第三話:『ドラゴン娘とロリコン』
「……オエッ。臭い。死ぬ。私の高貴な鼻が腐り落ちる……」
「文句言うな。手ぇ動かせ」
作業開始から数時間。 俺とリリスは、都市の最下層にある『第3集積水路』で、膝まで汚泥に浸かっていた。
俺たちは死んだ魚のような目で、ひたすらヘドロを掻き出していた。昨日の栄光から一転、今日の俺たちは、日給銅貨3枚のドブさらいだ。この落差こそがスラムの現実だ。
「休憩だ!これ以上働くと過労で死ぬ!」
リリスが勝手にブラシを投げ出したので、俺も溜息をついて休憩することにした。俺は懐から、朝に買った安物の黒パンを取り出した。少しカビが生えかけているが、今の俺たちには貴重なカロリー源だ。
「……(じーっ)」
視線を感じる。少し離れた柱の陰から、ボロボロの布を纏った小柄な影が、俺の手元を凝視している。赤い瞳に、小さな角。竜人のガキだ。ガリガリに痩せている。
(……チッ。なんだあいつ)
俺のイライラは限界だった。二日酔いの頭痛、ヘドロの悪臭、そしてリリスの愚痴。そこに「餌を待つ野良犬」のような目で見られて、神経が逆撫でされる。
「……あー、クソッ!不味い!こんなカビたパン食えるかよ!」
俺はわざとらしく大声を上げると、パンを半分にちぎり、無言でガキの方へ放り投げた。地面に転がったパンを、ガキは一瞬驚いたように見たが、すぐにおずおずと拾い上げた。
「……あ…りがと…」
泥だらけの手でパンを握りしめ、ガキが潤んだ瞳で見上げてくる。
「か、勘違いすんな!俺が食いきれなかっただけだ!腐りかけを処理させただけだからな!」
「ハハハ……なんだその態度は。素直に施しをくれてやったと言えんのか、小物は」
隣でリリスがニヤニヤと笑っている。
「うるせえ。お前の分も投げてやろうか」
「やめろ!それは私の命綱だ!」
俺たちのやり取りなど耳に入っていないのか、少女――イグニは、小さな口で、しかし夢中になってパンを頬張り始めた。
「んぐ……おいしい……おいしいです……!」
彼女は、その感動を噛み締めるように、隣にあった鉄の手すりを、小さな両手でギュッと握りしめた。
グニャリ。
妙に粘っこい音がして、俺はふと見た。 少女が手を離したあと、直径5センチはある鉄パイプが、まるで指でつまんだ粘土細工のように、ぺちゃんこに潰れていた。
(……あ?)
俺は二度見した。いや、まさかな。鉄だぞ? あんなガリガリの腕で、握力だけで潰せるわけが……。
(……腐ってたんだな、あの鉄)
俺はそう結論づけた。スラムの湿気は鉄をも腐らせる。恐ろしい環境だ。俺は深く考えるのをやめた。
◇◇◇
夕方。仕事が終わった。全身ヘドロまみれの俺とリリスは、重い足取りでギルドを後にした。
「おい小僧、貴様に懐いた野良犬がいるぞ」
頭上から、霊体化したザガンが面白そうに言った。
「あ?」
振り返ると、さっきの竜人の少女――イグニが、数メートル後ろを、おずおずとついてきていた。
「……なんだよ。パンはもうねえぞ」
「……いりません」
「金もねえぞ!」
「……いりません」
「じゃあ、なんなんだよ。用がねえなら、ついてくんな!」
「……ひとり…いやだ…」
「うっせえな!あっち行け、シッシッ!」
俺が邪険に手を振ると、少女の大きな瞳から、ポロポロと大粒の涙がこぼれ落ちた。
「でも…お腹、すきました…。ひとりは、いやです…」
(うわぁ…!また泣きやがった!面倒くせええええええ!!)
なんでだよ!なんで俺がこんなガキの面倒見なきゃなんねえんだよ! 俺だって自分のことで精一杯だってのに! でも……ここで見捨てて、明日、こいつが死体で見つかったりしたら……クソッ! 寝覚めが悪すぎる!
「拾ってやれ、小僧。面白くなりそうだ」
ザガンが、どこまでも他人事のように煽ってくる。
「……チッ!わーったよ!ついてくるなら勝手にしろ!」
そう吐き捨てて歩き出すと、少女は、こくこくと頷き、涙を拭って、嬉しそうに後をついてきた。
(ああ、もう、クソッ!俺の頭痛の種が、また一つ増えやがった…!)
