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運命の予感

レオンハルト王国──王都中央部。

朝霧を透かして、幾重にも重なる鐘楼の音が天へと昇っていく。その音色は、数千年の歴史を刻んだ石畳や、瑞々しい緑を湛えた街路樹に柔らかく反射し、眠れる王都を優雅に目覚めさせていく。

 

ミリアは胸に手を当て、深く、ゆっくりと呼吸を整えた。

王都特有の、ひんやりと清らかな風が肺を満たすたび、昨日までの泥濘ぬかるみのような記憶が洗われていく。その視線の先、王国の頂点としてそびえ立つのが──旧王城跡地の威厳をそのままに改修された、《ギルド学園》である。

 

幾つもの尖塔が大通りに影を落とし、大聖堂を思わせるステンドグラスが、曙光を受けて千の虹を石畳に撒き散らしていた。歴代の偉人たちが遺した防護術式が壁面で微かな燐光を放ち、ここが単なる学び舎ではなく、王国の未来を編む聖域であることを物語っている。

 

今日から……私の新しい日々が始まる。

心臓が早鐘を打つ。けれど、不思議と不安はなかった。

 

──昨日の、あの雨の日。

 

どうしても頭から離れない。

不思議な魅力を持つ男と出会ってしまったからだ。

泥に塗れて蹲っていた自分に向けられた、あの静かで深い、すべてを見透かすような眼差し。

汚れを厭わず抱き寄せられた時の、頼もしい体温。

雨音を裂いて届いた「大丈夫だよ」という、低く甘い囁き。

 

あの人はきっと、遙か先を行く上級生。誰もが跪くような、完璧な先輩……

 

昨日は迷いなくそう信じていた。

あの背中を追いかければ、いつか自分も、あんな風に誰かを守れる強さを手に入れられるかもしれない。

 

そう信じて疑わなかったのだ。

……この、運命の扉を開かれるまでは。


 

◇◆◇


 

講堂での荘厳な入学式が終わり、新入生たちは寮別の教室へと導かれる。

 

ミリアが配属されたのは、《A寮(アニムス寮)・一年》。剣技、魔法、学識のすべてにおいて高水準を求められる、選ばれしエリートたちの箱庭だ。

 

大理石の回廊を抜け、蔦の彫刻が施されたアーチの大扉をくぐると、オークの香りが漂う壮麗な教室が広がっていた。階段状の座席、宙に浮く魔導スクリーン。立体的な窓の向こうには王都の尖塔群がどこまでも連なり、薄金色の陽光が教室内を神聖に照らしている。

 

「あ、ミリアさん! やっぱり同じクラスでしたね!」

 

弾むような声と共に、水色のボブカットが視界に飛び込んできた。シオン・ラインハルトだ。さらに隣には、マフラーで口元を隠した眠たげな瞳の少女、ルル・マッドレインもいる。

 

古き良き友人たちとの再会に心が一瞬和らぐが、その平穏は「彼女」の登場によって瞬時に霧散した。

キィィ……パンッ。

扉が閉じられた瞬間、教室の空気が絶対零度まで凍りつく。

 

教壇に立ったのは、蒼い刺繍のドレスを纏い、氷細工のような美貌を持つ女性──サティ・アントワープ。

 

「諸君。私は担任のサティだ。以後、よろしく頼む」

 

威圧感ではない。圧倒的な「格」の違いが生む、暴力的なまでの静寂。入学前まで全ての生徒が彼女と面識を持っているため、自己紹介などはしないようだ。

彼女は言葉を飾ることなく、凛とした眼差しで生徒たちを見据え、衝撃の告知を突きつけた。

 

「今年度、このA寮一年クラスは──《S寮(ステラ寮)》と共に、すべての講義と実技を“合同”で行う」

 

教室内が、騒然としたどよめきに支配された。


 

《S寮》王国中の天才からさらに厳選された、僅か七名だけの聖域。

 

