このような肥溜めのような場所で寝られるわけがなかろう。私の精神の安定は、一家の頭脳の安定に直結する。必要経費だ」


「どの口が!」


『ククク…これが貴様らの日常か。実に下らん。実に、実に…退屈だ』


頭にザガンの声が流れる。天井近くで霊体のまま、俺たちの貧乏生活を眺めていたザガンが、心底つまらなそうに、こめかみを押さえた。


『…人間よ。余は、飽きた』


「あ?何がだよ」


『貴様らの、その泥水をすするような毎日だ。あまりに情けなく、あまりに展開がない。茶番ですらない。美しさの欠片もない!…よし、決めた。明日、貴様のその薄汚い職場で、少し面白い趣向を凝らしてやろう。楽しみにしているがいい』


「は?おい、何する気だ!やめろ、余計なことすんじゃねえぞ!俺の唯一の収入源なんだぞ!」


俺の制止を、ザガンは愉快そうに笑って聞き流した。


◇◇◇


そして翌日。俺は、ザガンの不吉な予告に怯えながらも、結局いつも通り、ヘドロの臭気が満ちる第3水路に来ていた。働かなければ、今夜のパンすらないのだ。ザガンは相変わらず俺が働いている時は霊体のままだ。


「クソッ…何も起こらなきゃいいが…」


『案ずるな人間。余の趣向は、常に貴様の想像の上を行く』


頭の中に響く声に悪態をつきながら、シャベルをヘドロに突き刺す。ねっとりとした重い感触。いつもと変わらない、最悪の感触だ。


(…なんだ、脅かしただけか…?)


そう思った、瞬間だった。

足元の汚水が、ピシッ、と凍結するような音を立てた。見れば、シャベルの先のヘドロが、まるで黒い宝石のように硬質化し、輝き始めている。


『さて、ショーの始まりだ』


ザガンの声と共に、異変は水路全体へと広がった。

足元から、壁から、天井から、水晶が無数の華のように咲き乱れ、どす黒い汚泥の世界を、青白く輝く宝石の洞窟へと、一瞬にして作り変えていく。悪臭は消え、代わりに、清浄で冷たい空気が満ていく。


(なんだ…これ…)

あまりの光景に呆然としていると、現場監督が目を丸くして駆け寄ってきた。


「おい、健太!なんだこりゃ!…まあいい、見ての通り、ヘドロは全部なくなっちまった。仕事は今日までだ。ま、達者でな!」


「え、あ、ちょっ…!困ります!俺、この仕事がないと…!」


ザガンの気まぐれで、俺は唯一の仕事をクビになった。

(うそだろ…俺の、俺の日給銅貨三枚が…!)

絶望に打ちひしがれる俺の頭の中で、ザガンは愉快そうに笑っていた。


◇◇◇


そして、その悪趣味な「テコ入れ」は、水路の反対側にいた、もう一人の共犯者にも、寸分の狂いなく絶望を届けていた。

その頃、リリスは、同じ水路の下流で、腕まくりをして汚水に手を突っ込んでいた。


(フン…ヘドロの中には、酔っ払いが落とした小銭が紛れていることもあるという。女王たる私が、このような屈辱を…!だが、これも、全ては次の勝利のため…!)


彼女が、指先に硬い感触を見つけ、ほくそ笑んだ、その瞬間だった。


彼女の周囲の汚泥が、一斉に、美しい水晶へと変わったのだ。腕が肘まで、見事に固められた。

スラムの住民たちが、その光景に気づき、指を差して笑い始める。


「おい見ろよ、アンデッドの姉ちゃんの腕が水晶んなってやがるぜ!」


「ダッセー!」


その声が、彼女の女王として(自称)のプライドを、ズタズタに引き裂いた。


◇◇◇


稼ぎゼロで、とぼとぼとねぐらに帰ってきた俺を待っていたのは、なんとも言えない、絶望的な光景だった。


カビ臭い倉庫の隅。そこには、腹を空かせたイグニと、なけなしの私物である数着のドレスと共に、リリスが呆然と座っていたのだ。

イグニが、しょんぼりしているリリスの頭を、よしよし、と小さな手で撫でている。


「…おい。お前、なんでここにいるんだ?安宿はどうした?」


こちらの問いに、リリスが答えるより先に、イグニが悲しそうな顔で口を開いた。


「旦那様…リリス、おうち、なくなったって…」


「は?」


イグニの言葉に、リリスは顔を伏せたまま、消え入りそうな声で、しかしはっきりと、こう言った。


「……聞こえなかったか、小僧。宿代が払えず、追い出されたと言ったのだ」


リリスは、ギリ、と奥歯を噛み締め、屈辱に震える声で続ける。


「…元はと言えば、貴様が!仕事をクビになって稼いでこなかったからだ!」


「はぁ!?俺のせいだと!?」

売り言葉に買い言葉、こっちの怒りも沸点に達する。


「好きでクビになったわけじゃねえだろうが!原因はあのクソ悪魔だ!大体、てめえの腕が水晶に固められて、街中の笑いものになってたのはどうなんだよ!」


「そ、それはザガンのせいだ!私のせいではない!そもそも貴様がもっと稼いでいれば、私がなけなしの小銭を探して水路に腕を突っ込む必要もなかったのだ!」


「こっちだってザガンのせいだよ!つーか、てめえが毎日毎日、銅貨一枚ピンハネしてなきゃ、少しは蓄えがあっただろうが!」


「なっ…!」

リリスは、一瞬言葉に詰まったが、すぐに女王然とした態度を取り戻す。


「あれは、必要経費だと言っている!女王たる私の精神の均衡を保つためのな!文句があるか、下郎!」


「ククク…素晴らしい責任のなすりつけ合いだ。これぞ人間の真骨頂よ。ああ、実に滑稽だ」


いつの間にか顕現していたザガンが、楽しげに拍手をしている。

「「てめえのせいだろうが!!」」

俺とリリスの声が、綺麗にハモった。


◇◇◇


俺たちの、子供じみた言い争いは、やがて虚しくなっていった。

何を言っても、状況は変わらない。金がない。宿がない。仕事もない。

重苦しい沈黙が、薄暗い倉庫に落ちる。


ぐぅぅぅぅぅ………。

沈黙を破ったのは、イグニの盛大な腹の虫だった。

イグニは、自分のお腹をさすりながら、不安そうに俺とリリスの顔を交互に見る。


「旦那様…リリス…おなか、すきました…」

その一言が、とどめだった。


こうして、職と宿と、なけなしのプライドを同時に失った俺たち一家は、本当の、正真正銘のどん底に叩き落されたのだった。

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