◇◇◇
――酒場『無音』。
俺とリリス、そして背後にくっついているイグニの三人は、開店準備中のマスターの前に立っていた。
「親父さん、頼む!約束通り、金は稼いできた!」
俺は、今日の給料である銅貨数枚をカウンターに置いた。
「これで、裏の倉庫を正式に貸してくれ! 俺たちの仮拠点にさせてくれ!」
そう、俺たちには住む家がないのだ。このままだと野宿になってしまう。
マスターは、俺の出した僅かな銅貨を一瞥すると、無表情で首を横に振った。『足りない』というジェスチャーだ。
「そりゃ安いのは分かってる! でも、今はこれしかねえんだ! 頼むよ、雨風しのげりゃ何でもいいんだ!」
「そうだぞドワーフ! 元女王である私が、こんな薄汚い倉庫で我慢してやると言っているのだぞ!」
俺とリリスが必死に食い下がるが、マスターは興味なさそうにグラスを拭き始めた。……終わった。今夜は野宿確定だ。
俺が肩を落とした、その時。俺の後ろから、イグニがひょこっと顔を出した。
「……?」
マスターの手が止まった。その岩のような厳つい顔が、イグニを見た瞬間、ピクリと動いた。
マスターは、カウンターを乗り出すようにして、じっとイグニを見つめた。その視線は、俺たちに向けられていた「ゴミを見る目」とは、明らかに違う熱を帯びていた。
(……なんだ?怒ってんのか?)
イグニが怯えて、俺の服の裾を掴む。すると、マスターは慌てたように表情を崩し、口を開いた。
「おやおや〜?こりゃまた可愛いお客さんでちゅね~♡」
「「は?」」
俺とリリスの声が重なった。マスターは、さっきまでの無愛想さが嘘のような、デレデレに崩れきった笑顔で、気色悪い裏声を出した。
「お腹空いてるのかな〜?かわいそうでちゅね〜。今、冷たいミルク入れまちゅからね〜♡」
「「喋ったァァァァァ!?てか口調キメェェェェ!!」」
俺たちのツッコミなど聞こえていないかのように、マスターは鼻歌交じりでジョッキにミルクを注ぎ始めた。そして、カウンターの下から錆びついた倉庫の鍵を取り出すと、ミルクと一緒にイグニの前へ差し出した。
「はい、どーぞ♡ この鍵も使いなちゃいね〜。あそこの倉庫なら、いつでも使っていいでちゅからね〜♡」
「……あ、ありがとう、ございます……?」
イグニがおずおずとミルクを受け取ると、マスターは「んふぅ♡」と鼻血が出そうなほど嬉しそうに身悶えした。
「……なんだこのオッサン。ロリコンかよ」
「うわぁ……。ドン引きだ」
俺とリリスは顔を見合わせた。よく分からんが、変態の力によって交渉成立だ。……そう思った、直後だった。
「……おい」
地を這うような低い音が聞こえた。ハッとして見ると、イグニがミルクに夢中になっているその死角で、マスターが俺たちだけをギロリと睨みつけていた。
さっきのデレ顔はどこへやら、その目は完全に『殺し屋』のそれだ。
マスターは無言で、店の隅にあるドス黒く汚れたモップとバケツを指差した。そして、次に俺たちの首元に向けて、親指をスッと横に走らせるジェスチャーをした。
『タダで貸すわけねえだろ。店の掃除全部やれ。さもなくば殺す』
明確すぎる殺意の翻訳。イグニには「ミルクのおじちゃん」、俺たちには「鬼畜オーナー」。この露骨な差別待遇。
「……は、はい!喜んでやらせていただきますぅ!」
「わ、私もやるのか!?元女王だぞ!?」
俺が即答で敬礼すると、マスターは満足そうに頷き、再びイグニの方を向いて「んふぅ♡ おいちいね〜♡」と蕩けた顔に戻った。
(……こいつ、一番タチが悪ぃ!)
◇◇◇
こうして、俺たちは(主にイグニのおかげで、そして俺たちの労働力と引き換えに)拠点を確保した。
カビ臭い倉庫と、ヘドロ掃除と、腹ペコの幼児。そして、近所に住む二重人格の変態ロリコンオーナー。
前途多難すぎる。
「はぁ……。ま、とりあえず今日は寝るか」
俺が安堵の息を吐き、冷たい床に横になろうとした、その時だ。 頭上から、ザガンの意味深な独り言が聞こえた。
『……平和だな。反吐が出るほど、退屈で平和だ』
「あ? なんか言ったか?」
『いや? 精々、今のうちに惰眠を貪っておくことだ』
ザガンはニヤリと笑うと、すぅっと姿を消した。
その邪悪な笑顔に、俺は背筋に冷たいものが走るのを感じた。
嫌な予感がする。とてつもなく、ろくでもないことが起きる予感が。
第4話までお付き合いいただきありがとうございます! 賑やかな同居生活が始まりましたが、我が家のエンゲル係数はすでに限界突破しています。
ここからさらに物語は加速(転落)していきますので、ぜひフォローと★評価で、彼らの行く末を見守ってください!
次回予告: 「平和すぎて退屈だ」 悪魔のそんな気まぐれが、俺の唯一のライフライン(職場)を吹き飛ばす。
理不尽な解雇。迫る餓死。 追い詰められた俺たちが選んだのは、「貴族の宝石を盗む」という、人生を賭けた大博打でした。