魔術、剣技、錬金術……あらゆる分野で「怪物」と称される彼らと、同じ空気の中で競い、学べというのか。

「S寮生、入室しろ」

サティの声と共に、後方の重厚な扉が再び開かれた。


 

◇◆◇



(……空気が、重い。)

静謐な教室を支配したのは、皮膚を焼くような緊張感ではなく、深海に沈むかのような、重厚で逃げ場のない魔圧だった。

その沈黙を切り裂くように、いくつかの影が差し込む。彼らが纏うのは、選ばれし者のみに許された漆黒の制服。胸元には、深紅の糸で刺繍された「咆哮する炎獅子」が、窓から差し込む陽光を受けて野性的な燐光を放っていた。

優雅な紫髪をたなびかせる貴公子レヴェルト。無言のまま空間を圧する巨躯のローズ。ミリアよりよっぽど王女のような威風を纏うフレア。そして、性別の壁を超越した美を放つ女性カイザー。

S寮生7名全員は揃っていないようだが、場を圧倒するには十分すぎる戦力だった。

誰もが王国の歴史に刻まれるべき「至宝」の輝きを放っている。……だが。

最後の一人が踏み出した瞬間、世界は色彩を失い、影へと転じた。

それまで放たれていた複数人の光彩が、たった一人の「個」によって、余興の灯火のように霞んでしまったのだ。

……え?

ミリアの視界が、爆ぜるような白光に塗り潰される。

その整然とした歩調、凛とした黒髪、すべてを見透かすような涼やかな糸目。そして、微かに知性を滲ませる薄い唇。

昨日、土砂降りの雨の中で自分を抱き寄せ、絶望から救い出してくれた、あの人。

(……嘘。どうして、貴方がここにいるの?)

混乱する脳裏に、サティ先生の厳かな声が響き渡る。

「──S寮筆頭、レイド・クラウン。列に並べ」

その名が教室に放たれた瞬間、ミリアの心臓は停止した。

レイド・クラウン。

その名は、王都に住む者なら知らぬ者はいない。若くして数多の伝説を築き上げ、次代の王国を担うと目される「空前絶後の天才」。誰もがその顔を知らぬまま、その武名と智略だけに畏怖を抱いてきた「名前だけの英雄」。

ミリアもまた、彼は自分より遙か先を行く上級生か、あるいは隠遁した若き賢者なのだと、根拠もなく信じ込んでいた。

だが、現実はあまりに鮮烈だった。

彼の胸元で鈍く光るのは、自分と同じ「一年生」であることを示す、真新しい学年章。

昨日、私を抱きしめたあの温もりも、あの低い声も、すべては伝説の「レイド・クラウン」という名の同級生によるものだったのだ。

信じられなかった。

同じ十六年の歳月を歩んで、どうしてこれほどまでに完成された「強者の貌」を持ち得るのか。

彼が歩くだけで、周囲の空間は磁場を狂わされたように歪み、すべての光が彼という特異点に吸い込まれていく。

昨日の出会いは幻ではなく、圧倒的な「現実」として、ミリアの前に立ち塞がった。

心臓が肋骨を突き破らんばかりに跳ね上がり、驚愕と混乱の隙間から、正体不明の熱い高揚感が全身の血管を駆け巡る。


 

◇◆◇


 

教壇へと向かうレイドが、ふいにその歩みを止めた。

教室中が、伝説の具現化である彼への畏怖と羨望に息を呑む中。

彼は迷いなく、まるで座標をあらかじめ知っていたかのように、ミリアのいる方角へと顔を向けた。

無数の視線が交差する喧騒の中で、レイドの瞳だけが、真っ直ぐにミリアを射抜いた。

刹那。

昨日、雨の中で見せたあの「悪戯っぽくて甘い表情」が、その端正な口元に蘇る。

彼は硬直するミリアを見つめたまま、白皙の指をスッと自分の唇に立てた。

 

