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第二十話:『聖女様の、おうち』

天井に穴が開き、最後の食料はパン屑になった。


リリスは再び抜け殻に戻り、イグニは自分の力を恐れて隅で体育座りをしている。俺は、もう何も考える気力がなかった。


その、地獄のような空気の中、セシルだけが、一人、普段と変わらない聖母のような笑みを浮かべていた。


「あらあら、天井に穴が。これでは、夜は冷え込みますわね。ですが、星が見えて、ロマンチックかもしれませんわ」


(こいつ、ポジティブすぎて頭のネジが数本飛んでやがる…)


俺がそう思っていると、ぽつり、と鼻先に冷たいものが落ちてきた。

見上げると、屋根のネズミ型の穴から、雨水が、寸分の狂いもなく倉庫のど真ん中に降り注ぎ始めていた。無慈悲な秋の雨だ。あっという間に、床には水たまりが広がっていく。


「おい、嘘だろ…雨漏りしてんじゃねえか!どうすんだよこれ!」


「フン、元はと言えば、貴様があのネズミをイグニにけしかけたのが悪い」


リリスが俺のことをじろりと睨む。


「はぁ!?穴開けたのはイグニだろうが!」


「ご、ごめんなさい…!」


「まあ、天の恵みですわっ!これで、お茶を淹れるお水が汲み放題ですわね!」


「やかましいわこのポジティブお化けが!」


その、常軌を逸したポジティブさに、俺はもうツッコむ気力も失せた。

この女は、一体どういう育ち方をしたら、こうなるんだ…?

俺は、泥水のような白湯をすすりながら、その異常な精神構造の謎に迫ることにした。


「…なあ、セシル。素朴な疑問なんだけどよ。あんた、俺たちと会う前、どこで寝泊まりしてたんだ?」


その問いに、セシルは、まるで美しい思い出を語るかのように、嬉そうに微笑んだ。


「まあ、わたくしですか?わたくしは、教会にお世話になっておりましたのよ」


彼女は、うっとりと目を細める。


「食事は、薄い豆のスープと、少し硬くなったパンだけでしたけれど、毎日、わたくしの貴重な聖水をありがたがってくださる信者の方々がいらっしゃって…」


(聖水…?こいつ、そんな大層なもん作れたのか…?)


「小僧、あれはただの水だ。私が鑑定した。一滴たりとも聖なる力は含まれておらん」


リリスが、俺の耳元で、冷ややかに囁く。


(マジかよ!ただの水売りつけてたのかよ!)


「それに、『聖女様の御言葉』として、わたくしの言葉を高値で売りさばいてくださる、熱心な司祭様もいらっしゃいましたし…」


「それ、完全に詐欺じゃねえか!」


「いや、需要と供給が一致しているなら、それは立派なビジネスだ。問題は、その売り上げが一銭もこいつに入っていない点だがな」


リリスが、呆れたように付け加える。


「そして、わたくしが寝ている間に、わたくしの髪の毛を『お守り』として切り取っていく、敬虔な子供たち…。皆様、本当にわたくしを必要としてくださっていたのです!」


「え?」


イグニが、自分のツインテールの髪の毛を、不思議そうに、わし掴みにした。


「なんで、切るんですか?髪の毛、食べれませんよ?」


彼女は、心底、不思議そうに、小首を傾げた。


「いや、それもう普通に傷害事件だろ!」


「フン、聖女の遺髪は、高値で取引されるからな。子供にしては、なかなか商才がある」


俺とリリスは、内心で絶句した。


(…こいつ、ただのチョロいカモを通り越して、生きる伝説レベルのカモだ…!)


俺は、自分が、彼女を地獄から、少しマシな地獄へと「救済」してしまったことに、今更ながら気づいた。


「……なんか、ごめんな…」


思わず、そう呟いていた。自分でも驚くほど、素直な言葉だった。


その様子を、ドーナツを食べ終えたザガンが、心底楽しそうに眺めていた。

彼は、セシルの話を聞くと、ああ、と思い出したように、ポンと手を打った。


「フム……その司祭、興味深い名だ。たしか……少し前に回収した『魂のリスト』で見たな。実に質の低い、詐欺師の魂だった。」


ザガンの、あまりに無慈悲な、世間話のような口調での事実陳列。

セシルの、完璧な笑顔が、ぴしり、と固まった。


「ああ、そうだ。信者に売っていたお前の髪の毛も、呪いの人形の材料にするために集めていたと魂の契約書に書いてあったぞ。なるほど、だから『お守り』か。ククク、悪魔の信者らしい、気の利いた嘘ではないか」


