負け犬
ミリアは、重い盾を振り上げ、全身を駆け巡る疲労と絶望感に必死に抗っていた。
肺が焼けるほど荒い呼吸を繰り返しながらも、彼女はまだ足を止めなかった。止めてしまえば、二度と立てない気がしたからだ。
血の滲む歯を食いしばり、ふらつく視界の中で相手へと喰らいつく。
剣の柄を握る指先は痺れ、感覚すら曖昧になりつつある。
相手は、その圧倒的な力から《カイザー(二つ名であり、本名ではない)》と渾名される同年代最強格の若手冒険者。
訓練用とはいえ、その鋭い眼光は本物の死線を潜った者のそれで、冷徹な判断でミリアの癖や動きの粗を読み切ってくる。
ミリアの攻撃は事前に軌道を読まれ、剣閃は空を切り、そして代わりに彼のカウンターが容赦なく叩き込まれる。
訓練相手の剣が、またもミリアの防御をすり抜け、盾の側面を叩きつけた。
衝撃は骨の奥まで響き、ミリアの握る剣はわずかにブレて、軌道が狂う。
「ハァ、なんで!」
叫びは弱音ではなく、悔しさの叫喚だった。
彼女は分かっていた──自分が不器用で、遅れていて、追いつけずにいることを。
「もうやめておけ。付き合いきれん。」
《カイザー》は深い溜息を吐き、剣を戻す。
表情にはほんのわずかな苛立ちすら浮かんでいた。
「入学後、お前はすぐにB寮へ落ちるだろう。……何が『S寮を目指す』だ。本当に馬鹿馬鹿しい。」
冷たい声。
その言葉は鋭い刃のように胸に刺さった。
「俺はもう帰る。お前は好きにしろ。」
「待って!! まだ私っ……!」
差し伸べた手は虚空を掴むだけだった。
泥まみれでぐしゃぐしゃなミリアとは対照的に、彼は美しい制服を綺麗なまま保ったまま、背を向けて行ってしまう。
その背中からは、未練も興味もなく、本心からミリアを切り捨てたという事実だけが冷たく伝わった。
気力だけで立っていた足はついに悲鳴を上げ、ぬかるんだ地面へと腰を落とす。
小雨では誤魔化せないほど大粒の涙が、目尻からぽろぽろと溢れ落ちた。
なんて無様だ。
泥まみれの白い全身装備。
雨粒と汗が混じり、ポニーテールは首筋へ張り付き、冷えて震える。
胸の奥では、屈辱と悔しさ、そして自己嫌悪が燃えるように渦巻いていた。
──才能なんかない。
そんなこと誰より自分が知っている。
だからこそ努力で這い上がるしかない。
たったその覚悟だけで、ミリアはこの雨の中に立ち続けていた。
幼い頃、憧れだけで木の枝を剣に見立てて振り回していたあの頃から──
彼女の夢は、誰からも笑われながらも、ただひたすらまっすぐだった。
けれど現実は非情で、努力はすぐには実らず、人より遅い自分を呪うような夜ばかりが増えていった。
「っ……」
手の甲で涙を拭う。
白剣を杖代わりにして、何度も滑りながら立ち上がる。
ボロボロになった刃は、ミリアの剣術が荒削りで、未熟そのものであると残酷に告げていた。
息を切らし泥水を払ったそのとき──
フェンスの向こう側に、傘を差した見知らぬ糸目の美青年が立っていることに気付いた。
彼は雨の逆光の中に立っているにもかかわらず、その輪郭はまるで浮かび上がるように色気を帯びていた。
濡れた白い肌、整った目鼻立ち、そして似つかわしくないピエロハットが妙に印象的だ。
隣にはピンク色の髪を揺らす美少女がいたが、彼は彼女との会話を中断し、わざわざミリアの方へ近づいてくる。
靴が泥に汚れるのもためらわず、真っ直ぐに。
その一歩一歩は、まるで世界の糸を引く運命そのものが、彼の足取りに寄り添っているような不思議な必然性を持っていた。
なぜそんな風に思ったのか──ミリア自身にもわからない。
けれどそのときの彼は、あまりに突然で、あまりに異質で、そしてどこか救いに見えた。
ミリアはその人の言葉を、縋るような気持ちで待っていた。
「訓練、ご苦労さま。」
美青年は華奢で細身だが、まとった雰囲気は夜の吸血鬼のように神秘的で、糸目の隙間から覗く暗い瞳は驚くほど美しかった。
声はどこか冷たさを含んでいるが、耳には心地よい低音で不思議と落ち着く。
「あ、ありがとうございます……でも、どちら様、ですか?」
ミリアは慌てて盾を下ろす。
青年はミリアの汗ばんだ白い首筋へと手を伸ばしかけ──直前でその手を止めた。
その仕草は、まるで彼女の中に眠る才能の気配を指先で探り、確かめようとしたような、知的で官能的な緊張感を伴っていた。
彼は慈愛と関心の入り混じる眼差しでミリアの全身を一瞥し、静かに言った。
「君の剣は──0点だ。」