──シーッ。

「内緒だよ」と。

あの日、二人だけで共有した雨の音と、秘密の約束を。

その瞬間、ミリアの五感は極限まで研ぎ澄まされた。

窓から差し込む午後の陽光が、宙を舞う埃の一粒一粒をダイヤモンドのように煌めかせ、彼と彼女を繋ぐ黄金の糸となって教室を縦断する。

古びた書架から漂う紙の匂いと、レイドが通り過ぎた後に残る、微かな雨上がりのような清冽な残り香。

周りのA寮生たちが彼の魔圧に屈し、酸素を求めるように喘いでいる中で、自分だけが、この王国最強の怪物と、火傷しそうなほど熱い「共犯関係」を分かち合っている。

 

彼は、誰もがひれ伏す「道化の王」。

けれど、その無慈悲な輝きの裏に隠された、自分にしか見せない柔らかな茶目っ気を、この時私は知った。

どこか、レイドを可愛いと思ってしまった。

 

視界の端で、金色の光が乱反射し、まるでスクリーンがホワイトアウトしていくような錯覚に陥る。

 

これからの学園生活が、昨日までの澱んだ雨空を鮮やかに塗り替え、目も眩むような刺激と秘密に彩られることを、彼女は確信した。

 

ミリアは小さく、激しく高鳴る胸を掌で押さえた。

ただの憧憬は、今この瞬間、より深く、より甘く、より危険な運命へと昇華されていく。

 

王都の鐘楼が、新しい時代の幕開けを祝福するように、重厚な旋律を世界に轟かせた。



◇◆◇



教壇の上の氷像はその内側の嵐を上手く隠していた。


 

「──以上が、今年度の特例事項だ。一年A寮は、S寮と合同で講義を行う」


 

王立ギルド学園、一年A寮の教室。教壇に立つ若き新任教師、サティ・アントワープは凛とした声でそう告げた。

その姿は、まさに完璧な「教育者」の鑑であった。

 

透き通るような白銀の髪は、毛先にかけて鮮やかな蒼へと溶けるグラデーションを描き、切れ長の瞳は湖面のように静かな青を湛えている。白を基調としたドレスには精緻な蒼の刺繍が施され、彼女が動くたびに、耳元の蒼石のイヤリングが小さく揺れて、神秘的な光を微かに揺らす。

 

だが、教壇の下で組まれた彼女の手は、実は微かに震えていた。

(……もう、本当にどうすればいいのよ、これ)

サティの脳裏には、数日前の悪夢のような光景が蘇っていた。

学園長メアリーが、お気に入りの高級茶葉を啜りながら、事も無げに放った一言。

『あ、言い忘れてたわサティ。今年の一年、S寮とA寮は合同クラスにするから。よろしくね』

『……はい?』

耳を疑った。

S寮──それは王国の至宝、あるいは「歩く戦略兵器」と揶揄される怪物たちの巣窟だ。一方のA寮もエリートの集まりではあるが、しょせんは人の範疇に収まる優等生たち。その二つを混ぜるなど、火薬庫の中で焚き火をするような暴挙だ。そもそも、歴代S寮生というのは王国の最高戦力でもあるため、国内外を高頻度で往来する。そんな彼らを過半数も揃えるのは流石の彼女でも至難の業だったようだ。

 

案の定、目の前の生徒たちは困惑と畏怖に震えている。だが、サティはそれを「教師としての威厳」で抑え込まねばならない。

(私だって、今すぐこの場から逃げ出したいわよ……!)

彼女の涼しげな目元、その泣きぼくろが微かに歪む。

S寮生たちは、人格的にも「難あり」と噂される者ばかりだ。特に、まだ姿を見せていない最後の一人──レイド・クラウン。王城会議、王国院、国営ギルド、その他数多の中枢機関から「底知れない」と報告が上がっている問題児だ。

サティは心の中で、自分に言い聞かせるように深い吐息を生徒に気づかれないよう慎重に飲み込んだ。



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