「「やっぱりな!!」」


俺とリリスの声が、綺麗にハモった。


ザガンの言葉には、一片の同情もなかった。ただ、純粋な事実だけが、静かに、そして残酷に、倉庫の空気を切り裂いた。

全員の視線が、セシルに集中する。


彼女の、完璧な笑顔が、音を立てて崩れていく。


「…うそ…」


瞳から光が消え、大粒の涙が、ぽろぽろと頬を伝い始めた。


「全部、嘘だったなんて…わたくしの善意は…わたくしの信じた世界は…」


彼女は、その場に崩れ落ちそうになる。


「…おい、セシル…?」

俺が、思わず声をかける。


「…フン。ようやく、現実が見えたか」

リリスが、冷ややかに呟いた。


だが、セシルの様子は、ただの絶望ではなかった。

彼女は、涙を流しながら、ぶつぶつと、何かを呟き始めたのだ。


「…いいえ…違う…!これは、罰などではない…!そうですわ…だから、神は、わたくしをここに…!この、どうしようもない人たちの元へ遣わし…そして…!」


彼女は、顔を上げた。その顔は、涙で濡れていたが、その瞳は、狂的なまでの、新たな使命感に、爛々と輝いていた。正義に酔ったヤク中の目だ。


彼女の視線は、まっすぐに、ザガンを射抜く。


「―――そして!あなた様と、出会わせてくださったのですわっ!」


「おい、こいつまたなんか暴走し始めたぞ何とかしろ。」


俺はリリスに助けを求める。


「できるわけなかろう。こうなったこやつは我々ではどうにもできん」


リリスはもうあきらめた目をしている。


セシルは、すっくと立ち上がると、その手の中に、純白の魔力を、まばゆい光として収束させていく。


「全ては、あなた様を救うため!神の光を知らぬ、哀れな悪魔侯爵様…!さあ、まずは、その身にまとった穢れを、わたくしの愛で浄化いたしますわっ!」


「は!?おい、やめろ!」


俺の制止も聞かず、セシルは、いきなりザガンに向かって、最大級の浄化魔法を放った。


ドオオオオオン!!!

巨大な光の矢が、ザガンに殺到する。


だが、ザガンは、眉一つ動かさなかった。飛んでくる光の矢を、まるで鬱陶しい虫でも払うかのように、指先一つで、無造作に弾き飛ばす。


「なっ…!?」


しかし、その「流れ弾」が、俺たちを襲った。


「ぎゃああああ!貴様!その❘魔法《くそ迷惑なヒカリ》を余に向けるな!」


アンデッドであるリリスが、浄化の光に焼かれて、黒い煙を上げながら床を転げ回る。


「やめろ馬鹿!流れ弾がこっちに来てんだよ!つーかリリスが溶ける!」


俺は、必死に樽の物陰に隠れながら絶叫する。


「わあ! 組長様! リリスさんが、お肉みたいに焼けてます! いい匂いがします!」


イグニが、俺の背中にしがみつきながら、キラキラした目で叫んだ。


「食うなよ! 絶対に食うなよ!」


「あらあら、魔法では足りませんか。ならば、直接、わたくしの祈りを…!」


浄化魔法が効かないと見るや、セシルは次の手段に出た。彼女は、目を輝かせながら、両手を広げて、ザガンに突進しようとする。


「待ちなさい!わたくしの聖なるハグで、あなた様の魂を、直接救済して差し上げますわ!」


ここで初めて、常に余裕だったザガンの顔に、一瞬だけ、本気の焦りが浮かんだ。


「ま、待て、聖女!その、なんだ、その愛の形は、少し、前衛的すぎる…!よせ!近づくな!」


彼は、本気で後ずさりした。


(あのザガンが…後ずさりしてやがる…!?)


ザガンは、彼女の突進を、必死に魔術の障壁で押し返しながら、やがて、腹を抱えて笑い出した。

その笑いは、もはや、ただの愉悦ではなかった。己の理解を、常識を、遥かに超える「混沌」を前にした、歓喜の爆笑だった。


「クハハハ!面白い!実に面白いぞ、聖女!貴様の『愛』、実に、混沌としている!よからう!その挑戦、受けて立ってやる!よかろう!救えるものなら、救ってみるがいい! 貴様のその歪な『愛』とやらで、この余の退屈をどれだけ紛らわせてくれるか、存分に見物させてもらうぞ!―――だから、その光る手を近づけるなと言っておるだろうがこの馬鹿聖女がァッ!」


ザガンの怒号が俺たちの寝床に響き渡った。

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